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2008年1月

2008.01.31

半生紀(15) 外人イトコ

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この1月、久し振りに会った2人のイトコ。
小さい頃には、毎年のように遊びに来ていて
夏休みなどは実家で一緒に生活していた。
ちょうど同じ年頃で、兄弟のように喧嘩をしたり
一緒に遊び歩いたりしていたものだった。
しかし高校あたりから頻度が少なくなり、そして
いつしか滅多に会わなくなっていた。

このイトコたちが他のイトコや近所の友達と違ったのは、
父の妹が、米国人と結婚して産んだ子供たちだという点だけ。
彫りの深い顔立ちや長い手足は明らかに「ガイジン」だし、
2人だけで言い合う言葉は英語がほとんどだったけど、
さすがに日本語も日常会話には充分なレベルにマスターしていて
彼ら自身は「日本では日本人」というつもりでいたりするもんだから、
一緒に街を歩いていたりすると少し滑稽だったな。

他の外国人を見て「あ、ガイジンだ!」はないだろう。お前が言うなと。

そんな彼らと喧嘩すると、英語で罵られたものだった。
一方こちらは難しい言い回しの日本語を早口で捲し立てて対抗したっけ。
おかげで、語学力こそロクに身に付かなかったものの、
言葉が違ったってヒトには大差ない、と体得したのだ。
意味は通じなくても、ある程度の感情は明らかに伝わると確信した。
日本語を扱う中でも、それなりには言外の含みを掬い上げる能力が
身に付いたのは、やはり彼らの影響が大きいのではないかと思う。

日本は島国だから、放っておくと鎖国状態になりがちだ。
最近でこそ大都市や観光地で外国人を見掛ける機会も増えてきたが、
たぶん、まだまだ他の国と比べれば少ないのではないかな。
異質な存在への対応能力も、やはりなかなか育つものではあるまい。
そして、この社会は一昔前まで「総中流」だったのだから、
非中流への対応が下手なのも致し方ないだろうね。
今後の世代では、どう変わっていくのか気になるトコ。

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2008.01.30

主人公論

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あるゲーム制作者のインタビュー記事によると、
「自分は普通だ」と思っている人は、予想以上に多いのだという。
漫画やゲームの主人公なども、その「普通」感覚を
生かして作られているコトが多いらしい。
つまり、共感を得やすい姿というものがあるようだ。

考えてみれば、なかなか興味深い。
実態としての最大公約数ではなく、かくあるべしと思っていたであろう、
いわば想像上の自分の姿の最大公約数を得ると、そういうカタチになるらしい。
たしかに、思春期やプレ思春期頃の少年少女たちは
自らの姿や能力にコンプレックスを抱いているコトが多い。

それを平均化して投影すると、総合的には「おおむね中(の上)くらい」であり、
肉体あるいは知性の面では一つか二つの取り柄(しかも割と地味)がある一方で、
弱点も少なくない(男の子なら力が弱いとか、女の子なら胸が小さいとか)。
また、変な特徴を持つ友達がいっぱいいたりして、その中では特徴が弱い
……とかいうカタチになるらしい。

さらに、そういった基本要素に少しばかり夢のある要素を加えてみると、
ちょっとアホで自ら騒動を起こしたり、あるいは逆に周囲の騒ぎに巻き込まれたり、
ときには目立った結果として何かの企みの標的にされたりしつつも、
そうした山積する問題を得意の一芸と周囲の(主に個性的な連中の)手助けで
切り抜けていく、といった具合になるのだろう。

そういえば、どこかの漫画では、主人公の人物紹介を
「誰とでも絡むが、特徴が乏しい」などとしていたような記憶がある。
ギャグ漫画的には、そういうアレンジも可能だろう。
周囲のキャラが強い個性を持っているような場合は、
平凡な雰囲気でボケツッコミ両用の主人公が使いやすいだろうし。

まあ要するに、そういうコトらしい。

しかし一方で、自らの特性が「普通」から離れているコトを
早い時期から自覚して育ってきた人も、たまにいる。
そういう連中は、長じて「普通ではない主人公」になったり、
あるいは「どっちかっつーと脇役」を標榜したりするようだ。
誰のコトかは、まあ置いとくとして。

自覚していれば、自分のニッチを見付けるのも容易だ。
少しばかり引いた視点から世の中を見渡してみるのもまた一興。
デメリットとしては、「普通」の連中からは異質物とみなされたり、
好奇の視線に晒されたりしやすいといったトコロか。
でも、だいぶ慣れてきた気がするな。不通の人という生き方も。

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2008.01.29

たまには時事ネタ(10) スポーツ政治学

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北京五輪に向けたアジア予選で不公平な裁定が行われたとして
国際ハンドボール連盟が再試合を決定。
しかし、それをアジアハンドボール連盟が拒否したので、
紆余曲折の末に日本での開催が決まった。
そして今日、明日と試合が行われる――。

筋から言えば、「中東の笛」を容認していた
アジアのハンドボール連盟が問題なのだけど、
不公平裁定によって勝利してきた国の連中などにとっては
その問題が微々たる問題、あるいは存在しないコトに
なっているであろうとは容易に想像できる。

だから、「なぜ今になって、しかも日本なんかで」
とか思ってるんじゃないかな。
こうしたハンドボール連盟に関する一連のゴタゴタは、
日本に対する逆恨みの構図を招きかねないのではないかと
ちょっとだけ危惧していたりする。

再試合を決めたのは、言うなればアジア以外のハンドボール連盟の人々である。
アジア人の中でも非アジア人に比較的ウケが良く、経済的にも軍事的にも
「米国の51~52番目の州」と思われかねない位置にいるような日本や韓国が
国際的に訴えたから、その影響力に負けた、といった具合に
特にアラブ系の人々が受け取る可能性もあろう。

そんな意識が日本に対する反感となって表れてこないよう願うのは、
果たして杞憂と言えるだろうか。なにせ逆恨みの対処を誤ると後が大変だから。
それに、スポーツと、カネや政治との関係について、
案外、日本人って疎いような気もするのでね。
あるいは、無意識のウチに避けているのかもしれない。

某都知事に北京五輪開会式の招待状が届いたなんて話題もあったが、
アレも同じような根っこがあるのではないかと思う。
慎ちゃんは「招待状なんて何通も届いてる。
なぜ(北京五輪だけ)話題にするのか」とか言っていたが、
まあ気にする人は気にするものだから報道されるのだろうよ。

スポーツの世界に政治を持ち込んでほしくはないのだけれども、
それは希望であって現実とは限らない。
結びつけて考えたがる人も少なからず存在するのだから、
それなりには留意しておくべきであろう。
ただし、あまり気にしすぎては弊害もあるだろうし、ほどほどにしておこう。

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2008.01.28

たまには時事ネタ(9) それはきっとはきちがい

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あるドキュメンタリー番組の中で、こんな家族が紹介されていた。

認知症になって徘徊を繰り返す年老いた母親を、息子は
「他人に迷惑をかけたくない」として自宅介護を選択した。
息子は一人で介護を試みたが、それは到底無理なコトだった。
大きな病ではないから病院には入れないし、どこの施設も満杯、
介護サービスも受けていないので母親は風呂にも入れない。
息子も「母が入れないんだから、自分も風呂に入らない」とか。

客観的には、何をしているのかと疑問に思ってしまうような行動だ。
とはいえ、この息子は真剣に親孝行をしようとしているのだろう。
単に、本人の期待するコトと実際に可能なコトとが
大きく隔たっているだけに過ぎないのだと思う。
こういうとき、ヒトは得てして現状認識ができなくなってしまうもので
それがゆえに本人や周囲が余計に苦労を強いられたりしている。

