« 2007年9月 | トップページ | 2007年11月 »

2007年10月

2007/10/31

パッシブ。そうな。

20071031_epsn0055s


少なくとも今の時点では、まだ
不特定多数に対して語る言葉をほとんど持ち合わせていないように思う。

ある程度の面識がある相手なら数人いても喋るコトもできるのだが
全く知らない相手も含まれるときには苦手ばかりが先に立つ。

大学時代に心理学の授業で性格検査(たしかYG式)を受けてみたら、
性格類型でCとEがほぼ同点という判定結果が出た。

CalmでEccentricといえば、まあおおむね外れてはいない。
たとえば我儘さにしても、「~したい」より「~したくない」が多い。

周囲をコントロールしてでも事態を動かすDirectorではないし、
自ら能動的に動かそうとするAやB(何の略だっけか)でもないのだ。

これらの要素には我ながら驚くくらい点数がつかなかったので、
少なくとも当時はそれらの要素をほとんど持ち合わせていなかったはず。

だから、これでいいのかな、とときたま思う。

しかし何かの外的要因に対する反応は強い方だと自覚している。
一対一の対話が得意なのは、そういう理由があるのだと考えられる。

なにせCとEなのだ。その反応が他人とは違う点こそ長所であり短所。
それを上手に使って、せいぜい良い方向に転がしてみようじゃないか。

自己のあるがままを受け止めて、その有効活用を考えるという性格もまた
CでありEであるという性格そのものなのではないかなあ。

だから、これでいいのかも、とときたま思う。

ヒトが変わるには、ちょいと時間がかかるし、いろいろな刺激が必要だ。
そのうちD型になっているかもしれないが、それは先の話であろう。

|

2007/10/30

disturb the noise of silence

20071030_epsn0119s


無数の音が絶え間なく続いて混ざり合い
まるでホワイトノイズのようになる中で
近くの人々の話し声がときおり耳に障る。

大音量のヘッドホンステレオでもいいから聴覚入力を遮断したい、
それで難聴になったならむしろ好都合、などという気持ちも
あながち分からぬではない。

しかし、それはできなかった。そも自発的でさえ大音響は苦手なので。
むしろひたすら自宅の中に、一人の世界に逃避するコトを選んだ形となった。
実家は静かな農村にあったし、今は静かな住宅街の中のアパートで一人暮らし。

音の洪水の中に出掛けるときは、基本的に誰かと喋るため。
自らも雑音源となるワケだからお互いさまと思い、我慢できる。
そういうふうに、折り合いをつけるようにした。

大都会の真ん中だって、探せば案外、静かな場所も見付けられる。
必要なときには少しくらいカネを払っても入る。損得では判断しない。
むしろ必要なので。そんなトコロは日常的にウロついてるワケじゃないし。

最近は外部の雑音を消すヘッドホンなどが人気となっているらしい。
都会にポツリポツリと残る静かな場所も、今後はどうなるのだろうね。
静けさに対する需要が高まってきているから、値上がりするかもしれんなあ。

p.s.
関係ないが、あの白いステレオイヤホンは、どうも音漏れが
酷いように思えるのだが、これは偏見だろうか。
日本の電車のようなラッシュを想定せずグローバル基準で
格安に作り上げたりしたせいではないかと思ってみたりする。

|

2007/10/29

出物腫物、旅の書き捨て持ち帰り運動

20071029_epsn2062ls


紙と筆記具は財布などと同レベルの必須度として、常に持ち歩いている。

散歩している最中など、よく面白いアイデアが浮かんだりするものだが、
そのときに妄想を膨らませていても、帰ってきて気付けば忘れていたり……
という苦い経験を何度も繰り返した結果の習慣である。

しかしそれにしても、まったく以て、このアイデアという奴には困ったものだ。
たいてい、こちらが身動きできないような状態のときにやってきて、
捉えるに捉えられないでいるウチに去っていって仕舞ったりする。

自宅ならアタマ洗ってる最中とか、眠くて起きあがれない時とか、
外ならラッシュの電車の中とか一人でクルマを運転してる最中とか。
まったく、アイデアというヤツは、一体どうしたいのやら。

それでも、たまにはメモを取れる状況で浮かんでくるモノもある。
なので、それを逃さず捕まえておくために筆記具は役立つのだ。
たいていは胸ポケに入れた小さなメモを取り出す。

キーワードだけで済みそうなら2つ3つの単語のみとするが、
ディテールが必要な内容なら何枚にも渡って書きまくるコトもある。
そうやって自宅に持ち帰ったら、必ずどこかへ清書する。

当日~翌日くらいなら、キーワードだけでも充分に思い出せる。
出張中などであれば、宿や食事の際にメモへ直接加筆した
上で持ち帰ると、失われゆく短期記憶を補える。

カメラも、外出する際には持ち歩くコトが多い。
ちょっとした外出でも少なくとも300万画素のケータイは持っているし、
散歩や出張、旅行となれば基本的にRFなりSLRを携える。

その一部は、こうしてブログのネタになったり友達にメールしたり
するが、まあ多くはHDDの肥やしとなっていたりする。
まあそれはそれでいい。メモの大半も日の目を見ないから。

こんな感じで積み重ね蓄えてきた文章や写真の蓄積は、
今になって、行く先を考える手助けになっているようにも感じる。
ほとんど文字通りに肥やしとなって先のコトに結実するらしい。

なんというか、アイデアみたいなモノでも
リサイクルとかリユースとか温暖化ガス排出削減とか、
流行りのエコっぽい活用が利くってワケか。

|

2007/10/28

ただ徒に機を待つよりも歩くが徒歩ほ

20071028_epsn0610s


アレは大学1年の頃だった。たしか金曜日だったと思う。
土日は部活の関係で、ちょっと遠くに出てキャンプする予定と
なっていたが、遅い時間の講義を受けている1年生が2人ほど、
最後まで聞いてから学校を出て直行するコトとした。

しかし講義が長引いた。全力で最寄り駅へ駆けったものの、
現地への最終電車を逃してしまった。田舎ゆえ接続が悪いのだ。
とるものもとりあえず電車に乗って移動するコトにしたが、
一緒にいた同輩が、電車内で足踏みをして焦っている。

思わず「地団駄を踏んだら早く着くのか?」と聞いてしまった。
電車が終わってしまえば、タクシー代もない貧乏学生だから歩くしかなかろう。
ただし電車内でなく道路や土の上を(なにせ、そういう部活なのだ)。
こうして同輩も落ち着いて、善後策を考える気になった。

ギリギリまで現地に近い駅まで電車に乗っていくと、残るは2~3駅。
田舎路線とはいえ10kmそこそこの道のりでしかない。歩ける。
2人で地図を確認し、荷物をまとめて夜道を歩き出す。
黙ってるのもつまらんので喋りながら歩き続ければ、もう着いたではないか。

といっても、すでに部活動は終わっていて、皆は焚き火を囲んで酒が回っていた。
「遅かったじゃないか」先輩や同期の連中が笑って、駆け付けの酒を差し出す。
「いやー、ちょっと講義が長引いてしまいまして」と、一気に飲み干す。
いささか温いビールだったが、汗をかいた身体には心地よかった。

のんびりした性格は、生まれつきか育ちのせいか良く分からんが、
いずれにせよ今ではすっかり分秒を争うのは苦手だ。というより嫌いだ。
先日、銀行のATMコーナーに寄ったら、ずいぶん混んでいた。
普通のATMの列に並ぶのが早いか、記帳機を使うのが早いか。

記帳だけなのだからと漠然と考え記帳機の列に並んでみたが、
前の方では通帳更新をする人が多かったせいか非常に時間がかかる。
アタマがヒマなので人の流れを眺めていたところ、
どうみてもATM列の方が早く進んでいる。

「記帳するだけならATMの方が早かったな」ボソリと独りごちた。
後ろの女性が、それを聞いたか即座にATM列へ駆けていった。
その女性がATMで用事を済ませてもなお、目の前の記帳機の列には
2~3人が残っていた。でも動かなかった。面倒だし。

いかにも無駄そうな時間でも、考え事をしていれば、すぐに過ぎてしまう。
そこにアクセクしてしまうのも勿体ない。
余計なアクセスはシステム全体のオーバーヘッドを大幅に増やす一方で、
かつ期待されるほどの効果が得られないモノなのですよと。

急ごうとする意識は焦りを呼び、そして多くの場合はつまらぬ後悔につながる。
焦って慌てた挙句の失敗では、結局どこにも心休まる瞬間がない。
同じく失敗するにしても、のんびり待ってのコトなら一時的には落ち着いている。
なので、まだマシなのではないかなと思ってみたりする。

|

2007/10/27

半生紀(6) 非体育会系

20071027_epsn0074s


大学では、1年生だった1年間だけ探検部で活動していた。
活動内容は厳しくも楽しいものだったし、気力体力注意力など
素質面でも頑張れば適応していけそうだと感じていた。

