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2008年4月

2008/04/30

自称逸般塵の不通の日記(3) 血を見る夢

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ところでハナシは変わるが、先日ちょいと嫌な夢を見てしまった。
(今回、血の苦手な方は、読まない方が良いかもしれない)

足の指の爪が伸びすぎて左右にも広がってしまい、
広がりきれずに波打って指の肉を裂いてしまうという内容だった。
アーチ型を描くはずが、中央部で肉の側に折れ込んでしまって
そこから血が滲んでいく様子を、妙にリアルに眺めていた。

実際、夢に見てしまうくらいの苦労をしているのかもしれない。
昔から足の指の爪は両端が指の肉に食い込むような巻き爪だ。
だからいつもニッパー型の爪切りを使い、
食い込んだ部分に刃を押し込むようにして切除している。

拇指などでは、それでも爪の端を除去しきれないので
強く摘めるピンセットや、ときには先端が細くなった
プライヤーなどを使い、無理矢理引っ張り出したりする。
そうやっていると、爪は皮膚が硬化したものだと実感する。

食い込んだ部分から爪だけを取り出そうとしても、
必ずと言っていいほど周囲の表皮が癒着していて
そこを引き千切るようにして、ゆっくりと、
しかし相当な力を込めて引っ張り出していく。

裂けた皮膚から、ときたま血が出たりもする。それなりの痛みも伴う。
でも、放置すれば爪が肉に食い込んで余計に痛む。
だから、夢に見たような状況に陥る前に、
きっと我慢できなくなって爪を切るはずだ。

皮膚科などで、食い込んでしまう部分の肉を切除してもらえば
本当なら楽になれるのかもしれない。
でも、まあ、これくらいの痛みと血なら、
さほどの苦痛ではなくなった。

昔は、もっと酷い苦痛を味わったコトもある。
だからこれくらい、慣れれば大した痛みではないのだけどな。
それでも夢に見てしまうのは、やっぱり不安があるのだろう。
自分自身の、人間らしい一面を、垣間見た気がした。

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2008/04/29

真裡学教室

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よくあるハナシ、本人が悪いコトだと思った行為は
たいてい露見して罰を受けるような気がするけど、
その割には、本人が良いコトだと思った行為だと
ほとんど知られもせず賞賛を受けたりもしない、
そんな気がしている人は少なくないはず。

でもそういった、「満たされない」感覚は、
ヒトの行動の原動力にも繋がっているのだよね。
最近は自信を持って生きている人が少なくなって
きたような気がするのだけれども、それはもしかしたら
満たされない感覚が強すぎて負けているのかもしれない。

だからせめてカネだとか待遇だとか、
あるいはその他思想信条の類だとかで
インスタントな充足ばかりを求めてしまい、
でも性急な請求ゆえに失敗したりして、
さらに気持ちの上では良くない方へ落ち込んでいく。

満たされない中でも自信を持って生きて行くには、
時間を掛けてしっかりした足場を作っていかねば
ならないのだと思うのだけれども。
きっとそういうのも、家庭でも学校でも社会でも
教えられる機会が得られないだろうから、難しい。

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2008/04/28

ついつい追伸ばかり長くなってしまう

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仕事先へのメールで、数行の本文に、
こんな追伸をつけて送ったりした。
(ただし、ここに掲載するに際して大幅に書き直している)

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「納品書」は、適当に見繕ってお送りするコトにします。

以下、愚痴です。

最近は、どの会社でも、「内部統制上の都合で」という
大義名分による無駄な処理が増えていますね。

しかし「請求書」の前に「納品書」と「受領書」の
やり取りが必要だというルールを作った程度では、
いくらでも抜け穴があるはずです。
紙の書類など、表面的に取り繕ってしまえば済むでしょう?

これでは実効性のある統制とは言えませんし、
当然ながら現場の事務作業の負担が増えるだけ。
せいぜい株主に言い訳をするのに役立つかもしれないけど、
全体的に見れば『内部統制ごっこ』としか思えませんね。

きっと多くの監査人は現場など詳しく見ていないだろうし、
そういう監査人に指導を受ける経営者だって
「まあ監査人が言うのだから……」というコトで、
こんな無駄な作業ばかりが増えてしまうのでしょう。

米国SOX法の成立した頃から幾つかの会社を見てきた中で、
残念ながら『日本版SOX法』は、非常に日本的なやり方で
骨抜きにされつつあるように思えてなりません。

高い理念を掲げて、指針レベルまで丁寧に落とし込んであって、
よくできた制度だとは思っていましたが。
しかし実践者のレベルがついてこなかった。
そして、当初からそれを見抜けなかったコトが悔しく思えます。

せめて内部統制運用1年目の今年度で問題点を洗い出し、
次年度以降で改善されていくことを願うばかりですが、
今の状態を見ていると、期待しない方が良さそうな気がしますね。

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相手は管理職でもない社員だから、上のような文章は
嫌な気分を抱かせただけかもしれないと反省している。
でもね、企業内で現場にいる人たちも、統制されるコトに関して
本気で考えていかないと、今そこにいる会社の未来が危ないんだよ。

というのも、「統制を強める」という掛け声の下で、
経営者は現場の声を余計に聞かなくなると予想されるから。
でも逆に現場の人たちも、他の会社に転職するという逃げ道もあるし、
強く声を上げるよりは黙って受け入れてしまうのかもしれない。

だけど、ここで必死にならないと、逃げる先の会社さえ
見つからなくなってしまうかもしれない。
次年度以降、もしかしたら差がついてくるかもしれないけれども、
今は、ちょっと期待薄ではないかとも思ったりしている。

従業員側は経営者側に意見を出し、経営者側は従業員側の意見を聞く。
その両方がなければ、この問題は改善されないだろう。
そして今のところ見てきた範囲でいうと、どの会社も似たり寄ったりだ。
つまり、声を出さない従業員と、聞く耳を持たない経営者がいる。

最近は株主とやらが、「カネ出してやってるんだから」なんて態度で
企業に対して疑いの目を以てしかも恩着せがましく配当を要求し、
渋る経営者の監督責任を追求したり監査を要求したりする。

そこから始まった不信感の連鎖は、経営者そして管理職、平社員、
パートやバイトや派遣社員に「外部」の取引先企業や個人事業主まで、
カネの流れとともに細分化されつつも途切れることなく続いていく。

が、そこから先は、ちょと微妙なルートになる。
毛細血管を抜けた先は静脈で、その静脈は再び太い血管に繋がるのだ。

それは、たとえばマスメディアや政界など、いわゆる公共性の
高い分野であったりするのだけど、そういうトコロには、
ときたま「不信感の静脈瘤」ができたりして、
変なカタチに膨らんで他の組織を圧迫してみたり、
さらに悪化したら破裂してしまって汚れた血液を
止めどなく流し続けたりしてくれるのである。

まあそれはともかく、責任追及の流れが一方通行では
ヒト対ヒトの正常な関係ではないと思うので、対策を考えてみた。
たとえば「従業員一同」や「取引先一同」、「顧客一同」が
株主の責任を追及するような場面があっても良いのではないか。

電発&政府と外資ファンドのやり取りを見ていて思うのだが、
たとえば株主が責任を持つという流れはあり得るのかどうか。
単に投資失敗というリスクを負うのみで良いのだろうかと。
そういうトコロまで考えてみたが、まあなかなか結論は出ない。

ひとまず宿題だ。
またいずれ、時間をおいて考えてみるコトにしよう。

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2008/04/27

独自省

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国と国の関係にも、流行というか時代の空気というか
ある程度の「雰囲気」があるように思う。
また、それぞれ地域の関係にも、人間関係になぞらえるコトができそうだ。

非常に失礼な言い方かもしれないが、たとえば欧州や中東イスラム圏などは、
たくさんの「兄弟」が集まって喧嘩をしたり仲良くしたりしてるような印象。
ガキ大将っぽいのは合衆国とか北の大地とか黄土の大陸とか。

でもって日本ってのは、どっか「みそっかす」的な気がする。
そういうエキセントリックな存在だと、
完全に他の人たちの仲間入りをするコトが難しい。

ユニークな扱いではあるが、「年少の身内」的な感覚ではないか。
なんというか、ちょっと他と違ったコトをしても黙認されたりするような。
たとえば、ダメでも「まあ、あの国だからね」みたいな扱いで。

完全に自立した、たとえば転校生みたいな存在ではないのだよね。
「日本人には任せられない」と言われたりもするらしいから。
だから、いろいろな部分で周囲に依存させられているし、そうしている。

日本って、今後どうしたらいいのだろう。

独特の立場を活かした「みそっかす」ならではの
生き方などを工夫してみた方がいいのかもしれない。
トリックスターというかワイルドカードというか。

そして「まあ、あの国だからね」が肯定的に使われるようになればいい。
逆に、そうならないと愛国心なんてのも語るに落ちていくばかり。
愛するコトを強要するのではなく、愛せるようになってくれ。

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2008/04/26

逆行の走者

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聖火リレーは、人間が火を守るコトの重要さを教えてくれる。
今回は守ろうとしている脅威が、もともとの聖火リレーとは違うけれども。
その報道もまた最近では見せ物的になってきているような気がしつつ。

でも、あの国は面子を大切にする国民性があるらしいから、
公式非公式に軍だの工作員だのを導入してでも完遂するだろう。
せいぜい、その滑稽ぶりを笑ってやればいいんじゃないかな。

とか考えたとき、嘲笑うコトも間抜けな行為ではないかと思った。
そんなんじゃ結局、アレらと同列なのではないかと。
根本的に、ヒトは味方を作れないイキモノなのかもしれないな。

その人が大事にしているモノゴトを大事にしてくれる――
そういう相手を、ヒトは味方だと感じるものだ。
そんな当たり前のようなコトさえ、しかしヒトはすぐ忘れてしまう。

