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2008年2月

2008.02.29

理系用語で読み解く社会(19) 海洋の真相は水の中

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海洋と大気では、熱容量において10^3倍もの開きがあるという。

大気は動きが早く、小さな変化でも大きな動きをみせる一方、
海洋は動きが遅く、大きな変化でも小さな動きにとどまる。
だが、地球温暖化に関しては、海洋の影響が大きいらしい。
研究者は「大気と“海洋”の温暖化と言わねば正しくない」と言う。

海洋の温暖化が進みつつあるコトは、
何年間も続く綿密な調査により、ようやく分かってきた。
それが、大陸や大洋規模、さらには全球規模の気候変動に大きく関わって
いるらしいコトも、シミュレーション結果などで判明しつつある。

今、社会表層で見えている変動は、たしかに大きなものだと思う。
しかしそれが、大気での変動のみを見ているとはいえないか。
水面下では、もっと大きな変動が、数値的には10^-3倍もの
微小な変化を伴って海洋大循環の如く流れているかもしれない。

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2008.02.28

もしかして……故意!?

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いつも、ヒトも街並みも「変わる」前提で喋っている。
たとえば久し振りに訪れる街で、こう思ったりする。
「まだあるなら、あの店に寄ってみようかね」
「この街に住んでいたアイツは、どう変わっただろうか」

環境変化に関して、ヒトの多くは受け身の姿勢でみているようだ。
まあ実際、長い歴史の間、ヒトにとって環境というのは、
自然環境にせよ政治的環境にせよ、はたまた経済的環境にしても、
ヒトの思惑とは別に、あるいは勝手に変化する存在であった。

少なくとも、今も多くのヒトビトは、そんな考えを疑う気がない。
(たいていは、そこまで深く考えてないだけだろうけど)
たとえば、こんな受け身の人間たちは、よくいるよね。
「自分たちにカネが入らないのは経済がおかしいから」とか。

そうそう。経済や政治にしたって、やっぱりヒトが行動した結果。
自分たちが作り上げてきた社会基盤なのだよね。
多くのヒトビトが意図していていなかった方向だとしても。
責任はないにしろ、結果は自分自身に降りかかってくるワケで。

さすがに積極的に環境を変えてしまうのはアレだけど、
自らの活動で環境が変わっていくコトを気付かずにいるのもアレだ。
かといって、消極的に変えないようにするのもまた非常に難しい。
ここまでヒトが増えてしまっては、なかなかどうして。

ヒトの手によって環境が変わりゆくという前提で、
その方向性を見極めつつ、あわよくば良い方向に向かっていくよう
案を出してみたりするのは、きっと多くのヒトにとって難問だけど、
そろそろ意識してやっていかないと。

……いや、もう手遅れか?

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2008.02.27

出張旅行記余談 まあ、茶でも一杯。

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アポイントには、かなりの余裕を持って移動する。
遠出する際には、特に早めの時間を目指す。

在来特急に乗るくらいの目的地なら、少なくとも30分、
新幹線や飛行機であれば1時間以上、というのが通例。

少しくらい遅れても、なお早めに到着するようにという考えだ。
新幹線1本くらい乗り遅れても平気、という時間が目安かな。

で、出張した先の喫茶店などで時間を潰す。
おそらくは二度と訪れる機会のない店で。

これが、まあ割と楽しめるのだ。
(茶の湯の一期一会みたいなもんかな?)

ときには田舎へ出張するので常にあるとは限らないが、
あればあったで、結構な風情を楽しめたりもするのだ。

しかし、最近の地方不況のせいか、アタリをつけた場所で
シャッターの降りた店に出くわすケースも少なくない。

もう都会には、落ち着ける場所など、ほとんどない。
田舎でも、違う意味で、落ち着ける場がなくなっているのか。

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2008.02.26

出張旅行記(17.7) 古いカミサマは死なず、消え去りもしない

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敦賀の街をブラブラと、駅から港まで歩いてみた。
冬の日本海側なので天候が心配だったが、
ときたま雲が空を覆う程度で、陽が出ればむしろ暑いほど。

しかし、雲の動きは速い。
目まぐるしく天候が変わるのが
このあたりの冬の天候の特徴なのかもしれないな。

豪雪地域特有の、アーケードや融雪・排雪設備が整った街路。
道幅は広く、車道と歩道の間には駐車スペースも充実している。
路面の積雪は、ごく一部。除雪作業も滞りない様子だ。

途中、大きな神社の前を通りがかった。気比神宮だ。
大鳥居は旧国宝、現在でも重文指定で、日本三大鳥居の一つだとか。
そういえば、ここに座するは昔ながらの地元の神であったな。

長い間、機内と日本海を結ぶ交通の要衝であった敦賀の地。
独特のカミサマがいるのは、非常に古い時代から
そこにヒトが集まっていたコトを示す。

冬は荒れる日本海、その航海は、昔なら命懸けであった。
険しい峠を越える琵琶湖方面への陸路も、危険や苦難が伴う。
そういう旅の安全を祈るべく、カミサマが置かれたのだろう。

後の時代になって栄えた新興の交易地では、他の土地から
有名なカミサマを引っ張ってくるコトが盛んに行われたもんだ。
「勧請」するのである。貨幣経済下の交易では「勘定」もするが。

しかし現在の市内の目抜き通りは、平日の昼間でも
シャッターを下ろした店が目立つような有様である。
物流環境の変化により、この要衝の地も重要度は低まったのだ。

駅ホームの喫煙所で大声で喋ってウロチョロしていた
2人の大学生らしき若い男たちは、「ホントにナニもねえな!」
「高層ビルもない!」などと、北風に震えながら叫んでいた。

アーケードの向こうには発電所の煙突が見えた。
ひょっとしたら市内で最も高い建造物ではないだろうか。
現代の敦賀市には、火力発電所と原子力発電所が置かれている。

そういえば「ふげん」も鎮座しているのだったな。
普賢菩薩といえばカミサマじゃなくてホトケサマだけれども。
(もう廃炉が決まったのだっけ?)

大量の冷却水を必要とする火力や原子力の発電所は、
日本ではほぼ必ず海岸沿いに建設される。特に日本海側。
太平洋側より人口密集地が少ないし巨大海溝もないから。

ここでも、やはり交易の要となった立地条件が生きているのだろう。
西日本の電力消費地に遠すぎず近すぎず程良い距離だ。
送電線は峠を越え、琵琶湖岸をひたすら南へ走らせていけばいい。

海が目の前にあり、港が近いコトは資材の陸揚げにも便利。
大量に必要な火力発電所の燃料も、低コストに輸送できる。
そして、発電所は地元に巨額のカネを落としてくれる。

雪国では生活インフラの構築・維持に多大なコストが必要だ。
アーケードや雪対策設備の数々は、そして行き届いた
除雪作業などは、これら発電所のおかげかもしれない。

なるほど、発電所という新しいカミサマも御利益絶大ってワケだ。
ただ、まだ若いカミサマだから、たまに祟るコトもある。
そういう不安は、古いカミサマに祈って払拭できるのか。

なお、本題とは関係ないが、今回は小浜市にまで足を伸ばして、
米民主党大統領候補者の躍進にちなんだネタでも書いてやろうかと
一瞬だけ思ったりもしたが、やめた。いくらなんでもベタすぎるもんな。

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2008.02.25

出張旅行記(17.3) 琵琶湖のほとり、近江の街を

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京都からの帰り道、ちょっと遠回りしたくなって湖西線に乗った。
琵琶湖の北端、近江塩津から米原に抜けて
300番台後半の「ひかり」に乗って帰るつもりだった。
(非鉄系向けに説明すると、名古屋-岡山間を各駅停車する準急的
「ひかり」で、東京-岡山間を1時間に上下各1本程度運行している)

西大津から、車窓には西に山、東に琵琶湖の景色が延々と続く。
季節は初春、北へ向かうにつれ徐々に雪が目立つようになり、
日本海側へ近づいているコトが実感できる。
そして同時に、琵琶湖の広さもよく分かる。特に南北方向。
この琵琶湖を経由すれば、日本海と京都の物流が容易なのだな。

