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2008年3月

2008.03.31

たまには時事ネタ(14) コドモとオトナの間には浅くて広い溝がある

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そういえば成人年齢についての議論が始まっていると聞いた。
法律的には厳密な定義が必要なのだろうと思いつつも、
それでも線引きをするコトが本当に重要なのか疑問を抱く。

だいたいにして、コドモからオトナへと移行する期間は非常に長く、
むしろグレーな範囲が10年以上に渡って続いているのではないか。
そして、ひょっとしたら年老いるまで、どっかはコドモでいるかもしれない。

肉体的には、10代後半あたりには成長が止まってくるので、
そのあたりからオトナになってきたと言うコトができるだろう。
で、そこから先は「外はオトナ、中はコドモ」というワケだ。

だが精神的な成熟に関しては、個体差が非常に大きい。
しかも、その評価手法さえ確立しているとは言えない。
そもそも、「オトナって、どんなの?」という定義の問題もある。

だからこそ、どこかで線引きをしたくもなるのだろうな。

周囲の青年たちを見ていると、おおむね三十路に差し掛かった
あたりで、ほぼ自律的な思考を身に付けるコトが多いように思える。
ちょっとだけ先に歳を取った身からすると、そんな印象だ。

とはいえやはり個体差も大きいし、人によっては得意不得意があり、
「この分野ではオトナだけど、別の部分はコドモ」という具合に
それぞれ固有の成長をしているように見受けられる。

まあ何というか、「いつまで経ってもオトナにならない部分」てのも
また人それぞれにあったりして、それはそれで良くも悪くも個性という
気もしなくもないのだけれどもね。

などと、すでに中年の男が、とりとめもなく考えてみた。
そういえば、そろそろ迷ってなんかいられない時期だな。
ていうか中年ってのは、どういう定義にするのが良いのかね?

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2008.03.30

神様なんかじゃありません

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「安かろう悪かろう」と、その逆の「高かろう良かろう」が
すっかり今の世の中ではゴチャゴチャになっている気がする。
それが良いのか悪いのか、考えてみると、良く分からない。
まあ弊害もあるとは思うので、そっちを考えてみよう。

日本は、良いモノを安く、というのが得意だったが、
高級品を作って高く売るのは得意じゃなかった。
そして顧客を育てる観点は、たぶん皆無だった。
「お客様は神様」というくらいだから。

逆に、客の側にも、サービスする側を育てよう
なんて意識が、すっかり見受けられなくなった。
互いに影響を与え合って、そして成長していくのが
望ましい関係であると思うのだけれども。

もともと本物の高級商品・サービスの世界には
庶民が入れない枠があったと思うのだな。
それは社会的には格差だったかもしれないが、
密な関係を構築・維持するのには役立った。

そんなカタチが崩れて、良かったか悪かったか。
少なくとも、「カネもロクに払わないくせに偉そうにする客」
ってのを、サービス側が追い払える根拠は失われた。
(しかも、客を教育するほどの時給も貰ってないのだ!)

雇用者と被雇用者の関係も同様。詳しく語るまでもあるまい。
じゃあ規制すればいいじゃないかと言えば、規制は抜け穴があり
それをさらに規制していけば、いずれがんじがらめになってしまう。
ていうワケで規制緩和の流れになって、ルールもなくなった。

そういえば、株主を育てる会社なんてのも聞かない。
あ、反面教師的なのは別だけどね。当然、逆もまた然り。
公共サービスとか、そういう部分にも、
やはり同じようなハナシがあるように思う。

まあどいつもこいつも、自分勝手が第一なのだろう。
もちろんそれはヒトの性であるのだから致し方ないのかもしれん。
でもヒトには知恵もあるじゃないか。
その知恵を働かせてやった方が結果的には良いと思うのだな。

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2008.03.29

戦略的教育の戦略の私案を思案する・結語

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前置きが長くなりすぎて前中後編では結論が入らなかった。
(なんて戦略性のない……)

きちんとした民主主義が定着するには、まず第一に、
要求するコトと我慢するコトの両方を、
多くの人々が備えていなくては難しいと思う。
そのために有効な教育を考えるコトは、
ヒトが社会を構成するようになってから、ずっと課題だ。
もちろん今後も非常に大きな課題であり続けるだろう。

たとえば、問題の認識能力を育てているだろうか。
問題点に気付き、それを明確に識別する能力を。
無数の要素の中から特に注意すべき点を迅速かつ的確に
見出していく能力を鍛えるような教育なんて、
試験の「引っ掛け問題」対策くらいしか行われていないよね。

山積する社会的な課題の中で、特に急を要するコトは何か、
あるいは、慌てる必要はないが地道に取り組まねばならないコトは何か。
そういうのを見極める能力が身に付くコトを経験豊富と言うのだと思う。
しかし、それができなければ、議論もへったくれもないだろう。

また、利害の対立する相手と冷静に議論をする教育も行われていない。
特に「勝ち負け」とは違う次元での結論を求めるような議論に関しては。
勝ち負けは、ビジネス上では大きなメリットになるだろうけど、
社会の安定にはむしろ三方一両損で軟着陸させて合意を形成するような
微妙な結論に落ち着いた方が役立つ。
なにせ、誰かが勝てば、ほぼ確実に怨み妬み嫉みが出て禍根を残すからな。

そもそも勝ち負けを前提としていては、相手を打ち負かすコトばかりに
力が入ってしまい、相手の価値観を認める能力に結びつきにくい。
そうではなくて、互いの価値観を理解し、その上で両者の立場を慮って
双方が自発的に譲歩し合うような結果を出していかなくては。
そういう議論が、政治の世界には必要なのじゃないか。
でも、そんな教育、指導要領に入ってたっけ?

近年では小さな地域単位での「自治会」の崩壊が進んでいるが、
これもまた実は日本の民主主義の根本を揺るがす兆候なのではないかと、
最近は思うようになってきた。
身近なトコロで話し合って解決する習慣がなければ、
大きなテーマを話し合って解決しようという気にもなるまいから。

それはまた、家族内の問題についても言えるだろう。
核家族化が著しい、というか各人バラバラに、
ほとんど一人ずつで生活していては、
話し合う機会すら得られないのだから。
家庭や地域を変えずに教育だけで対応しようとするなら、
なおのこと教育手法にも工夫が必要となる。

それとも、今から家庭や地域を変えていきますか?

個人的には身近なトコロ、それこそ友人たちとの対話あたりから、
まずは取り組んでいくつもりだが、焼け石に水とならぬよう願うばかり。

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2008.03.28

戦略的教育の戦略の私案を思案する・後編

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ニュース映像などで国会などの様子をみていると、
目の前の政敵だけを相手にしてるようにしか思えない。
インタビューに出てきても、まるで自分のコトとは
違う世界の話題を語っているかのような「他人感」。
政治屋というのは、こういうのを言うのかとも思う。

もちろん、たまには例外もある。
たとえば、ちょっと前の首相は語り口が大きな特徴で、
久し振りに国民から高い支持率を得た首相となった。
けど、それは舞台の上の役者が独白してるみたいなもんで、
要するに相手のいる議論というコトはしていなかった。

やはり、「見せる議論」のできるヤツは、日本にいないようだ。
でも、政治家の活動は言うまでもなく国民の目に触れるもので、
彼らの商売としては当然ながら見られるコトを意識すべき。
その上で、長年培ってきた政治活動の能力を活用して、
自らの一貫したポリシーを示していかねばならんのじゃないか。

反面、見る側の問題も指摘できよう。
「踊る阿呆に見る阿呆」とは言うが、議論を冷静に聞いて評価する
ような訓練を受けた国民など、おそらく一握りしかいないだろう。
となれば扇動されてしまっても文句が言えない。
内閣支持率が乱高下したりするのも、当然だ。

さらに言えば、「見せる阿呆」にも問題がある。
ワイドショーで誰かを悪者に仕立て上げて叩けば一丁上がり。
何か問題があれば反射的に「辞めろ」の連呼。
「疑わしきは徹底的に罰してしまえ」ってコトか。

いろいろ調べ物をする立場としては、メディアの報道内容を
鵜呑みにするのが危険だと分かっているけれど、
ここまで執拗に「出る杭を打つ」のは、日本的な精神性の
悪い面ばかり強調しているようで、いただけない。
(良い面もあるのだから、それを伸ばしてもらいたいのだけれども)

まあそうでもしなけりゃ稼げないってコトなんだろうけど、
視聴者より広告代理店の方を見てばかりいる電波媒体や、
部数だけで勝負していて読者を育ててこなかった新聞、
それどころか読者に「ゆとり教育」を施してきたような週刊誌などは、
果たして自身の責任にお気付きか。
狭い世界のみを注視して戦略なき戦いを繰り広げてきた結果、これだ。

ともあれ、こうして煽り煽られ釣り釣られ、の世界が出来上がる。
いろいろ考えていくと、踊る阿呆も見る阿呆も見せる阿呆も
それぞれお互いにアタマ悪くする方向へ作用している気がする。
思考停止の連鎖反応だ。

「オレは違うんだぜ、へへ」っとせせら笑うつもりはない。
この国にいる以上は「見る阿呆」の一人だし、こうしてブログを
書いているのだから「見せる阿呆」の側にも立っている。
(読者、ってほどの人数はいないと思うけど)
だからこそ、このような悪循環が心苦しくてならない。
嫌気が差す。だからこそ見る。そして悩み考える。
新しい認識に気付いたとき、できるだけそれも受け入れようと努力する。

思考停止は極端な反動形成に繋がりやすい。
経済が冷え込み消費マインドも落ち込み、「明るい材料」を求める。
それが得られなければ代償として「暗い気分を吹き飛ばす話題」を。
そんなふうに強い刺激を求める世論のおかげで、
政権の天秤も右に左に行ったり来たりで運動エネルギーを失うばかり。
そして次第に日本全体が失速、墜落に至る……。