それに似たような精神状態は多く見掛ける。
もちろん、シチュエーションは老人介護に限らない。
一般化して言うならば、強い義務感を持った人に多くみられ、
特に家族や友人などに対する義務(と本人が思っているコト)を
なんとか必死で果たそうとすれども、様々な理由で達成できない
といった状況下で、しばしば生じるコトである。

また、学業や仕事などにおいても、似たようなコトはある。
やはり過大な目標やノルマなどの課題を抱えているケースに多く、
結果として鬱状態に陥ったり、体調不良になったりする。
このとき当人は自身の能力不足が原因だと思い込んでおり、
課題を解決できない自分自身を許せないという憤りを自らに向け、
それがより一層、精神や身体の状態を悪化させていく要因となる。

こうなってしまうと、周囲の助力を容易に受け入れるコトができない。
たとえば金銭的な理由や時間的な都合など、様々にこじつけた
「できない理由」を数多く並べ立てて必死に断ろうとするのが一般的だ。
その根底には、「手助けを受け入れたら負け」という考えがあるように思う。
また「援助を申し出るのは自分の不幸を嘲笑う者」と僻む場合もあろう。
いずれにせよ、妙な方向に向いてしまった義務感と自尊心に自ら傷つく。

困った状態に陥ったコトも運命だ、といった具合に考えて
器用に達観できるのならまだ救いはあると思う。
似たような境遇の人のコトを知って、そう思えるようになったりもするだろう。
しかし、達観できる人であれば、さほど深刻にはならないものである。
達観ではなくて諦観、いやそれより失望感や絶望感に襲われたりして
最悪の結果になってしまわなければ良いのだが……。

世の中儘ならぬモノと知っている人は幸いなるかな。
期待通りにコトが運べば予想以上と喜べるのだから。
懐疑的になって手放しで喜べない人は、自ら幸福感を減らしてしまうのが不幸だ。
せめて、自分の弱さを認めるコトができるくらいの強さは持ちたい。
強さも弱さもひっくるめて好きになるコトこそが、相手を真に好くコト。
これは他人に対してのみならず、自分に対しても言えるのではないだろうか。

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2008.01.27

たまには時事ネタ(8) 遅くても、来ないよりはマシ。

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たとえ救急車が救命に間に合わなくたって、それは役に立つ。
霊安室のある病院までの霊柩車になってくれるはずだから。

……のっけから黒い話題で失礼。

最近、特に官公庁で「問題ない」と断言しておきながら、
すぐ撤回するケースが相次いでいる気がする。

法令に照らして問題はない、というコトなのだろうけど、
法令さえ満たしていれば世の中が認めるかといえば、そうでもないってワケで。

民間企業では、もっと前から似たようなケースが頻発していて、
おかげで一部の注意深い企業では対策が練られてきている様子だ。

官公庁では、それがちょっと遅れてやってきているだけなのだと思う。
民間との感覚の乖離というか遅延は、いつものコトだからして。

正直に、かつ国民が納得するような対応ができるようになるための
言うなれば練習ってトコロだと、現状に対して考えている。

せめて、この機会を最大限に活かしてもらいたい。
次の救急車では救命に間に合うように。

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2008.01.26

善くはないが、良くあるハナシ

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最近知ったが、お偉いさん方がお偉いさん方のために
多額の調査費を費やして定期的に出してる経済報告などでは、
今でも相変わらず堅調だとか安定成長だとか書いてるらしい。

いよいよ経済が実際の庶民生活から乖離しているのだろう。
そしてそのことは「その時点の政府」への不満を強めるだけ。
これでは、誰が政権を担当しても支持率下落を止められない。

選挙のたびに主力政党が入れ替わり立ち替わり、
体制だけが変わり続け、実のある政策は何も打てなくなる。
で、人気を博すのは突飛な政策を唱える政治家だったりする。

その政策が今の実状に合うかどうかに関わりなく、ソイツは
「現状を打開してくれる(かもしれない)」という人々の期待感に
上手に乗って、群雄割拠の世の中を見事に統一してくれる。

そのカリスマ政治家の仕事を進めやすいようにと善意で整えられた意思伝達体制は、
しかし独裁を招き、そして政治家は華々しく、しばしば無数の人々を道連れに、
自ら(および取り巻きの)作り上げた体制とともに散っていく。

あるいは独裁カリスマに恵まれなかった国であれば、
国際的な影響力も国内の活力も着実に低下していき
そして「普通の国」が出来上がる。

まあ得てして、黄昏を迎えた国家の運命などというのは、そんな具合だ。

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2008.01.25

理系用語で読み解く社会(17) 誘導加熱

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昔、ある会社で働いていた頃、こんな出来事があった。
オフィスに、樹脂が焦げたような異臭が漂い、皆で原因を探したところ、
ある机の足許にあった延長コンセントが発生源であった。

そのケーブルは、長さが余ったためか丁寧に巻いて束ねてあり、
たまたま接続された機器が大電流を消費したために発熱したとみられる。
見事なまでのコイル誘導加熱現象だ。

誘導されて、というか、つられて熱くなる現象は、ヒトでもしばしば見られる。
「売り言葉に買い言葉」とは、よく言ったものだ。
些細な火種だったりしても、両者仲良く炎を育てている。

火種がどっちからもたらされたかを突き詰めようとすれば
却って混乱が増してしまうから、「喧嘩両成敗」が現実的。
そして結局「両者痛み分け」、3者なら「三方一両損」となる。

ときには、町を歩いているとき、すれ違う人々の会話が聞こえて
ネガティブな感情が流れ込んできたりする。
たとえば周囲に当たり散らしたり、くだらないコトに怒りを示したり。

何というかまあ、見ていて気持ちの良いものではない。
これもまた、つられてしまえば誘導加熱になりがちだ。
むしろ、熱くなってしまうのが自然なヒトの対応かもしれない。

が、それは現実であり、現世に生きる以上、
どれだけ逃げようとも離れられない。
せいぜい酒でも飲んで、流してしまえ。

丁寧に巻かれていた電源コードは、解いて乱雑に放置したら熱も冷めた。
キレやすい大人には、「真面目で几帳面な人」も少なくないという。
杓子定規だの、潔癖性だの、といった性質は誘導されやすいのかもな。

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2008.01.24

電話男

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ある休日、私鉄電車の都心側の始発駅で電車に乗り、
席が埋まっていたのでドア際に立って発車を待っていたら、
背の高いヒョロヒョロした30絡みの男が目の前に飛び込んできた。

その動作に、ちょっと違和感があったので見上げてみれば、
右手でケータイを耳に当てて通話しているではないか。
ただ、左手で口元を抑えているから、一応は周囲を気にしているらしい。

というか、周囲の視線を気にしすぎてオドオドした様子にも見える。
それゆえ却って周囲の注目を集めているようにも思えたりするが、
周囲の乗客は男を気にしつつも、あえて見ぬフリをしているようだ。

ヘラヘラと薄笑いを浮かべたように見える無精髭の口許や、
焦りを示すどころかむしろ弛緩しているような身体の揺れなど、
その男の表情や態度からは、特に切迫した様子は伺えない。

急いでないんだったら電話を切るか
電車を降りて堂々と喋ったら?
とか思ってみたりもする。

さらに後から乗り込んできた家族連れは、
小さな子供たちがハシャいでいるのを母親がしばしば咎めている。
「うるさい!迷惑でしょ!」

そんな様子を目の前にしている男が、果たしていつまで
電車内で通話し続けるのかと少しばかり気になって
じっくり観察していたら、すぐに親子連れは降りていった。

それでもなお男は電話を続けていた。
目は泳ぎ、体の向きは頻繁に変えて、まるでそうすれば
周囲の視線を逸らせるとでも思っているかのように。

モゾモゾと動きながらも続けられた電話は、
隣の県の中規模の市に差し掛かったあたりでようやく終わった。
都心の始発駅から30分くらいだったろうか。

少し離れていたから声は聞こえず、どんな内容だったかは
当然ながら知る由もないが、よくもまあ喋り続けたものである。
電話を切った後、画面をチラリと見たのは通話時間を気にしたものか。

すぐ次の駅で降りてしまったので、その後の様子は見ていない。
もしかしたら、多くの客が降りた後の空いた席に座り、
何事もなかったかのように寝ていたりしたかもしれないが。

これがあのKYてヤツ? それとも新種の何か?