だから伝統やら文化やら宗教やらを簡単に破壊したりして
反発を招いて火種を作り、それがまた反対運動になって
デモ行為だのそれに対する弾圧だのと、火に油を注ぐ。

でも、そういうコトをして痛い目を見るのもヒト。
他人の苦しむ姿を見て哀れに思うのもまた人の性。
そんな思いが積み重なって、ヒトの歴史というのはできている。

だからその蓄積を踏まえて自らの行為を反省したり、
他人の行為の轍を踏まぬようにせねばならんのだろう。
周囲を責める前に。

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2008/04/25

最後の一滴が注がれるのを待ち続ける樽一杯の水、ともいうべきか

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ヒトの脳の中身は、常に新しい認識で
過去の知識を置き換えるような処理が行われているので、
いったん「過去のモノゴト」となった知識など振り返るコトなく
忘却するという作用が働くワケだが、
しかしそのヒト個人の過去の行動までもが
一緒くたに忘却されてしまう性質があるのは
いささか困ったモノだと思う次第。

そういう性質があるという前提で、どうするか。
たとえば脳内スーパーバイザーを持ち、
それを随時稼働させておくという方法があるだろう。

スーパーバイザーは、認識を書き換える脳内処理を
常に監視しておき、書き換えが発生した際には
過去の認識をアーカイブするのである。

もちろん、アーカイブは作ったら作りっぱなし
というのではなくて、記憶を検索する際などには
最新の知識とともに常にデフォルト検索対象とする。

アーカイビングでデータ量が爆発的に増える
という危惧は、もちろんITの世界と同様に存在するが
しかしヒトの脳の記憶容量は使えば使うほど
自然に拡張されるような性質もあるので
あんまり心配する必要は、おそらくない。

「真実は一つ」というのであれば、さらに加えて
「それは世の凡て」と言葉を補うべきだろう。
過去のアーカイブの蓄積の上にこそ
今の脳内の認識が存在するのだから。

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2008/04/24

仕切ったり押し切られたり

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「ウチのシキタリだから」で、本当にいいの?
将来ずっと、未来永劫そのまんまでやってけるの?
シキタリがシキタリスとして副作用なく役立つためには、
ベストなプラクティスでなくてはならないのではないか。
シキタリのために守るシキタリであってはならないはず。
当たり前のコトを当たり前だと思い込んでる自分を疑え。

自分を疑う? 自分自身に反発する? そう。それでいい。
自分というモノを、ついついヒトは信用しがちだからこそ
疑ったりするコトは大事なのだと思う。
そういうふうに、醒めてる方が、モノゴトをより広く深く観察できるから
きっと楽しいんじゃないかと思うのだけど、どうだろう?

以下宿題:
「ウチのシキタリ」を「日本の伝統」とか「グローバルな基準」とか
「慣習で守られた権利」とか、そういうのに置き換えて読んで考えてきなさい。
……そうだな、提出期限は、死ぬ前くらいでいいや。

それじゃ、今日の授業はおしまい。

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2008/04/23

理系用語で読み解く社会(24) ライトコーンの外にある何か

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そも人は皆、今を見ていると思い込んでいるフシがあるのだが、
実際には物理学的に言えば「目の届く範囲の過去」しか観察できない。
二次元化した空間に第三軸として時間軸を加えた環境の中でいえば、
光の速度による傾きを持った円錐形の中、だけが観測可能な範囲。

目先の、あるいは周囲のコトにばかり気を取られていて
もっと広く遠く深く見るコトは、得てして後回しになってしまう。
そんな性質を、生物としてのヒトは持ち合わせている。
まあ目先の生存を重視しなければ、生きてけなかったワケだからね。

だいたい何にせよ、後になって分かるコトなのであるが、
それでも中には、いつまで経っても分からないコトもある。
そんなトコロだ。

ところでおやっさん、明後日は、どっちだ?

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2008/04/22

今そこにいる危機的なヒトビト

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役に立たない法律は弊害もあるのだから改廃すべきではないかと思うのだが、
日本という国は、作ったら作りっぱなしで放置していたりするような印象だ。
ていうかきっと、作った側は忘れてるか、死んでいるんだろうな。

作るのに参加しなかった連中も、また忘れているんじゃないかな。
法律自体を忘れているか、法そのものも「変えるコトができる」てのを忘れてる。
日本って、そういう国民性があるから困ったもんだ。

でも、変えたいと思う一部の人たちは、それができると知っていて、
強く主張したりした結果、大きく変わっていたりする。
他の人たちがほとんど気付く間もなく。

その変化が、その場に参加していなかった人たちにとっても
良い結果だけをもたらすモノであるならば、まだ許せるのだけれども、
得てして、そこにいる人たちだけが正しいと思い込んでやってくれたりする。

中には、基準を変えるための方便として「科学的根拠がないから平気だ」
なんて言い回しを使うコトがあって、妙に気になるる。
科学的根拠がなかったら現場に聞けばいいじゃないかね?

でも、規制の指針を探るために設けられる会議に集まるのは、
悪く言えば、長年に渡って組織を出ずにいた官僚だったり研究者だったり、
あるいは結果を出した後の絞り滓となった企業経営者など、ばかり。

つまり、今の現場で最前線にいる人間は入っていないのだな。
ちょっと古い経験や調査結果を元にして今後を決めようというのだから、
どうしたって、どっかズレてしまうワケだ。

将来のビジョンありきで夢物語を作ってくれとは言わない。
せめて今この瞬間に生じているモノゴトを見極めてくれ。
ハナシは、それからだ。

過去のモノゴトから現在、そして将来を見極めるには
いろいろな経験や学識はもちろん、想像力が不可欠だろう。
その想像力というのは、見聞きしてこなけりゃ育てられない。

身近にないモノを見ようとしなければ、
象の鼻を蛇と思い込んでしまうような間違いもあり得る。
だから広く見聞してくれと言いたい。

でも、あんまり広く見聞してばかりいると、研究者はともかく
官僚とか結果を出した企業経営者なんかには、どうにもなれそうにない。
だからやっぱり、ちょっと噛み合わないのが普通なのかなあ。

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2008/04/21

昔あって、今はなくて、将来もなさそうなモノゴトたち

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仕事でも結構いろいろな人と接しているのだけれども、
友達の友達などに会うと、けっこう幅広い業種の交流ができるので、
それはそれで楽しみにしている。

先日、花見の際には、こんな話をした。
今の世の中の問題の原因を考える上で、「昔あって、今ないもの」というのは、
とても重要なポイントの一つだよと。

たとえば子供の喧嘩とか、ね。今の子供たちは、昔ほど喧嘩していない。
「バカアホカスマヌケおまえのかーちゃんでーべそ」とか、
いわれのない罵倒に慣れるには悪くないと思うのだけどな。

そういうのは、けっこう国際的な関係の中で、よく見掛けたりする。
しかもそいつを放っておくと、すぐ炎上してしまったりするのだ。
慣れてなければ、脊髄反射に近いレベルで反発するもんだから。

喧嘩の練習って、小さい頃にやっておいた方が効果が高いんだよ。
それに、大きくなってからだと、被害も大きいからね。
本人だけじゃなくて周囲にも、いろいろと影響が及んでしまう。

でも残念なコトに、そういうのをリアルで経験できるような環境を
今の大人たちが用意していないんだ。ごめんね、今の子供たち。
10年後、20年後、きっと恨むだろうね。

そして、今の子供たちもまた、次の子供たちに対して
「ごめんね」と言わねばならないような環境を作っていくのだと思う。
それもまた、今の大人たちや、さらに上の世代の大人たちの責任だ。

こうやって重荷を増やしていくのが、ヒトなのだろうか。
先の時代のコトを考えていくと、どうも楽観できそうにない。
というワケで溜息ばかりでしたとさ。春なのに。

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2008/04/20

穴開きの風潮

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夢を見る権利など、誰でも持っている。
その夢の中に、ちょっとくらい不健全なものが混じるのは、
まあ成長期なら誰だって経験があるはずだ。
なかったなんて否定するなよ。
もしそれが本当なら、お前ヒトじゃないから。
忘れたいから忘れちゃいましたってのは、まあヒトらしいけどな。

ともかく、そういう不健全な内容ばかりの夢にならぬよう教育するのが
子を持つ親の義務ではないですか。
子供に対して、ときには一戦を交える覚悟で、
とにかく本気で立ち向かってやらねばならないものだろうに。

親は仕事、子は塾や習い事で互いに接する時間がないし、
子供たちがパソコンやケータイで何をしているかも知らないから、
「ウチでは禁止」と厳しく躾をするコトもできないのがフツーの親たち。
でも、じゃあ法律で禁止させましょうってのは、タダの逃げだ。

そうじゃなくて社会が悪いんだって? 冗談じゃない。
こういう世の中にしてきたのは、オトナたち全員の責任だ。
そこに目を向けないようでは、やはり逃げだぜ。
権力に頼らねば何もできない親を演じたいなら、まあいいけどさ。

スティーブン・キングは、暴力的ゲームなどの規制の流れに対し
「子供たちに対して善悪を教えるという義務を親が果たしていない。
それを政府などに任せてしまうのは責任逃れだ」と言ったそうだ。
子供たちってのは、大人が思う以上に人の態度を見ているもんでね、
逃げの姿勢だと思われたら、まあ余計に信頼されなくなるわな。

子を育てるなら、大人は子たちの人生を背負うものだ。
その責任感、と言ってしまえば軽いハナシになりそうだけど
まあそういうのと本気で向き合っていかねばならんのだろうな。
それこそ昔の親たちは子たちのために生活時間を合わせたり
するのが当然だという風潮があったっけな。
今の親たちは、そんな余裕もないのが普通らしいが。