理解できないと言うのは勝手だし、
思考停止に陥らないようにする努力を放棄するのも勝手だが、
だったら発言も行動も停止していてくれた方が世の中の為ではないか。
もっとも、それでsapiensを名乗る資格があるかどうかは、
別途じっくり考えねばなるまい。
もちろん、自分自身の胸にも手を当てて。
独善的に毒舌でいればいいというワケでもないのだ。

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2008.03.27

戦略的教育の戦略の私案を思案する・中編

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日本の教育というのは、「縦割り教育」だと思う。
各教科の関連性は皆無に等しいのだ。
それどころか、教科内での関連性も薄い。
だから、知識重視の授業をするとしたらそれは
単なる詰め込み授業となり、弊害が指摘された。

逆に、ゆとり教育とやらの場合は、もっと酷い。
ただ薄い知識を与えるだけになってしまう。
「考える力を」という主題がブレていたせいか
実践に耐えるレベルで現場まで徹底するコトが
結果的にできていなかった。

知識ってのは、他の知識と関連し合うコトで
脳内での重みを増していくものだ。
そしてその結びつきが増えれば増えるほど
思考訓練の機会も飛躍的に増えていく。
結果、「考える力」に繋がる。これが戦略だろう。

まず身近なモノゴトに関連するカタチで
新たな知識を教え込み、さらにその知識に
関連する知識を重ねていくのが望ましい。
しかし、今の子供たちにとって身近なモノゴトは、
教員たちが子供だった時代とは大きく違うようだ。

すると、教える側の問題が見えてくる。
教育者やその関係者は、今の子供たちの生活を
知り尽くす必要があるはずだ、と言えるだろう。
それも「教えられるレベルにまで」、だ。
これが今、非常に難しいのではないだろうか。

然るに学校は、あるいは教育委員会は、
教員たちにそんな時間的精神的余裕を与えているか。
さらに言えば、学校や教育委員会に対する社会からの要求
とやらが、歪んではいないだろうか。
カネは安く、要求は高く、しかも家庭は何も教えない。

サービスを受ける側の対応次第でサービスする側もダメになる、
といったハナシは以前にも書いた。
教育においても同様の事態が進んでいるようである。
だから社会全体の教育に関する意識が変わらねば、
教育全体の体質を改善していくコトはできない。

「こんな社会に誰がした」と問われれば、
「みんなでやってきたじゃないか」と答えたい。
まあしかし、そんなに罪悪感に苛まれてはいけないよ。
かなりの部分はヒトの性に起因するものだからね。
むしろ大切なのは、それを知った後、どうするかだ。

「どう考えて、どう行動するか」を考えてもらいたい。
そのコトが重要である理由を考えて納得した上で、
実践して結果を目指すよう意識してもらいたい。
で、より多くの人をそのように仕向けるコトが、
まさに戦略ってコトになるワケだ。

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2008.03.26

戦略的教育の戦略の私案を思案する・前編

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戦略というのは、どのようなコトなのか、考えてみた。
多くの人が自らの意思で考え自発的に行動し、
しかも互いに自主性を保ちつつ協調的な動きをして、
単なる個人や烏合の衆的個人の集合体では不可能なほどの
大きな結果をもたらすようにするもの、といった定義ができるか。

そのためには人材育成や評価、人事といった面も含め
幅広い視点で考えていかねばならない。
要するに、ヒトの周囲の環境を作るコトなのだから。
それ自体すでにヒト一人の力では不可能なものであり、
ちょっとしたパズルを解くような知的ゲームとなる。
だから戦略の実践は状況判断から始まるのだろうし
定石というのも存在しにくいのだろう。

世界の全てを読み尽くそうにも、
ヒトはあまりにも小さな存在だ。
能力も時間も、まるで足りない。
だからこそアタマを使えというワケだ。

問題点や、その前兆を捉えて改善していくには、
そのための訓練を積んでいなければ難しい。
さらに言うなら、「あるべき姿」を常に念頭に置き
そこへ向かう道筋を描いて、ズレを見付けるコトが大事だ。
だから、意識し考え続ける癖をつけるコトが不可欠。
……と、「現場力」を語る講演で聞いた。

組織としては、癖をつける戦略を練って実施する一方で、
癖をつけるには躾をせねばならないのだから、
躾を受け入れる素地があるかどうかの選別も重要だ。
企業などでは、ある程度の事前選別も可能だろうし、
採用してから素地を鍛えるコトもできるだろう。
ただし最近では、あまり行われていないようではあるが。

また、社会人の前段階においては、教育が非常に重みを持つ。
だから、社会全体を良くするためには教育戦略が必須で、
そらには学校のみならず家庭や地域での教育も重要だ。
良い方向への循環を作り出す、その方向性というものが、
しかし今の日本には、ほとんど欠如してしまっている。
いや、揺らいでいるというのが正解か。

価値観が安定していて、変動の少ない社会であれば、
教育戦略のかなりの部分を半自動化するコトが可能だろう。
でも、今は違う。
教えたいコトを適切に教え、人材を育てていくには、
現場はもちろん関係者にも戦略眼がなくてはならない。
その上で何が必要か、また日を改めて考察してみよう。

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2008.03.25

そうか、君は気付いてしまったか

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考えて気付いていくコトこそがsapiens。
自分で考えて気付くのは、とても楽しいよな。

だから、自らの力で結論に辿り着こうとしているトコロに、
余計な口を挟んだり手を出したりはしない。

最後の宝は自分自身で取り出さなきゃ、楽しさも半減だから。
そしてその先に、さらに道があると気付くだろうから。

ヒトがヒトであり続けるってのは、
きっとそういうコトなんだと思うよ。

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2008.03.24

理系用語で読み解く社会(23) 行ったり来たりの波打ち際の崖っ淵

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農業廃棄物によるメタン発酵やエタノール発酵を実用化し
農山村でエネルギー生産を行うという手法が研究されている。
そういう話題にも示されるように、再び地方にも産業を分散して
いこうとする動きが、ようやく実現に近付いてきたようである。

しかし最近、リスクは逆に個人レベルへ分散されてきつつあるようだ。
一部の技能労働者では「個人事業主」として働いているが、
実態としては特定の企業の体制に縛られて仕事をせねばならず、
しかも企業からはリスク保証も得られないというケースがある。

派遣社員など非正規労働者とか、「名ばかり管理職」とかも同様。
権限は全部企業の「ガバナンス」の範疇として組み込まれてしまったし、
その分以上にカネを企業が持って行ってしまって、リスクだけ個人。
自営業やアルバイト、管理職などは「自己責任」だという論拠で。

株式など証券類に関しても、多くのリスクはチャンスとともに
個人レベルへと落とされてきている。
社会保障関連においても、受益者負担の名の下に
コストが個人レベルへと分散されてきた。

ヒトの歴史には、集約して分散する、その繰り返しの過程が常にある。
しかしその中で細かく見てみると、いろいろと動きの違いが見受けられる。
全体が一斉に動いているワケではないのだな。
中のモノの動きは、それぞれの特性によって様々だ。

時代が変化しても全く動かない、あるいは容易に動かないモノ
逆に迅速に動いていって、落ち着き場所がないようなモノ、
そして中には、特定の方向にのみ動きやすいモノもある。
浜辺に漂着物が打ち寄せられるように、何かが一方の側に運ばれたりする。

中央と地方との移動が難しくなる中では、
そうした方向性がより強く前面に出てくるコトだろう。
一方、サイクルが早くなったコトで、また違った影響もありそうだ。
それは疲労だろうか。加重でのハナシじゃないから違うよな。

むしろ波動だろう。集中したり分散したりで生じるのは圧縮波。
周波数によっては、ヒトや社会体制との共鳴もあるだろう。
たとえば、少なくとも今の立法制度は社会情勢に追いつけていない。
また、世相の変化が世代交代に重なれば非常に大きな変化となる。

周波数帯域が変われば、特性は大きく違ってくる。
ヒトが、それに見合った思考サイクルを身に付けるのは難しい。
となれば社会システム的に対応できる環境を整えねばなるまい。
新たな社会制度の考え方を作っていかなければ、対応できないのではないか。

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2008.03.23

バッファリングは優しさ半分

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ソメイヨシノという品種の桜は、江戸時代に作られたコトで知られる。
一方、蒟蒻芋の加工方法も幕藩体制下でに完成したという。
かつて太平洋を越えて北米を爆撃した「ふ」号兵器にも、その製法が
基本的に受け継がれていたというから完成度も高かったのだろう。

さて、時代を問わず生産、加工、物流の技術革新というのは、
モノの流れを大きく変え、関係するビジネス全体に大きな影響を及ぼす。
蒟蒻のような製品は流通経路が比較的シンプルなので、
その研究対象として手頃な材料になるのかもしれない。

「生芋を粉にして保存や運搬を容易にする」という加工法が発明された
結果、蒟蒻は各地の山村にとっての貴重な換金作物になったのだとか。
相場が安定しないことから、粉の商売は投機的なビジネスにもなったが
それは却って農家や仲買人たちに、仕事の「やりがい」を与えたという。

投機的商品であったがゆえに、それぞれが出荷時期を探り合うコトになる。
蒟蒻産業では、農家、仲買、粉屋、練り屋という4段階の流通経路があって、
農家も仲買も粉屋もそれぞれが好機を狙って個々に在庫を抱えており、
それが結果としてリスクに対する「ダム機能」を果たしていたとのこと。

「こんにゃく業界にあって相場変動は、流通・生産体制の絶妙な
バランスを保ってくれていた。いわば不健全といわれた相場変動と
投機性が、じつはこんにゃく業界の健全機能をつくりあげていたのだ」
(武内孝夫「こんにゃくの中の日本史」講談社現代新書)

余談だが、その相場変動と投機性は上州人の気風に合っていて、
ために後の時代には群馬県に蒟蒻産地が集中したとか。
戦後には、蒟蒻産地を地盤とした大物政治家もいたっけな。
今にして思えば、冷戦末期を上手に渡り歩いた希有な首相だった。

それはともかく。

高度経済成長で機械化が進み、蒟蒻の生産も流通も加工も効率化された。
その影響でモノの流れが変わって在庫ダム機能は失われていった。
農家が蒟蒻芋の加工をしなくなり、収穫した芋は即座に粉屋へ運ばれ、
製粉・出荷されるようになった。その結果であったと説明されている。

経済が発達して流通経路が集約されると効率は一気に向上するが、
同時に様々なリスクも少数のポイントに集約されていくコトになる。
とはいえ、そのリスクが現実になったとき損害を蒙るのは業界全体なのである。
生産者から加工流通、販売に至るまでの全体が冷え込んでしまう。

効率化が必ずしもリスク集中に結びつくとは限らないが、その割合は低くない。
特に、地方経済が絡んだ場合には、ほぼ常に資本や物資の都市部集中が伴い
その結果として山間部などの産業を衰退させ、空洞化させていく。
それは、たしかに効率的ではなかったけれど、大切な役割を担っていたのに。

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2008.03.22

しんではなみがさくものかい?