が、途中で辞めてしまった。理由は主に2つあったと思う。
1つは大学サークルのノリについていけなかったコト。
後輩に対する飲酒の強要とか、今でもあるのかしらん。

もう1つは金銭面。合宿すれば結構な活動費用がかかるし、
道具にもカネが要る。通学2.5時間ではバイトも困難だった。
まとまったバイトが可能な長期休暇などは合宿で潰れるし。

余談だが、高校でも1年間だけ柔道部で活動していた。
新入生の頃に部活を選んで、2年生になる頃に辞めている。
大学の探検部も同じ。体育会系の部活では長続きしないのかな。

体育会系の会社も長続きしない……のかどうかは、そもそも
試してもいないので分からないが、バブル時代に肩で風を切って
いたような某R系の企業などは肌が合わないという気がする。

もしかして、よほど先輩という存在が苦手なのだろうかね。
実際、過去(ほぼ半生)を振り返っても、誰かの後輩として行動した
期間は極めて短いことに気付く。大学の研究室でも、そうだった。

恩師の話は以前にも書いたが、そこそこの企業に勤めて課長に
までなったものの(上司とソリが合わなかったなどの理由があった
とは思うが)、退職して大学に戻ったという珍しい経歴の持ち主だ。

そんな担当教官が受け持つ研究室に第一期ゼミ生として入った。
先代の教官の教え子として「先輩」が存在したし、過去の研究も
多くが踏襲されたものの運営方針は大きく変わり引き継ぎも少ない。

なので先輩後輩の関係は、普通のものと大きく異なったに違いない。
新たな教官は、学生の評価を成果重視で判定していた。
研究の進捗や研究室への貢献度だ。なるほど会社的だと思った。

といっても学生実験など失敗も多いものである。
実験自体が月単位の期間を要したのでリカバリーも難しい。
てなワケで、努力の過程も評価対象になっていたようだ。

実際、実験そのものは完全に失敗していたようなヤツでも、
特技のパソコン(当時は扱える学生も少なかった)で他の学生の
論文作成を手伝ったりすれば、普通に単位をくれたものである。

しかしそういえば、社会人となって以降、こんな感じの上司には
ついぞ出会った試しがないような……。
こりゃ騙されたかな?

|

2007/10/26

半生紀(5) 副リ甦生

20071026_ix200s


大学に入ると、クラスの中で、自然に群れができてくる。
どうしたものか1カ月もすると、まさに自己組織化が進み、
いくつかの有機的なヒト集団が作られているのだから面白い。

そういう集団を引っ張っていくには、行動力だけでない何かが必要だ。
しかも重力を持ち回転運動力を持って、惹きつけた相手を振り回すだけの
モーメントがなければ求心力と遠心力をバランスさせ得ない。

それを理解していたかいなかったか分からないが、いろいろ不足していたのは
事実だから、その何かを持っている人物を中心に集まった中で
幅広い知識や独自の発想を役立てるコトが主な活動となっていた。

結局、やはり長老的な、というより参謀的な位置付けだったワケだ。
決してリーダー格というワケではないのだな。
だけど単に引っ張られるのでなく、リーダーに助言する立場でもあった。

一方で、単独行動の自由さにも気付いたのが、この時期だった。
幸いにして都心から遠くない大学に受かったので、下宿ではなく
自宅からの通学を選択したが、これが中高よりさらに遠かった。

ドアツードアで片道2時間半くらいの通学コースを、よくも通ったものだ。
このくらいの距離になると、もはや地元の友人など皆無に等しい。
まして大学は時間がバラバラ。長い通学時間のほとんどが単独行動となる。

おかげで読書は捗った。行きと帰りで1冊ずつ、なんてコトもあった。
高校時代からの雑記帳もまた、捗ったものである。
そして、さらに飽き足らず通学途中で自律的に動き出す。

新宿で乗り換えるルートだったので、大きな書店や家電店などを回れば
いくら時間があっても足りないくらい。もちろん飽きるコトもなかった。
で、気付けばカネも足りなくなるようになった。

一人暮らしではないから金遣いが荒い。
カネを使いすぎれば昼食に困る。飲み会にも困る。
そうやって、自己責任を知りはじめた。

3~4年の頃にになると、学外サークルに出入りするコトも多かった。

生命倫理学を研究する学生・院生の、学会公認サークルだった。
勉強が苦手なくせに、よく選んだものだと我ながらにして思う。
まあ単純に面白そうだからという理由だったのだろう。今でもたまにやる。

ちなみに倫理というものは、「社会秩序などに反さない限りにおいて自らの
幸福を求めてよい」というような原則だと、非論理的な直感で理解している。
でもって、しばしば問題となるのは、その制限条項に関してである。

だが、やもすると若い学生たちは考えの露頭に迷う。各論に踏み込みすぎるのだ。
そのたびに原点に戻って考え直す。「幸福って、なんだっけ?」
この繰り返しが、一人でなかったから捗ったし、袋小路から抜け出すのも容易だった。

思考能力というのは、さまざまなモノゴトを考えれば考えるほど
(ただし完全に同じルートを辿るのでなく少しずつ異なった道筋で)、
鍛えられるのだと実感している。

そうするウチに、一人でしっかり意識して論理的に考えを進めるための
基礎ができてきたのではないかと思う。大学の4年間は勉強などできなかったが、
独自の道に生きるヒントを得て、生まれ変わっていったような感すらある。

|

2007/10/25

半生紀(4) 長じて老いやすく学は1日にして成らず

20071025_epsn1861s


中高一貫教育の学校だったので、高校は受験せず進学した。
とはいえ、高校に入ると相当数の受験組が加わってきた。

こういう制度のある学校では多かれ少なかれ、
エスカレーター組と受験組との学力差が問題となる。

たまにエスカレーターのくせに高い学力のヤツがいたりして受験組を焦らせたり
するものの、ほとんどの連中が受験組より低めとなるというヤツだ。

そんな中では受験組に迫る学力を維持していたものだが、
ご多分に漏れず高校生活が続く中で次第に順位を落としていた気がする。

もともと勉強など苦手でいたものだが、相当な読書好きであるがゆえに
教科書まで読み尽くしていたから、義務教育レベルでは優秀でいられた。

高校に入って、それが通じなくなったというだけのコトなのだろう。
といっても、努力して身に付けたものじゃないから大して気にならず。

それよりも高校で得たモノは、違った点にあったと感じている。

いくつかのサークルに勝手に顔を出していたりして、気付けば後輩が増えた。
また、読書好きは相変わらずで、図書室には中学時代から入り浸っていた。

そんな感じで図書室の片隅で本を漁りながら
後輩たちとボソボソと喋るのが日課になっていた。

中高6年間に自分で購入した文庫・新書だけでも200冊近くになったくらい
なので、学校の教科では役に立たなくとも知識量は相当なものだったはず。

そうやって得た知識を結んで自分なりの世界観を脳内に作り上げていたものだから、
後輩たちと語り合ううち、彼らの目が輝くのに気付くコトも少なからずあった。

徐々に語りが上手になり、しかも基本的には天邪鬼な性格からか、
聞き手を驚かせるような言い回しなども少しずつ身に付けていった。

ある意味で、良い聞き手を得られたのだ。
聞かせる側も、良い意味で彼らの期待を裏切りたいと思い工夫を重ねたのだと。

また、中学の頃には母の薦めで一行日記を書くのが日課となっていたが、
これが高校に入る頃には一行では済まなくなって長い日記になっていた。

授業のノートなど、毎年のように新しくしていながら書いているのは最初の数頁
くらいだったのを有効活用すべく、徒然に思ったコトを書き始めるようになる。

それを後輩たちに見せれば、またウケる。
良い読者を得て調子に乗って、さらに書く。

後輩だけでなく同輩まで聞き手や読み手に加わるようになり、
いつしかグループの中で知恵袋のような存在になっていた。

同時に、他人がついてくるという責任感も強く感じてきたので
相応に自重するコトを覚え、また周囲の連中の暴走を抑制する考えも持つに至る。

だもんだから、立ち居振る舞いもまた落ち着いたものとなっていった。
そんな長老的性格が身に付き始めたのが、まさにこの時代だったのだな。

高校を卒業した直後だったか、同期や後輩と一緒に飲食店に入ったら
一人だけOB扱いされてしまったのを、今でも笑い話として思い出す。

|

2007/10/24

我が輩はヒトである。名前はもうない。

20071024_20070725135s


社会に埋没してしまうと名前などどうでもよくなってしまう。
そんな感覚に覚えはないだろうか。

「雑草という名の草はない」なんて言ったのは誰だったか。
確かに、それぞれの草には名前がある。
しかしそれらが雑多に集まれば雑草と呼ばれる。

まあ会社員であれば会社名と肩書きで。
自治体や各種団体だろうと同じだ。
もし学生や生徒なら何年何組出席番号何番てなトコロか。

たしかにヒトは個々に異なる点があるのもまた事実。
必ず均質なヒトが生産されるワケではない。
むしろバラツキがあって当然、ていうか誤差だらけ。

全く同じモノなど存在しない。そりゃそうなんだけどね。
それでもヒト1人は独立した1つの存在であるコトには違いない。
残念ながら2つじゃないし、幸いなコトに0.5でもない。基本的には。