そういえば先日、電車の中で「じっくり聞く親」とかいう
学習塾か何かの広告のキャッチに目が留まった。
そうか、親にゆとりがないからこそ、教育にゆとりを持たせようと
そんなふうに考えたのかもしれないな。
まあそれは、ちょっと方法が間違ってるような気もするんだが。

弁護をする連中とは直接対話しませんなんて態度を見せてもいけない。
それ自体が、思考停止を態度で示してるだけだから。
「考えたくない、そんなモノが存在する世の中なんて有り得ない」
「だから強大な権力を以てして撲滅せしめる」
などと思っているのかと推測する。
(撲滅するって言うからには、存在を認識してるような気がするんだけれども、
やはりそこらへんは脳内マスキングを施した上で粘性の低いルートだけを
通るようにしていると、認識していないコトにできるらしい)

後先考えずに、周囲を見ずに、焦って慌てているようにしか見えません。
たとえ火元を叩いたって、火の粉が飛んでしまって、却って面倒になる。
周囲に可燃物があれば、そこに引火して余計に大騒ぎとなるだろう。
(マーフィーの法則っぽく言うなら、
「火元の近くには必ず可燃物があって、引火する」てなトコロだ)
「悪のテロリストを徹底的に叩き潰せ」って某大国が躍起になって戦争して、
でも壊滅させるには程遠い結果しか出せていない上に、国まで傾いちゃった。
そういうのが同時代に進行していても、対岸の火事ですか。

そもそも他人の人権に制限をかける可能性が高い規制案なのだから、
どこまでも真摯に対話するという姿勢でなければならないはず。
宗教や思想の自由を侵害されるという危機感を抱いた連中を、権力で
押さえつけるなんてのは、果たして法治国家として許されるのだっけ?
(過去にデモを国家権力の機動隊に押さえつけられたような経験のある人たちも、
実は今回の規制を推進する側の中に入っていたりするかもしれないと思うのだが)

「海外でやってるから」という理由も、安直すぎる。
(そういえば日本人は他の国の人々と比べると幼く見える傾向にあるワケで。
成人相手でも「そういう趣味」が成立しやすいってのも考慮した方が……)
同じ制度を輸入したって、その運用で失敗した例も日本は無数にある。
ていうか、むしろ輸入された制度ってのは運用が追いつかないものばかりでは?

海外、特に米国などでは、運用しつつ法改正を頻繁に行って、
問題が大きくならないようにコントロールするようなスタイルだ。
だから、ときたま大統領が間違った方向に頑固だったりすると
大きな失敗に陥ったりはするが、それ以外は概ね柔軟に対応している。

日本は逆に、いったん法律を決めたら変えようとしない。
せいぜい省令レベル、解釈レベルでやろうとしているから
大きく世の中が動く時代には、いつも後手後手になってしまう。
(それに今の日本の国会では、とてもじゃないが真っ当な議論も期待できない。
暫定税率と同じく審議に入らないか、あるいは人気取りのためにも
与野党共謀してロクに審議するコトもなく採決してしまうか、どっちかだ。
そして官僚たちが違いのテリトリーを主張しあったりした結果、
その政策のほとんどが骨抜きになってしまったりする)

運用を全く考えてないのは、まあ今の政府や自治体や官公庁に始まって
企業の多くでも当てはまるんだけど、つまるトコロ、
その中のオトナたちが先の見通しを明確に立てらんない無能だというのを
自ら明らかにしているようなもんで、これもまた間抜けなハナシだ。

きっと、運用するトコロにまでは、きっと全く意識が向いてないのではないか。
「失敗したら今度は運用する連中を責めれば済むコト」とでも思ってるのかな。
しかし、導入を推進するのであれば、運用面までの責任が問われるものでしょ。
当然、何年後には効果がどれだけ出て、一方で弊害がこれくらいと、
その部分は公約違反とならぬよう、きっちり検証をお願いしますよ。

さて。憂さ晴らしはこのへんにしておくか。

一方で、規制に反対する側も、少しは考えないといけないのかもしれない。

少なくとも、後ろめたいコトのないように。
現行法に触れるような行為は慎まねばならない。
業界団体などでは自主規制の強化なども、せねばなるまい。
そしてさらに、疑念ばかり抱かれたりせぬよう努力するコトが望ましい。

懸念されるような状況ってのは、単独犯行というか、
むしろ人付き合いが非常に希薄化した人に多いんじゃないか。
というより、世の中の全体的な傾向として、
私生活に他人が入り込むコトが少なくなってきているのではあるが。
入ってくるのは、ブログやメールやメッセンジャー、そしてせいぜい電話くらい。
実際に部屋の中まで上がり込む友人なども少ないではないか。
ていうか、最後の最後には警察が踏み込んでくるのかもしれないが。
そうなる前に部屋に入り込んでくる身近な他人がいるならば、
ある程度は気付くかもしれないし、迎える側も少しは違ってくると思う。

突き詰めてしまえば、これもまたオトナたちの責任範囲なのだよな。
面と向かって話し合い、議論を交わし、酒を酌み交わし、
さらには喧嘩できるくらいの相手がいた時代は幸いだった。
そうとしか言えない。

間を飛ばして結論だけ書く。

じゃあ今のオトナたちは何をすべきか。
個人的には、もっと喧嘩してやるべきではないかと思う。
他のオトナや、コドモとも、正面から向かい合って、
「ここに書いてますから」なんて逃げたりしてないで、
譲れない部分は譲らず、だけど相手にも同じように
譲れない部分があるコトを認めて、付き合っていかねばなるまい。
なに、どうせ長い付き合いになるのだ。
喧嘩したって、仲直りの機会はいずれあるさ。だから仲良く喧嘩しろ。

子供たちにしてみても、そういう大人たちが身近にいれば
同じように正面から相手と向き合おうとしてくれるはず。
そして、その子供たちの周囲にも、やはり同じような
感覚を持った仲間たちが集まってくるというものだ。

さて、ちょいと散歩にでも行ってくるかな。
ときには喧嘩もしながら10年20年の付き合いという、
もはや腐れ縁の連中を連れ出して。
途中で新しい出会いでもあれば、ついでにそれも楽しんで。

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2008/04/19

たまには時事ネタ(15.7)夢を見る方法を教えてよ誰か

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実効性に関する懸念も大きい。

運用面を考えてみれば、今のところ明確な案は出てきていないようだけど、
表面的にしか知らない連中に対策を立てさせているのでは、いけないよ。
もちろん、準ポー判断については「そっち系に精通した人」が行うべきだよね。
その手の文脈を読み解けない人では的確な判断も下せないだろうからね。
「娯楽を娯楽と見抜けない人は(以下略)」だ。

そうしたところで、全部に検閲できるだけの人数を揃えるには
大変なカネがかかるだろう。
未成年が出てくるエログロナンセンスな感じの青年漫画など、
掃いて捨てるほど(失礼!)あるのは知ってるんだろうか。
それとも、全て準ポ行為として切って捨てるつもりなのかな。
でも現実問題、ほぼ確実に取り締まれない。
今の日本にはアンダーグラウンドなど幾らでもある。

結局、実効性の薄いまま、せいぜい発禁処分を大量に作るだけ
ってコトになってくるだろう。
しかしそうなれば、取り締まる側の人手も足りないんじゃないか。
もっと重大な犯罪捜査に取り組んでるような人員まで動員できるか?
それで警察官を増員しろと言ったって、なあ。
その分、税負担が増えて困るだけではないかと。
(もし増税したら増税したで、もちろんそっちには文句を言うだろうけれども)
(しかも、促成した警察官の士気低下やそれに伴う不祥事などがあったりしたら
またそこで鬼の首を取ったように文句を言うのであろうし)

さらに、「可能性の制約」の問題もある。

単純所持の禁止というのは、ヒトの可能性を削減するコトでもある。
その可能性は、夢ともいう。
夢を見る権利が奪われたと感じたら、それは屈折したカタチで表れやすい。
夢をなくした子供たちが大人になって、何をするだろうか。
それは、戦後生まれのそれぞれの世代で、カタチこそ違えど
いろいろな社会問題として出てきたのではなかったっけ?

これまで可能だったコトを禁止するのであれば、
それ相応の根拠がなくては許されまい。
当然、弊害が生じるコトなど、あってはならない。
よほどの理由があるなら別だが、特に規制を受ける側が
納得できるような理由も、今のところは見当たらない。

「疑わしきは罰せず」の原則は、「疑わしきは罰してしまえ」という
ヒトの心理があるからこそ必要になったものだけど、
まあ要するにヒトが感情に流される生物である以上、
上記の通り、なかなか徹底されるコトはないワケだ。
そして溝は一層深まっていくばかりで、むしろ対立が激化しかねない。
規制に賛同している人たちは、その危険を承知しているのだろうか。

そもそも、絵ってのは描き手が読者に見せようとした夢ではないか?
写真も同じだとは思うけど、製作過程で必ずしもモデルを必要としない点で
絵は純粋な夢に近いモノだとは思えないかな。
児童からの搾取を防ぐなどの目的を考えれば、
実写への規制が必要であるコトは誰にでも納得できる。

が、絵ではなあ。
二次元専門の趣味の人と、三次元までの趣味の人とでは
犯罪に走る率も違うように思うぞ。たぶん。
と思う人間が一部にいる以上、彼らを説得できるだけの論拠がなければ。
その論拠としては、最低限「被害抑制」などの効果を示さねばならない。
しかも客観的に。もちろん、規制する弊害を上回るだけの効果であるコトも。

数で押し切るなんて蛮行は、こと思想や言論や表現に関する部分においては
「ダメ、ゼッタイ。」
何故そうせねばならないかは、みんな学校でも学んだはずだから省略。

そしてデメリット。

このような規制強化に伴うデメリットは、いくつか考えられる。
たとえば、「所持してはいけないもの」「流通させてはいけないもの」
のリストを拡大することで、どんどん統制社会になっていってしまう。
すでに世の中、全体的にそういう傾向が加速し始めているワケだが、
さらにその加速度を高める材料の一つになるだろう。