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「それよりいっそ」というのは、自殺や心中などに繋がる心理に近いと思う。
人が自ら死ぬコトを選ぶ自由は、おそらく許容すべきなのだろう。
けれども周囲に迷惑や心配をかけるコトもほぼ確実だと、考えてほしい。
先立たれた身内にしてみれば恨み半分。巻き添えなどとなれば言語道断。

その人間が死を選ぶのを「見過ごした」結果に対しては、
もちろん周囲も責任逃れなどできないだろうけれども、
だけど、死んでしまったら償いを求めるコトさえできないではないか。

今年もまた、桜の咲く季節が訪れた。
日本人の多くは、文字通り「華と散る」その姿に目を奪われる。
その無情に散っていく様子にさえ、日本人は思いを馳せる。
けれども桜は、また来年も花を付けるものだ。

そのことも、きっと(意識的にせよ無意識にせよ)折り込み済みで、
必ず復活するという確信を持って咲いては散る桜を見ている。
挫折しては立ち上がり続けた日本の近現代史とも、それは重なる。

しかし、ソメイヨシノは桜の中でも特に寿命の短い木だという。
古老木と呼ばれる桜は、ほとんどが山桜など在来種である。
節操もなく花に覆われるくらいの勢いだから疲弊しやすいのかもしれない。
気付けば、幹や枝が生きながらにして朽ちかけていたりする。

傷の治りが遅く、しばしばそこが腐って空洞になったりする。
樹皮のそこかしこから樹液が染み出している個体も多いが、
それは動物でいえば吹き出物や潰瘍に相当するのだろう。

いくつかの混乱を乗り越えてきた日本。
そろそろ、そのカタチ自体が寿命となりつつあるのか。
コノハナサクヤヒメの伝説なども併せ考えると、このくらい節操なく
花を咲かせまくって早死にする桜の方が日本人的なのだろうけれども。

でも、そんなソメイヨシノを、
しかし日本人は大切に接ぎ木や挿し木で殖やしてきた。
倒れる前に、きちんと受け継いでいく、それが伝統というものだ。

かつての少年は中年となって「老い易く学成り難い」コトを実感している。
こんな何も持たぬ身とはいえ、そろそろ受け継いでもらう先を探して、
伝えていくような努力をせねばならん時期なのかもしれないな。
そう思いつつ、夭折した妻の位牌に手を合わせた。

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2008.03.21

右か左の旦那様

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先の大戦においても、日本は直接の戦闘行為によって
戦果を上げるコトにのみ注力し、それ以外の観点では、
ほとんどさっぱりと切り捨てていたとされる。
で、挙句の果てには継戦できない方向に自ら踏み込んでいってしまった。

直接戦闘以外には興味を抱かず、その必要性にも認識が至らない人たちが、
少なくとも軍の中枢では大きな発言力を持っていたというコトなのだろう。
そういう連中が数の上で多数派だったかどうかはともかく、
声の大きさとしては優勢だった、と言わざるを得まい。結果をみれば。

日本人は、ひょっとして戦争に幻想を抱いていたのだろうか。
そしてその幻想は1億人の共同幻想として存在していたのだろうか。
「士気を下げるから」との理由で、都合の悪いデータを全く無視して封殺して
その情報に気付いた人を左遷してまでも、儚い夢を見続けたかったのだろうかね。

情報戦や兵站などの補助業務、また受け身の戦いである地道な防戦などは
積極的な戦果には結びつきにくい。つまり目立った結果が見込めない。
だから、やりたくない。「戦果を挙げたい」「せめて華々しく散りたい」と。
でも、だったら地道にやってる人のコトをこそ大事にしてほしかったね。

特に、立場や役職に相応しい人事だったかという点には疑問が大きい。
基本的には試験の成績や年数に応じた単純な序列と、その序列を
入れ替える特別な要素として「華々しい戦果」があったようだが、
おそらく、地味な仕事に対する評価制度などなかったのだろう。

現代の企業や官公庁などにおいても、同じコトが言えるだろう。
人事制度は、単に士気を引き出したり減退させたりするだけでなく、
その「やる気」の方向性をも大きく左右するものなのだ。
「人が自発的に会社のためになるコトをして結果を出し、評価される」それが上策。

逆に、点数稼ぎに走る警察とか、事なかれ主義を貫く役所の職員などは、
組織の目的に合致していない評価制度の賜物と言って差し支えなかろう。
そういう制度面の規制は、しかし残念なコトに組織自体が勝手に変えるコトも
できない存在だから、公務員の仕事環境というのは非常に恵まれていない。

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2008.03.20

間抜けの殻

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日本では軍備のネタがタブー視されがちな伝統がある。
安全保障に関する話題などで、しばしば見受けられる。
まあそれは平和憲法の考え方に沿った方向性として、
つい陥りがちな思考停止問題の一つなのであろう。
とはいえ、軍事力という積極的な国防はともかく、
それ以外の観点での危機管理意識が弱いのは困る。

たとえばエネルギー問題、あるいは食料問題、雇用や社会保障、
そして各種社会インフラの安全管理や外交面の危機管理などなど。
小さなトラブルを拡大させて取り返しのつかない
大問題にしてしまう原因として、たいていは
意識不足や認識の甘さが挙げられる。
その都度、損失を出したり周囲に助けられたり……。

何にせよ、まずは危機感を持ち続けるコトが重要だ。
そのためには、「失敗学」的観点でみれば
「忘れないでいる」ようにする取り組みが大切となる。
放っておけば、良くない記憶は風化してしまう。
いかに良くできた制度であっても、いずれ形骸化するのだから、
問題が大きくなる前に気付き、素早く対策を施していかねばならない。

病的な性質に悩む芸術家が、しばしば印象的な作品を作ったりする。
それは、心を揺さぶられた経験が豊富だから、かもしれない。
たしかに、うまくやっている人がその様子を描くのは非常に難しいし、
たいていは単調になってしまって詰まらないモノになるだろう。
だから、「うまくいっている現状」には飽きられてしまう。
そうして、「うまくやるための手法」が忘れ去られていく。

経済的に安定成長を維持するコトは、国にとっても重要だ。
しかし、その経済活動の恩恵を受けるためには、
人々が安心できる状態にあるコトが不可欠である。
安心ってのは、日々の努力でようやく作られるはずのもの。
だけど高度経済成長時代には、「それが当たり前」になっていたり、
あるいは「誰かが守ってくれるから」、人々は忘れていた。

経済が崩壊したとき、その立て直しにばかり躍起になって、
昔は大事だったソレを忘れたまま常識化してしまった。
いったん退化して失われた機能は取り戻せない。それが生物の常識。
すでに退化しきってしまっていたのだろう。人々の心の中では。
段階からジュニアへと、大きな世代の入れ替わりもあったから、
いろいろな考え方も一緒に入れ替わったのは間違いあるまい。

同じような機能が必要なら、新しく作り直すしかない。
作り直すには、最初から作るのと変わらぬ労力が必要だ。
いや、以前の機能を参考にして、今の時代に合わせていくには、
さらなる努力と工夫がなければカタチにさえならないのではないか。
しかも、そんな時代にありながら政治や官僚組織のカタチは
一向に変わった気配を見せてくれない。こりゃ無理かな?

規制強化も規制緩和も、何でも一律にしかできないなんて、
ヒトのやるコトとは到底思えない。とにかく硬直しすぎている。
これじゃ都市と地方、企業と労働者の格差を調整するのも無理だろう。
柔軟に考える能力と職業倫理と行動力を併せ持つような人材を集めて、
その能力を維持向上する組織を作っていかねば、時代に追いつかない。
でもそんなコト、今の官公庁では、おそらく不可能だろうね。

なにせ安穏に暮らせる組織ってのは、ヒトを駄目にするからな。

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2008.03.19

理系用語で読み解く社会(22) 大統一共栄理論

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テロリズムはルールなき戦いとして嫌悪されている。
もちろん、その行為自体は非難されるべきものだと思う。
だが、そういう選択肢を取らざるを得ないまでに追い詰められて、の場合もある。
追い詰めたのは誰か。そっちにも目を向けたい。

動物が、たとえば群れのボスの座を賭けて戦うときなどは、
あまり殺傷能力のない戦い方を使うのが基本だ。
たいていは鋭い牙や爪、角などを使わずに、示威行動や力比べをする。
流血沙汰になるのは、それでも決着がつかないときだけ。

一方、襲いかかってきた肉食動物に対して草食動物が反撃する際には、
手段を選ぶ余地がないので、もっと効果的な攻撃手段を躊躇わず使う。
最近では、詳細な観察のおかげで例外も多いコトが分かってきたが、
だいたいにして明確なルールの使い分けが存在しているのだ。