日本海と琵琶湖の間の山を越えるのが難所になるだろうが、
それさえ抜ければ水運だけで済む、効率的なルートだ。
逆に瀬戸内海から京都へは、川を遡ってくるだけでいい。
やはり京都は良い地勢に位置しているのだ。
そこにモノを持ち込むという意味では。

京都から乗った新快速は、敦賀行きだった。
かつて京都へ向かった物資と逆のルートを辿っているワケだ。
近江今津での編成分割ついでの停車時間には、隣のホームを
「サンダーバード」が雪煙を上げながら疾走していった。
そういえば、福井県に足を踏み入れたコトはなかったな。

現代はトンネルがある。たった2駅だ。ついでに行ってみるか。
近江塩津で乗り換えず、そのまま終点まで乗っていこう。
久し振りに冬の日本海の風を浴びたいし。
……あ、しまった。清算しなきゃ降りられないんだっけ。
京都からモバイルSuicaで乗っていたのだった。

チャージした料金内で自由に乗り降りできるという
自由度の高さに、すっかり慣れきっていたようだ。
便利なはずの電子乗車券の精算で困るなんてのは、
現代の日本の都会人ならではの苦労か。
まあそれでも快適に移動できるのだから、やはり大したコトではないな。

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2008.02.24

出張旅行記(17) 仕事が無事に終わったコトだけは救いでした

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ある出張の朝、依頼元に手配してもらった新幹線の指定券が、
「のぞみ63」のところを「のぞみ83」となっていた。
「どうも6と8を間違えちゃったらしくてね」
みどりの窓口で変更してもらって事なきを得た。

いつものように(新幹線に乗るときのジンクスになっている)
東京駅でカツサンドを買おうとしたら、売店のお姉さんが
Suica端末に入力する金額を、「580」でなく「280」としていた。
指摘したら申し訳なさそうに笑っていた。

現地に着いて喫茶店で打ち合わせ。
先方は食事セット。こちらは空腹でないのでコーヒーのみ。
後から出てきたコーヒーは、テーブルの人数分ぴったり。
食事を頼んでない連中は先に飲んでるのだけど……?

そして仕事の後。
現地近くに生活する親しい人たちに、できれば会いたいと
思っていたのだけど、都合悪く顔を見るコトさえ儘ならず。
分かってるさ。期待は裏切られても構わない、と思うべきなのだ。

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2008.02.23

カネは天下の回し者、でもクビはてんから回らない

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クレジットカードでなければ受けられないサービスが増えてきた。
特に交通関連。持ってないなら作ってくださいと言わんばかり。
でも、自営業で収入が安定しないから、そう簡単には作れないのよね。

かつて会社員だった頃に作ったカードはあったけど、
使いすぎたのと収入の激減とで切られてしまった。
収入の激減をもたらした元凶は、突き詰めれば企業の論理だった。

その会社の社長の値切りっぷりと無神経さは特筆に値する。
「今回は安い仕事だけど、後で儲けさせてやるから頼むよ」
というコトバは単なる宣伝文句だ。一度も実現したコトはない。

ただ、彼にしても騙すような悪意はなかったと考えている。
その時点での、実現した結果を「配分したい」という気前については、
さほど嘘ではなかったはず。ただ結果が伴わなかったから、出ないだけ。

要するに、自分用の宣伝文句を作って信じ込んでおいて、さらにそれを
周囲にまで信じ込ませてやれば上手く回るだろうと、楽観しているだけなのだ。
そして失敗しても、すぐに忘れて次に取り掛かる。それだけ。

満員電車の中で巨大なバックパックを背負いつつも
それが他人にぶつかっているとは気付いていない人のように
一部の能力が不足しているだけ、とも言えるんじゃないかな。

別のトコロでも、ちょっと違う空約束があった。
ある仕事の請求を出そうと思って問い合わせたら、こう言われた。
「会社の規定で受け付けられないタイミングになってしまった」

連絡の不徹底で請求時機を逸したとのこと。
で、担当者が「後で別の仕事に乗せるから」と言ったきり、
ひょんなコトで退職してしまって有耶無耶になったりした。

こういうのは、騙される方が悪い、とか言われるんだろうな、きっと。
恨むつもりはないが、ずいぶんと高い勉強代を払った気がする。
今は、その時点での収入を可能な限り確実にしていくよう心掛けている。

心掛けていても、なかなか実践できなかったりするけどね。
まあ勤め人であれば、そういう損失を蒙るコトもあるまいが
自営業というのは、直接の仕事以外でも気苦労があるというだけのコト。

出張が多いし予定は急に決まるもんだから、
航空券や特急券をキャッシュレスで決済できると
非常に助かるのだけどねえ。

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2008.02.22

都会は果てしない泥沼とかいうのかな

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たまに平日の都心を出歩くと、どうも都会の雰囲気に馴染めない。

あまりにヒトが多すぎて、しかもそれぞれがそれぞれの目的や
今その時点で気に掛けているコトしか意識しておらず、
てんでバラバラに動いているもんだから、互いに障害物になるばかり。
「他人に迷惑をかけているかもしれない」という意識は、ほぼ存在しない。

「だって他人も迷惑な存在なんだから、少しくらいいいじゃない」
とか開き直って言うのであれば、まだ可愛い方であるらしい。
そもそも迷惑ってどんなコトなのか明確に認識していない、としか
思えないような連中ばかりが目に付くのだから始末に負えない。

多いんだよね、無神経な咳払いとか紙をめくる音とかも。
あと、声混じりの欠伸なんかも酷いもんだと思う。
電車の中なんかだと、立つ位置や座る姿勢、荷物の持ち方、
果ては音漏れヘッドホン(たいてい白い)とか……。

でも、そんな邪魔なノイズであっても
「聞いてやる」くらいの気持ちでいるべきなのかも。
たとえば、声混じりの欠伸などは、性別の差が今でも大きい。
それを考えて、「不思議なもんだね」と思ってみたりとか。

マナーなんてのも、正のフィードバックが強く働く世界なのでね。
負のフィードバックの方向へと力技で無理に押しやるろうとすれば、
膨大な力を注ぎ続けねばならない。
だから、どっかで止めて、逆転させる工夫が必要なのだ。

力より知恵。そう思って、今日も都会を切り抜けた。

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2008.02.21

ロクにニュースも読まずあえて空気も読まずに気まぐれでダラダラと長い上に面白味もないハナシをしてみる(タイトルも長い)

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※長文注意!

最近の何かの法律には、
消費者は権利を持つ存在として記されていると聞いて、
「面倒だなあ、行使するのは」と思ったりした。
そんな人物なりの政治論でも良ければ、
以下駄文を読んでみても良いかと。

「消費者庁」なんてのが何をするトコロなのか知らないが、
でかい組織を作ればそれでいいというモノでもあるまい。
また一つ税金を食い潰す役所ができるのか、と思う程度。
現状、そのための議論のための会議が行われているらしいが、
どんな議論をしているのやら、消費者は全く与り知らぬのだ。

他にも、いろいろな分野でいろいろな政策審議が行われているが、
その人選や運営方針次第で政府が審議をコントロールできて
しまうようでは、何の役にも立たないどころか
詐欺に追い銭を出すようなものである。
実質的に制御しようとしているか否かではなく、そうであると
思われてしまっているコトが、今の世の中では致命的なのだ。
政権(それが自民党であろうと民主党であろうと)にとって。

不信感は連鎖する。

ましてやそれを強化する事件が起きてしまえば、
悪循環はさらに拡大していくばかりである。

タウンミーティングのサクラ発覚以来、あるいはそれ以前から、
その手の公聴会の類も「胡散臭い」と思われがち。
不正や偽装が発覚した企業と同じだ。
しかも政府は対応が後手に回ってるから、まるで駄目。
不正疑惑の企業に対して世間は非常に厳しいのだから
政府に対しても同様であると危機感を持つべき。