夢を見るコトの方向性が法律で厳しく制限されるとなると、
創る側の意欲も次第に弱まってしまうような気がする。
そして、観る側の楽しみも、ずいぶんと制約されてしまうだろう。
せっかくオタク文化が日の目を見るようになったというのに
その根っこの部分を潰そうとするのでは、なあ。

さらに言うなら、創ったり観たりしない連中からみれば
そいつら「全部まとめて犯罪者予備軍」のレッテルだ。
また差別が生じかねないんじゃないだろか。
差別の原因を作り出す人間ほど、そこに関して無頓着というのは
得てして世の中の歴史上、いつも見られる普遍的な現象だったりする。

そもそも子供たちが世の中に出てどうするという夢を抱くコトが少なく
なったのは、そういう世の中になってしまったからであって、その世の中を
作ってきたのは今の大人たちであって、さらに上の世代の人たちである。
今の時代、大人でさえ夢を見られないのだから、どうしようもない。
だもんだから毅然とした態度で生きていけなくなっていて、
しかも時間が足りなくて、子供たちへの教育も儘ならない。
それを見ている子供たちは社会に出て夢を実現するんだなんて思うコトができず
じゃあ違うトコロで夢を見ましょうかってコトで、仮想世界に没頭したりする。

今の子供たちを、そして大人たちを、そういうふうに仕向けたのは、
その大人たちが子供だった頃の大人たちで、
さらにその大人たちが子供だった頃の大人たちまで考えると云々。
結局、夢ってのは下の世代ほど感じられなくなる傾向にあるんじゃないかな。
そんな世の中にしてしまった責任に対して、
果たして本当に向き合ってるんですか、上の世代ってのは?

で、まあいろいろ考えていくと、こんな社会現象を見るだけでも
精神的に危機的状況であるように思えてしまう。
精神的危機に陥らないようにするには、想像力を働かせる訓練も必要だ。
それは夢を見るコトと同列なんだよね。

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2008/04/18

たまには時事ネタ(15.3)もうそういうコトができない困った世の中になるかもしれない件

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「児童ポルノ法改正」議論に関しては、
いろいろ語っている人たちもいるので重複する点も多いとは思うが、
やはり思うトコロはあるので、少しばかり書いておきたい。

いろいろと、どこかで引っ掛かっているのだ。
「なんか変だよそれ」という感覚は、ある。
そして経験上、それはおおむね理屈づけられる。

簡単に言うと、見苦しいだとか汚らわしいだとか、
そういう主観的な理由だけで他人の楽しみを奪うコトは
そうそう実現できないものだし、そんなコトを法律化するなんて
よほどの効果があるという論拠でもなければ避けるべきだと考えている。
つまり、「ダメ、ゼッタイ。」

まあしかし、まさかそんな低レベルな根拠などではないと思うので、
もう少し突っ込んだ考えをしてみた。
しかし、いろいろなトコロにハナシが広がってしまう。
(だから対象そのものも、
ツッコミどころが多すぎるんじゃないかと邪推したくもなる)
まあそれはそれとして。
手当たり次第、可能な限りで真剣に論じてみよう。

まず論拠が気になる。
特に、写真はともかく、絵にまで対象を広げるのは何故なのか。
被写体が現実に存在する実写とは違い、
フィクションである絵の中の対象を確実に判定できるのか。
もとより疑いの目で見ていれば、ほぼ確実にクロ判定になる。
極論すれば、罰則を規定した時点で「見るまでもなく全部クロ」。
摘発が容易なら大量の逮捕者を出すだろうし、
そうでなくても、対象になりそうな人たちは身の危険を感じて
隠匿するだけのことだろう。なに、手段はいっぱいある。
あえて割れた窓を作るコトの愚は、もう書いたから省略。

では本当に、漫画など創作物から影響を受けているのかどうか。
しばしば言われるコトだが、「容疑者の自宅から押収された
大量のゲームや漫画本の中には、事件によく似た描写の作品が」
とかいうケース。
大量のコレクションを蓄えているのであれば、そりゃあいろいろな
内容のモノが混在しているだろうよ。
中には一つや二つ、似たモノがあっても、偶然でないとは言い切れない。
ヒトの考えるコトなんて、どうしたって似てきたりするもんだからな。
だが報道されると、それが必然の帰結であったかのように伝わってしまう。
情報の受け手側が、そう信じたいから。
それが、犯人捜しを求めるヒトビトにとっての「粘性の低い思考ルート」だから。

見る方も、単純な娯楽の延長線上として捉えているコトが多いはず。
なにせソレは、かなりの産業になってるらしいのだから、
つまり産業を支えるだけの市場があるコトは間違いない。
しかもその大半は「一見、普通の人」として
社会に溶け込んで生活しているとしか思えない。

もちろん、本当に影響を受けたケースも、中にはあるのだろうとは思う。
しかし娯楽コンテンツごときに影響されるってコトは、
「影響されるくらいしか蓄積がなかったから」というのとほぼ同義ではないか?
そんなに蓄積のない若者たちを世の中に送り出してしまう大人たちというのは、
果たして胸を張って規制を主張していられる存在なのだろうか。
不祥事を起こした会社や官公庁みたいに、こう言うべきではないか。
「事実を真摯に受け止め、反省して、対応策を練る」と。
(それとも、アンタまさか日本のオトナじゃないのか?)

たしかに、中には勘違いしてしまう人もいるだろうけど、
その人の暴走を防ぐための社会的な人間関係が失われているコトの方が
よほど重大な問題であるように思う。
周囲に危害を及ぼす方向へと人間を大きく変貌させてしまうのは
例えば絶望であったり恐怖であったり怒りであったり、
要するにたいていはネガティブな感情によるのではないかと。
楽しんだ挙句に人間を変えるようなモノゴトであれば、
周囲への影響などは小さいはず。
果たして、そういうのを切り分けるコトは想定しているのだろうか。

もうね、続く。

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2008/04/17

たまには時事ネタ(15) 天網恢々、そして漏れ漏れ

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最近、企業に対する規制が弱まる一方、
個人に対する規制が強まる傾向が妙に進んでいるように思える。
いちいち取り上げていたらキリがないのだけれども、
ずいぶんと厳しい締め付けのように感じられる。
しかしそれとは別に、割れるべくして置かれる窓になりそうなものは、
むしろ最初から作らないでほしいなあ、とも思うのである。

たとえば、出会い系サイトを届け出制にするとかいう案を
真面目に議論してる連中がいるらしいと知って愕然とした。
本当に規制できると思っているのだろうか。
そもそも迷惑メール規制でさえ満足な結果を得られていない。
インターネット上の社会に対して法律の枠組みというのは
ほとんどチカラが及ばないと考えていいだろう。

未成年向け携帯電話用サイトの規制の流れも同様。
規制の影響を受ける子供たちなどは、いい迷惑だ。
安全と思われる勝手サイトまで規制されては商売もしづらい。
個人に対する「○○の所持を禁ずる」という規制案も、
結局は同じ道を辿るような気がしてならない。
これまた、割れるべくして作られようとする窓ではないか?

「問題があるなら規制すればいい」?
「規則を作って守らせればいい」?
「守らないものは取り締まればいい」?
そんなのは、いくら何でも安直に過ぎる。
子供を持つ親の心境を巧みに利用した人気取りですかと。
詐欺師と何が違うのか説明できるのかと。

「違法コンテンツをそれと知りながらダウンロード」とか、
「児童ポルノの単純所持」といったトコロまで踏み込もうとする
動きに対しても、同じような懸念がある。
そういう規制をしようと考えてる連中の、
大元の目的に対しては、決して反対するものではないのだけれど
しかし、短絡短慮に過ぎる。それが非常に恐ろしい。
(衆愚の暴走が破滅をもたらした過去は、もちろん歴史で学んだよな)

長年に渡って厳しい規制が敷かれていて入手ルートの限られる
銃器や薬物でさえ、まるで根絶できていない。
ましてや今、非常に多様な入手ルートがあるモノを、
そして世の中に膨大な数が流布しているようなモノを、
果たしてどうやって規制できるものか。

「割れ窓理論」に基づいて考えてみれば、
喫煙の規制などでさえ厳しいラインにある。
路上喫煙を全面禁止として反則金を課し、
しかも指導員を巡回させている千代田区でさえ
ちょくちょく歩き煙草を見掛ける有様。
他の区では、指導員の巡回もほとんどor全くないもんだから
そんな禁煙ルールは全くと言っていいくらい守られていない。

でも、多くは違反であるコトを知っていながら、あるいは可能性を知りつつも、
「バレないから無問題」と考えているんじゃないかな。
これじゃ「守らなくても大丈夫だった」という経験をさせてしまうだけだ。
もしかしたら「割れるべく作られた窓」かと思うくらいに、杜撰な運用である。

ならば、さらに一層の規制強化をすれば済むのか。
一般的にみて、規制強化は労多くして実り少ないものだ。
よほどのことがない限りは、規制より摘発強化を優先すべきだろう。
もっとも、摘発強化に関しては、規制の方向付けにも依るが
やはりこれもまた問題を引き起こす可能性がある。

秋葉原や新宿では、警察官がオタっぽい男を掴まえては
路上で身体検査をして刃物を取り上げて点数を稼いでいるが、
アレはまさに「弱きを挫く」だけのような気がする。
犯罪者がオタだったらマスコミが喜ぶので目立つんだけれども、
実際そんなに多いかどうか。資料があるのかどうかさえ怪しい。
あるいは逆に、オタ文化が日常社会に入り込んでいる現状、
どこまでっていう線引きでさえ、もはや不可能に近いのではないか。

「疑わしきは罰せず」って、教わったのは嘘ですか?
疑わしいのを任意同行というタテマエの人の壁で心理的に圧迫して
実質的に逃げられないようにしてから路上で羞恥プレイ。
これを罰って言わないで、何と言うのかと。

実際、ある友人は、いかにもオタっぽい格好をしていて包囲され
鞄の底に入れたまま忘れていたポケットナイフが出てきたので
警察署に連れて行かれて2時間あまり出てこなかった。
とても犯罪などできそうにない男なのだが。
そして、帰ってきたときには、泣きそうになっていた。
そういう実体験から考えても、
気の弱い人を痛めつけるだけの行為ではないかと思う。

警察官は、昼間の繁華街の交差点に張るのも大事だとは思うが、
もっと人気の少ない深夜の住宅街を巡回していてほしいな。
通学時間帯の通学路周辺とかも大事だ。
それも、自転車に乗って走り抜けたり厳めしい表情で歩くのでなく、
誰からも話しかけやすいような雰囲気を漂わせつつ。
その方が、よほど犯罪抑止に役立つのでは?
点数は稼げないかもしれないけどさ。

そしてそのことを、地域社会が要望しているのかどうか。
もちろん、やってくれたら警察を評価してやるコトも大切だろう。
彼らだって、ただのヒトだ。
地道にやっても評価されないと思ったら、
せいぜい点数稼ぎに走るしか、逃げ場はないのだろう。
「良識ある市民の皆様」は、いかがお考えですか?

