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2007.11.15

科学系ヨタ話(4)  凛々たる生命

20071115_epsn0213s


生命倫理学会年次大会に、ちょっとだけ行ってきた。
10年振りくらいか。正会員のくせに休みすぎだったと反省。

しかしヒトの意識というものは、たかだか一昔くらいで
大きく変わるものでもないのかとも思うから、まあいいだろう。

相変わらず無学者ゆえ学術的な議論には入り込めない。
なので、身近な実例だとか、大枠を見るような話題を選ぶ。

要は、ミクロな実例話と、大局のマクロな話の両極端だ。
中間を結ぶのが学術的な根拠だと思うが、そこは抜けている。

もちろん、全体の大枠を見るのは、詳細な学術論議をしたり、
レアケースまで網羅した実例を語るのと並んで重要なコトだ。

より広い範囲に対応する、より高次の原理原則を見付け出すために
欠かせない考え方ではある。噛み砕いたコトバで言うなら公倍数とか。

そういう“メタ化”する思考作業は、どの分野でも普遍的に行われる。
一方で上から見下ろすだけになってしまわないように気をつけたい。

だからミクロな話題にも目を向けている。興味もあるし。
が、両極端の間を結ぶ、肝心な学術は持ち合わせていない。

代わりに「経験と勘」などを使っているのだけれども、
コレじゃぁ学会で通用しないもんな。やれやれ。

見られなかったので詳細は知らないが。こんな主張もあったようだ。
「『究極の選択』をせねばならない状況を未然に回避するコトこそ上策」

得てしてヒトが後悔するのは、選択を迫られた瞬間であったり
選択してしまった結果に対してであったりするワケで。

その前に何とかしておけって考えは、もちろん正論だ。
戦略的に回避するのはヒトの知恵のなせる技でもあるし。

だから知恵を自負するのであれば、転ばぬ先の杖を用意しておけと。
その通りだ。その為の努力も歓迎すべきだし、積極的に進めた方が良い。

まあそりゃそうなんだけどさ。でもやはりヒトのできるコトは
非常に限られているのだ。そこにのみ頼って万全というワケでもあるまい。

究極の選択を迫られた瞬間について考えるコトも、それこそたとえば
後悔しないような判断をするための練習だって、もしかしたら役立つかもしれん。

あるいは後悔している人を支える試みも、どうしたって必要だろう。
その他いろいろと、考えておきたい範囲は広い。

念の為に書いておくが、努力を惜しむコトを推奨するワケではない。
が、良い考えだと思われたからこそ、そこにのみ囚われたくないと考えたのだ。

広い知見を持つ人は、人格的にも許容範囲が広いように思う。逆もまた然り。
森を見ていれば、木々の1本1本が少しくらい変でも気にならんというコトかと。

けど、小さな木々の枝葉末節にも、目を届かせていたいものである。
そこで生じる無数の喜怒哀楽を見落としたくはないから。

視野が狭いと非難されても構わない。
この目に映るモノゴトを、まず大事にしたいだけ。

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