戦争が、原則として武装した集団どうしの間で行われていた頃、
あるいは互いの顔が見える距離で斬り合い打ち合いをしていた頃、
それでも逸脱は大きかったようだが、今ほどではなかったのではないか。
今の戦争は専ら「非対称」。肉食獣対草食獣みたいなもんだから。

もし、一部の人々が自分たちの立場を草食獣の側だと認識すれば、
かれらは手段を問わず生存を賭けて戦うことだろう。
世界規模の大戦が行われた時代から、そういう傾向はあった。
大戦そして冷戦を経て、さらにその傾向が強まったのだ。

非対称な関係を力で押しつけて維持しようとする、と思われたら
(勢力の大きい側の意識に関係なく、小さい側がそう思ったら)、
必死の反発、そして決死攻撃へと向かう流れが生じてしまう。
結果、悲劇は拡大していくばかりだ。

新しいルールには、新しい戦い方が必要か?
意識していようといまいと、自分で作り上げたルールを
周囲に押しつけていたりはしないだろうか。
その上で勝った負けたと言うのは、どうにも変だ。

9.11以降、合衆国では「テロに関係している容疑者には拷問も辞さない」
という厳しい方針で、非対称の戦いに本気でのめり込んでしまった。
半世紀以上経った今になっても「カミカゼ」を理解できないから、
クレイジーな行動として思考停止しているから、そんなコトをしてるのだろう。

そのあたりは米国に対し、きちんと日本人として
説明してやった方がいいのかもしれない。
もちろん日本としては、他の国の人たちから
いろいろ聞くこともまた大切だろうけれども。

対照的に、日本の調査捕鯨船団に対する白人の「環境テロ」なんてのもある。
でも彼らは追い詰められているようには見えない。むしろ楽しそうじゃないか。
たぶん、テロと呼ぶのは不適切なのだと思う。
アレは彼らのルールに沿ったコミュニケーションの一環と考えるのが妥当だ。

おそらくそれは多くの日本人のルールとは大きく隔たっているのだけれども、
それでもなお日本は徹底して紳士的な対応に努めるのが正しいだろう。
もちろん、紳士というのは好々爺ではないのだから、国際法すなわち国際的な
ルールを逸脱するような行為に対して厳しく対処するコトも含めて、真摯に。

ハナシを戻そう。怨みの連鎖は拡大してしまいがちなものである。
一人殺されたら何人も殺して返せば済むのか。そうではないだろう。
何人も殺されたら、何十人も殺されて返されるのではないか。
応酬するうち何十人が何百人何千人と犠牲者ばかり増えて最後は焼け野原。

そういう問題点が分かっているとはいえ、
社会の動きは個人の力で押しとどめられるモノでもない。
社会の問題点を指摘しようとして、その社会から抹殺された
人たちの数も、また枚挙に暇がない。

軍部が統帥権に陶酔する件よりペンの方が弱いのだった。
軍国主義に傾倒していく世の中で平和を説くコトは生命の危険を伴う。
それに逆らって死んでいくのも、一つの生き方だと思う。
けど、平和を説くという割には雄々しくありすぎるような気もする。

としたら、ひたすら逃げて逃げて逃げまくって生き延びて、
いずれ来るであろう戦後に備えるという生き方も、
ひょっとしたらアリなのかもしれないな。
流される血と涙を減らせるかもしれないし。

もちろん、ほぼ確実に、卑怯だと非難されるコトだろう。
でも、殉教者や即身成仏のように尊崇の対象になるばかりで
将来の世の中を見届けられないってのも好かない。
むしろ無名の凡人として世間を見続け、死んでいくのが性に合う。

さて。

科学的には、個々の分野のルールを見付けていく一方で、
それらを網羅する統一的なルールを見付けようと研究が進められている。
日本には日本のルールがあり、欧米白人社会や中東イスラム圏にも
それぞれ異なるルールがあるが、それらを網羅するルールも必要だ。

素粒子論的には、対称性の破れが、この世界を形作っているともいう。
パワーゲームなんかも、非対称であるからこその世界、なのかもしれない。
むしろそのあたりを突っ込んで研究してみないことには、
ヒトというものの大統一理論も見えてこないのではないかな。

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2008.03.18

科学系ヨタ話(6)  exoteric japan

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先端的な分野の研究や技術、産業などに関して、
「オールジャパン体制でなければ勝てない」
という言い方が、よく聞かれる。

まあそうかもしれないな。世界の中では。
数十億人の中の1億人強というコトは2%くらいだ。
その中で、さらにバラバラにやっていては影響力も弱くなってしまう。

実際、過去の反省もある。
国があまりに無策で、国内の技術シーズが各個撃破の対象になったり、
人材の流出が生じるなど、不利な面があったのも確実である。

ただ、個人的には妙に引っ掛かるトコロがある。それは何だろう。

まずは、コレを「挙国一致体制」などと呼んでしまうと、ちょっとアレだ。
まだ国策というものに対する懸念は完全に払拭されたワケじゃないし。
そして、「誰が勝つ」でもないんじゃないかという考え方もあるだろう。

「科学技術は国の礎」だというのは昔から変わらない。
そのための教育も欠かせないのは一緒。だから、やはり昔から
国力のバロメーターとして識字率が用いられていたりするのだ。

それはそうと日本の政策って聞くと、なんかね。
特に科学技術や文化育成といった分野で。昔からアレだ。
官僚主導でやってしまうと失敗するんじゃないかという現実的な懸念が残る。

結局、日本が「最適化」や「マネジメント」を不得手としているコト、
特に官製事業において、そういった点をこそ懸念しているのであろう。
「あいつらに任せたらフネも山に登ってしまう」的な懸念。

フネといえばTSLなんてのもあったっけ。
燃料費高騰で小笠原航路への就航はキャンセルされたし、
静岡県で実運用されていた実験船も運行停止となったようだ。

あのフネも技術的には、いろいろな挑戦をしたと聞く。
けど、飛躍しすぎていて、運用の見通しが甘かったのだろう。
一方、青函航路には豪州製の高速船が導入されて好評を博している。

もっと前には貨物船の補助動力に帆を使ってたりもしたな。
アレは何隻か作られたのだっけか。でも今はない。
かつての原子力実験船も通常動力に改造され、海洋調査船になっている。

フネの分野に限ったって、これだけ出てくるのだ。
飛行機だってロケットだって原発だって、およそ官僚主導の
科学技術系プロジェクトにおいて、似たようなネタには事欠かない。

もちろん、こうした実験を通じて、いろいろと蓄積された技術はある。
そう聞いているし、詳しく調べていくと、実際にそうだと分かる。
でも世間一般には、とても簡単に理解できるカタチではない。

多くの場合、コストをかけただけの勉強はできたのだ。
けど、それが直接はカタチになっていないから、そのせいで
実績をアピールするには非常に弱い結果となっただけ。

だけ、の結果なのだけど、要するにそれが、
他の立場の人たちにとって不信感を拭えるだけの
説得力を全く持たないというワケ。

「そもそも営利企業にできないコトを官がやる」という反論もあろう。
たしかに民間企業では利益が見込めない研究に対するコストは払えない。
だから公共的R&D投資という政策も間違いではない。

でも税金を払っている国民からみれば、結果が見えてこないのは困る。
公的機関が特定企業への過剰な肩入れは避けねばならないのは当然としても
もっと融通を利かせて俗っぽくやってくれてもいいんじゃないかな。

独法化で国立研究機関もコストメリットが期待されるようになってきた。
ようやく一部の独法研究機関で、より効果的な産学官連携を模索し始めた。
これから、その手法が洗練されていくことを願うばかりである。

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2008.03.17

理系用語で読み解く社会(21) 「力」学の初歩

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洞察力だとか判断力、思考能力といった「力」が足りないというのは、
教育の問題が取り沙汰される中で、しばしば聞かれるハナシだ。
いろいろな意味で、生活する「力」に直結するような能力が弱いなんてのは
現在の教育を考える上で大いなる脅威になるといえるのではないだろうか。

たとえば気付く能力は、どのようにして身に付けるコトができるのか。

違いに気付くためには、その基礎として
まず基本的に「何が日常か」「通常とは何か」を
徹底的に認識しておかねばなるまい。つまり観察力。
平素よりモノゴトを実感して把握し、意識しておく努力でもあろう。

同時に、想像力も大事だ。
もちろん、夢想や空想をするための能力のコトではなく、
実際のモノゴトに関する知識を会得して自らの脳内に
ありありと描ける能力のほう。イメージ描画能力というか。

思考を活用する上では、自ら表現できるコトも重要。
ただし表現力に関しては、さしあたって気付く力を
云々する際には大きな役割を果たさない。
それよりも、表現するに足るだけの蓄積を持たねば。

とはいえ、もちろんカタチはカタチで役に立つ。
たとえば小説に描かれているような情景を
自らのコトバで語れるようになりたい、
というような目標は、大いに役立つだろう。

最初はマネでも、常にそれを意識していれば
いずれ身に付いてくるはずだから。
その過程で観察力などの重要性に気付くなど、
発展していく可能性は少なくない。

なんにせよヒトの能力というのは、
いろいろな力が複雑に影響し合って
構成されているのは間違いないだろう。
強い力に弱い力、電磁力に重力、といった具合に。

……うーむ。コレじゃ実践に繋がらない評論だな。
もう少し役に立つコトを考えてみよう。
お手本にしたい人が身近にいれば、それを
日頃から観察して具体的な目標にできる。

しかし、いなければ、何を以て目標とすべきか。
「現代教育の問題点はオトナたちの問題でもある」
とも言えるのではないか。
まあこんなな具合に、現代社会批評に落としてみた。

以下蛇足。
ただし、見本や手本になりそうなオトナになるといっても
全身これ聖人君子、なんてのはあり得ないハナシだ。
だから、現実的には一部分だけでいい。
「これはすごい」「こういうふうになれたらすごい」と
思われるような特徴を身に付けてほしいな。

また、一応はオトナたちの弁護もしておこう。
グローバル化のせいか、比較対象が増えすぎたのも問題なのだ。
だから「日本じゃあ二番目だ」なんて程度では、
世界だとちっぽけな存在に見られてしまう。
となれば、子供たちからみれば「大したコトない」、
すなわち目標にならないワケで。

むしろ、ちょっと適当に言ってしまえば
それが気付かぬウチに全世界へ広まってしまったり
思わぬトコロから批判を浴びたりと
なかなか迂闊なコトができないってのもまた
オトナたちを萎縮させてしまったりするのかも。
やれやれである。いろいろと。

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2008.03.16

たまには時事ネタ(13) 誰も皆、行きたがるが、遙かに近い(thay say it was in japan)

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大学入試が多様化してきたコトに対し、高校で学力検査を行って
学力を確認しておく、とかいう案が真剣に議論されているそうな。
ゆとり世代の新入生に大学が手を焼いているのかもしれない。

……どうせならいっそのこと、大学を大学らしくすれば?