それをいくつか拾い上げて枠の中に詰め込んでみれば大同小異
たしかに大した違いも見えにくくなってしまうだろう。
「菓子折の中身の一つひとつを、いちいち区別しますか?」

なにせヒトを取り巻く環境には、いくつもの枠があって
幾重にも重なり合ったり複雑に入り組んだりしているから、
ついつい枠から見てしまうと、中身の区別がつきにくい。

中身の菓子からみたって、やはりそうなのよ。
枠の中の量子は互いの状態を区別つけられん。
せいぜい外に出て何かのイベントを起こせばユニークな存在になれるやも。

いっそ枠などどこを探してもないような広野にてあれば、
誰とて雑草などと呼ばわる者あるまいに。

|

2007/10/23

堂々と巡る

20071023_20070706074s


愚者は経験に学ぶコトもあるかもしれない
タロットの愚者は、世界を巡って学ぶ姿を示すというが
巡ったからとて知恵を得るとは限るまい?

どんだけーっていうくらい経験を重ねても、
なかなか学ぶコトができないのが凡人というもの。
だがまあ、巡るコトさえしないのであれば
学ぶ機会もまた皆無に近いのだから
せいぜいグルグルうろうろ巡ってやるしかなかろう。

もっと賢い方法もあるのかもしれないが、
今のトコロはコレでいい。
胸を張って堂々と、ときには恥も恐れず、
未知なるモノゴトとの接触にも怖じるコトなく、
だけど気張ったり気負ったりするコトなく
(そもそもそれほどのモノも持っていないのだから)、
たまに同じ場所へと戻ってしまっても気にするコトなく、
淡々と死ぬまで巡る。

そういう生き方もあるだろうと思っている。

|

2007/10/22

試小説(1) 宮本君が老人と海へ

20071022_epsn4623s


唐突に思い付いたので、たまにはフィクションなど書いてみる。
まだまだ未完成な感もあるが、ご笑納いただければ幸い。
(一応シリーズ化しそうなタイトルにしてあるが、続かないかもしれない)

なお、フィクションゆえに実在の人物やら場所やら時代やら方言やら武器やら何やら
とは一切関係ないので悪しからず。

----
腰に大小を差した、薄汚れた野武士風の身形をした男が
小舟で砂浜に着いた場面から始まるモノローグである。

男は杖代わりに船の櫂を使い、足も濡らさず器用に浜へ飛び降りた。
そして、まず振り返って小舟の船頭をしていた老人に向かって言う。

「そんじゃ爺さん、ちょっと待っとれ。すぐ戻るかんな」

そう言うと、彼を待っていたと思しき別の男に向かって歩み寄った。
相手の男は小綺麗な武士の出で立ちで、長い刀を携えている。

「や。佐々木君、お待たせ」

「いや~、大変だったよ。渡し船を頼もうと思って港に行ったら
潮の具合が良いとかで、ほとんど漁に出払っていてね。
浜で網の繕いをしていた爺さんに頼み込んで、ようやく出たんさ。
ところが沖に出た途端、潮目が変わってしまったんで、ずいぶんと
時間がかかってしまったよ。そいでな……」

「え? それだけじゃこんなに遅くならないだろうって?
あー、いやまあそうだよな。もう1刻どころの遅刻じゃないもんな。
誠に済まん、実はちょいと寝坊してしまって」

「いやそれがさ、昨夜は宿に近所の人たちが集まってきていて、
それで調子づいた弟子どもが飲むぞ飲むぞって聞かなくてね。
ついつい釣られて、俺もしこたま飲んでしまったんだ。
で、目が覚めたら日が高く昇ってた。……いやいやホント済まん。
そいでな……」

「ああ、うん。宿は、あすこだよ。
ほれ、前にお城から使いの者を寄越してくれたトコさ。
なんせ俺ら貧乏なんだから、そんな高い宿になんて入れるワケもなかろ。
ところがな、さすがに昨夜は飲み食いし過ぎて高くついてしまった。
そいでな、昨夜の酒代を払えいうて、宿の女将が角を生やした般若のような形相で
俺らを叩き出してしまったんだ。いやもう、こんなのは京のとき以来だね。
……なので後生だ。カネ貸してくれんか」

「京の吉岡さん家? そうそう、こっちにも噂は届いてるだろ?
あの一家には、何度もお世話になったし、カネも貸してもらったよ。
俺ぁ田舎から出てきて間がなく、都暮らしも分からんかったからね、
本当にいい人たちがいるもんだと思ってた。
だが、しばらくしたら急に態度が変わって、さっさと返せと言われた。
挙げ句の果てに、払えないトコロに何人も取り立ての連中を寄越して
きたもんだから仕方なく切り捨てて逐電した」

「もちろん俺だって泥棒じゃないんだ。あればきっちり払ったさ。
でもな、払おうたって一文も持ってなかったんだから致し方ない。
それに俺だって我が身可愛いタダの人だからね。
身を守るのに必死になってたら、何人も斬ってしまうコトになった。
後で聞いたが、家も断絶してしまったのだそうだな。
そういうのをアレか、不可抗力っていうんだっけ。
まあそんなワケで、済まぬが貸し……」

「いやいやいやいや、待ってくれ待ってくれ。
そこでいきなり刀を抜かれても困る。ていうか、鞘まで投げ捨てなくても……」

「うん、もちろん勝負は受けた以上、ちゃんとやる。そこは二言もない。
ただ、そのカネを返さないとできんのだ。なんせ刀を預かられてしまってな。
ほれ、この腰の大小は拵えだけさ。格好つかんので身だけ抜いてもらった。
二日酔いでフラフラの弟子たちもそれぞれ金策に出てもらったが、俺はといえば
佐々木君との約束があるなら、ついでに借りてこいって命ぜられてしまった」

「あー、もうホント誠に情けない。あの爺さんも宿の女将の差し金でな。
いや実は、爺さんに渡し船を頼んだのは俺じゃなくて女将なんだ。
ちゃんと俺が逃げ出さずにカネを払うかどうか見張りに来てるってワケさ。
なので、本当に申し訳ないんだが貸……」

「ん? 宿の女将の娘?
うん、いたね。たしか、おミヨさんといったっけか。
ちょいと骨っぽいが、年頃だけにしっかり肉付きが良くて、うん。
そいで笑ったりすると、これがまた可愛らしい声なんだよね。
鳶が鷹を生むとは、まさにあの母娘のコトを言うんだろうなー」

「おうおう、よく分かったな。
そうなんだよ、彼女って酒に酔うと『強い男が好き』とか言ってなー。
うんうん。そいで、一緒に寝た。
いやそれはそれとして。だからその、カネをだな……」

「や、ちょと待て。何故そこで君が怒るんだ?
カネがないのは俺のせいじゃないぞ。
そもそもカネは天下の回し者というじゃないか。いや違う、回り物だったっけ。
まあそれはともかく、もう戦国の世も終わろうとしているのだから
俺たちみたいな無頼の武芸者なんぞ食い扶持がなくても仕方なかろう。
せいぜい身体張って果たし合いを見せて日銭を稼ぐしか、生きる道はないのだ」

「え? そういうハナシじゃない?
カネじゃなくて、おミヨさんのコト?
そういえば今朝は、『宮本様は強い男なんだから
カネ集めるくらい簡単よね』なんて彼女に言われたなあ。
そういう、ちゃっかりしたトコロは母親似だよね。あの娘の取り分は知らんが。
ありゃぁ将来、ずいぶんと遣り手になるだろうさ。
あの船頭の爺さんに言ったら、やられたなと笑われてしまったが」

「ん? もしかして佐々木君は彼女のコトを……?
うーん、そりゃ止した方がいいのではないかな。
きっと君のように真面目な武士ではケツの毛まで毟られてしまうぞ。
なにせ、俺みたいなのがちょっと関わっただけでコレだからな」