その点、最近の企業は予防や対応の方法を学んできた。
その対処が効果を発揮し、不正発覚後のイメージダウンを
かなり防げるコトも、だんだん分かってきている。

そういう対処を学んだのは、企業では経営者たちだ。
政府や自治体であれば閣僚や首長だよな、当然。
ところが政治家の世界では、まだ旧来の経営者に
近い性質の対応ばかりが目立つ。
原始的な「その場しのぎ」の答弁とか、
常に役人側の主張を立てようとする態度とか。
国民からのクレームに対応する場面に臨んで、
まず役所と国民との利害調整をしようとしたなどという、
酷い履き違えを露呈した輩もいたっけな。
……あ、今もまだ首相やってるんだっけ、アレは。

経営者たちは、「迷惑をかけた結果を申し訳なく思う」と、
報道陣の前で頭を下げるコトができるようになってきた。
(まだたまにできないのもいるけど)
ひとまずは好ましくないカタチで出てしまった結果を詫びる。
ただし、責任の所在を上手に棚上げして言質を取られぬように。
その上で、迅速な原因究明と再発防止に取り組みつつ
分かってきたコトは随時公表していく。
消費者は、常に情報を欲しがっているのだ。
それも、内容より早さを重視している傾向が強い。

このような対応手法は、もはや経営テクニックの一つ。
不祥事を起こしつつも事後の上手な対応で切り抜け、さらに
消費者の好感度を向上させた企業だって、今じゃ少なくない。

余談だが、企業におけるCSRなどは
個人的な「気配り」とも共通する点があろう。
最近は、企業でも「正直であるコトの重要性」を
意識するようになってきた。
自己評価に由来する「余計なプライド」は、
しばしばマイナスの影響を持つ。
なにせ問題は他者評価なのだから。云々……。

まあそりゃあ政治家と経営者では、やってるコトが違うし、
他の政治家との関係や、党派との関係もあるから
もっと複雑な対応をせねばならんのだろうとは思う。
けど、基本は近いトコロにある。学べるコトは多い。
だのに相変わらず学ぼうとしないのは、如何なものかと。

政治家は単なる人気取りの商売じゃない。
たしかにそれは、その通り。
でも、必要以上に嫌われないようにするのは大事だろ?
でなきゃ仕事もできなくなるのだからして。
それに、役人や党の連中の人気を取ろうとしてるのだから、
国民の人気も考慮して。とりあえず「ついで」でもいいから。

嫌われないようにするには、「敵ではない」と
思われ続けなければならない。
これは、敵を作らないための、大事な方法。
なにせ今の世の中はギスギスしているせいか、
「味方ではない」=「敵である」の二元論が優勢だ。
国民は無意識のうちに役人を敵対視してるのだから、
そっち側を向いた活動は、それだけで国民を敵に回す。

だからこそ「ぶっ壊す」と言った元首相は人気を集めたのだろう。
あっち側に敵を作っても構わないという勇気ある態度は、
たしかに多くの人にとって「味方になってくれるかも……」
という強い期待感を与えた。実態はともかくとして。
(ちなみに国民の多くは、短期的な期待感でしか将来を考えない
ものだと認識しておくのが、政治においては妥当だと言えよう。
考慮すべきファクターが多すぎるため、職業として政治評論家でも
していない限り、詳しく分析するなど思考コストが高すぎるのだ。
そのことを利用したのであれば、非常に巧みな選挙策であった)

なお、たいていの改革は、引き継がれた時点で
否応なく終わってしまう性質を持つ。
発展的継承ができれば、そのジンクスも逃れられるだろうけど、
それができる人材はないのが通例だから致し方ない。
なにせ改革者が世に出るのは、基本的には
その集団の中で最上級に適材だからである。
それを超えられる人材など、あるワケがないってワケだ。

だから「改革路線の継承」と聞いた時点で嘘だと確信した。
しかも見るからに「あっち側」の人物だった。
そのコトを隠そうとする素振りさえなかったから、
「KY」と言われても「しようがない」。
それが次の代も、またダラダラと続いているのが現状である。

ああもう、また長々とダラダラ書いてるだけの
詰まらぬ政治評論に成り下がってしまった。
やれやれ。
反省しつつ、最後に下世話な比喩をしてみよう。

「私とあのオンナの、どっちを優先するの?」的な
サスペンスドラマによくある場面を思い起こしてほしい。
妻は続ける。「貴方が今の地位になったのは、誰のおかげ?」

政治家がその椅子に腰掛けていられるのは、
国民から投票してもらったおかげ。
だのに役人という愛人にばかり色目を使って、
しかも党とかいう職場の同僚とばかり喋っている。
これじゃあ長年連れ添った妻に刺されても
文句を言えんというワケだ。

どちらにとっても悲劇となるばかりの結末を、
ドラマならば探偵さんが少しは救いのあるものに
してくれるけど、実際の社会でそれはない。
妻の側も、騙されぬよう、もっと賢くなるべきだとは思うが
取り急ぎは夫の側の態度の改善に期待するしかないだろう。

ああもちろん、自らの低レベルな感情に身を委ね、
そこらじゅうで余計な喧嘩を繰り返して、
敵ばかり増やしているような夫なんてのは以ての外だけどね。

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2008.02.20

「敵」はキライ

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みんな同じく悩みや問題を抱え、能力不足だったりするってコトを、
みんな同じく気付いていないんじゃないか(これもまた気付く能力の不足)。
気付いてないからこそ、単なる不注意でも敵視したりするのでは?。

そう思うようになったら、そうとしか思えなくなってきた。
それが敵対する行為であると本能が指摘してきても、
アタマで考えたら、不注意を知らしめるだけで済むと分かる。

敵も味方も、たいてい増殖する性質があるもんだから
敵を作らぬようにすればいずれ味方ばかりになる、という
考えがあったし、敵を作るのは小さい頃から嫌だった。

だから過去何年間も、他人に嫌われないように心掛けてきた。
というか、「なんだか憎めない人」になりたかったのだ。
たまにいるよね、そういう人って。

かといって、黙っているのもキライだ。
そのため、「憎まれずに主張する」ような工夫を
少しばかりは積むコトができたと、今では思う。

いいたいコトをしっかり言いつつ憎まれぬようにするには、
まず気持ち、それからコトバや態度の上でのテクニック、
その両面が必要なのだと考えている。

気持ちの持ちようは長期的な影響が大きく、
テクニックは主に短期的に作用するのは、
さすがに言うまでもないだろう。

しかし、テクニックは単なる「その場しのぎ」だけではない。
他人に接する技術や能力を磨いていく課程で、
気持ちもまた同時に磨かれてくるとも思う。

技術向上に真剣に取り組むうちに、
より上を目指すには精神面の強化も
不可欠であると気付くときが来るはずだから。

だから、まずはカタチからでもいい、やってみれ、と。
誰に言うでもなくコトバにするのは、実は本能の声に非常に忠実な
自分自身にこそ言い聞かせていたりもするのであった。

ホントは、あのとき笑うつもりはなかった。
だのに笑ってしまった。精神修養が足りないのだね。
「憎めない人」への道は、まだまだ続くよ。

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2008.02.19

「余裕」と「ゆとり」の違いについて考えたコトはあるかい?

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とある日曜の深夜、駅前の蕎麦屋まで夜食がてら散歩した。
駅の出口のトコロのガード下で道を渡ったとき、
けたたましいクラクションが鳴ったので、ちょいと見てみれば
路駐の車両が3台。中央のミニバンだけヒトの気配。
前後に挟まれて出られないと主張したい年頃であるらしい。

前後とも、少なく見積もって2mは空いている。
ちょいとバックして、ハンドルを目一杯切れば、
国産ミニバンなら普通に出られるはずだ。
しかも助手席には同乗者がいるのだから、
そいつに前後を確認してもらえば、まず安全。

でも、やらない。
クラクションを鳴らして前の車の運転手を呼びつけた方が
思考コスト的に安いってワケだ。
運転者も同乗者も20歳そこそこの若い男と思われるから、
どうみても元気の盛りのはずなのにね。

そんなコトを考えていたら、妙なコトに笑い声が出てしまった。
と、運転席の男と目が合う。怒ってはいるが出る気はなさそうだ。
もうとっくに車を出して駅前を離れているつもりだから、
その想定から外れる道筋なんて考えたくないのよねー。
思考コスト的には、とっても安上がりだ。

もうちっとばかり考えようぜ、若人よ。
それじゃ、駄々っ子と何も違いはない。
正直に言うと、笑うつもりは、あんまりなかった。
ただ、笑うしかないくらい哀れに思えただけだ。
彼もまた、思考能力節約型社会の犠牲者なのだから。

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2008.02.18

火のないトコロだからこそ煙が出る?