少なくとも、古い日本人が高い確率で持ち合わせていた
何らかの思考要素の一部が、この男には存在しない、
というコトだけは確信したが、それはいったい、何なのだろう。

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2008.01.23

たまには時事ネタ(7) 白い道化師と猿真似観客

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髭とか歯とか、とくれば鯨。

特に鯨肉を好きなワケではないが、貴重な食料と認識している。
だが多くの白人は食わずに脂だけ切り出して捨てていたとかいう。
白人は目の色変えて油というか鯨を追い求めたが、
食うワケではないので他はゴミなのだそうだ。

鯨油を不要にしたのは石油だった。
それからは世界中で石油資源を奪い合うための戦争が繰り返されたり、
石油利権を火種とした政争も頻繁に生じた。
また、石油を大量消費するための機械を無数に作ったりもしている。

最近ではマネーゲームになっていたりもする。
先物取引というマネーゲームの一種が引き金となって
石油価格は記録的な高値を続けるようになった結果、
今度は石油を不要にする技術(まだ不完全ながら)も高く売れるらしい。

カネを出せない人たちは、ただ指を銜えて見てるだけ。
世界という舞台の上で白い顔の道化師が踊る。
彼らは、どんどん新しい場を見付けて、移動しながら踊り散らす。
それが道化師たちのやり方らしい。

ともあれ「オクシダンはアクシダンである」という言葉もあるし、
彼らも反省はしているというコトのようだ。少なくとも一部の人間は。
全ての道化師が、もとから白い顔というワケでもないのだ。
中には、違う色の顔を白く塗りたくって一緒に踊ってる連中もいる。

「日の本の国は火の元である」みたいな言い方だって可能だろう。
最初は白い道化師に負けまいと必死で真似をしていたが、
後には同じ舞台の上で踊る仲間になったりして、
さらには他の道化師や観客たちと喧嘩をしたコトもある。

鯨を食わぬ白い顔の道化師と、鯨を食う道化師もどきの喧嘩は今も進行中だ。
しかし、理由は何にせよ過激派のような活動は頂けない。
公海上の船舶に船長の許可なく勝手に入り込むのは不法入国に似た違法活動。
建築物への不法侵入というレベルではない。

それに、現場の人間たちは職務命令を受けて行動しているのだから、
政府の方針で出発した調査捕鯨船団の乗組員たちは、
たとえば命令を受けてイラクに駐留する兵士も同じようなもんだ。
それに対する妨害行動となれば、イスラム過激派と同じコトではないかな。

彼らは強く否定するかもしれんが、ただ混乱を撒き散らす行為だ。
熱意だけ空回りして、それで憎しみの連鎖を引き起こす。
非常にアタマの悪い行動だと言わざるを得ない。
知恵を使えと、先人たちは口を極めて語っていなかったか。

切迫した考えを抱き、「なんとかしなければ」と
熱意に燃えているコトは容易に想像できる。
ならば日本に来て水産庁の前ででも
シュプレヒコールを上げてやればいいだろう。

その権利は原則として認められているし、
(政治的な妨害を受ける可能性はあるかもしれないが)
南極近海に船を出す費用があるなら、
日本に来るくらい余裕でできるはず。

さて。

チカラに回答を求めるコトは、良くも悪くも自信のなさの
裏返しであるケースがほとんどだ。
そして、「チカラを持たなければ立ち向かえない」と相手に思わせる。
一方がチカラを持てば、対する側もチカラを必要とする。

その繰り返しでチカラのインフレが生じて、誰もが疲弊していく。
少年誌だったら主人公はどこまでも強くなれるが、
まあたいていはヒトなので、すぐ限界に突き当たる。
チカラや運の僅かな差で勝負が決まるコトだろう。

そして何れの側にも悔恨が強く残る。
あるいは両者とも激しく疲労しているトコロを、
様子を見ていた第三者に共々倒されてしまったりする。
チカラを追求した連中の末路は、おおむねこんな具合だ。

世界に対して胸を張っていられるような活動であるならば、
つまり世界に受け入れてもらえるような活動をしているのであれば、
チカラなど持たずとも動けるのではないかと思う。
とか楽観するのは、猿真似国家と揶揄されるコトもある観客の甘い考えかな。

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2008.01.22

口は万病の元

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口腔周辺の怪我や疾病が長引くと食事に支障を来し、ときには生命に関わる。

ここ1~2年ほど、歯肉内から発生しているらしい膿瘍の治療をしてきたが、
完全に潰したと思って暫くすると再発するもんだから、ずいぶんと悪戦苦闘した。
行きつけの歯科医も「ゾンビのようにしぶとい」と言うくらいだった。
その膿瘍の治療中は、上顎右側の奥歯がほとんど使えない状態が続いた。

咀嚼することで脳に刺激が与えられ活性化するとは思う。
右脳左脳の区別がどうなのかは知らないが、
一方の歯でしか咀嚼できない状態が続くと、脳の活性度の
バランスが崩れて精神状態にも影響が及ぶような気がした。

言うまでもなく精神状態の変化は仕事にも影響を与える。
自営業だから仕事の不調は稼ぎに直結する。
数年前、歯を治すカネがなくて放置せざるを得なかった時期なぞ
負のスパイラルに陥ったようにも感じられたものだ。

幸いにして口腔周辺を除けば特段の悪いトコロもないのだから、
歯の1本や2本、さっさと治しておけというのが教訓である。
まあそのためにはカネが必要で、カネのためには働かねばならず、
体調が良くない状態で働くのは非常に大変ではあるのだけれども。

追記
こんなコトを書いていたら、食事中に奥歯が欠けてしまった。
噂をすれば何とやら。また暫く通院が続きそうである。

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2008.01.21

髭伸ばさば

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今年から、床屋に通う頻度を月毎から3週毎にするコトにした。
もともと短髪で、さっぱりした髪を維持するために
散髪の頻度を増やしたいと以前から考えていたのだ。
安く刈ってくれる店なので大した出費増にはならない。

基本的に毎月末に刈ってもらっていたのだけれど、
昨年末には多忙が予想されたので1週間ほど早めに行っていた。
年が明けて中旬まで少し時間的に余裕ができたのが、
まあ良いきっかけになったというワケだ。

髪の手入れに手間を掛けたくないので、小さい頃から、ほぼ短髪で通している。
中学生の頃、試しに半年ばかり放っておいて伸ばしてみたら、
高密度で硬く太い毛髪が伸び放題、ひどい髪型になって難儀した。
なので、それ以来は常に短く刈り込んでいるのである。

年々、ちょっとずつ髪も顎髭も短く刈るようになってきた。
行きつけの床屋で、暑がりだと言うと、
そのたびにバリカンのセッティングを少し短くしてくれたりするのだ。
おかげで、ずいぶんとさっぱりした髪型になってきた。

洗髪してもすぐ乾くから、風呂上がりに寝てしまっても寝癖がつかない。
(いったん寝癖がついてしまうと洗髪しなければ直らない)
ヘッドホンを装着しても髪型が崩れないし、帽子の収まりも良い。
そんな具合に、気楽な中年男である。