すなわち、入るのは簡単だが出るのは難しい、とすればいい。
(そういえば、「君は社会に出て食っていけそうだから卒業してもらおう」
なんて大学の研究室の恩師に言われたっけな。研究もできなかったけど)

まあそのためには大学のカリキュラムはもちろん、
収益構造なども根本から変えていかねばならんだろうけど。
受験費用や入学金などにも大きく依存しているようでは立ち行かない。

出るのが大変な大学となったら、まず入学希望者は減るだろう。
その後、難関の卒業を突破した人材が世に出て大いに活躍してくれれば、
またハナシは変わってくるかもしれないが。

しかし、たとえば4年制に拘泥する必要もないのではないか?
各自のペースで何年でも好きなだけ学べるようにすればいい。
その授業料というフロー収入で、大学を運営するのだ。

一方で、高い目標を掲げてコミットした上で確実に達成し続けられるような、
社会的に役に立ちそうな優秀さを持った学生に対しては、
授業料の減免措置などを考慮しても良いだろう。

当然、優秀な学生については在学中からでも企業などへ積極的に紹介し、
共同研究だのインターンシップだのといった仕掛けを作り込んでおいて、
その学費減免措置に対応できるだけの収入を確保していくコトにもなろう。

そんなのは当たり前のような仕組みではないかと思うのだけれども、
実際には当たり前のようには実現できなかったりするのが、
今の日本の社会というヤツらしい。

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2008.03.15

粘性の低い客?

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たしかに、職業に貴賎はないのだけれども、職業によっては
背負わねばならないリスクや必要とする技能、職務経験などに差があって、
それが待遇の差をもたらす一つの理由になっているのである。

でも、それだけで決まるワケじゃないんだよな。
実際のトコロ、正社員か、あるいは派遣かバイトか、はたまた管理職か自営業か、
そういった、しばしば実態と乖離しやすい「名札」で大きく左右される。

とはいえ、リスクの高い仕事をしている人に対して、
その仕事を引き受けるに足るだけの報酬を用意するのは
誰だって当然だと思うはずだろう。

「失敗したらどんな酷い扱いを受けるか分からない」
なんて状況であったら、よほどの額を積まれなければ
正直なトコロ誰だって受けたくないのではないか。

世の中が、「何をしでかすか分からない」ような客ばかりになれば、
サービスを提供する立場、あるいは“プロ”と呼ばれるような側としても、
それなりに高い料金を請求したくもなるというものではないか。

プロであっても間違いはあるし、
ヒトである以上は完璧なんてあり得ない。
そう思って委ねるのが、良き客としての姿勢かなと。

良い客には、安くサービスしてくれると嬉しいな。
……あ。誤解なきよう為念。
それは嬉しいだけでなく、客の教育にもなると思うので。

歯医者でも床屋でも酒場でも定食屋でも家電量販店でも牛丼屋チェーンでさえも、
2~3回も行くと「なじみの客」扱いになってしまうもんだから、そりゃ一体全体
何故なんだろうかと考えてみたりした過程が、こんな感じだった。

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2008.03.14

U'll find I'll be happy

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I君は、こう言った。
「たまに思うんですけど、たとえば電車が遅れたりすると駅員に怒鳴り散らす
ような人っているでしょ? ああいうのは筋違いだと思うんですよ。
あんなに安い料金しか払ってない、というか払えないのだから、
その甲斐性なしの自分自身を恨むべきでしょう。そう思いません?」

電車の数十倍もカネを払えばタクシーに乗って文句を言える相手も得られよう。
たぶん数千倍くらい払えば、航空機チャーターもできるんじゃないかな。
似たようなハナシ、ファミレスとかファストフードとかコンビニとか丼屋で、
アルバイトの店員に対して物凄い剣幕で怒鳴ってる客なんてのもたまにいるが、
これまた数十倍くらいの値段の店に行けば少しは文句を聞いてくれるだろうさ。

逆に、U君は昔、こんな風に言っていた。
「値段がいくら安かろうと、それはサービス契約に相当するはずだ。
だから不履行に対しては責任を追及する権利がある。文句あるか」
君のコトだから法に触れぬように、そして論理的にも間違わずやるだろうね。
だから文句はないよ。そう答えたが、やはり心情的にはI君に賛成したい。

ただでさえ安い給料で働いている上に、自分のミスでなくても客から
怒鳴られたりするような環境では、何もかも萎縮してしまうだろう。
結果は、サービス品質の低下に歯止めが利かなくなるだけ。
それが今、日本中いや世界中でそうなってる。
安かろう悪かろうの負の連鎖といったトコロか。

I君は、先のコトバに続けて、こう言った。
「駅員やアルバイトの店員に文句を言ったって、何かできるわけじゃない。
何かできるほどの能力もないだろうし、権限も与えられてないんですから。
それよりは、客もにっこり笑って、彼らに気持ち良く仕事してもらったほうが
よっぽどいいでしょう。僕は最近、そう思うんです」

今、日本人の8割くらいは、きっと「貧乏暇なし」の生活を送っている。
でも、だからこそせめて笑って、互いに気分良く過ごしたいものである。
U君も、最近は人を使う立場になって、こんな風に言い出すようになってきた。
「『安かろう悪かろう』が人間を使い捨てにし、日本を駄目にしたのではないか。
どうせ人を雇うなら、そいつが伸びてさらに役立ってくれた方がいい」

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2008.03.13

たまには時事ネタ(12) 政争の具沢山で

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政界において、容易に結果を出せないような環境があり、
しかも、どれだけ必死に仕事をしたかも伝わりにくくなっており、
その結果、ずいぶんと信任を失いやすいコトになっているのは事実だろう。
で、何かネタがあれば「辞任!」「問責!」と炎上する。特に国会とか。

また、医師や教員、自衛官その他公務員連中などにも、
ときには不真面目であったり良からぬ企みを抱いている者が
いたりするかもしれないが、必ずしもそういう連中が全てではないはずだ。
ただ、社会的な風当たりが強くて、みんな萎縮してしまっている。

まあいくら努力しても時給が上がらないどころか
不安定な勤務を続けねばならぬ非正規雇用者よりは
ナンボも恵まれた待遇なのだから、それだけの働きを
してもらわねば納税者としても納得できないのだろうけれども。

しかしなんにせよ、互いに恨んだり羨んだりしていたら、
自分で自分の気分を害するようなもんだ。自己中毒に陥りかねない。
あるいは密閉された部屋の中での不完全燃焼。
自ら放出したエチレンガスで腐る果物の如く。

努力の過程が伝わらないのは、まあ昔からのコトかもしれんが、今の世の中は
結果ばかり強く求められるもんだから皆が結果に殺到してしまって、おかげで
それを得るのが難しくなるばかり。それどころか、出した結果をアピールする
能力も兼ね備えていなければどんな成果も認められないなんて言われる始末。

ヒトの歴史の中には、「額に汗して働けば働くほど儲けた」
という夢のような時代も、ときには存在したらしい。
でも、今はどっちかというと逆で、
「働けど働けど貧乏暇なし」という時代にあるのだね。

それはそうだがしかし、だからといって、
気休めと人気取り以外に何の役にも立たないような規制を考えるばかりだったり
あるいは、声の大きい連中の意見だけを取り入れて社会が動くなどという流れも、
非常にいただけない。

まあそんな感じで「おなかいっぱい」なんじゃないかな、
今の有権者の中の特に若い世代のあたりでは。

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2008.03.12

ひっくり返してみてみてみると

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自分or自分たちが、自らの行動について、消極的に
やらないorできないという理由を見付けるのは簡単なコト。
自発的行動を束縛する本能的な静摩擦と慣性の法則とを追認するのは
思考の中でも抵抗の低い回路を通るようにできている。

だけど、「できたらいいのに」「やってほしいのに」と思っている
他人に対して、その理由で納得させるコトは、たぶんできない。
思考回路の「なじみの道」は、自分の脳内にしかないものだから。
ましてや立場や利害が全く異なる相手では、むしろ正反対だろう。

それとは別に、「なんとかしてほしい」という要望に応えるのは、
なかなかどうしてカンタンなハナシではない。
要求する側の思考回路の中の「なじみの道」を辿らねばならないが、
他人にそれを探られるコトは誰でも本能的に嫌うものである。

客観的に言ってしまえば矛も盾も壊れるってトコロだろうな。
でも、そういう相反する両面を包括して一つの個体であり、そのせいで
何を仕出来すか分からないカオスな面を持っていながら、それでも
そのまま生きられるのがヒト。そういう性質があってこそ、面白い。

しかもそんなワケワカランのが自分自身でもあるなんて、
もう想像するだに興味が尽きないワケで。

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2008.03.11

半生紀(16) その本、とうに読んだかな

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これまで読んできた本の大半は文庫や新書だったが、
最近では古本を多く買うようにしている。財布に優しくしたいのだ。
ふと、過去に読んできた本の種類を思い返してみたところ、
読書の傾向というのは、性格が表れるものだと感じられる。