「あ、いや、掛かってくるなって!
ああもう何とでもなれ!……」

男は、長刀で斬りかかってきた相手を反射的に櫂で叩き伏せてしまう。
頭から鮮血を迸らせ前のめりに倒れた相手に、男は慌てて駆け寄る。

「佐々木君、おい、佐々木君!
……だめか。また勢い余って殺してしまったようだ。
咄嗟のコトとはいえ、参ったな」

と、浜の奥の方に居並ぶ武士たちが駆け寄ってくるのに気付く。

「やば! 勝負する前に殺しちまったから、観客もカンカンだ!
こりゃカネ借りるどころじゃねえな。
とっとと逃げないと吉岡家の二の舞になりそうだ。
おい、爺さん、巻き込まれるぞ! つか俺を乗せて、ひとまず逃げてくれい!」

後年、この男すなわち宮本君は剣聖と称され、
日本中どころか世界中に名を轟かすコトになったとかそうでないとか。

|

2007/10/21

変心の魔法

20071021_20070517014s


「なりたいと思った人物像に、自然に近づいていくものだ」
というような台詞を、若い頃にどっかの漫画で読んだ。
そんなコトを意識したりしなかったりして時が過ぎ、
気付いてみれば、こんな中年が出来上がったという次第。

当時、たしかカッコイイ中年になろうと思っていたっけな。
しかしそのカッコイイとはどういうものか、明確な定義もなく。
外見的に「ダンディ」だったりして素材が良ければまだしも、
全然そうでないから、とにかく具体像を掴むにも困ったもんだった。

立ち居振る舞い動作や仕草にコトバの端々まで
いちいち細かく気を配ってみたり、
あるいは気にしないよう気をつけてみたりと
いろいろやってみたりもした。

余計な動きの少ない身体捌き、物静かな態度、ときには狙いすました言動
などといった雰囲気作りと同時に、外見にも工夫したコトがある。
どんな格好が似合うのか、多少の試行錯誤もありつつ考えていったら
気付けば怪しいオッサンとして落ち着いてしまった感がある。

今ではカメラを提げて歩いて飲みに行ったりすると
奇人だ変人だ不思議系だと言われてみたり、
雰囲気が似てるのか「アラーキー」と呼ばわれたりと散々だ。
しかしそれはそれで、悪くないとも思っていたりする。

奇人変人であるがゆえに、ちょいとばかり他人と外れたコトをしたって
ほとんど誰も気に留めない。下手すれば何をしても似合ってしまう。
秩父の山中の小さな茶屋で雨宿りがてら見上げるような崖を肴にカップブコーを
一人飲んでいたりすれば、「雰囲気に溶け込んでる」なんて言われるのだ。

もちろん常に単独で行動しているのではなく、ヒト集団にも入り込む。
そして活発に発言するコトもあるし、熱心な聞き手となるコトもある。
特別に調子を合わせているワケではないから多少の違和感を残しつではあるが、
いろいろなコミュニティの中に、ひょいと入り込んで普通に喋っていたりもする。

結局それが自ら望んで近付いていった姿というコトなのだろう。
でも、ちょっと違うよな気もするんだけどなあ。
まあいいか、きっと小さいトコロにこだわらないってのもまた
「カッコイイ中年」の条件の一つであろうと昔から思っているので。

|

2007/10/20

半生紀(3) 色、色違い

20071020_kc3a0003s


あまり周囲に馴染もうとしない性質を小学校の頃に示した末息子を見かねてか、
上の2人の兄たちとは違って中学校から私立校へ進むことを、親から勧められた。

田舎町の小学校では遊び集団からも落伍しかけていた小さな少年だったのが、
おっとりした都会ッ子の多い私立中学ではむしろ活発な部類なのだから面白い。

もちろん中には喧嘩っ早い連中もいるもんだから、そんな連中を相手に
頻繁に校内を駆け回って追いつ追われつ、よく喧嘩をしたものだった。

3年もするウチには、気付けばそいつらこそ意気投合できる仲間になっていた。
「強敵」と書いて「とも」と読む的な少年漫画の世界だったのかもしれん。

その学校はちょっと遠くにあったので、新たに得た「強敵」を家へ招く機会は
あまり多くなかったが、それでも趣味の合う友達を何人か連れてきたコトはある。

自宅で遊んで帰った友人たちが、後に「家族っていうより友達みたいだ」と
家庭内の雰囲気を評していたっけ。田舎の一家ならではの雰囲気だと思うのだが。

彼らの家を訪れれば、周囲どこまでも住宅が続く。一戸建てに住む者はいたが、
少なくとも田圃の中の小さな集落に暮らしている生徒など学校中を探しても稀だった。

田舎暮らしの大家族と都会暮らしの核家族では家族内の人間関係も違うのだろう、
と後になってから思ったものだ。だから友達には家族のように接してみたりした。

そんな具合に周囲とは異質な環境で育った存在は、馴染むまでの苦労こそ多いが、
いったん仲良くなれれば集団内の特異点になる、とも思う。

たとえば周囲が都会の鼠の論理で固まりそうなときに異なる見解を示したり、
ときには田舎の鼠ならではの行動力や注意深さが皆の役に立ったりした経験も。

当時からの旧友たちの中では、今でも異質な存在であると感じる。
それは小学校の頃の異物扱いとは違って、悪い意味ではなく。

|

2007/10/19

半生紀(2) river-edge? revenge?

20071019_epsn1509s


昔から読書好きで人付き合いが少なく、ちょっと突飛な発言も多かったからか、
小学校ではほとんど派閥外だったのだが、それでも満たされていたように思う。

それは、小さな集落に生まれ育ったという環境のおかげだと思う。
なにしろ全員が顔見知りというくらいで、落ち着いて暮らしていられた。

人生で最初の親友は、そんな集落の中の同級生、2人ばかり。
それと近い世代の遊び仲間が数人。よく、みんなで田圃の中に繰り出して遊んでいた。

田圃の中には無数の水路が走っており、ところどころにはポンプ小屋もあって
夏となれば冷たく透き通った水を大量に汲み上げていたのを浴びるように飲んだっけ。

どっちを向いても1kmあまり水田が広がる中に、実家のあった集落がある。
武州川越の城下を守る新河岸川の外側にあり、数十戸程度の古い小さな農村だ。

新河岸川を地元では赤間川と称した。並行して走るR254は川越以南では川越街道。
川越街道とは川越以外の人の呼び名だと母に教わった。川越では「東京街道」だ。

集落からみて赤間川や東京街道の反対側には、小さな沼がある。
市の伝説にも登場する、伊佐沼という自然の沼だ。これは地図上も同じ名称。

そもそもは沖積世に堆積した土砂が広大な関東平野を形作る中で、
埋もれ残った部分が沼となったものであるらしい。

そしてヒトの手が入るようになってからは、おそらく丁寧に維持された。
周囲の低湿地の中でも特に低いため、農業的には主に排水用として使われているのだ。

昔はもっと大きかったのを、後に埋め立てて半分くらいにしたとも聞く。
20年ほど前までは土の岸辺があった。今では完全に護岸で固められているが。

そんな感じで、今にして思えば身近には水が多かった。
だが集落の字名は「高侭町」というだけに微高地で水害に遭うコトはなかったとの由。

さて小学校時代。同郷の親友たちとは別のクラスになるコトが多く、クラス内では
大きな派閥に入れなかったから、ちょっとしたイジメのようなコトもあった。

もはや原因や発端などは忘れたが、こんなエピソードがあったのを覚えている。
たしか下校途中。いきなりガタイの大きなヤツを中心とした数人のグループに囲まれた。

今でも小柄だが、当時はもっと小さく、クラス内で一二を争っていて、
しかもたいていはトップを奪うくらいに小さな男の子だった。

そこへもってきて、クラスでも特に大柄なヤツが手下数人を引き連れて
何が気にくわないのか絡んできたという構図。

彼らは半包囲する態勢で、踊るように足で空を蹴り上げ、囃し立てる。
囲まれた側は小柄ながら(ゆえに?)負けず嫌いで、短い足を必死に振り上げ対抗する。

そして何故か、その短い足の爪先のあたりに、大柄な男の子の頭があった。
詳しい経緯は覚えていないが、彼が足を滑らせでもしたのだと思う。

爪先は片目を直撃した。その後どうしたかも記憶が抜け落ちているのだが、
たぶん彼と取り巻きは保健室に直行したのではなかったかと。

幸い大事に至らなかったものの通院治療が必要とされ、ずいぶん騒ぎになった。
彼の家まで親に連れられ、「相手が怪我をしたという結果」に対して謝らされた。

そのコトが最大の屈辱だと感じたのを思い出す。怪我の原因に関して何らかの
措置が執られたかどうかを全く記憶していないのは、その怒りゆえであろう。

当時、復讐は悪いとは思っていなかったが、行き過ぎると危険があるコトを知った。
今にして思えば小さな事件であったが、まあ良い教訓にはなった。

|

2007/10/18

半生紀(1) あんなコト、こんなコト、あったっけ?