髭も、剃らずに刈り込んでいる。
こちらは数年前くらいから。
大学1年の頃に、2週間ほど山に入ったついでに
ちょいと伸ばしてみたら割と似合うので、そのまま。

放っておくと顎髭と口髭だけ伸び、
他はほとんど生えてこない。
それをそのままにしておくカタチで、
ずいぶん長い間、伸び放題にしていた。

顎髭は、放っておくと口にくわえられるくらい伸びる。
今にして思えば、古代エジプトの王家の肖像のような感じでもあったかと
今更ながら恥ずかしくも思ったりする。
しかし、うっとおしいので最近は刈り込むコトにしている。

もともとは顔立ちに自信がないから生やしているとも言えるが、
おかげで特徴的な姿が出来上がったので、まあ悪くはないだろう。
大学で丸眼鏡を身につけるようになって、さらに特徴が強化された。
なんというか、戦前の人たちのような顔立ちかもしれん。

髭は、ほぼずっと伸ばし続けていたが、剃ったコトも2度ほどある。
教育実習に行ったときと、お堅い会社に勤務したときだった。
今後も、もしかしたらそういう機会があるかもしれないし
あるいは気まぐれで剃ってしまうかもしれない。そのへんは未定。

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2008.01.20

矛も盾も壊れる

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さまざまなシキタリの発明の背景には、
しばしば苦渋の選択があったのではないかと思う。

例えば双子が生まれた際、一方を間引きするなどのシキタリも存在した。
両方を育てるにしても、先に生まれた方を弟にするなど、常とは逆の措置もある。

普通の兄弟姉妹なら1年あまりの年齢差があるので上下の序列は明白だが
双子では差異に乏しい。同性ならなおのこと。

さらに男の双子となれば家父長権の奪い合いもあり得る。
オスが群れのボスとしての権力を争おうとするのは野生の本能。

だが、能力が拮抗していれば容易に勝負がつかず、争いは激しくなる。
序列を決めようとする過程で血を見る危険性も高まる。

それが個体間の戦いだけで済めばまだしも、群れを二分するような争乱にまで
発展してしまったら、ヒト集団全体が危機に陥ってしまう。

そうした将来の危険の芽を摘む為に、あらかじめ一方を間引いておくか、
さもなくば強制的に劣位として育てる方法が発明されたのではないか。

それは当然、近現代西欧風の思想から言えば人権侵害となろう。
そうでなくても、間引かれる(or劣位とされる)側にとっては悲劇だ。

ヒトの下に見られたヒトは下に立つヒトになってしまう。
最初から、そのために優先順位をつけて育てるというワケだから。

こういうシキタリを野蛮な必要悪的慣習だと言ってしまうのは簡単だが、
しかしヒト集団全体を中心とした観点からみれば、
全体に及ぶ悲劇を避けられるという意味において望ましい選択でもある。

野生のヒトにとってみれば、まず自らの個体生存、
次いで自らの所属する集団の存続、それから他の個体の生存を
重視するのだから、大きな間違いではないはずだ。

ただし、ヒト集団の中では関わりを持った他の個体に対する親愛の感情も強い。
感情を紐帯の一要因として集団形成に用いてきたのがヒト種だから、
集団の中からヒト個体が欠損するコトは常に悲しみを伴うものである。

詰まるところヒト種の中に存在する矛盾点を突いたような選択というワケだ。
どちらを選ぼうと苦痛に至るという点も、
どちらかを選ばねばならないという点も。

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2008.01.19

日はまた沈む

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世界中どこかで紛争がある、という状態が慢性的に続いている。
それを見ている日本人は、かなり平和な中で暮らしている。
最近は「安全と安心」が脅かされているとやらで、徐々に実感が出てきて
いるようだが、まだまだ傍観者気分の方が強いんじゃないかと思う。

大雑把に類似を探すなら、大戦期の連合王国みたいな感じかなあ。
経済的には合衆国が急成長して追い抜かれていったトコロだったはずだし、
それでも世界中に経済利権を持っていたから表面的には大きな影響力を誇り、
そろそろヤバイと感じつつも人々には平然とした雰囲気があっただろう。

でも沈む勢いは、よほどのコトがない限り止まらない。
多くの場合はゆっくりと、しかし確実に衰えていく。
ときには傑出した人物が現れて「中興の祖」になったりする例もあるが、
そういうのを期待するのは、神風が吹くのを待つようなモノであろう。

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2008.01.18

たまには時事ネタ(6) 瞑想告解

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年越しとなった臨時国会が終わって、今度は通常国会が始まる。
どうせ例によって喧々諤々侃々囂々するのだろうと思うが、
議論がどんどん大仰になっていったり専門用語が並べ立てられたりしていて、
おまけに見ていて嫌気が差すような敵意のこもった皮肉などもあり、なかなか要点が見えない。
詰まるトコロ、政治家みたいな仕事は、そういう世界に入り込んで
きちんと勉強していないといけないというコトなのだろう。

だからかね。二世議員が目立つのは。
そもそも経験を積む機会のない者は、その仕事に就く資格がないような感じで。
こうして世襲制が作り上げられ定着していく。そういう構図だ。
しかし世襲制が続けば、どうしたって隔絶された世界が出来上がる。
つまり政界というのは、放っておけば庶民に縁遠いモノとなってしまうような
困った性質を内包した存在なのである。

たしかに今のご時世、政治という世界に魅力や“やりがい”を感じる人など多くないのかもしれぬ。
ハナシは変わるが、儒教などは、統治を容易にするための道具でもあるらしい。
だから古代日本は必死になって輸入しようとした。他の宗教も政治の道具になった。
そういった道具を採用したのは、国内の統治を強化し国力を高めるため、
そして軍事力を充実させ国際的交渉力を強めるため。
などと考えてみると、政治の世界も知的好奇心をそそるかもしれないのだけども。

世界を変えると信じて行動してきた人は無数にいる。
しかし、その結果を出せた人は、きっと多くはない。
そこまで行かなくてもいいから、せめて参加してみたいと思うのは自然なコトだろう。
さらに、あわよくば僅かであれ何らかの影響を及ぼしたいはず。
世の中の全員の向かう先が議会であるはずはないけれど、
投票所に行った感触くらいは味わえないものか。

そういえば、海外では財界で成功してから政界に転じる人も多くて、
最近では大手企業経営を経て大統領になった人も出てきているくらいだが、
日本では国会議員クラスまで含めてみても多くないのではないかな?
きちんと仕事していれば芸能人や作家上がりでも評価されているのだし、
そういう連中も含め、いろいろな出自の人間が、もう少しくらい議場にいても面白かろう。
あとは、せめて分かりやすく議論してくれたらいいんだけどなあ。

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2008.01.17

謙虚な王子様たち

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ここ数年、高校生やプロデビュー直後くらいの若いスポーツ選手を見ていると
謙虚な姿勢を崩さずにいる人が目立つように思う。
気のせいでなければ、のハナシだが。

特に注目されるのは、日本生まれで日本育ちの高校生。
しかも高校では体育会系の部活で活動している若者たち。
共通項としては緩い条件だが、それでも括れるポイントがある。

間違いなく、ゆとり教育を受けて育った若者たちなのだ。

ゆとり教育の弊害なども取り沙汰されているが、
子供をのびのびと育てる効果は間違いないだろう。
そこで育った若者たちは、一般的に言ってハングリーさを持たないとされる。

もちろん、「王子様」たちは、もとより素質のある子供だっただろう。
そして部活はもちろん、学校以外でも様々な教育を受けているであろう。
能力を開花させた素地、素質とは、教えを謙虚に受け入れるコトではないかな。