個人的に思う。
見せしめというのは、たしかに子供心に効果が高いものだ。
ただし大人の犯罪に対して。
子供の中での見せしめは、
時と場合と人によるが逆効果になりやすい。

「アレが悪くなくて、オレが悪くない理由が分からない」なんて、
昔のロケンローラーが言ってた気がする。
悪いコトをした大人が、大した罰も受けずに偉そうに生きている。
だのに、ちょっと悪さをしただけの子供たちは逃げ場もないままに
厳しくしかられたりしている、そんな世の中が嫌だったのだろう。

「それが悪いなんて教えてくれなかった」という大人たちへの怒りと同時に、
「それが悪いなんて気付かなかった」自分に対しても怒りが湧いてくる。
人間ってのは、どうもそういうコトらしい。

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2008/04/16

げー! 無能?

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何か事件や事故のたびに気になるのだが、
原因究明というより悪者探しで終わってしまう
ような風潮が強いように思われる。
それで終わりにしてしまうのは思考停止ではないか。

たしかに社会的な安堵を得るためには、
晒し挙げる対象を見つけてしまえばいい。
その効用は理解できる。
が、そればかりでは片手落ちであろう。

何を以て愚かと言うのか。
考えるコトの停止。考え続けるコトの放棄。
また考え続けている状態に対する軽視、蔑視。
それらを愚かと言わずして何を愚かと言うのか。

だから面倒がらずに考え続けてみろよと言いたい。
いや、たぶん、そういうハナシじゃないのだと推測している。
もっと根本的なトコロが違う。
「結論が出たら、その話題は忘れて良い」とか、その程度なのだろう。

でも、本当に、それでいいのかい?

「そうか! 分かった!」で終わりかい?
知れば知るほど、謎は増えたりしないのかい?
その膨大さに圧倒されてしまいそうになってもなお考え続けて、
より一層広い世界を見たいとは思わないのかい?

……

終わったと思っているコトを蒸し返す行為は好まれない、
とは知っている。
ではどうすればいいのだろう。
そのあたり、もっと深く考えてみなければなるまい。

いやもしかすると、
結論など出ない問い掛けなのかもしれない。
それでいてしかし、
探求し続けるコト自体が答えになるのかもしれない。

憂えるべきコトは、世の中に数え切れないくらいある。
それ一つひとつ嘆いていたら、人生すべて悲嘆に費やしても足りまい。
しかも、憂いの原因自体は勝手に消えてくれたりはしない。
せいぜい、きちんと向き合って解決の道筋を探ってやらにゃ、な。

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2008/04/15

ヒトムカしバナシ

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10年、という言葉自体を発するのには1秒もかからない。
が、その10年の中に同じ日は1つとして存在しない。
ときには映画にでもなりそうな日だってある。

逆に、どうでもいいような日だって、あったかもしれない。
だが、10年経ってみれば、そんなのもまた「然あるべき」日
だったのではないかと思う。そんな年月を、過ごしてきた。

またこれからも、
そんな感じで一生を終えるまで、
いろいろな日々が続くのだろう。

「若いの」も、10年もすれば追いついてくる。
今は若くとも、10年後には若くなくなり、
若さ故の弱みも消えてくるもんだ。

そういうトコロが分かってくると、ちょと面白い。
逆に、10年経っても変わらぬ部分も、ヒトにはある。
それを見極められるようになると、なお面白い。

これまで無頓着でありすぎた、という反省も抱くようになった。
あまりに無邪気に生きてきた。ゆえに、今後は知らねば――
そう思った瞬間が「大人になった」とき、なのかもしれない。

ヒトのやるコトは全て虚しいと思ったりしつつも、
ではそれがなかったら、どれだけのモノゴトやドラマが
生まれてこなかったかと考えると、あってもいいのかな、
という気にもなってくるものである。

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2008/04/14

年寄り臭い説教話(期間限定、諺とか駄洒落とか増量中)

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目の前に見える目標だけを見据えて近道しようとして、
実は大変に面倒な路地に入り込んでしまったり、
あるいは結局のトコロ余計な遠回りを余儀なくされたり、
そういう経験は誰にでもあると思う。
安直な規制or規制緩和、違法化or合法化といった議論なども、
そんな流れに入り込んでいるように思えて心配だ。

現状を憂い、何とかしたいという気持ちがあるのは理解できる。
でも、たいていの規制強化案を見ていると、早計に過ぎる気がするね。
粘性の低い思考ルートしか使ってないのだろうか。
気持ちだけが空回りしていて、他のトコロに引っ掛からないのかもしれないな。

たいてい、規制したい側は規制されたくない側の後追いで、
どんどんエスカレートしていく一方のイタチごっこに業を煮やして
「抜本的な対策」と信じて新たな分野への規制に乗り出したりするのだけど、
実はそれって、「それよりいっそ」な感じで、アレだ。
結局のトコロ、地道な作業の継続が難しいという言い訳に役立ってしまってる。
ヒトってのは、いったん気持ちの方向付けができてしまうと、
そっちの方向だけが粘性の低いルートになってしまうのでね。そんなもんだろ。

まあ実際、実効性が疑われるような「違法化」「規制」の案があったりするし。
作ったり配布したりする行為に対する規制さえロクに実践できてないのに
所持を禁止するなんてのは、どっか履き違えているように思えるのだが、
実際どう思ってるんだろう。所持規制も実効性ゼロに近いんじゃないのか、とか。
どっちかっつーと巻き添え被害や、境界線上のトコロの紛争を激化させたり、
はたまた全く違った方向に規制が強化されてしまうのではないか、とか。
実際、ヒトの知恵ってのは恐ろしいもんだから、たいてい当初の予想とは
違った方向に進んでしまったりするもんだし、そのくせ結構ヌケてたりして
その方向転換に気付かないで車止めまで突っ込んでいったりしてしまう。
実効性のない規制は、アンダーグラウンド化をさらに進めるだけの効果しかない。
まあそれはともかく。

要するに、目の前にある泥沼に気付いていないか、
あるいは沼でなく平地だと錯覚しているような気が。

きちんとした道路マップだのロード地図だのは用意してるのか。
いいかい、地図ってのは客観的観測の成果として作られるんだ。
でもって、客観的ってのは自分専用依怙贔屓を排除してできるもんだ。
「俺様抜きの世界」でなけりゃ客観的観測にはならん。
その上で、出発地点や目的地を図上に置いて、間を適切なルートで結んだりして、
(読める人間になら)誰にでも読めるような道筋を描くものだ。
そして道筋を辿る際には、用意されている標識や
周囲の地形などを頼りにして常に現在位置を把握し続け、
迷わぬようにせねばならない。

地上を歩く者にとっては、誰だって沼地に嵌り込みたくないはず。
だからこそ、沼地の実態や周囲の状況を綿密に調べ上げて、
その危険を避けられるような情報を持っておくべきではないか。
割れ鍋には綴じ蓋ができるし、臭いゴミ箱には蓋をするコトも可能だが、
さすがに沼地ともなれば蓋などできそうにもない。

さて、ハナシは遠回りしすぎた。
(といっても、寄り道もまた楽しいし、後述するような心理テクニックの
練習の一環にもなったりするから、必ずしも悪いコトではないのだが)

安易かそうでないかの判断基準として、
反対意見を持つ者たちとの対話があるかどうかを考慮したい。
理解しようとする意識を持って、そのために行動しているかどうか。
でも、このコト自体がまた難しいんだよな。
もちろん、難しいからといって挑戦しないなんて選択肢は勘弁してほしい。
「ねじれ国会」なども、辟易する。見るに堪えない。
しかしだから、あえて可能な限り知ろうとしている。
自分が沼に嵌り込まぬよう、できるだけ周囲に気を配っていたいから。
それに、嫌なモノから目を逸らしたって、それが消えてくれるワケじゃない。

また寄り道してしまった。やれやれ。っていうか、まあいいや。
規制なり規制緩和なりを目指す人たちは、
たいてい自らの意見が正しいと信じてるから、やってる。
正しいと信じている考えに対し、異を唱えるヤツがいれば
ヒトの本能に照らしてそいつは敵対者と断定されてしまう。
でも、敵対者と言われた相手は、やはり敵対心を抱くのもまた本能。
だから敵対者だと思うコト自体が敵対者を作り出す行為。

思い込んだら、そっから先は、もはや試練の道だ。
叩け叩け叩けとばかりに互いに殴り合って白い灰になるのかね?
たしかに、思い切り喧嘩でもしてみたら、
ムシャクシャしたココロも少しくらい紛れる、かもしれんけど。