20071018_epsn0294s


整理上手は捨てるのが上手、という言い方がある。
すると忘却上手は、記憶の整理が上手なのだろうか。

小学校の頃のコトは、今では断片的にしか思い出せなくなってきている。
頑張っても遡れるのは幼稚園くらいまで。歳をとったせいかな。

ちなみに、「物心ついた頃」とは、いつの時点を指すのだろう。
いつの時点まで記憶を遡れるか、周囲の人間に聞いてみたコトがある。

早いものでは2歳頃から、という人がいる。3歳という人もいる。
実は、いずれも女性だ。ちなみに母も、4歳の記憶を年老いた今でも思い出す。

男性ではどうだろう。たとえば父は母より後の時期からしか覚えていないという。
また伝聞だが、20代にして小学校の頃の記憶が全く残っていない人もいるとか。

少ないサンプル数のみで普遍的な男女差を云々するコトはできないが、
少なくとも周囲の人たちに関しては、どうも女性の方が幼い頃の記憶を残す傾向のようだ。

さて、記憶の中に少しばかり残っている小学生時代を思い出してみよう。
と、学校内の記憶が少ないコトに気付く。

せいぜい授業中に兄たちの教科書(主に中・高校の理科系)を読んでいたり、
するコトがないときは仕方なく授業を聞いていたりした程度だった。

最も印象強く思い浮かべられるのは、当時の通学ルートだ。
そういえば、よく帰りがけに遊んだっけな。だから記憶にも残るのだろう。

歩いて片道15分ほどあって、市の中心部にある学校から古い住宅街の中の道を通り、
台地の端の神社の前を抜けると川があって、そこから先の低地は一面の水田の中。

遊び場は小学校の目の前にあった駄菓子屋に始まり、住宅街の迷路のような小道の数々、
神社の参道脇にあった小さな公園や空き地、そして川や田圃の畦道と、無数にあった。

そこの三芳野神社には天神様がある。ときたま鳥居をくぐり細道を奥まで通って拝んでは
みたものの、遊びすぎが祟ったか勉強は今でも苦手だ(読書好きではあるのだが)。

そういえば、帰りが怖いなどとは、あまり思わなかったなあ。
むしろ行きよりずっと楽しかったのだが。まあ時代が違うといえばそれまでか?

ともあれ、電車に乗れば東京都心まで1時間という近郊の市ながら、ちょっと
市街地を外れれば今なお田畑が広がるというのは、非常に良い環境だったと思う。

だが、そのコトを実感するのはオトナになってから。
幼少の時分は、そんなのお構いなしに半自然と戯れていた。

それこそ、学童唱歌のような世界の中で、ね。

|

2007/10/17

ああ、今日の今頃は、酒に酔っている(たぶん、きっと)

20071017_epsn0916s


このブログも気付けば1年が経過した。
といっても投稿数は100もない。毎日連載として実質3カ月。
途中に長い中断期間があった。

一方、ほぼ同じ時期に一周年を迎えた人たちもいる。
なんと「紙婚式」だよ。
しかも有難いことに、一緒に祝わせてもらえるそうな。

というワケで、ちょうど今頃は祝杯やら何やらの後で、きっと上機嫌になって、
残った酒をチビチビ飲りつつ、こんな冗談を口にしているに違いない。
「よくもまあ、1年間も続いたもんだ」なんてな。

この1年だけで何度の危難があったか。
いくつかは知ってるし、一部では当事者だったりもする。
まあしかし、良く乗り越えてきたよ。本当に偉いもんだ。

こうやって曲がりくねり上り下りしてトンネルを抜け橋を越え
どうにかこうにか進んでいる(らしい)ってのが人生だと思う。
ので、そうしてきたのだから、まあ誇ってよいだろう。

きっと、これから先にも、まだまだいろいろあるだろうけどな。
でもね、たぶん、これから先も、まだまだ頑張ってやっていけるよ。

|

2007/10/16

所持品紹介(6) 壊れそうにないラジオ

20071016_epsn0260s


数年前だったか、知人宅の片付けを手伝っていたら、古いラジオが出てきた。
電池ボックスの中の錆びた電極を磨いてやったら、なんと普通に使えてしまった。
持ち主に聞いたら要らないというので、引き取って自宅で使うコトにした。

メーカーは「東京芝浦電気株式会社」。調べてみると1939~1984年の社名らしい。
少なくとも四半世紀ほども前の品物となるが、短波放送にも対応しているから
当時としては相当な高級モデルだったのであろう。

このラジオ、今は枕元に置きっぱなしにしている。
なにせアナログだからツマミが大きくて、咄嗟に電源を入れやすい。
寝入ったトコロに地震が来るなどしたら、手を伸ばしてスイッチを捻る。

普段、チューニングはJOAK(NHKラジオ第一・東京)に合わせっぱなし。
深夜であれば「ラジオ深夜便」の落ち着いた声が地震速報を伝えてくれる。
大事なさそうであれば、そのまま深夜便を聞いていたりする。

再び眠りに落ちる前に、たいていは電源を切る。スリープタイマーなどないので。
ましてや品川五反田界隈の某社製品で噂となっているようなタイマーなどもない。
つかコイツは、そもそも東京・芝浦の製品なので関係ないのだが。

五反田(今は品川が中心だっけ)の某社といえば、その会社が15年くらい前つまり
割と元気だった頃に開発した、かなり新しい型の短波ラジオも持っている。
コレは普通に買ったものだ。今は机の脇に常駐している。

大きさは、カセットケース2個分ほどもない。
そのくせ完全に電子チューニングとなっていて、いくつものメモリも備えている。
しかも、同期検波回路とかいう高度な回路がIC化されて組み込んであるのだとか。

某社の製品とはいえラジオは別の世界だと思っているので特に驚かないが、
コイツもまた長持ちしてくれていて、調子が悪いのは音量ダイヤルくらい。
可変抵抗にゴミが入ったか音量調節が難しくなった程度で、大きな問題はない。

インターネット時代の今、短波放送は絶滅危惧種になりつつある。
おかげで最近は、これらのラジオでも短波を聞く機会は滅多にない。
もしかしたら短波放送局が絶滅した後にも、こいつらは生き続けるかもしれない。

p.s.
「カセットケース大」なんて表現も、もはや死語か?

|

2007/10/15

所持品紹介(5) 馬鹿の大足、間抜けの小足、丁度良いのはなかなかない

20071015_20070622047s


角張っていて幅が広い足の形は、現代人離れしているせいか
特に革靴では合わないモノが多くて、よく昔は困った。

同じ26EEE寸でも足型によって違いがあるので、
買う前に必ず試しておかないと甲や側面が圧迫されて痛むのだ。

足を靴に合わせるのも無茶なハナシだし、靴をオーダーするなんて
財布にゃ無謀な貧乏だから、仕方なく足に合う靴を探し回ったものだった。

そんな努力の甲斐あって、程々に合う靴があったので
ここ10年くらい、ずっとそれを履き続けている。

ミドリ安全の靴だ。その中ではちょっとだけ高級な製品で、一見すると安い革靴。
実際、革靴としては安価だし。安定供給されていることも大きなポイントだった。

なにせ歩くコトが多いので、靴は消耗品みたいなものなのだ。
でもオトナになってから足の形は変わらないのだから、靴も変わらないのが良い。

年に1~2足を買い足していて、新しいのは背広に合わせて古いのは普段着用。
底が割れたりしたら寿命として捨てる(底は空気中の水分などで劣化しやすい)。

発泡ウレタン底は滑りにくくて助かるし、爪先も保護されている。
クッション性も少しあるが、それなりにダイレクトな感触も足裏に伝わってくる。

底から側面にかけての防水処理も施されているので、
ちょっとした水溜まり程度なら気にせず歩くコトができる。

手入れとしては、泥汚れなどを払い落とす程度。
あとは靴紐が切れたら交換する。

手間もかからず気楽に使える。
日用品は、やはりそういうのがいいね。

|

2007/10/14

適応の過/不可

20071014_epsn3290s


適応のための進化が始まると勢いがついてしまうのが常。
すぐには止まらなくなり、適度なポイントから行き過ぎる。

それが戻れない生物学的進化の道なら袋小路に終わろう。
戻れるような変化なら、いずれ揺り戻し、今度は戻りすぎて振動状態になる。

だったら手前で止めておけばいいのに。
それこそ知恵ってもんだろうよと。

でも実際問題、過ぎてみないと限界ってなかなか分からんのよね。
そうやってヒトは「過ぎたるは及ばざるが如し」って教訓を学んできたワケで。

でも一方で、「体験しないと分からない」コトもまたヒトの事実。
ヒトの世界においては、だから常に不慣れで未熟であるがゆえの失敗がつきもの。

そうか、つまりヒトは失敗して当然ってコトか!