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東京などでタクシーがほぼ全面禁煙になったし、
全く喫煙所を置いてない大規模商業施設も少なくないなど、
喫煙に対する風当たりは強まる一方。
だが、「例外なく全面禁煙」は、現状の日本にそぐわないと思う。

喫煙コーナーがどこにあるか、そもそも「存在しているのか」、
という情報さえ提供していない施設が目立つコトも問題だ。
それこそむしろ嫌煙家が嫌煙家を増やすための
陰謀を巡らせているのではないかと勘ぐってしまうくらいである。

某ミッドタウンなどでは、ほぼ全面禁煙(一部の飲食店内を除く)、
でも実は喫煙所もあるらしいのだが、その案内さえも見当たらない。
なので、ビル間のオープンスペースをタバコ片手に歩き回る
連中がちらほら目に付いたりする、なんて有様。

禁煙エリアだからと喫いたいのを我慢している身にしてみれば、
その奔放さが腹立たしく思えるくらいだ。
ある意味で、羨ましいと感じているのかもしれないな。
でも、そこまで恥を晒す気には、やはりなれないので我慢。

一方、某ヒルズでは幾つかの喫煙コーナーがあり、
喫煙者はそこに逃げ込んで煙に巻かれているので、
他のエリアでの喫煙率は低いように思われる。
同じ地域の、同じく多数の客が訪れる施設で、この違いだ。

つまるトコロ、逃げ場をなくせば散らばるだけなのである。
このハナシ、煙だけの問題じゃなくて、かなり普遍的な
ヒトの性質を示していると思うよ。
要するに、オトコもオンナも避難所が必要ってこった(強引なオチ)

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2008.02.17

出張旅行記(16) 東京発新大阪行き喫煙所

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慌ただしい日帰り出張の朝、うっかり気付かず喫煙車に乗ってしまった。
出発時刻を確定できないくらいドタバタしていたので手配した切符は自由席。
東京発だから待てば座れる。それでいいと思ってホームに並んだ。
目の端で足許にある禁煙マークを見て、ここでいいと立ったものの、
それが「N700系は禁煙」の意味だったと気付いたのは乗り込む直前。
列の前の方に並んでいたから最後部窓際の席を確保できそうだし、
いまさら他の車両に移るのも面倒だからと、そのまま座った。
ついでだから、1~2本ばかり喫っても良かろうと。

しかしやっぱり辟易してしまう。
東京駅を出る前から、座った途端に一服つける習慣の喫煙者も多い。
隣の禁煙自由席車両からも、とりあえず席を確保した人が流れ込み、
出発前の一服とばかりプカプカやっては煙を残して逃げていく。
目に染みるほど濃密な煙幕で、窓からの日差しが浮かび上がる。
ギリギリに乗り込んで空席を探しつつ車内を歩き回る乗客が、
口と鼻を押さえて大慌てで別の車両へ駆けていった。
正直に言おう。コイツは喫煙者にとってさえ苦行だと。

なにしろ、この煙の中では、まずもって眠れない。
「危険だから目を覚ましておけ」と本能が強く警告してくる。
車販の売り子と車掌は、さすがに仕事だからと平然を装っているが、
健康被害が出たりしたら組合が騒ぎ出したりするかもしれないな。
N700系で喫煙席を全廃したり、東日本などでは特急を全席禁煙と
した決断は、決して間違ってはいないと思う。
ましてや、N700系は車内に喫煙スペースが用意してあるし、
新幹線ホームには喫煙コーナーが堂々と設置してある。

途切れるコトなく煙を吐き続けるチェーンスモーカーならともかく、
ときたま肺を煙で満たしたい程度の軽い喫煙者には、それで丁度良い。
人間なんて勝手なもんだから、喫いたいとき喫いたいだけ
喫いたいように喫って、空気を濁しては去っていくばかり。
他人の煙を喫って我慢するよりは、自分の煙を喫うのを我慢したい。
そうは思うけれども、時と場合にも依るのだよな。
酒が入ったときなど、生活のそこかしこで喫いたいタイミングがある。
まだまだ精進が足りないが、まあせめて迷惑をかけぬよう努力するかね。

うー、背広がすっかり燻されちゃったな。
掛けておいたコートや帽子まで、心なしか煙たい気がする。
端っこの席の快適さと他人の煙の不快さを天秤に掛けたはいいが
やはり「自分の煙」を目前にして評価が甘くなっていたのだろう。
端の席だから余計に喫煙所扱いされやすかったというのもあるし、
そこに意識が及ばないまま目指したのも反省材料か。
何にせよ、いろいろと選択を間違えた気がするのは否めない。
やれやれ。帰りは指定で禁煙席を取っておこう。

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2008.02.16

ゆとり時代

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「3列シートの中央席って他の席より幅広くならないかなあ」
と、新幹線や飛行機に乗るたびに思う。
たしか、若干は広く作ってあると聞いた気はするが、もともと今の
日本人には狭くなりつつあるから、もうちょっと足りないのである。
おかげで、両脇の奴に肘掛けを取られたままの状態で
ひたすら窮屈な時間を過ごす羽目になるコトも少なくない。

それから、後ろの席のヤツの新聞に頭をはたかれて目覚める
なんてのも最悪だ。これは前後の座席間隔の問題。
しかも、そういう輩に限って気付かぬフリをしているか、
あるいはホントに気付いてないもんだから始末に負えない。
後ろの席のヤツがノートPCをいじっているおかげで
細かな振動が絶え間なく続く。これもまた最低だ。

そういうのの前に座ってしまうと、おちおち眠るコトさえできない。
おまけに、ちょこっとシートをリクライニングしようとすれば
そいつのノートPCの液晶にぶつかって、嫌味な咳払いが聞ける。
場合によっては文句の一つや二つは言われたりする。
もし丁寧に声を掛けてからシートを倒そうとしても、
かなりの確率で嫌そうな顔を見るのは覚悟せねばなるまい。

ちょっとした気遣いや、その意味、意義、理由そして必要性など、
どんどん忘れ去られようとしているのが現代社会なのか。
と、たまに思う次第。
逆に、こちらがかなりの気遣いをしてみてたとしても、
相手がそれに気付く素振りさえ見せないようなケースも多い。
これでは、たしかに実践する気が損なわれてしまう。

それでも希には、快い挨拶が返ってきたりして、嬉しい思いもする。
「気配りをして良かった」と思える瞬間だ。
だからせめてそういう良い反応だけ受け入れて、
そうでない反応をフィルタするような神経回路を作れれば、
気遣いのできる人間になれるのだろう。
たぶん、そういうカタチで気持ちに余裕を生み出すのが「粋」てコト。

「粋」ってのは、周囲に気付いてもらう性質のモノだったのだと思うが、
今の時代では子供たちだけでなく、大人たちまでも
ゆとりを「与えられる」コトに慣れてしまったのではないかな。
与えるコトはせず、ただ受け取るだけ。
それを得られるのが当然であり、得られないときには由々しき事態。
ストレスを溜め込んだり、逆にいきなりキレたり、訴えて出たりする。

……ていうか、「ゆとり」て、そういうモノだったっけ?