だから、ゆとり教育の背景にあった考え自体は、評価して良いのだと思う。

某東京都知事が「最近のスポーツ選手たちは気楽そうで嫌だね」(超意訳)なんて
言ってたそうだが、要するに真剣さが感じられないと言いたいのだろう。
でも実は彼らも非常に真面目だ。きっと、悲壮感など持たぬのが良いと学んでいるだけ。

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2008.01.16

半生紀(14) その根底にあるのは複雑なコンプレックス

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どうも幼い頃から劣等感が強かったように思う。

例えば、もともと小柄で運動能力が低い上に、
少し年の離れた兄たちがいたりするもんだから、
喧嘩はもちろん口喧嘩でも勝てるものではなかった。

姿カタチも、特に可愛げがあったり格好良かったり
というコトはなく、どちらかというと地味だった。
声だって、贔屓目に見ても美声というには程遠い。

勉強は、義務教育時代には随分できた方だったが
それは単に大量の本を読んでいたからであって、
高校あたりからは中の上程度でしかなくなった。

まあ要するに何の取り柄もないというワケだ。

そんな感じで、何か勝負をして完璧に勝てる
などという自信を持つコトは全くないまま
成人して社会に出て働いたりしてきた。

会社に入っても、少数の同輩後輩を除いては
やはりベテラン揃いに感じられたものである。
そんな職場から、何度となく追い出されたので余計に。

ほとんど常に勝てない側の立場だったから、
それゆえ強く本能的に反発して周囲と衝突した
というケースも少なくない(いやむしろ多かったかも)。

ある意味で、ヤケになっていたのかもしれない。

しかし、自分が最低だとは思うコトはなかった。
(もちろん最強だなどとは夢にも思えないが)
むしろデキの悪い割には救われているとさえ感じる。

以前にも書いたが、高校生の頃あたりからは
周囲に後輩が集まってくるようになっていた。
「面白い先輩だ」と思われたか、割と自然に。

大学に入っても同様だったし、社会に出てからも
やはり後輩たちに、けっこう頼られたりしている。
その理由の一つには、強い劣等感があるのだと思う。

論拠は、2点ほど挙げられるだろう。

まずは、後輩たちには厳しくできないという感覚がある。
上下関係を押しつけたりしても、どうせ恨まれるだけだ。
他の先輩が厳しくしたりしてるから、余計に。

それからもう一つ。こんな考えが常にある。
「彼らの方が優れている部分も少なくない」
その点を、半ば無意識のうちに尊重しているらしい。

劣等感が強すぎるのも困りモノではあるのだが、
自信や利己心が過剰な存在は、特に周囲が困る。
そんなの、飽きるほど見てきたから、もういいよ。

だから劣等感を持つ相手に厳しくするコトはできない。

「良くも悪くもヒトは環境が育てるものらしい」
いろいろ紆余曲折を経てきた人生の中で、
そんな考えを持つようになってきた。

自信過剰な人が失敗して痛い目を見たときには、
そりゃ少しは「ざまあみろ」と思ったりもするけれど、
「良い経験になったのではないか」とも思うのだ。

今まで失敗する経験ができなかったのだから、
そのコトが、むしろ不幸だったと言えるはず。
哀れに思う気持ちが強く、嘲笑するコトはできない。

劣等感を裏返さず複雑に積み上げた、というトコロかね。

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2008.01.15

理系用語で読み解く社会(16) そのときそれが大事だとは思わないから捨てる

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企業で寮生活が見直されつつある、というニュースをどこかで見た。
集団での生活は、たしかに最近の若い連中には経験のないコトだろうな。

寮生活を通じて「気の置けない信頼関係」を作れるのなら、それはそれで良い。
良い意味で、日本的な職場内の人間関係を構築するにも役立つだろう。

関連して、「社員は会社の資産。コスト源ではない」とかいう発言もあった。
その言葉の意味するトコロを改めて考えてみて、ちょっとゾッとした。

昔から会社の資産といえば「ヒト・モノ・カネ」の3点セットだったのだから。
(そこに最近は「情報」が加わったりしているようだ)

一時期は本当に「ヒト」が忘れられかけていたワケだ。
意外に思った。まさか減ったりはしないだろうとタカを括っていたのだろう。

ようやくバブル前後の混乱で見失ったモノを思い出し始めたのが最近の日本。
さまざまな場面における人間関係を改めて見直す努力も、これから必要になってくる。

しかし、いったん捨てたモノを取り戻すのは、初めて得るよりも難しい。
それは退化した生物の例をみるまでもないだろう。

退化した器官ないし機能を取り戻した生物の例は、寡聞にして知らぬ。
だが、失ったのと同じような機能を別の器官が進化して補ったケースはある。

だから昔と同じカタチにはならないだろうね。
まあ時代が変わったのだから、人間関係のカタチも変わって当然だが。

そしたらまた古い何かを捨てて、新しい何かを得ていくだけ。
ヒトに限らず生物ってのは、その繰り返しだから。

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2008.01.14

たまには時事ネタ(5) 二代目の法則

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団塊ジュニア世代を中心とした非正規雇用の人たちについて、
ワーキングプア支援団体の人がコメントしているのを、どこかで読んだ。
大意、団塊世代などとは置かれた社会環境が違う不幸な世代だという。
いろいろと思い当たるフシは多い。
勿論、環境だけが悪いなどというつもりではない。
その環境はヒトが作ったものなのだから、ヒトの所為でもあろう。
「神のものは神に、ヒトのものはヒトに」というトコロだな。

団塊ジュニア世代の多くは就職氷河期に巻き込まれた世代でもある。
フリーターだったり派遣だったりの非正規雇用という比率も高いし、
ニートだの引き籠もりだのパラサイトだのと言われるのも、この世代に多い。
ただでさえ今後の日本経済は成長が見込めるかどうか怪しく、
だから企業は「手軽に使い捨てられる」非正規雇用で乗り切ろうと必死。
会社員としてスキルを取得するようなチャンスもないまま
その皺寄せを受けているのが団塊ジュニア世代だという。

一方、彼らの親たち、すなわち団塊世代の多くは、
自らの将来に希望を持てたから、頑張る気力があった。
安保問題などで日本の将来に懸念を抱いたりもしたと思うが、
実際、経済的には高度成長が続く中で社会人として生きられた。
それなりに蓄えがあるし健康だから、年金不安や社会情勢不安などはあるものの
当面は安定して生きられる見通しがあるし、そういう基礎を築いた自負もある。
が、それと同じコトを子供たちの世代がなぜできないのか、理解できない。

そんな団塊世代が作った環境が、団塊ジュニア世代に影響を及ぼした。
団塊世代が悪いとは言わない。否、言えない。
なぜなら団塊世代もまたその前の世代が作った環境によって育ち、
社会に出て活動した結果として、この環境を作り出していったのだから。
長期的不利益より短期的な利益を重視するというヒトの特性もある。
団塊世代の頃は彼らが主人公となり得る場が整っていたもんだから、
たまたまそれが強く社会全体を覆ったのではないか。

団塊世代は戦後日本と共に育った、いわば初代。
彼らの意識無意識が、日本の社会を方向付けたと言えるだろう。
しかも様々な周辺事情があって、彼らの行く先には断続的な追い風が吹いた。
短期的利益を考えれば、追い風に乗って走り続けようとするのは当然。
そして追い風が途絶えたのは、たまたま彼らが息切れした頃であった。
長期的不利益を見落としていたコトに、ようやく気付かされた。
二代目となる団塊ジュニア世代に残すべき大事な何かを忘れていたのだと。