それはともかく。
本能的に行ってしまった断定を覆すため、ヒトは長い歴史の中で
幾つかの心理テクニックを編み出してきた。それらが役に立つ。。
が、いずれも基本的には相手を知るコトにあるのではないかと思う。
それが「百戦危うからず」であり、逆なら「危うし」なのだな。
物凄く在り来りな言い方をしてしまえば、
「相手の視点に立って考えてみろ」ってトコロだ。
「一寸の虫にも五分の魂」なんて諺もある。
虫けらの如く思える相手でさえ何らかの理があるとも解釈できよう。

たとえば、敵対するカタチになってしまった根本原因まで、
あるいは両者の意見が枝分かれする前の段階まで、きちんと道筋を遡り
なぜ意見が分かれてしまったかを探っていく方法もあるだろう。
相手の思考ルートを辿り、心理状態を擬似的に体感する行為を通じて、
心理ポジションが転換され、本能的な敵意は消えていく。
相手からみても、「話せば分かる」と思われるコトだろう。
そんなとき、こうするのよ。相手を見つめて、一緒に笑って笑って笑って。
(敵意が消える前にやっちゃダメだよ)

そこからは、その関係を維持しつつ、相違点を少しずつ埋めていく。
さらに、互いに拘泥していた点を少しずつ溶かしていく。
泥沼に足を取られたときは、慌てちゃいけないんだ。
藻掻くほどに沈んでいってしまうからね。
泥の粘性に対し、無理に逆らわず、むしろそれに合わせるように
手足をゆっくり動かして、自らの位置を確保していくのだよ。

だが、こんなテクニックは、一朝一夕に身に付けられるモノではない。
それなりに苦労をして、時間を費やして鍛錬しなければ習得できない。
また、これまた困ったコトに、かなり忘れられやすいテクニックだから
日頃の技量維持訓練もまた欠かせない。
でも、そういうトコロで手を抜いて、結果、喧嘩したって損ばかり。
「急がば回れ」と言うじゃないか。
なに、先進国の人にとって、人生なんて飽きるくらいに長いんだ。
それくらいの時間、使ったって損にはならないと思うよ。

ただね、いささか現状には不安も抱いている。
開いてしまった箱を慌てて閉じたとしても、
大気中に放出されてしまった中身を元に戻すコトはできない。
もし中で猫が死んでいて、その死因となった青酸ガスが拡散したりしても、
もうアレだ、こぼれたミルクはお盆に戻せないんだよ。

エントロピーは時間とともに増大し続けるものであるから、
そしてスケールが変われば卓越する法則も違ってくるから、
いつか将来、旧来の手法が通じなくなる日が来るかもしれない。
そうなったときには、「新しいワインを新しい革袋に」だ。
新たな状況に合わせて新たな社会のあり方を発明せねばなるまい。

為せば成るかもしれないが、ならぬコトはならぬのがヒトの常。

でも、「なして?」と問い続けるコトは、ヒトの可能性でもある。
だから、それでいいのだ。

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2008/04/13

慣習の監修者になれますか

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継承するという問題について、いろいろと考えてみると、
慣習というのは、不変あるいは容易に変化しないものとして、
法などと同様に位置付けられているような気がする。
特に多くの日本人にとって、法は自分たちのために変える
コトが可能だという認識は、まだまだ少ないのが現状だ。

商習慣や組織内の習慣などにしても同様。
こういった既存のルールもまた、自らの力で変えるコトができないか、
あるいは変えられるにしても非常に困難なものだと思われているようだ。
そもそも変えるコトなど念頭にない、というのが大半であり、
ひっくるめると、慣習というのは原則として不可蝕であるらしいのだ。

でも実際には、ひょんなきっかけで変わってしまうモノだというのは
過去にも伝えてきた通りである。
もっと言うと、日本の家庭環境などというのも、
はるか太古の昔から変わっていないように
思われていたりするのではないか。

いや実際には明確な定義付けなどもされておらずに漠然と、
そんな感覚が定着しているような感じで。
いろいろ考えてみれば、違うと言えるだろうけれども、
つまりそういう感覚があるってコトは、
まるで考えたコトがないってワケだ。

例題を一つ。
【「必要悪」が、なぜ必要になったの?】
たいていは歴史的意義があって登場したりしてるのだが、
そういうトコロを突き詰めていかないと、
どうにも場当たり的な対応になってしまうのではないか。

いろいろとコトバを費やして時間を掛けて、考えの過程を
見てもらっているのは、そういうトコロに気付いてもらいたいから。
(こうやって書くと、なんか偉そうに見えてしまうが、
偉くなくたって考える道筋を見せて構わないのだし、
そういう癖をつけた方が、じっくりと対話する際には良い)

「気付かせるコト」を米国IT業界っぽく言うと
「気付きのエクスペリエンスを得てもらうコト」てな具合か。
気付くコト、それは楽しいのだ。好奇心ある動物としては。
けど、気付くまでのプロセスに先立って、
興味を惹かれるかどうかの関門がある。

だから「知ってる&興味ある」という領域の
ギリギリを掠めつつ新しい領域を見せるコト
が特に効果的な気付きのカタチなのだろう。
他人が気付いて驚き喜ぶ瞬間を見たいから、
ついつい、そんなコトばかり企んでしまう。

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2008/04/12

遮断法人組織論

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悪しき慣習を断とうとする取り組みは、非常に難しい。

組織の場合であれば再構築を行って中の人を大きく入れ替えたり、
全く新しいルールを作って全員にやらせてみたり、
まあ実施だけでも大変だのに、そもそもからして「悪しき」って
ヤツの定義もまた人によって視点によって違ったりするワケで、
そこからきっちり考えていこうとしたら、時間だけ過ぎる。

リーダーが断行したトップダウン改革であったり、
あるいは逆にイデオロギーに充ちた現場や
現場のカリスマからのボトムアップ改善であったり、
さらには外的要因による否応なしの変革など、
要素はいろいろあるが、いずれにせよ強いベクトルが不可欠だ。

戦後、会社や官公庁など、多くの組織が再構築された。
良くも悪くも社会全体に及んだ変革の一環であるから外圧とも言える。
そして、いろいろなトコロで旧来の慣習が根強く残ったり、また逆に
新しい基準が取り入れられたりしながら、混乱の中で少しずつ
融合していった結果、現在に至る戦後の社会が作られていった。

こういう、「ガラガラポン」の変化ってのは、しかし今は期待できない。

だから方向を見定めて、地道に継承しつつ発展させていくしかあるまい。
「地道に躾をして、組織として望ましい癖をつけ続けなさい。
そうすれば小さな改善が現場で日常的に継続されるようになり、
さらには、いつかきっと大きな飛躍が訪れるはずだ」
と、どこかの有名な経営コンサルが言っていたっけ。

もとより、「それよりいっそ」な感覚の強い日本人。
しかも一方で、最近では地道にやるという慣習が、あまり継承されていない。
生物は、退化して失われてしまった機能を取り戻すコトができないから、
また新しく、別のトコロから進化させて身に付けていくしかない。
長いよ、これ。きっと。「それよりいっそ」では、耐えられないんじゃないかと。

どうしてもというのなら、もう一回戦争して負けてみるか?

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2008/04/11

軽率に継承するコトに対し警鐘を鳴らしてみる

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「生活のリズムは、集団で行動するので、特別の異状が発生しないかぎり、
日課として決めた計画に基づいての教育訓練の繰り返しである。
その間をぬって初年兵の教育と称して常套手段である『ビンタ』が連発される」

「『対抗ビンタ』とは約五分間、初年兵同士が向かい合って殴り合うことを
言うのである。五分間といっても二百発以上という条件があり、しかも
力の入れ方を加減したと見破られた場合は、上官の拳がとんでくる」

「真剣さを欠くと判断された場合には、係の兵長が模範的な『殴打』の手法を
全員の前で披露し、またまた連続して殴り合いをさせ、納得したところで
中止命令を発し、ようやく一つの儀式が終わるのである」

(三井喜二郎「戦う陸軍農耕兵」光人社NF文庫)

旧軍の最末端の人の話を見聞すると、こういう例は枚挙に暇がない。
水木しげる翁なども、「ボーッとしていたからか、よくビンタされた」
といったコトを、かつての従軍日記の中で書いていたっけな。

軍人のビンタとかリンチとかシゴキなどの伝統は、
先輩から後輩に脈々と受け継がれてきたものだろう。
もっと言うならば「先輩にやられたのだから
後輩に引き継ぐのが当然」というような意識があったはず。

それも、コトバにできるほど明確に認識していたのではなく、
どっちかというと深く考えるコトもなく常識化させていた
というか、まあ要するに他の思考ルートを作るに至らず、
良くも悪くも保守的な感じにやってきたのだと思う。

また、当然のコトではないぞと明確に認識していた人がいたとしても、
周囲との軋轢を生じさせないようにするためにも
特に何もせず黙り込んでいた可能性が高い。
ただ「自分はやらないぞ」という程度であったことだろう。

こうした伝統は、おそらくは軍の近代化の過程で
下っ端の集団の中に自然発生的に生じていったものだ。
ただ、そこに上からの指導内容が加りつつ、変化していった。
(当然ながら軍人勅諭などの指導は即座に取り入れられたはず)

戦争指導者たちが、そこに関して責任があったかというと、
当時の状況を考える限り、かなり微妙な問題と言わざるを得ない。
現場の暗部を詳しく知っていたかどうかは人によるだろうし、
知っていても「暗黙の了解」として触れずにいたのではないか。

そもそも報告制度が、そこまでの機能を持ったものであったかどうか。
階級社会の中で報告が上へ上へと伝言ゲームされていく中では
下士官によるリンチで兵が死んだって、数多くの戦死事故死に紛れよう。
(現代の日本企業や官公庁組織の報告制度も、大半がそんなもんだろう)