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2008.02.15

江戸プラクティス

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ヒトの欲求、特に無意識の願望というのは、社会体制や宗教などに
よって若干の誤差もあるが、ある程度の範囲で概ね類型化できる。
そういう類型に対する対応パターンの推奨例を形式化して一般でも
使えるようにしていったものが、いわゆる「マナー」というトコロか。
対人行動のベストプラクティスと言い換えても良いだろう。

たとえば近年では「江戸マナー」なるものが注目されているが、
これは今の時代でも使える部分だけを切り出したものらしい。
江戸時代、往来での人的トラブルは生命に関わるコトもあった。
今でも同様だけれども、当時の方が危険性は高かったであろう。
命のやりとりは、さらに仇討ちなどへとエスカレートしがちだ。

そうなれば社会的な損失も大きくなってゆくばかり。
放置すれば社会秩序まで揺らいでしまう。
ちょっとした気配りなどの思考・行動コストを事前に支払うコトで
大きなトラブルになる可能性を大幅に低下させられるなら、
それなりに取り組む価値がある、といえるだろう。

思考コストは、先に払っておいた方がトータルとしては節約できる。
相手、あるいは周囲のヒトビトの思考を先回りしておけば、
いつ何をしておくべきかが自ずから見えてくるものだ。
事前の対応は失敗の可能性を減らすのに役立つが、
事後の対応は失敗を拡大させぬようにするのがせいぜいのトコロ。

要するに、そういう思考コストを投資する際には、内容はもちろん
タイミングについても適正化するコトが望ましい、となる。
だから、いささか高度な知的活動の習慣化が欠かせない。
そんなワケで、マナーてのは、それを身に付けて維持するために
ちょっとばかり高い精神的コストを必要とするのがネックでもある。

そこで「マナーのよくできた人物を高く評価する風潮」が役立つ。
コレは、言うなれば社会的な知恵だろう。
江戸時代では、「粋」「気風」といったものが挙げられようか。
それが個人を尊重し、束縛するコトを潔しとしない風潮につながる。
さらには大らかな生活習慣、商習慣をもたらす。

馬鹿にしてはいけない。今回は現代社会への批判文だからね。
誰もが誰にも信用されず、ややもすれば訴えられたり
しかねないような今の日本社会では、正直なトコロ
「自らの自由を制約されてでも、他人の自由も束縛したい」
という傾向になっていくのも致し方あるまい。

経済も文化も、成熟するには社会の自由度の高さが不可欠だ。
しかし、その自由の前提には、個々人そして企業などヒト集団が
きちんと折り目正しく、皆から尊重されるに足るだけの
姿勢や態度を保ち続けなければならないのである。
残念ながら現状は逆で、皆が萎縮する傾向が強まっている。

粋ってのは「自発的な規律」でもあり、禁欲的な性質もあるから、
すぐ欲望に走ってしまいがちなヒトの行動を程良く抑制する。
でもって、粋であるコトを重視する風潮が定着すれば、
それが品(質)の悪くなるのを防ぐのに役立ったりするワケだ。
だから、できれば現代にも適用できないかとも思うトコロ。

しかし、「江戸マナー」ほどには、「粋」は注目されていないようだ。
そのまま現代に持ち込むには、ちょっとばかり問題があるのだろう。
「粋」というのは、時代の「息吹」とでもいうのか、
ちょっとでも時期や地域が違うと行き違ってしまう性質がある。
そういう意味では、その枠内の行き止まりみたいなもんでもあるかね。

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2008.02.14

雲に描かれた光の瞬間芸を見るハナシ

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ある冬の出張で、南向きに飛行する機内からは、地表の明かりがよく見えた。
と、遠く太平洋上と思われる雲の上に、ときたま閃光が走るのに気付いた。

その光は断続的に雲の上、虚空に向かって一瞬だけ照らされる。
雲の中の何者かが、宇宙空間と光で交信しようとしているかのようにも見えた。

おそらく大きな稲妻か何かではあろうが、非常に印象的な出来事であった。
ヒトは、空想する能力もまた伴っていたのであるなあ。

そこまで行かなくても、雲に対して斜めに光が射し込んでいる様子などは、
距離的スケールの大きさもあってか、いろいろと想いをかき立てられてしまう。

自らの手に余るモノゴトを、ヒトの意識はどのように捉えるのか。
考えれば考えるほど、なかなかに興味深いトコロである。

ある程度の範囲を超えると、諦めに近い感覚を抱くようになる場合もあろう。
「自分で管理できない領域だから、あるがままに」てな考えをしてみたりとか。

当然、そこで諦めや割り切りができれば、精神衛生上は良い効果をもたらす。
たとえば他力本願という言葉の本意も、それに近いトコロがあるのだと思う。

ではあるのだが、どうもヒトってヤツぁワガママなもんでね。
ことに、明確に意識していないような類の深層心理の願望などは厄介だ。

確と認識していないもんだから、願望が充足されない状態になったりすると
捕らえ所のない焦りが生じてきたりして、甚だ困ったコトになる。

問題の原因が特定できないから対処も非常に難しい。
たいていは、場当たり的な対症療法しか採るコトができなかったりする。

「画に描いた餅」は、実現できない夢想を戒める言葉でもあるが、
ここで新たに、別の用途への活用を試みたい。

無意識の願望は、明白でないがゆえに問題を拡大する。であれば逆に、
意識下で描いてみれば、画餅であるコトを明確に認識できるんじゃないかな?

文字通り雲を、いや「雲に描かれた画」を掴むような考えではあるが、
何かのヒントが見え隠れしているコトを閃光が教えてくれているようにも思えた。

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2008.02.13

稲を見るハナシ

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燕や雀は、家禽でこそないが、間違いなくヒトの生活に密着した生物だ。
特に稲作文明とは、深い関係がある。雀は種籾を食い荒らすなど害鳥の
側面もあったりするが、燕は田圃で虫を捕ってくれる「益鳥」なのだという。

水田稲作文化を日本列島に伝えたとみられるディアスポラの越人たちは、
ひょっとしたら新たな地で農耕を始めたときに、集落に燕が飛来したのを
見て感心したりしたのかもしれない

ヒトが農耕を行う地域が広がるにつれ、こうした鳥類も一緒に分布を広げた。
水田内でイネと同居するコトの多い雑穀や雑草類なども、種子が
種籾に紛れ込んだり、泥に付着したりして、同じく自然に広がっていく。

それだけではない。微生物までもが一緒に移動しているのである。
ヒトの移動に伴っては、体表に棲息する寄生虫や微生物も同行する。
保存食や道具類にも微生物が付着していて一緒に運ばれる。

もちろん、ヒトが意図的に付随作物を運んだりする場合もあろう。
おそらくは芋類など、および家畜類は、そうやって運ばれたはずだ。
しかし大半は、こうして意図せず運ばれたのではないかと思う。

遊牧民なんかでは意図的に家畜を連れて回るコトで生活環境を
どこにでも持って行くワケだが、農耕民もまた同様らしい。
ヒトは、どう転んでも環境を連れて回るイキモノというワケだ。

そして、ときには病原菌もヒトの動きと一緒に運ばれていく。
あるいは宗教・哲学・思想の類であったり、社会的ルールであったり、
そういった諸々の目に見えない環境も、やはりヒトは連れて歩く。

そうして、行く先々で疫病に遭ったり、ヒト集団間で衝突したり
といった災厄もまた、付かず離れずヒトの移動に伴っている。
ま、善も悪もヒトあってこそのモノだから、そんなもんだろうさ。

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2008.02.12

石に刻まれた羊を見るハナシ

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かつて訪れた多賀城の「壷の碑」に続き、
日本三古碑の一つを見る機会があった。