|

2007/10/13

理系用語で読み解く社会(11) 事故免疫

20071013_epsn1792s


何から何まで教えてやったら、学習にならない。
きっと教えてる側も、徒労感ばかりが強いのではないだろうか。

あらゆるモノゴトには解決策があって教えてもらえる、
というコトを学習してしまい、次もまた聞きにくるだろうから。

身の回りを何から何まで殺菌していったら、健康にならない。
免疫系は、弱い毒に対処して強い毒への対処を身に付けるものだ。

なんにせよ、この手に持った刃を他人に向けるコトは避けたい。
だからできるだけ他人が自らの刃を以てして自らに向けるよう仕向けたい。

自己責任社会と完全犯罪は、
学習と免疫の関係に似てるのかもしれない。

誰だってヒトゴロシになるのは嫌だもんな。
だから当人が責任を持つコトとする。

逆に、誰だって嫌なのだから、そういう事態にならぬよう
学習する機会を持って貰うコトも可能ではないだろうか。

ちょっとした失敗くらい、あっても構わない。
ましてや、取り返しのつかない範囲に収められるのであれば。

そこから何かを得て、次に同じ失敗を重ねないよう
自分の中にシキタリという免疫系を作ってくれればいい。

|

2007/10/12

理系用語で読み解く社会(10) 脳内仮想社会

20071012_epsn2324s


画角やら被写界深度やらアングルやらを様々に変化させて
世界という実像から無数の切片を作り出して取り込み、
他人の目を借りて得られた知見を補足情報として付け加え、
かくて脳内に世界の虚像を作り上げて勝手に弄り回す。
それで現実との違いが見つかれば脳内で修正してやる。

言葉は目の前の友に向けて発せられているのだけれども、
実はその言葉は既に脳内の虚像の世界に住む虚像の友に対して
あらかじめシミュレートしてプルーフされたものであるから、
その反応もまた想定から大きく外れるコトもない。
(あるいは、もし想定から外れれば虚像の友を書き換えるのだ)

ありきたりな言い方になってしまうが、
学ぶコトって、知識を詰め込むコトじゃないんだよね。
たとえば蓄積した知識から法則性を見出したり、
あるいはそのための考え方の道筋を切り開いたりするのだ。
だから出てくるのは、どしてもほんのちょっとばかり。

さらにそこで得られた何かを元にして
外に出していこうとするなら、
もっともっとわずかな量しか出てこない。

古代において最上級の乳製品とされた「醍醐」は
いくつもの工程を経て、多量の生乳からごくわずかだけ
作れるものだと聞いたコトがある。

さっさとオチをつけるとすれば、
そういうのを脳内から絞り出すのが
アタマを使う醍醐味ってワケだ。

|

2007/10/11

思索的施策から示唆される句は詩作的試作品か

20071011_s


生まれて以来の情報赤字であるコトは間違いないけれど、
あれやこれやと思慮を巡らせたトコロで語れるコトは少なくて、
ありとあらゆる手段を通じて得られた情報を元に
長い期間をかけて脳内で構築してきた世界の虚像は、
たとえその片鱗であろうと簡単に言葉の羅列などで
伝えられたりするようなシロモノではなくて、
そう、それこそ言葉がモノを言うコトなどなく、
むしろ言葉に言葉を継ぐその姿勢にこそ表現意図を込めたりして、
芽生えて根付いて育って実を結ぶに至るのが一粒でもありゃ万々歳
と、一粒万倍日に芥子の種を一万粒播きつつ嘯いたりもする。

相手が行間を読み空気を読むコトのできる人物だと期待しつつ
背中で語ってやろうじゃないかと思ってはいるのだけれどもなあ。
なにぶん、語れるコトも少なく語るに落ちた身であるがゆえに。

|

2007/10/10

毒にも薬にもなるシキタリスの花

20071010_epsn1884s


シキタリというのは、
これまでヒトがシてキタ(リ)しコトの集大成。
原則として古くから仕来るモノゴトを総じていう。

ただし、近現代西洋的ベストプラクティスなどとは微妙に違う。
「べき」が集まるプラクティスとは逆に、
「べからず」が集まりやすいのがシキタリの特徴らしい。

理由を考えてみた。

過去の大きな問題に対して反省し、
重大なコトをしでかさぬよう戒めるのが
シキタリというもので、

そうしてできたシキタリスは、
ヒトの生命や組織の存続に関わるような
大切な部分にこそ強く効く。

だが副作用もまた強い。かつてのシキタリの中には、ときには
近代的な概念でみれば人権侵害や犯罪になりかねないものまである。
それゆえ使い方には注意が必要。

さらに経験という文脈を取り去って精製されたシキトキシンとなると、
単なるコトバとなってしまった教訓では法律の条文と同様、
何があっても守らねばならぬものとなってしまう。

ヨノナカの体質がコロコロ変わる、
いわば不安定な情勢が続く中で
症状に合わせた処方をせねばならぬというのに、

副作用が出たから使えません/使いません
とばかりシキタリの全てを否定してしまうのでは、
クスリを作ってきた連中も浮かばれまい。

と思うのだが如何か。

|

2007/10/09

ひーふー感覚

20071009_s


さて、たまには近況など。

先日、なかなか器用な火傷をしてしまった。
あえて呼び名をつけるなら「蒸気式熱傷」てなトコロか。

ある夜、夜食にしようとして長柄の鍋で蕎麦(乾麺)を茹で上げ、
そのまま流し台で水道から鍋に直接水を流し込んで晒そうとしていた。
ところが、溢れた水が柄の付け根の金属部にかかって蒸発し、
そこから高温の水蒸気が柄の裏側の溝を伝ったらしい。

左手の人差し指に激しい熱を感じ、危うく鍋を落としそうになった。
なんとか持ちこたえて急いで鍋を置き、そのまま流しっぱなしの水道水で冷やす。
見ると、第一関節と第二関節の間の皮膚が白くなっていた。
長さ1cm強、幅5mm程度の楕円形だ。

その夜、ふやけたような状態だった皮膚の下に浸出液が出てきて
水脹れとなり、2時間ほどもするとパンパンになった。
大きめのピーナツの粒の半分くらい、といったトコロか。
それが指の脇に張り付いていて、触ると奇妙な弾力を感じる。

この大きな水脹れは、2~3日そのままだったが
数日すると次第に張りがなくなってきた。
その後は日ごとに凋んでいって、ついには固い板のようになる。
表皮の下に溜まった血漿成分が固まったのだろう。

それにしても、日頃10kg近い荷物を鞄に詰め込み
片手で肩越しに背負って持ち歩いているというのに、
こんな場所にできたマメを潰さずにいられたというのは、
我ながら器用と言うほかない。

中身が完全に固まってくると、今度は少しずつ表皮が剥がれ始めた。
何かに擦るたびポロポロと落ちてしまうのが気になるもんだから
ピンセットで摘んで引き剥がしていたりしたら、下の塊が露出した。
まるで固まった膠のように透き通っている。

ちょうど1週間経った頃だったか、おそらく指の動きによって
「自家製膠」にヒビが入る(ひび割れた部分は白く濁るのでよく分かる)。
しかし、表面に残った表皮がそれぞれの断片に引っ張られたりして、
塊の周囲の皮膚に裂け目ができてしまう。

仕方ないので、断片を剥がす作業に取り組む。
ヒビのところに先の細いピンセットを突っ込んで軽くこじると、
けっこう簡単に剥がれてくれた。
せっかくだからと、調子に乗って完全に除去してしまおう。

ときたま残っていた皮膚が断片の周囲に繋がっているので、
無理に断片を引っ張ってしまうと自分で自分の皮剥きをする羽目になる。
ので、少しずつ断片を剥がしては、ニッパー型の爪切りで表皮を切り取る。
擬音で書けば、ペリッとやって、プチンとやる。それを延々、繰り返し。

それにしても火傷したのが右手でなくて良かった。
刃物はほぼ両手で扱えるが、左手でピンセットを扱うのは苦手なのだ。
あと、フォークやスプーンも左では苦手だ。
我ながら、なんとも不思議な手である。

ともあれ、患部の残留物は一通り除去し終えた。
下から、まだ再生されたばかりの柔らかい表皮が露出してきて
触れてみると不思議な感覚がある。
これはこれでちょっと楽しいのだが、まあ放っておこう。

火傷から2週間もすると、その感覚も気にならなくなってきた。
新たな皮膚は僅かに赤みが残るものの、周囲との見分けがほとんど
つかない状態だ。指紋のあるべき部分にも、ちゃんと新たな指紋が
できているのが判別できる。どうやら完治と言えそうだ。