また、シゴキなどで負傷者や死者、逃亡者が出たくらいでは、
おそらく実害として認められなかったことだろう。
どうせ上層部までの報告はなかったのではないか。
恥を晒すコトを良しとしない日本人にとって、それは「常識的」な対応だ。

もし上層部に届いたとしても、その部隊の恥になるからと黙殺されていた
可能性が非常に高い。同じく「常識的」対応として。しかも善意のための。
地域ごとに置かれていた兵営での問題は、即ち地域の恥でもある。
同じ地域の出身の同僚や上官に遠慮したら、もう黙るしかない。

一方、現場を率いていた下士官たちは、そもそも人的被害を出すほどの
原因が自分たちにあったかどうか、それさえ意識するコトもなかっただろう。
そして、伝統を疑うなどの行為は教えられていなかっただろうから、
脈々と受け継がれてきたシゴキが良くないなどと検討する可能性すら薄い。

総合すると、一部の人間は良くない慣習だと気付きつつも
目立つ実害がないからと黙っていたし、また一部の人間は
気付いても何もできない立場に置かれていただろうし、
さらにまた別の人間たちは、気付く能力や環境がなかった。

結局、そのままダラダラと引き継がれていったのであろう。
何もせず受け継いでいくなら、継承にしたって劣化が著しいのだ。
しかも新たな発展は、いったん向かった方角にのみ加速していき、
終には、どこかで歯止めが利かなくなって破綻への道を突っ走る。

戦争も末期になると、徴兵された中に様々な人物が混じる。
その「悪行」が現代にまで語り継がれたりするのは、
中には、部下を率いるなど考えたコトもなかったような人物が
比較的高度な教育を受けた若者の上官になったりした結果か。

とはいえ最近の日本人も、ようやく「結果に対して責任を持つ」
コトの重要さに気付いてきたようである。その基準に照らせば、
「指導者の能力不足や体制不備などに起因する組織の失敗なのだから、
いずれにせよ当時の指導者は責任を問われるべき」となるだろう。

まあしかし、政局のために鬼の首を挙げるってのも、また困りものだ。
指導者は結果に責任を持つべきだというのも事実だけれども、
だからといって単純に「勝てば官軍」という時代でもないだろう。
過程も大事だというコトを、もう忘れてしまったのか。一兵卒は。

……とか手軽に結論づけてしまう自分自身の慣習も、改めないとな。

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2008/04/10

継承するコトの問題を発展させて考えてみる

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経験でのみ伝えられるようなモノゴトってのは、けっこう多い。
それを後の世代に継承するには、大変な苦労を伴うものだ。
継承をするには各世代が互いに深く関わり合いつつ、
長い時間を一緒に費やさねばならないが、それが難しいのである。

現代では世代間ギャップは深くなる一方であり、
しかも内外で新しいモノゴトが生じていて、
とてもそれどころではないというのが実状だ。
継承は断絶している、と言わざるを得ない。

そういう点から言えば江戸時代などは、
鎖国の中で外から入ってくるモノゴトを限定できたから、
落ち着いて継承するという作業に
じっくり腰を据えて取り組めたのかもしれない。

かといって、中で新しいモノゴトができなかったワケでもなく。
それなりに発展しつつ継承されていったコトは言うまでもあるまい。
また、継承される文化の劣化は、それなりにあったと思うけれども、
しかし現代よりも、劣化の度合いは低く抑えられていたと思われる。

外との繋がりを重視するのであれば、部分的には
継承するコトを諦めざるを得ない部分もあろう。
しかし一方で外からは、より新しいモノゴトが入ってきて
中で混和され、さらに新たなモノゴトを作り出せるだろう。

閉じてしまった環境での継承というのは、また別の問題もある。
年齢や世代の上下関係による文化としては、
学校でも特に部活内などで「理不尽な先輩」なんてのがいたし、
もっと前の軍隊などではビンタの伝統もあったりした。

それらは誰が作ったというのでもなく、
自然発生的に作られ継承されていったもののようである。
そして今の世の中には、それがほとんど失われている。
その内容の良し悪しはともかくとして。

いずれにせよ、かつて、あまり年齢差のない近似世代を
狭い枠の中に詰め込んだような状態だった学校という環境は、
今、大きく変わってしまったと認めざるを得ない。
こんな環境の変化が、今後どのような影響を日本社会にもたらすのだろうか。

「“国家百年の計、企業十年の計”などということばもあるが、
経営における人材育成、人事計画の失敗は10年後に必ずはね返ってくる」
(柳田邦男「続マッハの恐怖」新潮文庫)
……というコトは、100年後の視点で考えた方が良いのかな?

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2008/04/09

無思考性の声

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たまにいる。
ドスを利かせたような低い声、
それでいて早口、あるいは抑揚を抑圧したような口調。

「軋むような声」という表現を、
どこかの小説で見た気がするが
まさにそういう形容が相応しい。

こういう声の質だと、けっこう遠くまで聞こえる。
ただし、言葉の内容自体は、さほど遠くまでは伝わらない。
「伝えたいコトがある」という情報だけが、離れた相手にも届く。

それ自体は、まあ良くも悪くもあると思うのだけれど、
本人がそれを自覚して抑制したりしてくれないと、周囲は
かなり迷惑に感じたりするので要注意だ。

先日、ある牛丼屋で、幼い子供を連れた夫婦の客の
夫の方の声に、Uの字テーブルの中の店員が反応したのを見た。
言葉の内容は分からないが、声を掛けられたと感じたらしい。

店員は返事をして振り返ったが、呼ばれたのでないと分かったらしく、
やりかけていたテーブルの片付けに戻っていった。
まさに、こんな感じだと思う。

少し離れた誰かを呼び止めようとしているかの如くに受け取られる
くらいの声圧があるにも関わらず、すぐ隣の相手に喋っているので
周囲が混乱してしまうというワケだ。

こういうのもまた、無邪気かつ無神経というトコロなのかもしれん。

一方、怒りや苛つきなどの感情に伴って地声より低い
「軋むような声」になっていく例もあり、その声が伝える情報は
「怒りないし苛つきの感情について」「伝えたいコトがある」となる。

本人は意識しているのか否か(かなりの割合で無意識なのだけど、
一部に意識的なモノを感じる)、このような状態のときには
しばしば相手を威圧するような調子を持った声になっていたりもする。

声のトーンに含まれた感情のトーンに敏感な人だと、こういう声が
周囲の他人から出てくるだけでも、たとえ無関係だと知ってもなお
怖くなり、逆に嫌悪感を抱かせられる原因となったりもする。

でもやっぱり、声を発している側は、そこまで認識していない。
だからしてコレもまた、配慮が足りないという意味において、
地声でそうなっている人と広義で同類というコトになるのだろう。

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2008/04/08

倫理学小テスト・回答変?

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だいたいみんな、悪気があってやってるワケじゃない。

ただ、善意がないか足りないだけ。

もっと言うならば、思慮というか配慮が足りていない。
より善意が強ければ、ひょっとしたら配慮に至ったかもしれないのだが。
無邪気に無神経でいるだけのコトだろう。

いやもう、ホントに無邪気でいるのだと思う。

そこに腹を立てるのも莫迦莫迦しいくらいに。

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2008/04/07

コイシイというのは、イトシイというのとヒトシイのではなくて、むしろどちらかというとオイシイ、に近イらシイ。

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多くのヒトにとって目的というものは
「何の邪魔も入らず即座に達成できて当然」という扱いであるらしい。
だからこそ、それが実現できなかったときには「由々しき事態」となり、
その障害となった自らの周囲に対して憎悪の念を抱いたりする。
不条理なように思われるが、しかしそれがヒトの本質に近いものだ
と念頭に置くべきであろう。

簡単な例で言おう。

自己紹介やプロフィールというのは、本人にとっての
「こうありたい」「こう見てもらいたい」という姿。
他人から見た「こんなもんだ」という姿は、たいてい違うのだな。
特に思春期、コドモがオトナに変わろうとする頃、
そういう性質が多かれ少なかれ見受けられるようになり
まあ若干はオトナになっても引きずってしまうワケで。

「こうありたい」というタテマエと、
「こんなもんだ」というホンネの部分が交錯する現実に疲れ果ててしまって、
人間付き合いから遠ざかろうとするような人も少なくない。
ココロの中には「こうありたい」ってカタチがあるのに、
邪魔ばかり入っていつまでも達成できないような状態が続いているから
それを嘆いているに過ぎなかったりするんだけれども、本人は気付かない。

実際がそうでないのだから当然といえば当然のはずなのだが、
「そんなのありえない」という脳内処理のおかげで、
現実の状態に気付くコトができないのである。
過去を見てみれば、そんな例は枚挙に暇がない。
というよりむしろ、そんな状態にいるヒトの方が普通なのであって、
現実を冷静に直視できている状態のヒトの方が圧倒的に希少だ。

かといって、「そんなのできてない」という思い込みを持つとどうなるか。
それはそれで容易なコトではないと思うけれども、もし可能だとしたって、
また別の意味で精神的な落とし穴に落ち込んでしまいそうである。

う~む、難しいもんだ。

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2008/04/06

低級倫理学試験

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このブログについて、「読み手にものすごい考えさせるからね。
今の売れ筋じゃないよ、明らかに」などと言われたりしてるので、
せっかくだから試しに(戯れに、あるいは腹いせに)テスト形式に仕立ててみた。

選択肢を考えるのが面倒なので文章形式で。

続きを読む "低級倫理学試験"