群馬県吉井町「多胡碑」。奈良時代の年号があり、
当地に多胡郡が置かれたことなどが記された碑だ。

「給羊」なる文字が刻まれており、
地元には「羊」という人物が伝説のように語られている。

羊という動物が当時の日本列島に存在したかどうか。
違う字ではないかとする説もあるし、よく分からない。

壷の碑より保存状態が良くて、覆家も新しい。
おかげで硝子越しの撮影でも碑文は鮮明に判読できた。

石碑の近くには、近い時代の小さな円墳もあって、
付属の博物館とともに史跡公園となっている。

このあたりが、当時どの程度の重要性を持っていたのだろうか。
詳しい資料は、少なくとも手許にはない。

ただ、石碑を建立して古墳を築造したのだから、
それなりに開発が進んで経済的な余裕があったコトは分かる。

また、南西の方向、荒川上流部の山塊へ入り込んでいけば
あの「和銅」の出た秩父方面にも遠くはない。

一方、荒川などの下流である武蔵国は、おそらく広大な低湿地で、
当時の技術で開発するには向かなかったものと思われる。

この史跡公園は、川沿いの運動公園に隣接している。
運動公園の駐車場からは、周囲に低い山々が見渡せた。

丘陵地帯の中、川沿いに広がった、小さな盆地状の地形。
ちょっとした水利工事や開墾で、収穫も期待しやすかろう。

収穫物を運び出し、外からの物資を受け入れるにも
この川が大いに役立ったのではないだろうか。

また、周囲の丘陵地は季節に応じて山の恵みを与えてくれた。
自給自足の範囲が広かったから、それも大きな利点だ。

「羊」は、当時の技術力や動員できる労働力に適した規模の
比較的安全そうな谷間を選んだ。それが大なる功績であったはず。

以前読んだ、日本人の景観論についての本では、まさにそのくらいの
浅い谷間や盆地などを好む傾向について詳しく説いていた。

もしかしたら、そんな土地柄を好んで選んだのは、日本に
伝わる以前の稲作文明の担い手たちであったのかもしれない。

そういえば、稲作文明には家禽化した鶏だとか、
さまざまな発酵食品の利用も伴うのであったっけか。

……と、押し麦を混ぜて炊いた米飯に
生卵と醤油をかけて食いながら思うのであった。

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2008.02.11

たまには時事ネタ(11) 貧富の差が拡大したら食の安全が脅かされて社会不安に陥って以下略の件

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食事といえば、昨今は「食の安全」が頻繁に取り沙汰されている。
2月に入って、手作り用の餃子の皮が飛ぶように売れているとかいう。
顔の見える相手に毒を盛られるなんて心配は、さすがに少ないもんな。

「顔の見えない人が作った食品よりは、機械で作られた方がまだマシ」
なんて思うようになるのかと思ったりしたのだが、そうでもないらしい。
自宅で作りたいと思うのが普通のようだ。一過性かもしれないけれども。

しかし、きちんと自宅で調理するにしても、その食材や調味料などが
ホントに安全で安心できるのかどうか、という心配は払拭しきれない。
それこそ目の前の畑から、あるいは目の前の海で得たのでなければ。

とはいえ、自給自足できるほどの農地や漁獲を持てるのは、相応の
環境に生まれ育って、かつそれを受け継ぐ決意をした者に限られる。
一方、都会に生まれ育った者には、そういう機会自体が非常に少ない。

そもそも、貧乏生活をしていたら抜け出すのも容易ではない世の中だ。
他のさまざまなコストとともに食費も抑えたいし、忙しい日々の生活の中で
時間も節約したいとなれば、冷食など安価で手軽な食材に頼らざるを得まい。

食品を作ったり流通させたりする企業は、そういうトコロをターゲットに
安く手軽で、さらに味や満足感などにも工夫を凝らして商売している。
そのため、大量生産・流通一元化などの取り組みが常道となっていく。

そんなワケで、誰がどんなふうに作ってどんな感じに運ばれてきて
店頭に並ぶのか、そんなのも全く分からない社会なのは致し方ない。
多少の不安はあっても、とりあえず食わねば生きていけないのだし。

しかし、原因は何にせよ、衣食住に関わる不安てのは厄介なもんである。
「米よこせ」「パンよこせ」が契機となった政変など、数知れないではないか。
この国も、「一億総中流」が崩れた後、もはや先が長くないのかもしれんな。

……などと、
仕事の合間に冷凍食品を電子レンジで温めて食いながら思うのであった。

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2008.02.10

それについて、イトコの一人は小さい頃、「たまごごごはん」と言っていた

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食事は生存本能に直結した行為であるからして、
食事中にちょっかいを出されれば本能的に反発するのが動物としての基本となる。
逆に言えば、同じ餌を一緒に喰うコトを許すのは非常に近しい間柄であるワケで。
たとえば電話でさえ、食事中に割り込まれるのは嫌な思いをするものであろう。
と思っていたのだが、最近のヒトでは、そうとも言い難いような様子。

牛丼屋だのカレー屋だのファストフード的な食堂では、特にそう思う。
ケータイでメールしたり漫画雑誌を読んだりしながら、無感動に口へメシを運び続けている。
そいうメシを、皆は旨いと思って喰っているのだろうか。
いや、せいぜい空腹を満たすだけの餌だと思っているのだろうな。
もはや飲食業に「給仕」は不要、「給餌」でいいのかもしれない。

「汁」は飯の添え物として「つけ」とも読む。
そこに接頭語がたくさんついて御御御汁、
すなわち「おみおつけ」となった。
こんな大切そうな言い回しをするなんてのは、
とうに昔のハナシなのだろう。

……などと思ったのは、一面に積もった雪を見て
炊きたての銀シャリに生卵と醤油を掛けて食いたくなった
ある日のコトであった。

あ、麦飯でもいいなあ(好きにしろ)。

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2008.02.09

古びて色褪せた待ち合わせ方法

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だいたいの時間を決めて、喫茶店などで落ち合ったりする。
ケータイが発達した今、そんな待ち合わせは珍しくなった。
だから最近では、あえて意図的にやるコトもある。

騒々しい都心にも、しばしばエアポケット的に静かな喫茶店がある。
たいていは古びた店で、おそらくは昔から待ち合わせにも使われていた。
壁には色褪せた写真やら黄ばんだ色紙やら、トコロ狭しと貼ってある。

この雰囲気が、最近のチェーン店とは違って、かなり落ち着かせてくれる。
もし相手が遅れてきたとしても、少なくとも外で待ち合わせするよりは
ずっと気楽でいられるものである。

待ち合わせの目印に英字新聞を使うと良い、なんてハナシを
どこかで聞いたのだけれども、普通の本に目立つカバーをかけ、
のんびりと読み耽っていたっていいだろう。

常連たちや店員との会話に耳を傾けたり、
あるいはその会話に飛び入りで参加してみたり、
といった人間付き合いの楽しみも、こういう静かな店なら可能性がある。

居心地が良いだけに、客が長居してしまう。店は採算性など厳しいのだとは思う。
効率的に客を流動させたり、客単価を稼いだりといった考えはなさそうだし。
でも、「居心地を良くしたい」という考えまでは、色褪せさせたくないな。

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2008.02.08

化石燃料発動機が使われなくなった、道の化石

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ときたま、道のつけかえが行われた際なぞ、無用のアスファルト面が
部分的に残されたりしているのを目にする。まるで三日月湖のような形だ。

たとえば渋滞解消のため、あるいは危険な交差点を安全にするため、
バイパス新設に伴う交差点改良工事など、その理由はいろいろある。

山間部であれば加えて傾斜の問題も考慮せねばならない。
土木技術の向上などで改善に着手できたような例もあるようだ。

その昔、曲率が小さく、しかも途中から急激に落ち込む上に
崖に囲まれて狭く見通しも悪い、割と危険なS字カーブがあった。

免許を取得してすぐ、そこを走ったときは、ちょっと怖かった。
霜が降りた路面で対向するバスを避け冷や汗をかいたコトもある。

数年前、そんなカーブに行ってみたら、ずいぶんと整備されていた。
曲率は大きく、勾配は緩やかに、見通しも良くなっている。

ここは、山岳信仰の拠点にもなった観音堂の、さらに裏手の峠。
さぞかし大掛かりな工事だったであろう。

撤去する費用を惜しんだためか残された旧道の一部には、
なぜか新道の歩道から上がれるように階段がついている。

磨耗しつつも残っていた数々の路面標識は、
アスファルトの隙間から生えてきた草に早くも埋もれ始めている。

一通り巡って、斜め下の新道の歩道から再び見上げると、
旧道も実は新道と同じく橋のような構造になっていると気付く。

今では、ずっと長い橋脚を立てて脆い石灰岩の地山深く突き刺し、
路盤を支えているらしい。そこが技術の進歩というコトなのだろう。

技術の進歩に伴う費用が、どんだけ掛かったかは知らんけどな。

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2008.02.07

ヒト工夫してみないと、ヒトごとでは済まされないかも

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現状、いわゆる社会保障制度などに対しては大した期待をしていない。
それは自営業独居中年なんていうライフスタイルの都合もあるのかも。