それに関連して、こんなコトを書いている人がいるのを思い出した。
「こどもの成績を良くしようと思ったら、塾に通わせることより親が貧乏するほうが良いようだ」
(「中島飛行機物語 ある航空技師の記録」前川正男/光人社NF文庫)
大正生まれの著者は、学費に困る親のために猛勉強をして特待生となったそうだ。
しかし、単に勉強をしただけでは身に付かぬような、物事に対する観察力や文章の構成力
なども持ち合わせているから、もともとの素質も良かったと見受けられる。
とはいえやはり、学費についての悩みが頑張る直接のきっかけとなった。

振り返ってみれば、団塊ジュニア世代あたりが育った時代には「総中流」で、
耐えきれないほどカネに関して悩むコトなど皆無に等しかったのが普通の家庭だった。
「子孫に美田を残さず」とは、まさにこのことか。
ジュニアのさらに次の世代にはワーキングプアの家庭に育つ子もいるだろうけど、
でも彼らがハングリーになって勉学に励むかどうかは、正直に言って期待薄だ。
頑張っても報われるかどうか、希望を持てない今の社会のままであるならば。
そりゃもう、「三代目は家を潰す」ってワケで。

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2008.01.13

経験則の継承の断絶

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ヒトの知識や経験というのは、
明示的に伝えられるコトも多いが、
暗示的に伝わるコトも少なくない。

まだまだ教育というテクノロジーは発展途上で、
前者の経路だけでは、完全というには程遠い。
だから実は後者の方法が非常に重要だ。

例えばヒトの動かし方なども、単なる教育だけでは身に付かない。
何かのプロジェクトを動かすとき、小規模と大規模とでは勝手が異なる。
進め方や、進み具合を把握する方法、その他いろいろと。

そういったコトを実感する余裕もないまま、
つまり社会人になりきれず過ごしてきたような
「最近の若者」も多いのではないだろうか。

また、社内の肩書きの上下関係や先輩後輩関係、
肩書きに応じた仕事内容などに関する認識も、
どれだけの「最近の若者」が持っているか。

昔の大企業のサラリーマンなどでは、そういう経験も積めたであろうが、
雇用情勢が激変し、就職氷河期を経て非正規雇用が当然という社会しか
知らずに生き続けている団塊ジュニア前後の世代では、そうもいくまい。

将来的に経験する可能性も、今のままでは低いと言わざるを得ないから
この先を見てもスキル修得など期待できそうにない。
経験する環境がないのだから、できなくて当然。

ヒトの世の中、「今時の若者は」と苦言を呈する年寄りは常に存在した。
おそらくヒトが言語コミュニケーションで社会生活を確立させた頃からずっと。
そして今後もヒト社会が存在し続ける限り、ずっと。

あるいはヒトが、暗黙知を完全に駆逐できるまでになれば変わるかもしれない。
が、それはヒトでなくカミサマの領域ではないかと思うので、
やはり無理なのだろう。

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2008.01.12

理系用語で読み解く社会(15) 泡沫が弾けた巨大な衝撃は

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日本の経済氷河期への道筋は、就職氷河期から続いているように思う。
非正規雇用が当たり前となって地道に働く意欲を促進する職場が少なくなり
自発的に頑張って働けるような環境に恵まれた人の割合は、確実に減った。

良くも悪くも環境は人を育てるものだ。
それまでの概念でいう社会人としての生き方を否定された若者たちが
世に溢れるというコトも、就職氷河期は意味しているのである。

いわば生育環境を破壊されたようなものだから、生存を賭けて必死になる。
新たな環境に対して、さまざまな形に適応しようと人々は無意識に試みた。
ちょうど登場してきたネットへの依存なども、その一つの形態であろう。

あの氷河期が始まってから、早くも干支は一回りを過ぎた。
その前のコトは、もう一昔以上も前だから、氷河期以前に大人だった人たち
だって、さすがに心理面でも今の世に適応しつつあるはず。

そして適応し始めて、ようやく氷河期の影響の広さ大きさが
皆の実感として理解されるようになってきたのではないかな。
さてそれでは、これから社会はどうなっていくのか。

生物の進化も、環境の変化に伴って一挙に進むコトがある。
まず爆発的に多様な変種が登場し、周辺の環境に適応するカタチを探る。
その後、環境に適合できた種が淘汰され残る、というのが一般的な流れかと思う。

となると、次はそろそろ淘汰が始まる時代かな。
言われてみれば、そうかもしれない。
ここ数年、ずいぶんと多くの企業が社会的制裁を受けたりしてるもんな。

そして、大絶滅を乗り越えて新たな日本の環境が安定してくれば、
そこに適応した新たな企業やヒトのあり方が徐々に定着していくのだろう。
まあ日本全体が絶滅しなければ、のハナシだけれども。

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2008.01.11

誠に遺憾ですが、環境と貴方は変わるものです

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ヒトが環境に影響されやすい生物だというのは、昔から多くの人が指摘している。
ところが面白いコトに、それを承知していながらも、自分自身に関しては
「私は変わらない」などと言う人が、これまた結構いたりする。
そういう方には、屁理屈を捏ね回すようで恐縮だが、こう申し上げておこう。
「貴方が変わるという点だけは、間違いなく変わらないだろう」

それはそうと、ヒトは環境を変える力も持っている。これもまた、よく言われる。
その環境とヒトとの相互関係は、例えば地球レベルの気候であったり、
国家レベルの地理地勢や政治宗教経済そして世論、
もっと小さな地域社会や家族親族レベルでの人付き合いまで、
ありとあらゆるスケールに及んでいる。

変化し続ける環境の中で、もし一人のヒトが変化せずにいるとなれば、
代わりにそのヒトと環境との関係は変わらざるを得まい。
いくら中身を変えずにいたとしても、他の人から見える姿は変わるだろうし。
そう思ったから、肩肘張って変わるまいとするよりは、
「変化し続けるコト」を変わらず維持しようと心掛けている。

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2008.01.10

寒いからといって動かなければ、余計に身体は冷え込むのである。

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今の世の中、何につけても夢がなくなっているのだろう。
誰でも成功のチャンスがある、という感覚があれば、
その夢を追うコトも人生の目的として大いに役立つ。

たとえ誤解による夢であったと後に知らされるとしても、
ある瞬間に心から信じるコトができるのであれば、
それは間違いなく夢の中に現実感を持って存在する。

つまるトコロ、人が夢を持つに足るだけの空気が
社会の中にありさえすれば良いのだけれども、
今の世の中では人々の吐息は溜息でしかない。

「溜息を吐いたら幸せが逃げちゃう」と、
自分の溜息の後に必ずといっていいほど言う女の子がいる。
その事実が分かっているだけ、まだマシな方なのだと思うけどね。

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2008.01.09

理系用語で読み解く社会(14) ヒトはヒトの下にヒトを見る

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「頑張っても結果を出せなければヒト以下」
という扱いが企業内で普通となって何年経ったか。

結果的に日本は頑張らない人ばかりの世の中になった気がする。
頑張らなくても結果を出せる人は当然ながら頑張らないし、
頑張っても結果を出せなかった人は頑張る気になれない。

でもって、みんな頑張って仕事してないようなサービス業だったら、
利用する側の誰もが不満を持つのもまた当然てワケだ。
頑張りが感じられなけりゃ、客も結果でしか評価しない。

すなわち、客から見ても「結果を出せないヤツはヒト以下」と。
日本経済の寒冷化を強く促進するアルベド効果だな。

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2008.01.08

一緒なのは良いコトですか

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「みんながやってるから」
ポイ捨て、いじめ、環境問題などの文脈では、
そういうカタチでの大勢への迎合が良くない考えとされる。
一人で動くコトの勇気を持て、と言われる。

「みんなが持ってるから」
子供が親に何かをねだるときに使う言葉はこうだ。
似たような用法として、自治体や企業での横並び戦術とか
軍事関係で兵器を調達する際にも使われたりする。