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2008/04/05

自称逸般塵の不通の日記(2) 或る年度末

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またもや先月の話題。

3月○日
懐中時計のゼンマイを巻いたついでに
針を合わせようとしたら竜頭が抜けてしまった。
そういえば以前の修理の際に
失われていた竜頭を入れてもらったのだったっけ。
また修理に出さねば。
ま、コイツは何度でも修理して使うつもりだから
これはこれでいいのだけれども。

3月□日
ディスプレイが故障。画面が縦線1本に。
古いCRTだから、横方向のスキャン電極が死んだか。
仕方なく液晶を買う。
もともと貰い物で、何年もの間、働いてくれた。
まあ寿命だ。感謝せねば。

3月◇日
続いて昨年末くらいに買ったばかりの
bluetoothキーボードが故障。
電源が入らなくなった。電池を替えてみても駄目。
コイツは、もっと働いてもらわねば。
というワケでサポートセンターに連絡して、
引き取り修理してもらうコトにした。

3月△日
中古で型落ちのデジ一眼を安く手に入れたが、
テストを兼ねて撮りまくっていたところ
撮像素子のドット落ちが目立つ場所にあった。
初期不良期間だったので、交換してもらった。
(返金してもらうコトも可能だったが、それでは面白くない)
しかし同じ型の在庫は、かなり程度の良い個体のみ。
ランク「AB」から「A」になって差額2100円てのは、
果たして損したのか得したのか。
ま、店も損したってコトでお互い様か。

3月×日
出掛けて帰ってきた後、ポケットの中身を机に出したら
愛用していたペンが1本なくなっていた。
そもそも出掛ける前にポケットに入れた記憶がないのだが、
どうやら半ば無意識に持ち出していて、
しかもどこかでポケットから落ちたらしい。
廃番になって久しいアイテムなので、とても残念だ。
そして持ち物を管理しきれなかったコトが情けない。

この月には、ケータイの1台も修理に出していた。
まあしかし不思議なコトに、あまり悲観したりするような
ネガティブな心境にはならないのだから、
これはこれで良いのかもしれない。

2カ月あまり、非常に仕事が多くて多忙な日々が
続いていたにも関わらず、本人は特に故障もなし。
そうそう。ヒトが壊れたワケではないのだ。
それに、ネタもできたじゃないか。

……と、書いているのも実は3月下旬だったりするのだけれども。

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2008/04/04

組織的な壁

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特定の部署で、その受け持つ狭い範囲の役割だけを考えて、
期待される機能が合わないから「できない」と言うのは簡単だ。
ヒトじゃなく計算機だって、そのくらいの判断は可能だろう。
このとき、「その部署の本業ではないからできない」てな理由もあるが、
「他の部署にも関係する業務だからできない」なんてのもあったりする。
細かく縦割りされた組織の中では、そういう業務ばかりであろうに。

巨大組織だと、そんな狭い範囲の役割の「できない」を積み重ねた上で、
時間をかけた挙句に「総合的に判断して、できない」とか言ったりする。
全部網羅しているようでいて何も対応できない上に、
期待させて時間を掛けたりしているのだから始末が悪い。
そんなコトを言う組織なら存在するだけカネの無駄だ、
と国民に思われたとしても何も文句は言えまい。

やれやれ。

ある環境に適応するというコトは、何かを放棄するコトでもある。
特に、他の環境にも適応できるかもしれない能力とかを。
リストラの進んだ民間企業は、そんな感じになってるんじゃないかな。
かつては、無駄な労働力と思われる人々も少なくなかったんだけど、
彼らは変わりゆく社会環境に適応していくコトに役立ったりもしたと思う。
厳しい経済環境の中に適応していくため、そういうのは捨てられたけど。

日本の政府や自治体も、高度に発達してしまったせいか、
非常に細かな縦割り組織が、それぞれの業務に専念する
というカタチで「根本的には大きく変わらず成長を続けていく日本」
に適応し、柔軟性というモノがすっかり失われたワケである。
でも、事前に緻密なプランを立てておけば、あとはそれに従うだけでいい
……なんてコトは、基本的に世の中にはないと思う。

目論見から外れた想定を様々に広げておくべきなのはもちろん、
その想定が外れた際に見直しをかける基準を決めておくべきだろうし
それに従って常に状況判断と短中長期それぞれの予測を立てて、
決して楽観するコトなく、アタマを使って進めていかねばならない。
そして、当初の目的・目論見を達成できない可能性がでてきたときに
どこで諦めるかという基準も、常に意識しておくべきなワケで。

で、そろそろ多くの日本人が切り替わりを意識しつつある段階なのだな。

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2008/04/03

自称逸般塵の不通の日記(1) ぜいぜいムショ帰り

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というワケで、もう少しブログっぽく日記のようなネタも書いてみよう。

さて、新年度である。
と言いつつ、昨年度のハナシをしたりするのだが。
年度末には自営業なら誰でも通る(?)確定申告に時間を取られた。

年間の収入額から、領収書の束と格闘して計算した各種経費を差し引くと、
改めて所得額の安さを思い知らされる。
生活水準が一向に向上しないのも納得できてしまうくらいに。
だから毎年、多少の還付を受けられる計算となるのだけれども
(仕事先からは、あらかじめ10%源泉を引いた額で受け取っている)、
そうかといって、還付金=ボーナスだなどと糠喜びもしていられない。

次は住民税にカネを持って行かれる。備えておかねば。
これがまた、支払いに苦慮するのであるが、それはともかく。

実際の住民税額がどうなるか、調べて計算するのも面倒だからやらない
(ただでさえ申告書作成で徹夜しているのに、さらに余計な手間などかけられない)
が、今年は財源委譲とて住民税の比重は以前より増えるという。
過去の納税額の推移からして、国税還付以上に出ることだけは間違いなさそうなのだが。

この、簡単には分からないってのが、まあ実にお役所仕事である。

税務署に提出する書類は、あくまでも国へ納める所得税を計算するもの。
同じ書類を元に住民税の計算も行われるというが、その目安などは一切書かれない。
還付も、国税からの還付に過ぎず、住民税は後日別途請求される。

収入が一定しないし取引先も複数にまたがる仕事だから、
どこかの取引先に「住民税も一緒に払っといて」とは言えない。
そんな現状の仕事をしていて現在の税務処理体制がある以上、
還付を受けた後で住民税を払うという無駄な流れは変わらない。

確定申告書類の作成と同時に、国と地方自治体の両方の税金を計算して、
一括で処理できるようにしてくれるなら手間もかからず楽なのだけれども、
そんなトコロは改善される気配がない。
あくまでも国の仕事と地方自治体の仕事は別だというワケだ。
実に縦割りである。社会制度主義国家とでも言ってやろうかしらん。

そもそも日本の役所に、そんな柔軟さを期待する気も持てないんだからなあ。

一方で、電子申告なら税金を5000円も割引するという大盤振る舞いをしてまで、
(相変わらず普及率は超低空飛行中の)住基カードを使って、
(同じく利用率の伸びが遅い)電子申告をしてくれと宣伝していた。
でもウチは杉並区で、面倒だからと住基番号ももらってないんだな。
背番号つけられるのが嫌というより、守らねばならぬ情報が増えるのが煩わしくて嫌った。
存在しないデータだと分かっていれば、何の心配もないのだから。
守る対象を余計に持たないコトもまた、セキュリティの一環である。

非正規雇用者や年金世代が、これまでになく増えている日本。
確定申告書の提出に税務署まで行ったら、ほとんどが高齢者だった。
こういう、どちらかというと電子申告が困難そうな人たちほど、
確定申告をせねばならないという実状は、笑えない。

このまんまでは、駄目なんじゃないかなあと思ったね。
そして税制改革とは大言壮語に過ぎる、とも。
どうせ「中の計算式がちょっと変わるだけ」なんだから。

と、急に暖かくなってきた春の陽気の中、
税務署からの帰りの上り坂を早足で登りながら考えてみた。

あ、そうそう。
「改革」に関連して、政界に対する素朴なギモンを一つ。
「なんで反対するのか理由が分からない」だとか、
「反対しているのに案を提出する考えが分からない」とか、
そういう代議士って、本当に議論をする人なのですか?
口喧嘩のために投票したり税金払ったりしてるつもりは
まるでないんだけどなあ。

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2008/04/02

半生紀(17) 酒と煙草とオトナとコドモが新年度で、ビューっと

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いよいよ新年度を迎える。
社会人デビュー、大学デビュー、高校デビューという
人生の節目を迎えて大きく変わろうと企む若者も多いだろう。

大学のサークルなどで酒と煙草を覚えるケースは多いようだ。
飲酒喫煙は18歳から、というのが実情に即した規制かもしれない。
その実態が良いか悪いかどうかはともかくとして。

実家では、脳卒中で倒れるまで祖父が晩酌をしていた以外、
他の家族は全員が下戸という家庭であった。
祖父も、老いていたからか深酒もしていなかったようだ。

酒を飲み過ぎたらどうなるか、という実例が身近になかった。
大学で、人並みに酒を飲める体質だと知ったときには、
ずいぶん意外に思えたものである。

煙草は、祖父や父が喫っており、幼い頃は煙たいのを嫌っていた。
1年間だけ在籍した部活では、煙で視界が遮られるほどの様子に
いささか辟易していたっけ(酒を飲ませる風習にも辟易してた)。

部活を辞めて、夏休みや冬休みにバイトをするようになって、
キツい肉体労働の後の一服が美味いと知ったのが、最初だった。
煙草喫みの中では、割と遅いデビューかもしれない。

酒も煙草も、その他カネやら何やら諸々おしなべて
世の中に出るときには「ほどほど」ってのを身体で覚えるしかないのだ。
今の限界を知らねば予防もできないし、成長するコトもできやしないぜ。

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2008/04/01

連作障害

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暇な時間に書きためておいたネタが切れたっぽい。
写真ストックも少なくなってきた。
ので毎日連載を打ち切り。
今後は不定期連載にて。

ちょっくら給油に逝ってきます。

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