どうせ社会からの手厚い支援など得られるはずもない、と諦めて
割り切ってしまわなければ容易には立ち行かないような商売だから余計に。

こんな脆弱な生活基盤を守ってくれるのは、ささやかな権利だったりする。
それだけに、社会人としての権利に関しては強く意識せざるを得ない。

けどそんなもの、あんまり強く主張したくはない。たいてい面倒で疲れる活動だ。
それに、行使せずに済むコトの幸福さを味わいたい。

また、一部の権利行使について「効果が見込めないからやらない」とする友人がいる。
非常に低い確率だと諦めの気持ちが先に立ってしまうのかもしれないな。

とはいえ、永劫不滅の存在などないのが世の常だ。
ましてやヒトが観念上で作り上げた夢の存在は非常に儚い。

だから社会的な権利なども、たまには使って確認しておかないと、後の世では
それが形骸化してしまったりしても気付かない、なんて危険性も考えられる。

(ただし一部には、社会情勢に伴って変質した結果、形骸化していても、
あるいは自然消滅しても特に差し支えない、というような場合もある。

そういうのを維持するだけのために行使するとなれば、さすがに
それはそれで問題があると思うので、的確な取捨選択の見極めが必要だ)

個人の生涯であれば、まあ個人の自由と片付けられるが、それはともかく、
世代を超えてそれを維持すしようとすれば、それなりの工夫が要るのだと思う。

その工夫を考える上では、「伝統」や「慣習」などがヒントになるかもしれない。
権利維持の新しいシキタリスを作り上げ、発展させていくというワケだ。

少なくとも、安易にできるようなコトではないだろうとは思われる。
一人のアタマで考えたコトなど、たいていそのままでは世の中に通用しない。

とはいえ、誰かが作らなければ存在しないもんだ。
それを少しずつ、皆でいろいろと変化させつつ地道に発展させる。

まあシキタリは自然発生的に登場するコトもあるようなので、
それを待つのも一手ではあるだろうけれども。

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2008.02.06

門前の小僧、習わぬ社会制度を読む?

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「君が代」斉唱の際に起立しなかった教員の氏名を報告するという制度があったりして
たまに教員と各地の教育委員会とで揉めているが、「指導上の目的で必要」
だという教育委員会側のタテマエによって維持されるコトもあるようだ。

ホンネの「指導上の目的」がどんなのかは知らないが、逆にみてみれば
ホンネで「君が代・日の丸」に対して嫌悪感を抱いている教員からすると
受忍限度ギリギリ超えるか超えないかどうか、というレベルかもしれなくないか?

現憲法の下での「指導」だから思想信条に対する指導は有り得ない
ってのがタテマエだ。ホンネはともかく、タテマエは守らなきゃね。
そんなタテマエを守るのであれば、思想信条以外への「指導」となる。

とすると、「勤務態度」だったり「教育者としての態度」を問題にできるだろう。
それを加味した上で、一律に非起立教員を報告するのでなく、怠惰だと見なされる
教員に限って報告するなど、ホンネタテマエ両立を図るコトも可能ではないかな。

もっと言うならば、教員自身の「職務怠慢」をタテマエとして「指導」したり、
あるいは教員の態度を教え子や保護者たちがどのように受け取っているかを
アンケートなどで調査した上で「指導」するってコトになるだろうか。

ただ、一つだけ忘れちゃいけないのは、「子供たちは非常に敏感である」という事実。
もし、教育委員会が教員たちに対して「チカラによる圧政」を行うようだと、
それ自体が「教育上の問題」になりそうな気がするんだよね。

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2008.02.05

あゝ精神論! 言の何ぞ既に古くして、事のなほ今に新しきや

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「あゝ鉱毒問題! 言の何ぞ既に古くして、事のなほ今に新しきや」
(荒畑寒村「谷中村滅亡史」岩波文庫)という言葉の使い方が気に入ったので、
今回は、少し言い換えた上で、ソコへ落としてみる。

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最初から信じてなかったのなら、裏切られても「しようがない」と諦めがつく。
しかし、「信じていたのに裏切られた」というような感覚は、
ほぼ確実に非常に強い嫌悪感となって表れてくるものである。

たとえば「ヒトビトの善意」に強く依存するマナーを期待してみたり、
職業的な倫理観という曖昧な認識を「社会的信用」としてみたり……。
そんな、過去の社会で培われた考え方の多くが、今の社会では揺らいでいる。

特に後者の問題が扱いやすいので、ソコを注視する。
高い倫理観を前提とし、「聖職」とさえ呼ばれたような公共性の高い職業の多くで、
「そうでもない人」が数多く存在しているというコトが分かってきた。

当然、前提とされた倫理観をアテにした仕事を、彼らは行っている。
だけど、社会から担わされている期待感を、たまに崩してしまう事件が発生する。
そして大きな社会問題に発展したりして、その後始末は容易ではない。

問題解決のためとして、しばしば厳しい制裁を伴う規制が加えられたりするから、
旧来と変わらず高い倫理観を以て取り組む人たちにとっては業務上の負担が
増える一方だ。しかも今の世の中、右肩上がりでは到底ない。

だから給料は、たとえ「聖職」であろうと、ほとんど上がらない。
その中で、社会からの風当たりと職業上の規制とが、ただ厳しくなっていく。
てなワケで、仕事しづらさは、相乗効果で悪化していくばかりである。

いっそ、彼らに対する社会の期待感を完全に捨て去って、
その代わりに規制でがんじがらめにしてやって、さらに実績を明快な基準を用いて
判定した上で、相応の報酬を与える仕組みを作るという手もあろう。

また逆に、業界内での相互監視や外部からの通報制度を強化して、
その代わりに規制を弱めるなどの方策も考えられるだろう。
こんな取り組みは、「サムライ業」系など一部の職業であれば有効ではないか。

何にせよ、現状と「あるべき姿」「社会から期待される姿」をしっかり見極めて
そこへ向かっていく道筋を丁寧に作り上げていくなら、効果的な対策はあり得るだろう。
逆に、倫理観だのという精神論ばかり言い合ってたって駄目だ、と思うのだな。

精神論などは大戦末期の日本軍がよく使ったようだけれども、
よーくみれば取り繕いようのない失敗を認めてるだけである。
故事成句を借りるなら、「恥の上塗り」とか、そんな具合か。

小さな組織だって大きな組織だって、ヒトがカタマリで行動していれば、
得てしてどっかしら問題が生じて、放っとけばそれが拡大していく。
だから適宜、大なり小なりの改革を行って、対策を絶やさぬようにする。

精神論が台頭するのは、そうした具体策が尽きたコトを意味しているのだ。
というのも、具体策があって、それが効を奏するであろうと予測できるならば、
そんなトコロに手を出す以前にやるコトが見つかるから。

もっとも、組織内に権力があって手持ち無沙汰で、
しかも自分以外のハナシを聞かないようなヒトがいたりすれば、
また違ってしまうのだろうけど。

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2008.02.04

理系用語で読み解く社会(18) 持続可能な循環型組織に役立つ省エネ型脳味噌

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「なじみの道は、粘性の高い流体の中を粘性の低い流体が一筋通っているようなものだと言えよう」
(ユクスキュル/クリサート「生物から見た世界」、日高敏隆・羽田節子訳、岩波文庫)
生物の脳は、この低い粘性の液体の中を移動ルートとして自然に選ぶようにできている。
「抵抗の低いところ」とか、「エネルギー準位の低いところ」とか、言い換えても良かろう。

たいていの場合、生物にとっては「思考能力のエネルギーを節約する」のが基本らしい。
「なじみの道」を選択すれば、新たな道を探るための思考能力を節約できる。
動物は思考エネルギーの無駄遣いをしないよう設計されていて、
その基本設計は、ヒトであろうと大した違いはないのである。

