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2006/11/28

人を飲み込む穴 沢 山

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吉見百穴は縄文期の大規模集団墓地として知られている。
関東平野と秩父山地との間、浸食され残った低い丘陵が沖~洪積層に入り混じるあたり。
その丘陵の地山、凝灰岩に、掘り込まれた墓穴は200基以上。

同じ吉見町に、同様の集団墓地がある。2~3km離れた丘の黒岩墓穴群だ。
こちらは本格的な調査が入っていないものの、推定された墓穴の数は500基あまり。
表土と下草に覆われて全体像は見えない。発掘前の吉見百穴も、かくやあらん。

黒岩の丘の麓には、小さな湖がある。
周囲が遊歩道として整備されているので歩いてみれば、一周わずか2kmほど。
湖岸には5つほどの入り江があり、平野の水田に面した側が直線的だ。

入り江は、どれも丘の谷間に食い込むような形になっている。
谷間の奥は湿地のようになっていて、細い流れが湖に入り込んでいる。
ここは八丁湖と呼ばれているが、人工的な溜池であるのは間違いない。

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おそらく弥生時代か律令時代、目の前のアシ原を水田にしたいと考えたヒトビトが
低い丘からいくつかの沢が合流して川になっているトコロに目をつけ開発した。

谷は険しすぎず低すぎず、水量もほどほどで、上手に堤を築けば堰き止められる。
アシ原に水路を穿ち、微妙な高低差を活かして、その水をまんべんなく流す。

こうして、ちょっと大きなムラ全体が豊富なコメで幸せに暮らせるようになった。
このような、丘陵内の溜池らしい場所は、地図上でも付近に多数が見いだせる。

特に文献などを調べたワケではないので、ひょっとしたら違うかもしれない。
しかし大きくハズレているとも思えない。それが日本の古い農業の形のはずだから。

地味豊かなアシの原っぱで瑞々しく穂が実るクニ、といった意味の古い言葉もあったな。
(アシが生い茂る前は、海を掻き回して落ちた泥が積もって出来上がった島、だったか)

日本における初期の水田耕作は平野部の周辺を蚕食するように広がって、
徐々に大平原(といっても大陸規模で言えばささやかなものだが)へと浸出していった。

水量の多い大河川を御せるようになったのは戦国時代の終わり頃から。
大規模な新田開発は土木や利水技術の発達と太平の世を待たねばならなかった。

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吉見百穴に戻ろう。
先の大戦中、ここには中島飛行機の工場の疎開先としてトンネルが掘られた。

石器でコツコツ削った縄文の穴は小さく狭く奥行も浅いが丁寧に作られている。
近代的な工具を使用したはずの昭和の穴は、しかし荒削りな印象を受ける。

大戦末期の泥縄作業で、とりあえず場所を確保すればいい、という程度だったのだろう。
結局その穴は、ほとんど使われず8月15日を迎えたと聞いている。

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百穴の片隅には、ヒカリゴケがひっそり棲息している。
きっと縄文人が穴を掘ってしばらくして、そこに入り込んだのだろう。
数千年に及ぶであろうヒトの業など、何処吹く風と言わんばかりだ。

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