「みんな頑張ってるから」
逆に、親から子供に努力を強いる際に使うと、こうなる。
みんなが勉強してるんだから、しなさいというのだ。
落伍したくなければ必死になれと。

「みんな持ってないから」
こういうのは、コレクターには堪らないコトバだ。
そういう商売を作り出すのが上手な会社も、たまにある。
だけど手軽にロゴ違いを作ったりするだけでは、飽きられるよ。

「みんなやってないから」
そこに新たな商機があるとか市場があるとかいう企業もいる。
で、新たな市場を作り出して荒稼ぎしたりしていると、
後で社会問題だの何だのと言われたりするが、それはそれで。

「みんな間違ってるから」
と、勝手に動き出す人も世の中にはたまにいて、
本人には善行のつもりが、周囲には迷惑になるケースもある。
コレはこれで難しい問題だ。

「みんな、生きてるから」
それぞれバラバラな方向に向かってみたり、
あるいは同じ方向に向かって競争してみたり
手助けし合って一緒に進んでみたりする。

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2008.01.07

遠回しに言うと、近道かもしれない

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理解するって、どういうコトだろう?

特定の個人やヒト集団に対する理解としては、
同じ言葉で語れる、すなわち相手に伝わるカタチで
同じ立場・同じ心境に立っていると証明できる状態
といった意味に捉えている。

もっと言えば、その相手から自分がどのように見えるかを
好都合な点も不都合な点も全部ひっくるめて把握できるコト
なんかも大切ではないかと思う。そのギャップに気付くには、
「己を知り敵を知る」必要があるから。

自分を相手に伝える努力などをするコトは、
自分自身を理解するだけでなく相手を理解するのに役立つ。
相手に伝わるコトバを見付けるには、
相手を知らねばできないから。

いったん異なる世界を見て戻ってくるような体験を経ると
自らの置かれた立場を理解する助けになったりするのと同じ。
自分の側からの理解には、しばしば期待値が含まれてるけど、
外側からの理解には、また違った誤差が含まれている。

その誤差が最小になるような点が見つかれば、
おおよその本質を突いたポイントとして代用できるかもしれない。
それでも誤差は常に残るが、そもそも相対的な動きの中での差だから
修正を繰り返していく以外に方法はないのだとは思う。

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2008.01.06

面倒だから全部持ってけ

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理系文系両方の素養が重要だ、などと聞く機会が多くなってきたように思う。
しかし、本当に両方の視点を体得し、常に両立できる人はどれだけいるか。
実は、それを可能にした人、できる人が限られているからこそ言われるのかもしれない。

とはいえ、世の中にいるのが能力のない人ばかりだとは思いたくない。
むしろたぶん、多くは理解するコトを放棄しているのではないかとも思う。
そりゃそうだろう。いろいろな概念を脳内に構築するにはエネルギーが必要だ。

この問題は文系理系に限らず、あらゆる分野で生じているように思う。
「文化系と体育会系」とか「論理と感性」とか「科学と宗教」とか「聖と俗」とか、
要するに一般的には対立的概念と言われるような関係なら、だいたい何でも。

いや、こうした努力の放棄こそが本来のヒトの性質なのかもしれない。
生存のためのリソースを節約するには、自らの脳内にない考え方を知って
身に付けていくために必要となる多大なる労力など惜しむべきなのだろう。

実際、ほどほどに乾季と雨季が入れ替わり立ち替わり訪れる豊かな自然環境の中で、
主に少人数の家族や群れの単位で生活を続けてたりするのであれば、
つまり他のヒトとの接点が限られるならば、まあその方が良かろう。

まあしかし、ヒトの生存環境は常に一定というワケではないし、
むしろ今の世の中には非常に多数のヒトがいてその接点もほぼ無限。
そこから言えるのは、意見の相違の可能性も無限に近いってコトだ。

思考リソースをケチって理解しようとする努力を惜しんだ結果、
さまざまな紛争の種を蒔いて育てているようでは、どうかな。
現代社会では、ヒトの遺伝的な特性に反するような行動も必要なのではないか。

で、そんな考えをしている時点で「理解しようとする努力を放棄する人々」を
理解しようとする努力を放棄しているのではないかと思って反省してみたりする。
そんな理解と無理解の関係については、どのように把握すべきか。

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2008.01.05

科学系ヨタ話(5)  技術を使う人の中の壁

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とある情報セキュリティ系の技術者向けカンファレンスで、
「社会的背景を意識した情報技術が求められている」
という主旨の講演があった。

得てして技術者というものは、好き勝手に興味の赴くまま
あれこれと考えるものである。だが、その方向性が社会から
離れて独りよがりになっていては、せっかくの技術ももったいない。

それを言うために、講演者は技術者のコトバで、
具体的な例を交えつつ、長い時間をかけて語った。
技術者の自主性を尊重しつつ、諭すような話だった。

技術者でも、そうでなくても、決めたのが自分であろうと
他人であろうと、結果的に「やらされている」感覚に陥って
しまったら駄目なのだ。

特に、このセミナーに集まる連中は、そういう傾向が強いと思われる。
だから「やってやる」感覚になってもらおうとしたのだろう。
こういうハナシのできる人は、他人を使うのが上手だ。

結局、こういうことなのだろう。
技術者だけでなく、技術者を使う人も育てていかなければ、
技術立国というカタチのクニは作れないのではないか、と。

いわゆる文系の人間にも、技術の文脈を読み書きできる能力を
身に付けてもらって、理系の連中と上手に付き合ってほしいな。
文化の壁ってのは得てして自ら心の中に作ってしまうものだから。

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2008.01.04

1年の計は夜明け前にあり

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方位角118°の方向に開けた場所を探して多摩川まで来た。
立川近辺の多摩川は、ほぼその角度で流れている。

昨年は日野橋の下で狙い通りの日の出を見たが、対岸に
小さく見える建物のトコロから昇る太陽に残念な思いをした。

そこで今年は少し上流、多摩大橋の下から狙うコトにした。
中神駅から20分ほど歩くと、初日の出を待つ人々が集まっている。

年に一度のシャッターチャンスを待つ地元の写真愛好家たちが
思い思いの場所に三脚を据えて望遠レンズの放列を構える。

徐々に空が明るくなり、同時に空気も冷え込んでくる。
日の出の時刻は、気温が最も下がる時間帯でもある。

ここでも対岸には幾つかのビルが見える。
そのビルの向こう、遙か遠くの雲が赤々と縁取られていく。

「あのビルの、ちょっと右側あたりかな」隣の男が言う。
今年は、なんとか建物を回避できるようだ。

「まあビルの上から昇る初日というのも、それはそれで悪くあるまい」
そうは言うが、こちらは望遠レンズではないのでね。

「お、出てきたぞ」誰かが言う。
不規則に縁取られた雲の輪郭の一箇所が、膨らんで光の束になっていく。

それが「各自対空撃ち方始め!」の合図だ。
周囲から一斉にシャッター音が響く。

少し離れた場所から「カメラが迷ってシャッターが切れない」と声がした。
強すぎるコントラストに露出計やAFセンサーが正常に働かないのだ。

露出も焦点も手動で狙うのが基本だ。
しかし、急激に強まっていく光の中で、肉眼露出計も狂わされてくる。

ファインダー越しに網膜に焼き付けられた太陽の残像が幾つも見える。
太陽が完全に地平線から離れたあたりで対空砲火は途絶えていく。

写真を見返せば、太陽の左側には建物と高圧鉄塔が目立つ。
少し下流の対岸から狙えば、ひょっとしたら大きく避けられるかもしれん。

隣のオッサンによると、もう少し上流の拝島橋あたりも悪くないらしい。
来年は、そのあたりを狙ってみるかな。

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2008.01.03

たまには時事ネタ(4) 無能細胞

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組織細胞から脱分化させて作った万能細胞は、さまざまな細胞に
変化でき、組織を作れるため、再生医療などに役立つとして期待される。
それを作り出すコトに成功したという研究成果は、
昨年の科学系ニュースの中でもひときわ注目を集めたものだ。