昔は理系の本が多かった。特に生物や物理。これは小学生の頃だったか。
中学か高校あたりで、少し小説や詩にも手を出したりした。
あとは哲学や思想、歴史など。そして文系の本が主流になっていった。
ノンフィクション系が好きになったのは大学生あたりから。

また、昔であれば一冊読み終えたら次には大きく違う分野の本を
という読み方をしていたのだが、今では、違った立場で同じ事象を
捉えた本を立て続けに読むなどして、それらを比較したりしている。
これ、結構、面白い。オススメ。

さっき見たモノを、今度は裏側に回って見ているような感覚だ。
「ある人は蛇だと思い、ある人は木の幹のようだと思う」ワケだな。
まあ裏側に回っても、結局は同じようなモノが見えたりするコトも
結構あるのだけれども、そうだと知るコト自体が楽しいのである。

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2008.03.10

サクララクサ

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平日の昼間、電車に乗ったら大学生や高校生で混雑していた。
そうかそういや春休みってのがあったっけな。
どこの学校も同じようなスケジュールで動いているのは
いろいろと理由があってのコトだとは思うけれども、
ここまでどいつもこいつも一緒では、社会に出たらどうなるやら。
少なくともアウトロー気味の自営業者に対する理解は浅いだろう。

地下鉄では、就職活動中の大学生らしいカップルがいた。
男の方が、マスコミ系の就職ガイドブックのようなのを
パラパラとめくっては、就職試験などについて女と喋っている。
「へ~! この会社って、クレペリンテストがあるんだ~」
「やったことないの? だったら練習しておいた方がいいよ」
彼女が試験対策指導中らしい。まあ、頑張れ。いろいろと。

たぶん大学3年生で、東西線だったから早稲田の学生かもしれない。
どんな憧れ(あるいは幻想)を抱いているのかは分からないが、一般的に
現場ってのは、たいてい外から想像しているのとは違うと気付いてるのかな。
あるWeb媒体の編集氏に聞いてみれば、こんな感じに言っていた。
「給料も待遇も良くない。よっぽど実業系企業に入ってマーケ担当して
メディアバイイングでもしていた方が気楽だし収入も良い」と。

どうしてもというなら、新卒がいきなりマスコミ系を選ぶより、一般企業で
社会経験を積んでから移ってきた方が良いのではないかと思ったりした。
マスコミ系の業界は人材流動が当たり前で中途採用も多いが、
一方で実業系企業では未だに新卒採用が主流だから、逆は難しいはず。
マスコミの世界は社会経験のない若者には重たすぎる可能性も高いし
そもそも業界誌などでは実務経験を重視する編集部もあったりする。など。

それはともかく、この身を振り返ると、すっかり中年の自営業者である。
過去、何かの試験に備えて勉強するなんて、ほとんど経験がない。
中学受験では親の薦めで少しだけ塾に通ってみたりしたが、それでも
せいぜい週に1~2日だったはずだから、対策ってほどでもなかったな。
大学受験は参考書を1冊読んだだけ。まさに何もしてないようなもんだ。
始終そんな調子だから、定期試験などでも勉強した試しがない。

それでもそれなり(二流くらい)の学校で浪人も留年もせずにいられたから
アタマ良いのだと自惚れていたが、それは間違いだったと後に気付く。
なにせ小さい頃から活字好きで、日頃から本を読み続けているのだ。
それを勉強と言わずして何と言うのか。
しかも、それだけ勉強をしていながら、成績でいえば中の上程度。
どうにも能率の悪い勉強だ。つまりアタマ悪いんじゃないか。

実家にも大量の本があったし、図書館なども利用していたが、
それでもタイミングによっては読む本が手許になかったりする。
そんなとき、活字なら何でもいいからと手当たり次第に読んだりした。
実家の家電製品やクルマの取説なども全部読んでいたほどだ、
当然、教科書だって学年が始まって早々に読み尽くしてしまう。
そして教科書通りの授業は知ってるコトを繰り返すだけなので面白くない。

間違いなく、日常生活の中の読書が、唯一の勉強だったといえる。
試験も何ら特別ではなく、同じく日常の延長という感覚で受けていた。
(そんなに昔のハナシじゃないぞ。今の中年の若い頃という程度だから)
というワケなので、ひたすら年号を覚えていかねばならなかった歴史や、
重要な公式を覚えていなければ回答できない高等数学や物理などは、
いささか苦手な部類であった。生物系は好きなので暗記できたけど。

試験勉強の期間などには「諦めちゃった連中」と遊んだり、あるいは
一人で静かに読書したりしていたのだから、他の連中からすると
かなりアウトローな学生生活を送っていたというコトになるだろう。
「何か打ち込めるコトがあれば、ひょっとしたら必死で勉強するかも」
などと思ってもみたが、そういうコトも特になかったもんだから
まあ適当に、そしてかなり自分勝手にやってきてしまった。

ともあれ、試験というイベントを非日常だとは思えなかったのである。
就職に関しても同様。面接では普通に行って普通に喋っただけだった。
格好も、とりあえず背広を着てみたりしたが、濃紺色ではなかった。
就職先で「打たれ強そうだ」と思われたのは、そういった様子からであろう。
結果、いくつかの会社では断られたが、いくつかの会社では採用された。
(なお、会社員として生活していたのは就職氷河期の最中の頃のコトだ)

自営業には研修もないし面接もないし試験も何にもない。
ただ、きちんと仕事が入っきて、それをこなしていくコトができれば
少なくとも自分一人の食い扶持を維持していけそうだ、と分かった。
やらねばならぬコトも出て行くカネも普通の会社員より多いが、
日常生活の延長線上で仕事をしているような感覚でいるもんだから、
それこそ小学生の頃から特に変わってないというコトなのだろう。

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2008.03.09

点でもなく線でもなく面でもなく、三次元で

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なにせヒトってのは、ヒトが思う以上に複雑なので、見ていて飽きない。
というワケで人間観察を続けてみよう。
最近、「ヒトの周囲には見えないバルーンのようなものがある」と思った。
ちょっと混雑したくらいの電車の中だと、それが分かりやすい。

その形や大きさは状況によって変わってくるが、けっこう弾力があって、
他人が入ってこないように範囲を区切っているようなイメージである。
そして、もし入ってきた場合は、中の人を動かそうとする圧力が働く。

ただ、ヒト自体には慣性の法則もあるし、摩擦力も働いている。
止まっている場合、動き出すには静摩擦を越える力が必要だ。
たいてい、バルーンによって働く圧力より静摩擦の方が強いらしい。
だから、バルーンが多少凹んだりしても動かない、というコトになる。

一方、動いている状態で働く動摩擦というのは静摩擦より弱いので、
バルーンの圧力が最も低くなるような位置に落ち着こうと動き続ける。
とはいえバルーン間やヒトの間にも摩擦があるらしく、
いずれどこかでエネルギーを失って止まるのだが。

バルーンの形や広さは、中の人の感覚によって決まってくる。
おおよそ、赤の他人が接近してきたら危険を認識する程度の距離として。
でも面白いコトに背後は狭いし、下手すりゃ脇も甘い連中が多くて、たとえば
前方では数十cmあるけど、左右及び後方には数cm程度という人もいたりする。

また、ときにはバルーンが引っ込んだりもするが、その相手は限られる。
せいぜい、配偶者や恋人、家族、親友といったトコロだろう。
そうでない場合には、おおむねバルーンの圧力は保たれるのだ。
これが見えてくると、人間関係まで見えてくるようで、ちょっとばかり面白い。

バルーンどころかヒトどうしの接触が避けられないほどの電車の中のこと。
扉の脇あたりで輪になって喋っていた若い男女3人がいた。
その3人の間に、少しだけひしゃげたバルーンが押し合っているのが見えた。
だが注意は内側に向いているから背後のバルーンは薄い。

背中に見知らぬ他人が接触しても、ほとんど気にしなかったりするのに、
目の前の同行者(職場の仲間か?)との距離は明らかに維持されている。
むしろ、周囲への注意がおろそかになるくらい同行者に注意しているようにも
思えたので、ついニヤリとしてしまったのであった。

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2008.03.08

牛を殺すには角を矯めてやりゃいいってワケじゃない

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歩いていて、急にケータイを手に取ったと思ったら立ち止まったり
ものすごく速度が遅くなるような人って、かなり多いよね。
自動車なら危険運転の疑いもあるが、歩行者には特にないもんな。
このとき、歩道の端にでも寄ってくれれば、まだマシなのだけど、
ケータイに意識を集中してしまった瞬間に、そういう考えなど完璧に
脳内から消え去ってしまうのが一般的なヒトってもんで。
で、ニアミスしたり、ときには接触事故になったりする。

あと、横を見ながら歩くと、その方向に曲がっていってしまう人も。
自転車でも自動車でも、そういう性質に気付かずフラフラと
走っているコトがあって、他人事ながら酷く心配になったりする。
こういう性質に関しては、本人が自ら気付くコトが難しいらしい。
この走向性に関しては、教習所などでテストを行って
必要なら矯正したり教育したりしてもらいたいものだ。
たいていの人なら適切な訓練を受ければ修正できると思うので。

一方、体格とか顔とか声、そして態度、
さらには荷物やヘッドホンの音量……
これらもまた、いくら大きくても本人が自発的に気付くコトは難しく、
周囲だけが迷惑だと感じる性質の最たるものと言えそうだが、
残念ながら矯正するコトが非常に困難であるか、
その機会がほとんど得られないのが残念である。
まあ気付かないからこそ、それでも平然としてられるのだと思うが。

ちなみに、身長の低い身にとっては、混雑した列車の中で
背の高いヤツの鼻息だとか後ろ髪などでも困るコトが多い。
だが当然ながら、やはりこういうのも、ほとんど改善が
期待できないので非常に残念である。
ま、小さいヤツは小さいなりに、大きいヤツらに迷惑だと
思われたりする点が、ひょっとしたらあるのかもしれんので
大きさに依存する問題点に関して強くは非難しないでおく。