この考え方は、実は非常に多彩な範囲に適用するコトが可能だ。
すると、世の中ホントに思考能力の省エネが進んでいると分かる。
たとえば、「キレる」という行動パターンは、沸き上がった怒りを抑えるための
「余計な」考えを節約している、というふうに分析するコトが可能だ。

古紙配合率偽装が発覚した結果、グリーン購入法を厳密に適用したら紙を買えない、
と一部の役所で困っていたそうだが、これもまた、しっかりと節約された思考なワケで。
「これを機に、紙を使わず済にむような仕事のやり方に変えていくべきではないか」
……とは誰も言い出さないのだ。たいていは。

紙の文書を手作業でFAXしてやり取りするような「なじみの道」から脱していれば、
もしかしたら1枚の大事な情報が抜けてしまうようなコトもなかったかもしれない。
まあしかし省エネ思考回路であれば目の前の問題以外を意識するコトはないので、
「改善策として、抜けのないようにFAXします」なんて言い出しそうで心配だけども。

こういう考えも、所詮は単なる省エネ思考であり、特に悪意があるワケではないのだとは思う。
でも世間からは、「効率の悪い業務を続けてまで職を確保したいのか」って批判されそうだ。
ここで、「そんなコトではエコロジーならぬエゴロジーではないか」
とか駄洒落を言ったりするのは、流石に省エネに過ぎるかな。

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2008.02.03

グローバル鎖国

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封建制度が良かったとか、幕藩体制が望ましいとは言わぬ。
かつて自立していた職人の一部がアウトサイダーへ、そして不可蝕民へと、
酷く賤視されるようになっていったのは、鎖国下の日本だった。
武士による封建体制が強力に押し進められていった時期でもある。
支配が強化されるにつれ、社会の階層が固定化していった。

今は、しかし日本が開国してから軽く一世紀は過ぎている。
一時的な断絶はあったものの、今は鎖国などしてはいないはず。
でもやっぱり、鎖国時代と似たような感じで一部の職業は賤視される
コトがあるんではないかと思う。ていうか経済格差が大きくなりすぎだ。
そんでもって、世代を越えた格差固定化の兆しも見え隠れする。

こりゃ一体、どういうコトなんだろう。
格差固定化に先立つ格差拡大の傾向は世界規模で進んでいる。
てコトは、いよいよ世界中が飽和してきて、
地球規模の鎖国状態になりつつあるのかもしれん。
だとしたら、次の黒船はどっから来るコトになるんだろう。

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2008.02.02

このクニのカタチ・臨時便B面 内攻性

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江戸時代の政治体制は「非常に小さな政府」だったという。
なるほど、幕府は諸藩の領地に直接の支配力を持たず、
一部の天領を除いては間接的な統治を行っていた。
諸藩では、それぞれの責任において領地を支配・統治し
国難に対しても原則として各藩での対応が行われた。

さらに、支配階級である武士たちも
農村まで完全に目が届くほどには数が多くなく、
むしろ農村では農民たち自身が自治組織を築き上げており、
その監督を行うのが武士たちだった、という程度であったとか。
むろん、最終的には各家庭の自治が存在していたはず。

しかるに維新以降、日本は近代国家になるという大義名分を掲げて
中央集権化を強力に推し進め、そして大日本帝国憲法の下で
確固たる統治基盤を作り上げるに至った。
内実は組織のための組織であったと言えるのではないかと思うが、
強固な上意下達のシステムを全国的に構築したコトは間違いない。

そして日本国憲法の世になってからもまた同じく、
旧憲法下に類似した社会組織システムを使い続けている。
地方自治の権限など、さほど大きく変わったようには思えない。
だから、1世紀以上もずっと「大きな政府」が連綿と
受け継がれ続けているというワケだ。

小さな政府の下では、各階層での統治・自治のために
相応の知恵が各地方で必要になるし、
経験を積む機会も地元で充分に得られる。
だから各地に知恵者や地元の偉人がいたし、ときには
支配層の中枢近くまで抜擢されて善政を敷くコトもあった。

一方、大きな政府の下では、地方の知恵者が活躍する場は少ない。
また、そういう人たちが地方に育つ基盤も揺らいでしまった。
なにせ、まず中央の権威ある学校に入り、そこで学んで
中央の人脈を得て中央官庁や大企業で活躍しなければ、
まず栄達の道はないと言われるような風潮になっていたのだ。

幕府支配を打ち倒すという熱意に燃えて立ち上がった連中などは、
それぞれ中央から離れた地方から出てきたワケだが、
結局のトコロ内に内にと中央へ向かっていく流れを作ったコトになり、
それが何世代かの歴史の中で長期的な影響を及ぼしていた。
そして最近になって、地方置き去りという形の弊害が顕在化したのである。

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2008.02.01

このクニのカタチ・臨時便A面 組織禄

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戦後の日本は、経済的には開国していたが、
国内の実態としては鎖国が進んだのではないかと思うコトがある。
敗戦直後は日本にも多様なヒトビトがいたというのに、
高度経済成長時代を通じて「日本人」は次第に均質化されていき、
一億総中流サラリーマン核家族高学歴、となっていった。

異質な存在は減った。あるいは、いても目立たなくなった。
比較対象が限定された中の人にとっては客観化が難しくなる。
まして社会全体が一塊になって動いてたりすると、なかなか実感できない。
管理職が、いつしか実態と乖離した「割の合わない役職」となっていて、
ようやく最近になって慌てふためいて対応し始めたりしている。

特に団塊ジュニア世代あたりでは実感として分かってなかったりすると思う。
管理職って、何をどう管理して、どんなふうに統制されるものか、
その肩書きに相応しい具体的な働き方を、あんまり見てこなかったから。
だもんで、自分が「名ばかり管理職」になっていると気付きにくい。
同じような存在として、「名ばかり自営業」ってのもある。

自立を前提としている自営業や、自己管理を前提としている管理職だが、
今の実態をみてみれば、企業のガバナンスがどんどん強化されていく中で
そういった自律的な行動がどんどん制限されていくばかり。
企業は、様々な規則やマニュアルを上手に用いて中央集権を強めていく一方である。
これぞ組織力。あたかも自我を備えているかのように組織が自己の利益を追求する能力である。

しばしば言われているコトだが、組織の自我は非常に利己的であり、
善悪の規範なども「基本的に法に触れなければ善」と、至ってシンプルだ。
そんな組織でも、しかしヒトが構成要因であるのだからヒトの善悪判断が少しは働く。
実際、かつては「○○の善意」などと称される人間が、しばしば存在した。
組織のルールに則って(ときには無視してでも)、その善意を体現しようとしていた。

だけど「善意」が働くには、組織に余裕がなくてはならない。
ある程度の異物を許容するだけの懐の深さが不可欠だ。
「善意」氏の行動は、しばしば組織の利己に反するコトもあるから、
組織は隙あらばその権限を奪い、無力化しようと腐心してきた。
それが利己的な組織の生存本能なのだから「しようがない」。

組織は不況やらグローバル化やら、様々な大義名分を見つけては
合理化やら再構築やらを行い、少しずつ「善意」の力を削いでいく。
「善意」は権限を制限され、椅子を失い、そして老いて疲れて出て行った。
一方、「善意」の再生産は、社会的な教育によって減少の一途を辿る。
平和な日本社会という巨大組織の中に育った子供たちは、面倒事を好まないのだ。

「名ばかり管理職はおかしいんじゃないか」と社内で発言するコトは
「王様の耳はロバの耳」とか「王様は裸だ」と叫ぶようなもの。
定本とされるストーリーの中で、彼らの末路は対照的だが、
どっちかというと平時には「床屋」の方が多かったんではないかな。
高度経済成長時代、生い茂る葦は刈り取られるばかりだったし。

とはいえ、戦争直後のように多様なヒトビトが存在すると
さすがに社会の混乱を落ち着かせるのに苦労しただろうから、
平和を重んじる人たちにとってみれば、
そういうヒトビトが次第に均質化していったコトも
それなりに有意義な変化ではあったのだろうけれども。

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