そして昨年末の「復活折衝」において、この万能細胞に関する研究を
支援するための予算が認められたなどというニュースも目にした。
国際競争力を云々すると言いつつも復活予算という扱いなのは、
実際には成果が出たから慌てて認めたというトコロだろうか。

こういう分野では、日本国政府は予算を出してもいいが、最先端を走る人たちを
後押しするだけに留めるのが無難なのだろう。少なくとも今の政府においては。
もし今の政府が舵を握ったら、最前線の人たちには迷惑なのではないか。
だから現状では、これでいいのかもしれない。とはいうものの……。

特に最近、政府に限らず日本中が右往左往しすぎてる感が否めない。
混迷の時代に翻弄され向かうべき先を見出せず思い悩むばかりであるようだ。
そも日本は昔から場当たり的、戦術戦法精神論頼みの風潮があると思う。
ビジョンや戦略を明確に立てず進めた結果、投資を無駄にするケースも少なくない。

しかも、そういう戦略的思考能力を鍛える教育も一向に行われないし、
組織体制も戦略的視点のないままに構築されているので、たまに一部の人物が
戦略やビジョンを持って加わっても、活動を強く阻害されてしまったりする。
要は、もっと知恵の働かせようがあるはずだのに、かなり重要なトコロが足りないのだ。

いずれ各論に触れる機会もあろうが、今回は象徴的なハナシを一つ。

先日、ある医師と話をする機会があった。
その医師は大きな病院で電子カルテシステムの構築や業務改善に携わる中で、
国主導のデータ標準化作業が全く機能していないのに気付いた、と驚きを込めて語った。
理屈の上では、標準を用いればシステム構築費用を大幅に抑えられるはず。

実際、その医師たちは、国が進めている標準化作業の成果を採用するつもりだった。
が、試してみたところ、とても現場では役に立たぬモノだと分かったのだそうだ。
国の標準規格は、言うなれば骨抜きにされていたのである。
その骨抜きをしたとみられるのは、一部の医療関係の業者。

彼らは標準化作業に深く関わりつつ、そこで抵抗勢力となっている。
データが標準化されれば、病院にとって業者の入れ替えが容易になる。
要するに、彼らは囲い込んだ顧客病院を手放したくないのである。
(過当競争がサービス品質の低下を招くという考えもあるようだが)

一方、会議で手綱を握っているはずの官僚たちは計画の進捗を把握できていない。
医師は、ある官僚から「できていると思っていた」と言われたそうだ。
どうせ2~3年で異動になるからと、腰掛けの仕事をしているのか。
また、そのせいで業者からも甘く見られているのではないか。

官僚の生態は詳しく知らないが、ポストを転々としながら昇進を重ねると聞く。
たしかに、頻繁な異動は組織内個人の不正の防止に役立つだろう。
しかし最近では、むしろ組織内集団や組織ぐるみの不正が目立つ。
いくら個人を異動させたところで、その不正は減らせまい。

異動後、万能細胞の如く置かれた立場に素早く適応してくれれば良いのだが、
しかしヒトがそんなに短時間で新しい環境に適応できるだろうか。
かつての、社会の変化が緩やかだった時代には、それでも良かったかもしれない。
だが今の世の中は変化が激しすぎる。間に合わなくなっているのではないか。

さらに言えば、個人的な不正を抑止する仕組みなら民間企業で
相当な工夫が重ねられており、それなりに成果を上げている。
一部の企業では経営層の不正を監視する試みだって行われているから、
次官級の不正だとて、ひょっとしたら抑止できるかもしれん。

だから官公庁にも同様の仕組みを作ってやればいい。
それは組織が世間から信頼されるようになるための戦略の一環だ。
そういう不正防止策を可能な限りに講じた上で、職員一人ひとりが
きちんと能力を発揮して結果を出せるような人事戦略を練るべきである。

忘れてはいけない。官公庁の存在意義は社会への貢献にある。
世の中からは「何ができるか」でなく「何をしたか」で評価される。
今や民間企業でさえ「不正をした」となれば社会的制裁を受ける時代だ。
公的機関なら、税金を食ってる分だけ余計に成果を出すべきではないかな。

さて。

万能細胞というのは、分化して組織に適合して初めて役に立つようになる。
適応できなければ、組織の活動に寄与するコトもできず、無能なままだ。
しかも、もしかすれば間違った適応をして悪性新生物と化してしまう危険もある。
そういうリスクを乗り越えて万能細胞を活用するには、やはり無能ではいられまい。

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2008.01.02

押しても駄目なら引いても駄目かも

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先日、買い物を済ませた帰りがけに軽く食って行こうと蕎麦屋に寄った。
と、向かいの席に座った若い男が、いきなり苛ついた口調で喋り出す。

「ごめんって言ってるだろ!」とか、「わかったって言ってるだろ!」とか。
こういうとき一瞬、誰に怒鳴っているのか気になるが、やはりケータイ相手だった。

言葉そのものは謝っているのに、どうみても口調は怒っている。
そのギャップに、蕎麦を吹き出しそうになるのをこらえて聞いていた。

が、途中から急に哀れを催し、笑うどころの気持ちではなくなった。
電話の向こうにいるのは恋人か妻か、あるいは友人か後輩か。

いずれにせよ、彼は電話の相手を自分より立場の低い存在としている。
口ではどう言ってるか知らないが、無意識下の序列でそうしているのだ。

謝るという主旨の発言をすれば自動的に受け入れられると彼は認識している。
でも何故か微妙に相手がゴネていて、それが気に入らないので語気を強める。

当然ながら、言葉と裏腹な口調に相手が納得するはずもない。
だから男は、さらに強く言う。その正のフィードバックは、そして破綻する。

「悪ぃけどさ、蕎麦食ってるんだよ。そんな用事ならメールにしてくれ」
挙句、放り出した。だったら最初から電話しなけりゃ良かったのにね。

男は電話を切り、そそくさと蕎麦を食って出て行った。
あまりに早かったから、ひょっとしたら残していたかもしれない。

全てを裏目に出す行動パターンの典型を見たようだ、と
ゆっくり蕎麦を味わいつつ思う年の瀬であった。

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2008.01.01

地を這うわい

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ときに周囲から「浮世離れしている」と表されるコトもあるが、
この実体は褐色矮星みたいなもんで、光り輝きもしないし、
さりとて重力特異点のように強烈な引力を持つワケでもない。
ただただ静かに燻っているのみ。むしろ地を這う存在のようでもある。

全く逆に、宙を漂い続けているような雰囲気の女の子がいて、
ときたま会って話をしたりしている。
先日、「気付けば日頃から空ばかり見ている」と彼女は言っていた。
一方の目は先天的に視力が低いが、星だけはよく見えるともいう。

彼女と話をしていて、地表にあるままでも這いずり回らずに
済むようになれる方法が、一つあると気付いた。
地を覆うまでに大きく広くなりさえすればいい。
そうすれば、どこに居るのかという問題など考えるまでもない。

もちろん身体そのものを大きくするなんて到底不可能だ。
精神的に、どのような位置にも立てるようになっていけばいい。
いささか大きな目標になりそうではあるが、この身が飛べない
存在である以上、それを目指していくのが相応しいのではないか。

最近は、そんなコトを思いつつ、歳月を重ねていこうと心掛けている。

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