火傷で水脹れまでに至ったのは久し振りだが、
しょせん軽い火傷だったから、さすがに治りも早かった。
そんな記憶も、こうして書いてみようと思わなければ
数年のうちに忘れ去られていたことだろう。火傷の跡とともに。

新陳代謝の早さは、それなりに自慢できるレベルらしい。
肌など「20代でも通用する」とさえ言われるコトもある。
大きな負傷も滅多になかったせいか、今も残り続ける傷跡は2箇所の手術痕だけ。
あとは、ほとんど消えてしまっている。

肉体だけでなく、精神的な新陳代謝も、けっこう活発だとは思う。
ストレスでボロボロになったりするコトも、ひとまず最近は減ったようだ。
大きな心理的傷病歴も、肉体と同じく多くはない。
傷跡のほとんどは消えたか、少なくとも普段は全く目立たぬ状態だ。

だが、今も残り続け、今後も一生残るであろう深い傷跡が、一つはある。
それでも一見、のんべんだらりと平和な日常をダラダラと過ごしているように見えたりする。
まあ実際、装ったり演じたりしてるワケでなく、たいてい普段そうなのだけれども。
……大悟は大愚の如し、というコトにしておこう。

とかなんとか、いろいろ書き物をする癖がついて、何年経ったかな。
こうやって記録をつけてみるのも、さすがに習慣化したようである。

まだ微妙に馴染んでいない点もありそうだが、いずれ分からなくなるだろう。

|

2007/10/08

寡黙な背中は沈黙が金

20071008_dscf0176s


「背中で語る」とは、よく使うコトバだが、果たしてどんなコトなのだろう。

「態度で示す」と同義のような用例をみたコトがある。
となれば短期的・直接的な行動や言動を通じて「語る」のか。
なるほど。そういう考え方もありそうだ。

しかし、ちょと違うような気がするなあ。
というより、「それもあるが、それだけじゃない」と思う。
せっかくなのだから似て非なる概念だと定義付けたい。

個人的には、かなり時間スケールの長いモノだと思うのだな。
中長期的な、継続的姿勢で、それこそ半生をかけるくらいの
かなり気の長い地道な取り組みとして伝えていきたい。

当然、それを読み取ってもらうにも、長い時間がかかる。

一緒に考えの筋道を辿ってみたり、あるいは同じトコロで迷ってみたり、
また喜怒哀楽をともにしてみたり、そういう長い過程を経てようやく、
相手は「自分にないモノ」を鮮明に見出すのだと思う。

より深いトコロへと情報を伝播するには、どうしても長い時間を要する。
雄弁な口からのコトバだけでは、表面ばかり。そうじゃないんだと。
寡黙な背中を、そこに比喩として用いたのは誰の知恵か。

相手に大切なコトを気付いてもらうのは、なんとも大変なコトである。
芯まで冷えきったココロを表面だけでなく奥底まで暖めるには、
容易ならざる努力を以てしてもなお途方もなく困難だ。

ささやかながら、そんな体験をしてきたがゆえに、工夫と努力と
それから数多くの失敗から得た教訓をもとに、こう言いたい。
「背中で語るから行間を読んでくれ」

……なんだぃ、結局コトバに頼ってるじゃねぇか。

|

2007/10/07

小説よりも、生形の事実

20071007_epsn4667s


ここ1~2カ月の間、いろいろと人間関係について勉強する機会を得た。
ときにはドラマのような展開が眼前に繰り広げられたり、あるいは
自ら加わったりと、なかなかに高密度な体験をさせていただいた。

より謎が深まったトコロもあるが、確信が強まったコトも多い。
今回は、そうした経験を通じて得られた数多くの教訓の中から、
心理的優位性と長老的性格と演技者的心境について軽く説明しよう。

心理的優位性があれば高度な心理作戦を実行できるという認識を強めたが、
それは優位な状態を維持していればこそ、であるからして、
優位な状態を保てないような強い感情を持てば、その先に自信は持てない。

そこで、いつの間にか身に付いた長老的性格が大いに役立つのだと思える。
過去の自らの心の動きを踏まえて相手の心の動きを先取りするにも役立つし、
常に未知なるコトが存在しうるという経験則は感情の激発を抑制する。

こうした立ち居振る舞いは、頼ってくれる相手に安心感を与えられるもの
として、これまでも有効に役立ててきたつもりだ。
が、自らが安心できない状態に陥ると、これが意外なほどに脆いのだな。

今回は、そんな状態から戻るのに手助けをしてもらった。
かつてこちらから(それこそ心理的優位に立って)支えたつもりの相手に。
なるほど、これがギブアンドテイクか。いや「背負うた子に道を教えられ」、かね。

そして、なんといっても今回は「身近な読者」に元気づけられたと実感した。
当事者の1人となった時点で長老的立場は失われてしまいがちなのだが、
その中でも心理的優位性を保ちつつ行動するのに大きく役立った。

「知らぬフリ」を例にすれば、正直に嘘を吐く(相手はもちろん自分に対しても)ために、
いや正しくは「当初の意識に対して嘘となるようなコトをその場においては
正直に言う」ためには、自ら気持ちを変えていかねばならない。これが難しい。

そこに周囲の応援があると、非常に力強くなった感じがする。
結果的には、いささかノリすぎて「策士策に溺れる」的な不始末をしでかしたが、
途中の過程では意識の方向付けを後押ししてもらった。

今回、当事者としては、どうみても失敗の方が多かった。
いろいろな反省点が思い浮かぶ。だけど、それでもなお身内として
認めてくれているのだから、次はせいぜい気をつけてやってみるさ。

きっと、次は次で、また違った課題に直面することだろう。
「続編なら、見られるよ」なんて台詞を、どこかで読んだっけな。
なにせ、このドラマは生きてる限り続くのだからね。延々と。

|

2007/10/06

精神の切り立った崖の縁を下る

20071006_epsn3065s


何度目かの「知らぬフリ」を試行しながら、
その使い勝手を考えてみた。
へりくだって聞き手に回る必要があるために
自身の心の平安を保つコトが難しい、と何度やっても思う。

「そういうヤツだから」と割り切ったり
「合わないから」で切り捨てたりすれば
まずもって芯から素直にハナシを聞こうとする態度は出てこない。
うわべだけの謙譲は容易に見透かされ、フリも不利になる。

そもそも自分のココロも動かさねば相手のココロも動かない。
こちらから心情を吐露しなければ、
相手の本当の信条を引き出すコトもできやしない。
だから嘘は吐けず正直ベースで話を進めていかねばならない。

かといって、心から下になってしまったら
そもそも相手の心理を先回りするような思考が難しく
やもすれば単に御輿をヨイショしてるだけになってしまう。
その先は知らぬが仏のお釈迦様。それこそ最初から「ほっとけ」と。

やはり適度な精神的優位性を備えていなければ使えないし
とはいえ見下したような考え方を持っていても使えない。
だからこそ下手に出て相手を担ぎ上げながら聞き手に回りつつも
その先の反応を上手に見越して老獪に籠絡していくコトが必要だ。

第一印象が必ずしも良いとは限らないし、むしろ心理的効果を
考えれば最初はゼロから、いやマイナスから積み上げていくのが
望ましいが、そうすると相手とのコミュニケーションが途絶して
しまう危険も強まる一方なので、コントロールが難しい。

対話の進捗につれ刻々と変わる相互関係の中で、
アチラにも倒れずコチラにも落ちず平衡を保ちつつ、
そして刻々と変わる相手の心理を的確に捉えて、
かつ自らの心理も刻々と変えていって、適時動く。

相違点の多い相手とも積極的に交わり、
その差異を乗り越え、落としドコロを見つけていく。
そういう経験を数多く積んできてこそ、
迷わず戦略的に「知らぬフリ」ができるのだろう。

自信、いや実績でのみ裏打ちできるか。
そんなふうに考えると、非常に高度な
精神的テクニックであるのだと思える。
どうりで、何度やってもヒヤヒヤするワケだ。

|

2007/10/05

目借りす

20071005_20070519025003


見通しの悪い丁字路があったとしよう。

縦棒の下の辺から入り込む際に、
横棒のラインを歩いている人が見えれば、
その動きに注目する。

こちらより先に交差点を抜けようとするその人が
進行方向をしっかり見据えつつも
速度を落としたり進路を変更することなく歩くのであれば
その時点の交差点には障害になる他のトラフィックがない
と推測できる。視点を借りるというワケだ。

一個人の視点など、たかが知れている。
どうせ一生など短く儚いモノでしかない。漢字を分解するまでもなく。
この小さな背丈から見える地平は狭い。
歩き回って見聞を広めようにも井の中の蛙の如し。

