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2008.01.28

たまには時事ネタ(9) それはきっとはきちがい

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あるドキュメンタリー番組の中で、こんな家族が紹介されていた。

認知症になって徘徊を繰り返す年老いた母親を、息子は
「他人に迷惑をかけたくない」として自宅介護を選択した。
息子は一人で介護を試みたが、それは到底無理なコトだった。
大きな病ではないから病院には入れないし、どこの施設も満杯、
介護サービスも受けていないので母親は風呂にも入れない。
息子も「母が入れないんだから、自分も風呂に入らない」とか。

客観的には、何をしているのかと疑問に思ってしまうような行動だ。
とはいえ、この息子は真剣に親孝行をしようとしているのだろう。
単に、本人の期待するコトと実際に可能なコトとが
大きく隔たっているだけに過ぎないのだと思う。
こういうとき、ヒトは得てして現状認識ができなくなってしまうもので
それがゆえに本人や周囲が余計に苦労を強いられたりしている。

それに似たような精神状態は多く見掛ける。
もちろん、シチュエーションは老人介護に限らない。
一般化して言うならば、強い義務感を持った人に多くみられ、
特に家族や友人などに対する義務(と本人が思っているコト)を
なんとか必死で果たそうとすれども、様々な理由で達成できない
といった状況下で、しばしば生じるコトである。

また、学業や仕事などにおいても、似たようなコトはある。
やはり過大な目標やノルマなどの課題を抱えているケースに多く、
結果として鬱状態に陥ったり、体調不良になったりする。
このとき当人は自身の能力不足が原因だと思い込んでおり、
課題を解決できない自分自身を許せないという憤りを自らに向け、
それがより一層、精神や身体の状態を悪化させていく要因となる。

こうなってしまうと、周囲の助力を容易に受け入れるコトができない。
たとえば金銭的な理由や時間的な都合など、様々にこじつけた
「できない理由」を数多く並べ立てて必死に断ろうとするのが一般的だ。
その根底には、「手助けを受け入れたら負け」という考えがあるように思う。
また「援助を申し出るのは自分の不幸を嘲笑う者」と僻む場合もあろう。
いずれにせよ、妙な方向に向いてしまった義務感と自尊心に自ら傷つく。

困った状態に陥ったコトも運命だ、といった具合に考えて
器用に達観できるのならまだ救いはあると思う。
似たような境遇の人のコトを知って、そう思えるようになったりもするだろう。
しかし、達観できる人であれば、さほど深刻にはならないものである。
達観ではなくて諦観、いやそれより失望感や絶望感に襲われたりして
最悪の結果になってしまわなければ良いのだが……。

世の中儘ならぬモノと知っている人は幸いなるかな。
期待通りにコトが運べば予想以上と喜べるのだから。
懐疑的になって手放しで喜べない人は、自ら幸福感を減らしてしまうのが不幸だ。
せめて、自分の弱さを認めるコトができるくらいの強さは持ちたい。
強さも弱さもひっくるめて好きになるコトこそが、相手を真に好くコト。
これは他人に対してのみならず、自分に対しても言えるのではないだろうか。

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