いやホント、本人が思っている以上に㌧でいるのよ、鼻息って。

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2008.03.07

そりゃまあ減るもんじゃないけどね

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いささか目立つ顔立ち・風采であるせいか、
電車の中などでは見知らぬ他人にジロジロと
眺められるコトも少なくない。

視野の周辺部で(目や顔を向けなくても)モノを注視するコトができるし、
そういう連中の素振りや表情で意識の方向は概ね想像できるので、
興味津々で眺めているようであれば目を合わせる。

あるいは「見られているのではないか」といった自意識過剰気味の
様子であれば、あえて視界に入らないフリをする、
といった対応をするようにしている。

なんというか、基本的に天邪鬼だからなあ。

ただし、見ようと意図せず何かを注視してしまうような
小さい子供などでは、また別だ。
そういうコには、好々爺のような笑顔を浮かべて目を合わせる。

なお、「無意識に何かを注視する」性質を維持したまま
オトナになってしまうような人もたまにいるのだが、
そういう人の場合には、相手によりけり臨機応変で。

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2008.03.06

絡まり合ったテープを紐解く

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記憶内容がシーケンシャルすなわち時系列的だったり、
シーン重視だったりする性質らしいというコトに、
友人と話をしていて気付いた。
どちらかというと静止画や動画的な記憶スタイルであるらしい。

一般的に、ヒトの記憶は何かに関連付けられているのだが、
その関連の手掛かりを、例えば事象の時系列であったり
モノゴトを見たり聞いたりした際の周囲の状況に
強く依存しているらしいのである。

こういったスタイルの記憶では、適切な手掛かりがないと
ランダムに思い出すのが難しいという欠点はある。
他との関連性の薄い情報を単発で記憶するコトも難しい。
しかし、ヒントさえ得られれば芋蔓式に関連情報が出てくる。

通った道筋の記憶を例に考えてみると、分かりやすいだろう。
通り沿いに見掛けた商店などを「○○は□□より向こう。
その先には△△があった」といった形で思い出していく。
道順も含め、ビデオを早送りするような感覚で思い出す。

一度しか通ってなくても、記憶が新鮮なウチであれば
それこそユクスキュルのいう「粘性の低い流体」の中の
「なじみの道」を駆け抜けていくかの如く、
実際の数倍以上の速度で記憶の中から再生できる。

そういう性質だからこそ歩くのが好きなのかもしれないな。
読んだ本のストーリーも、聞いた曲のメロディや歌詞も、
特定の部分を思い出せば、それが全体の中でどこにあったか
「だいたいこのあたり」というふうに呼び出されてくる。

そして、そこから先の流れを、順に思い出していく。
本の中身などを思い出す際には、
その記述が全体のどのあたりの頁にあって、
頁のどのあたりの行に書かれていたかを思い出す。

積んだ本の山のどのあたりに置いたか、といった情報も、
案外出てきたりする(なかなか出てこないコトもあるが)
さらに、読んだ時点の気持ちや周囲の状況まで
一緒に思い出されるコトも少なくない。

自分で撮った写真などは、さらに強く記憶を呼び覚ます。
天候や周囲の状況、同行者がいればその顔触れ、
撮った前後に歩いていたルート、そこまでの移動手段、
下手をすれば周囲を漂っていた匂いまでも思い出す。

分析してみると、時間軸と空間の広がりの2軸を中心として
脳内に情報を配置しているというコトになるのだろう。
(他にも色や音程や匂いや味、さらには手触りなどといった、
しばしば感覚的な軸が、かなり多く存在しているらしい)

また、面白いコトに、視野の端の方にあったモノなど
その記憶をした時点では明確に意識していなかった存在も、
記憶呼び出しクエリに引っ掛かってくるコトがある。
少なくとも一部の記憶は、事後の検証にも耐えるであるらしい。

明確に見ようとしていなくても、勝手に覚えておいて
くれるのだから、割と便利な記憶ではあるようだ。
入力された時点で軸との関連付けが行われ、あとはそのまま
全部テープか何かに記録している、という具合なのだろう。

なお、その話をした友人は、非常に対照的であった。
情報は情報として、データベースに蓄えるかのように
整理した上で記憶しているのだという。
時系列で思い出すのは得意でないというし、
本から得た知識についても余計な情報は持たないらしく、
どこに書いてあったなどという記憶はほとんどないのだとか。
理路整然とした喋り方をする人物なので、
そういう記憶スタイルには納得できるトコロがある。

さて、話を戻そう。記憶の鍵は、他にもある。
既に持っている記憶に近いものは、それを呼び起こし
関連付けられ、相互に印象を強め合って記憶されていく。
シーケンシャル記憶に、その特性が加わると、時間軸が絡まり合う。

脳内で過去と未来が繋がり、ミクロとマクロが連動し、
枝葉末節いや一筋の葉脈が森全体に大きな影響を及ぼす。
関連し合う記憶が増えていくと、それは次第に一つの塊となり、
さらには膨張していって、あらゆるスケールに及んでいく。

モノを知るというコトは、こういうコトなのかと感じたコトがあるが、
しかし果たして、それで満足して良いのだろうかとも思う。
どうせヒトの能力だ。タカが知れている。完璧などないのだ。
底が知れないからこそ、貪欲に記憶を蓄えていこうという気にもなる。

このブログを、特に整理するコトなくダラダラと書いているのも、
またシーケンシャルな発想なのかもしれないと思ってみたり。
時系列で見ていけば、もしかしたら考え方の変化が見えるかも。
きっと読みにくいものだとは思うけれども。

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2008.03.05

士業(さむらい業)ならぬ浪人業なので参りませんな

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わたしたちは、これまでに何度も夢のなかで墜落を体験してきた。
けれど、そうした夢の内のどれかで、ほんとうに地面に激突すると
――その人は死んでしまうという話は有名だ。
(ダンセイニ「エビのサラダ」荒俣宏訳/短編集「妖精族のむすめ」ちくま文庫)

ところで、朝ってのは、どこにあるのだろう?
なにせ自宅作業主体の自営業だけに生活は不規則極まりないのだ。
予定があれば夜討ち朝駆けも厭わず出掛けるが、
夕方に目覚めて、う~、と唸って起き出すコトも少なくない。

あるいは、たまに電話があって起きたりする。
仕事だと思って受けた電話がセールスだったりするのは嫌いだ。
でも友達や家族だったりすると、戸惑いつつも妙に嬉しい。
長電話して、後で必死に仕事して遅れを取り返すコトもある。

最近は誰もがケータイを持っていて、多くの知人友人のメールアドレスも知っている。
留守電とメールの使い分けなどは、しかし相手によって工夫が必要だ。
でも上手に使いこなせば、かなり効果的なコミュニケーションが可能なはず。
そのコツは、いわゆるマナーであったりもするが、大半は気遣いだと思う。

たとえば仕事相手が急に何かの用事があって電話してきたらしい状況のとき、
留守電に何も吹き込まなかったり、「また電話します」とだけメッセージを残す
ようなケースが、たまに見受けられる。せめて「○○の件で」くらい言っとくか、
あるいは直後にメールをくれるなら、連絡を受ける側も動きやすいと思うのだが。

気遣いってのは厄介なもんで、我が強すぎると全然できなかったりするが
かといって気が弱くても何の行動を起こすコトもできず実効性がない。
だから、ガツガツと我など張らずに、しかししっかり芯を持って、
「相手が機嫌良く仕事できればこっちも気分良く仕事できる」とでも思うのみ。

この自営業の立場で発注元とコミュニケーションするときだって、そうだ。
傲岸不遜な態度では、仕事を出してくれる人などまずいない。
ペコペコと頭を下げてばかりいれば、足許を見られて割の悪い仕事になる。
お互い人間だから気分に左右されたりミスするコトもある。

そういうのも織り込んで、「ほんとうに地面に激突する」なんて
事態を避けていかなければ、なかなかやっていけんのよね。
だから相手の仕事のためを思って、ときにはカネにならぬ仕事もする。
まあ実際には、なかなか容易に出来るコトじゃないんだけども。

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2008.03.04

出張旅行記付録 旅々続いて草臥れ儲け

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カネも時間もないときは、カラダを使うくらいしかない。貧乏人のツラいトコロ。
でも、そのために必要以上に焦ったり慌てたりするのは、金銭的だけでなく
精神的にも「貧乏暇なし」に陥っているようなもんで、宜しくないと思っている。

電車の中、ケータイで喋っていた男が「では失礼しまーす」と言って電話を切った。
電話の相手には言うけど、電車に乗り合わせた相手には言わないのが彼の流儀。
などと思って溜息を吐いたのは、列車のブレーキ解除と一緒の瞬間だった。

さて。

このところは、文字通り目が回りそうなくらいに忙しかったし出費も嵩んだ。
続くときは続くもんで、今回は2週間に火、金、月、金と4回の出張があった。
最初の週では2件とも日帰りで、次の週ではそれぞれ一泊ずつ。ただし自腹で。

出先だけで完結する仕事ではないもんだから、帰ってきてからが大変だ。
自宅で長時間の作業をして、ようやく完了するのである。
しかし他の日にも出掛ける用事があったりして、作業時間の確保も難しい。

この2週間、ずいぶんと睡眠時間を削って時間を作った。
年末に入手したモバイル端末を使って移動時間にも作業したりもした。
一応は役に立ったが、ほとんど焼け石に水というくらい。

昔使っていたDOSベースのポケット端末には非常に多彩な
日本語関連ツールが用意されていて、ずいぶん役立った。
そこに、ようやく10年近く経って追いつこうとしてるのが、最近のPDAだ。