ならば借りられそうな視点があれば、
どんどん借りて見てみるといい。

少なくともヒトであるという点は共通してるはず。
ヒトの中の人もいろいろあってずいぶんと違うんだが、
ヒトである以上、些細な差異と言えなくもない。

どうせ、いろいろな視点を借りているウチに
ヒトの誤差範囲も漠然と見えてくるもんだし、
その違いが誤差としてあり得るという前提で認識すれば、
少なくとも誤解を正解と信じてしまう危険は避けられる。

ときたま、どこに立ってるのか分からなくて
視点を借りようにも捉え処のない相手がいたりするけど、
いろいろなヒトの立ち位置から見ていくウチに
そいつの根っこの向かう先が見えてきたりする。

そう意識してヒトと対話するようになって何年経ったか。
気付けばヒトの集合体の足許にあるらしい知覚外の地殻内構造が、
おぼろげに見えてきたようにも思える。

もしもし、そこの澄んだ目をした背の高いお方、
その視線の先には、何が見えますか?

|

2007/10/04

分からないままでも歩け

20071004_epsn2575s


どんなに勉強しても努力しても探求しても
完全に分からないモノゴトがあるというコトだけは
間違いないと分かっていて、
そのコトだけが救いに思えたりもする。
だから一つひとつ認識を深めていく、それだけだ。

どんなに走っても跳んでも跳ねても乗り物に乗っても
今いるこの場所がゴールでないというコトだけは
泣いても笑っても逆立ちしても間違いなくて
その認識こそが足を動かす原動力になっている。
だから一歩一歩足を踏み出していく、それだけだ。

「バーテンダーとしての成長に、近道なんてないんですよ。
近道ばかり探してしまうコは、なかなか成長しませんね」
と、行きつけのバーの店長は言っていた。

「100%完璧はないと知りつつ、それを目指し
100%の力を出して向かっていくコトこそ重要だ」
と、どこかの会社のセキュリティ担当者は言う。

分野がどうであろうと、ヒトが生きてる限りにおいて
新しいモノゴトへの対応が必要になる場面があるコトは
火を見るよりも間違いねえのさ。

確率論的に言うシグマの範囲内を主に見ていて、
そこから外れる可能性もあるコトを忘れずにいて、
極端な楽観も悲観もするけどそこに囚われずにいて、
身の丈と現実の状況とに見合う範囲を主に観測して、

宝クジは買わねば当たるハズもないと知っているから
可能性が低いと知りつつも当たりを期待するなら買ってみて、
さりとて無闇矢鱈に走り回っても疲れるだけなので
この足の向くままその気の赴くまま歩いてみたりして、

日々の生活に汲々としつつもそれを楽しみ
永の時の流れを意識してこそ日毎の変化に心楽しませつつ
自然の示す数字は必ずしも割り切れるモノじゃないから
むしろ程々に期待と不安の折り合いをつけて、

その足裏の感覚を信じながら歩いていけばいい。

|

2007/10/03

出張旅行記(12.7) みないワケにはまぃるゃまい(無理だった)

20071003_epsn4772s


青森を去る前に、もう一つだけ訪れたい場所があった。
言うまでもないだろう、三内丸山遺跡だ。
青森駅からのバスを降りたら、いかにも出張途中で時間を余らせて
寄ってみたようなサラリーマンばかりだった。平日だし、そんなもんか。

ほぼ快晴の空で風は弱く直射日光を受ける屋外は暑い。
ジリジリと照りつけられて頭が焼けるようだ。
しばらくウロウロしていると、クラクラしてくる。
思わず復元された竪穴式住居の一つに入り込んで陽射しを避ける。

分厚い屋根で日射を完全に遮断した住居内は、たしかに涼しい。
特に剥き出しの土の湿った感触が、触れるとひんやりして心地良い。
しかし風通しはないから、外の熱気を蓄えた身体が汗を噴き出し
ほとんど乾かぬままにシャツを湿らせていくのは頂けない。

竪穴式住居の屋根材は完全に明らかになってはいないが、
復元作業では茅葺き、樹皮葺き、土葺きなどが試されている。
夏の暑さと冬の寒さの両方に対応できるようにするのは難しいから、
季節によって素材や形を変えていたりするのかもしれないね。

実際、この暑さをしのぐには、冷房の効いた展示室を除けば
高床式倉庫として復元された掘立柱建物の床下に入るのが一番だった。
だからこんな日には屋根材を減らしたり端折ったりして、
通気性を確保した方が過ごしやすいとは思う。雨は問題だが。

日本最大級という竪穴式住居に入ってみたら、
ちょっとした体育館のような広さがある。
集会所、あるいは儀式のための場所、集団作業所などと
諸説あるが、きっとどの目的にも対応できるだろう。

その前にそそり立つのは、あの有名な大型掘立柱建物
すなわち発掘された巨木柱列を復元してみたモノ。

もしかしたらコイツは名物として観光名所にでもなっていたんじゃないかと、
きっと有り得ないような考えを思いついたのは、
午後になって大挙してやってきた東北地方イントネーションで喋る
中学生らしき集団を見てのコトであった。

もしそうだとしたら、ここの大型竪穴式住居は土産物売場か宿だったりして?

|

2007/10/02

出張旅行記(12.3) 線路は続くよ、船の中まで

20071002_20070823211s


青森駅から青森港へと歩いた。

駅のプラットホームの先は、かつて連絡船の中まで線路が続いていた。
その線路は海峡を渡った函館港で同様に函館駅ホームへと繋がる。
今は、八甲田丸が岸壁に係留されたままメモリアルシップとなっていて、
中は見学コースが作られている。時間が遅くて仕舞っていたのだが。

上部のデッキにはビアガーデンがあるらしく、ときたま
数人グループの客が作り付けの階段を上っていく。
一人でビアガーデンに入っても面白くないので入らなかったが、見たところ
盛夏というのに客の数が少なく感じられ、他人事ながら経営が心配だ。

青函トンネル開通で鉄道連絡船は不要になった一方、
今でもカーフェリーは運航しており、
この9月には波浪貫通型の豪州製新型船がデビューしたという。
実は訪れたのが運行開始直前で、ちょっと悔しく思っていたりする。

翌朝、再び港を訪れた。八甲田丸の反対側に当たるエリアの岸壁を歩けば、
真っ青な空を映して海もまた、ひたすら青い。そこに、白い雲が流れる。
北国といえど、いやむしろ北国だからこそか、夏のコントラストは強い。
でも、真冬の歌が繰り返し流されているのは、似合わないと思うのだな。

----
それにしても平日の昼間っから港の岸壁で背広姿の中年男がブラブラ
している様子など、2時間ドラマにありがちなシチュエーションだなぁと
我ながら間抜けに思う次第。

行く先々で温泉に入ったりしてサービスシーンを作ってくれる妙齢の女性の
助手でもいてくれれば、まだサマになるのかもしれんけど。

|

2007/10/01

出張旅行記(12) 行きはひょいひょい、帰りはのろり

20071001_epsn4657s


猛暑日が続いた直後に訪れた青森は、全く初めて踏み入れる県だった。

青森空港へのアプローチではエアバスが陸奥湾を大きく回り込んだので
下北・津軽の両半島や青森市街全体の様子が箱庭のように見えた。

訪れた先は五所川原市郊外。

広い青空に小さな雲がいくつも浮かぶ景色は牧歌的というか何というか。
しかし冬は、これが一面の雪景色となり地吹雪が恐ろしく舞うというが。

帰りは、まず津軽鉄道に乗る。

ここの駅前には店もなく集落が広がるのみで、その周囲は水田ばかり。
古びた駅舎が郷愁を誘う。

妙に真新しい自販機を除外し、公衆電話をコイン専用にし、そして
電柱をタール塗りの木製にすれば、きっと平成の駅とは思えまい。

ディーゼル列車特有の低い唸りと振動は、むしろ好きだ。
走り出しのキックが電車ほど強くない点は人に優しいとも言えるだろう。

岩木山の肩越しに背中を炙る午後の陽射しは北国の短く激しい夏の残照。

津軽鉄道の経営は厳しそうだが、地元の足として重要な存在であるはず。
たまたま通学時間帯らしく途中から多くの高校生が乗り込んできた。

五所川原駅でJRへ乗り継ぐ。

ホームの端、階段の前には津軽鉄道の駅員が立ってゐる。
切符や清算金を手で受け取り、高校生の定期券は目視で確認する。

強誘電体メモリ採用の非接触ICカードが使えない駅に戸惑ってしまうのは、
かつて必要としていた何かを都会暮らしで忘れたゆえか。

時刻表を見ると青森駅には特急の方が早く着きそうなのだが、
田舎の時間の感覚を取り戻したくて各駅停車に乗り込んだ。

|

« 2007年9月 | トップページ | 2007年11月 »