長文を書いたりする作業でのみ考えれば、一向に操作性は追いついていない。
外部キーボードやマウスをつけて、ようやく比較対象になるかどうか。
(それでもまだ一長一短というレベルだから、勝っているとは言えない)

昔の端末は単三型乾電池だったので電池の不安は少なかったが、
今では専用の充電池しか使えないから、出張などでは気配りが必要。
この点だけみれば、大幅に退化したままで、戻る気配さえ見えない。

「マルチメディア機能」とやらが強化されていたりワンセグ対応だったり、
はたまた単体で通信できたりと華々しい機能は盛り沢山だけれども、
基本的な使い勝手がコレではPDAの市場も盛り上がるまい。云々。

まあそんな古い人みたいな愚痴は置いといて。

出張する前の週あたりから仕事の注文が普段よりずっと多かった。
睡眠不足は間違いなく、後半になってくると、さすがに疲れてきた。
歳を取ってきたってコトなのか。まあ、くたびれた中年なワケだが。

空港からの帰りは、京急-都営浅草線を使うのが常である。
品川駅で隣に座っていた初老の男が上着を羽織った瞬間、袖が顔面を直撃した。
疲れて眠っていたトコロだったので、完全な不意打ちを食らった形だ。

刹那、「うわ!」という声が聞こえた気がした。おそらく向かい側の席から。
一方、立ち上がって電車から降りようとしている男は、全く気付いた様子がない。
不本意ながら男の腕を捕まえ、声を掛けて注意を促す。

「済まないが、もう少し気を付けていただけないか。
顔を叩かれて、ちと痛かった」
ああもう、こういうトコロまでオッサンくさい……。

浅草線からは営団(未だにメトロという名称が咄嗟に出ない)東西線か、
JR(さすがに国鉄とは呼ばなくなった)総武線の各駅停車路線を使っている。
日本橋で降りたら、強風などの影響で東西線は止まったトコロだという。

仕方なく、また浅草線の改札に入って(余計な出費となる嫌な仕掛け)
浅草橋へ出たら、案の定JRも大幅にダイヤが乱れていて、電光表示にも
時刻が出ていないし、ホーム上は客が溢れそうな勢いだった。

土曜の夕刻に、人が入り込めないほどのラッシュに遭遇するとはね。
そう思いつつ、出張疲れで重く感じられるようになってきた身体と荷物を、
扉からハミ出しそうなくらいの人の塊の中に押し込んでいった。

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2008.03.03

出張旅行記(18.5) 風の中で揺れ続けた旅行機

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冬も終わりに近い時期、地表付近から成層圏まで強い季節風が吹く。
高知出張の際、たまたま読んでいた本は風船爆弾に関するものだった。
爆弾を北米まで運んだジェット気流は現代のジェット旅客機にも大きく影響する。

羽田-高知は往復ともB63で飛んだが、上昇中も下降中も大きく揺られたし、
成層圏では150ktものジェット気流が吹きすさぶ中、西に向かう往路では
向かい風でフライトが長引き、東へ向かう復路でも空のダイヤが乱れていた。

帰りの便に乗るために空港へ向かう途中の車中から見えたのは、
伊丹から飛来したらしいQ400。風に酷く煽られ揺さぶられ、フラフラと
滑走路32へ接地した。この風では767でも揺れが懸念される。

確保しておいた座席は、ちょうど主翼の見える位置。機体の重心に近いので
前後の席よりは揺れが少ないと思うのだが、それも気休め程度だろう。
離陸した途端、主翼は大きく撓り、捻れる。同時に客室は大きく揺さぶられる。

そういうものだと知っていても、慣れない人にとっては怖いのだろう。
同行者は、大きく揺れるたびに口を噤み言葉が途切れ、
収まると本能的な恐怖を紛らそうとするかのように喋る。

こっちはこっちで、前夜の深酒の影響で消化器系の具合がイマイチ。
揺れるたびに口を噤むのは一緒だが、それはちょっと吐き気を催したせいだ。
気を紛らそうと外を見れば、揺れを抑えようと補助翼が小まめに動いている。

ときたま、雲の切れ目から下界が見える。
太平洋上は一面の白い波頭。煙突の煙は真横に流れる。地表付近も風は強い。
機長アナウンスによれば羽田でも強風で、ゴーアラウンドする機もあるという。

千葉県側から羽田へのアプローチでは、やはり激しい揺れが続いた。
黒く厚く垂れ込めている雲の下で、しかし最終アプローチも順調に進み、
機体は滑走路上で接地寸前にふわりとフレアを行って静かに着陸した。

自宅までの帰り道、鉄道網も強風の影響で大混乱。
土曜の午後のラッシュアワーの電車で、最後のトドメを刺された気がする。
やっぱりリムジンバスに乗って帰ればよかったと、ココロも揺れた。

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2008.03.02

出張旅行記(18) しし深夜中飲むし

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4連続の出張の最後は、土佐行きだった。今回の同行者は2人。
ただしお遍路さんではなくて。たしかに四国だけど。

無事に仕事を終えた金曜の夜。同行者たちと街に出て飲む。
この晩は、珍しく歴史や政治、宗教などの堅い話題で盛り上がる。

いつもなら、もっと下世話な話題で喋ってたりするのだが、
場所柄というのか、世の中を語り合おうとする雰囲気に3人とも浸っていた。

同行者たちは30代前半の働き盛り。世間を渡る知恵も身に付けてきた。
維新の動乱に身を投じた志士たちも、30歳前後というのが多かったっけな。

目の前の太平洋や自然の残る河川からの地元の水産物は、やはり旨い。
日本酒や焼酎も旨いから、ついつい進んでしまい、皆いささか飲み過ぎた。

帰り道の途中から記憶がない者、珍しく翌朝に二度寝をしてしまった者、
そしてチャンポンした酒で胃腸の具合がイマイチな者。3者3様である。

男3人寄れば酒盛り。
それでも獅子ならぬ虎にならなかったのだけは、不幸中の幸いか?

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2008.03.01

理系用語で読み解く社会(20) 地震大国、押されて高まる

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日本の時代の転換点に、しばしば地震があったりする。
たとえば安政江戸地震は天下太平の世を揺るがして、江戸時代の終わりの
始まりを告げた。まるで“日だまりの樹”を倒すかのように。

太平洋戦争終焉間際の1944年には昭和の東南海地震があった。
そして、阪神淡路大震災はバブル景気の終わりに重なる。
単なる偶然かもしれないが、あるいは民衆心理や経済への影響も考えられる。

次の大地震のときには、また何かが終わるのか。
それについて確実なコトは、何一つ言えない。
またいずれ大地震は発生する、とは言える。

それから、時代の変化もまた繰り返されるというコトも、ほぼ確実だ。
中国近現代史に関して、こんな考察があるのを思い出した。
ちょっと長いが引用してみよう。

「余談にわたるが、清朝が滅びたのは、この年からかぞえて七十三年目の辛亥の年である。新暦と旧暦の差はあるが、おなじ日付の十月十日(いわゆる双十節)、おなじこの武昌の地にとどろいた銃声が革命成功を告げた。詰襟すがたの革命青年たちが共和国万歳を叫んでいたとき、この町の八十以上の老人なら、総督林則徐が百官の見送りを受けて、勇躍北京へ出発した日のことをおぼえていたであろう。そして、こんにち八十歳の老人は、辛亥革命の年にはすでに二十であるから、若い血をわかせていたはずだ。歴史はこんなふうに橋渡しをされることで、われわれにぐっと近づいてくる」
(陳瞬臣「実録 アヘン戦争」中公新書)

日本では、昭和初期には維新の動乱を実見した人たちが生きていた。
そういう人たちの子や孫が、中国大陸に侵攻したり南方に進出したり、果ては
長駆ハワイまで奇襲しに行ったり、またそのための兵器を作ったりしたワケだ。

戊辰戦争でも第二次大戦でも、生き延びた敗者たちは戦後の混乱を見る。
敗戦後の首都に勝者が我が物顔で入り込み歩き回って旧来の文化を汚し、
さらには混ぜ返して、総入れ替えしていくという変化を、否応なく受けた。

古い大都市というのは、そんな具合に敗者の怨みや
嘆きが積み重なってできているのかもしれない。
それはさておき。

明治になってからは、江戸時代の知識階層が
武士階級と一緒くたに世間から見捨てられたりした。
それで失われた江戸の学問体系も少なくないという。

敗戦後には軍と軍需企業が培ってきた様々な技術が、
やはり日本の武装解除とともに失われていった。
中には惜しむべき技術も含まれていたらしいのだけれども。

知識や教養分野などもひっくるめて、
文化も総入れ替えが進められたようなもんだな。
戦争に負けるというのは、そういうコトも含めていうらしい。

さて、近現代の百数十年間あまり、日本は劇的な変化を何度か
体験しつつ、それを比較的素直に受け入れて自らの国を作り上げた。
急な変化であっても、外的要因だと、意外なくらい柔軟に適応してしまう。

日本列島は、太平洋側の地殻プレートがユーラシア大陸側のプレートへ
潜り込むように押し続ける中で、大洋底堆積物などが盛り上がってできた。
だから列島に地震はつきもの。それでこそ盛り上がってきた列島だ。

日本人というのは面白いコトに、外来文化を受け入れつつも
なんとなく日本人という枠から出て行こうとしない。
というより、日本人としてみれば別に出て行く必要も感じなかったりする。

それは外からの圧力に慣れているから、かもしれない。
あるいは、圧力あってこそ大国の座を得るコトができたのか。
地勢にせよ、経済にせよ、あるいは文化にせよ。

一方、内的要因による変化は、非常にゆっくりと歪みを蓄積している。
それが今、もしかしたら久し振りに日本という国全体で、大きな
地殻変動をもたらすのではないかとも思ってみたりする。

「もはや戦後ではない」なんて言葉さえ古いと言われる時代。
戦争中のコトを覚えている人たちも、徐々に減ってきた。
これは、そろそろ“次”があってもおかしくない時期かね?

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