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2008/04/14

年寄り臭い説教話(期間限定、諺とか駄洒落とか増量中)

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目の前に見える目標だけを見据えて近道しようとして、
実は大変に面倒な路地に入り込んでしまったり、
あるいは結局のトコロ余計な遠回りを余儀なくされたり、
そういう経験は誰にでもあると思う。
安直な規制or規制緩和、違法化or合法化といった議論なども、
そんな流れに入り込んでいるように思えて心配だ。

現状を憂い、何とかしたいという気持ちがあるのは理解できる。
でも、たいていの規制強化案を見ていると、早計に過ぎる気がするね。
粘性の低い思考ルートしか使ってないのだろうか。
気持ちだけが空回りしていて、他のトコロに引っ掛からないのかもしれないな。

たいてい、規制したい側は規制されたくない側の後追いで、
どんどんエスカレートしていく一方のイタチごっこに業を煮やして
「抜本的な対策」と信じて新たな分野への規制に乗り出したりするのだけど、
実はそれって、「それよりいっそ」な感じで、アレだ。
結局のトコロ、地道な作業の継続が難しいという言い訳に役立ってしまってる。
ヒトってのは、いったん気持ちの方向付けができてしまうと、
そっちの方向だけが粘性の低いルートになってしまうのでね。そんなもんだろ。

まあ実際、実効性が疑われるような「違法化」「規制」の案があったりするし。
作ったり配布したりする行為に対する規制さえロクに実践できてないのに
所持を禁止するなんてのは、どっか履き違えているように思えるのだが、
実際どう思ってるんだろう。所持規制も実効性ゼロに近いんじゃないのか、とか。
どっちかっつーと巻き添え被害や、境界線上のトコロの紛争を激化させたり、
はたまた全く違った方向に規制が強化されてしまうのではないか、とか。
実際、ヒトの知恵ってのは恐ろしいもんだから、たいてい当初の予想とは
違った方向に進んでしまったりするもんだし、そのくせ結構ヌケてたりして
その方向転換に気付かないで車止めまで突っ込んでいったりしてしまう。
実効性のない規制は、アンダーグラウンド化をさらに進めるだけの効果しかない。
まあそれはともかく。

要するに、目の前にある泥沼に気付いていないか、
あるいは沼でなく平地だと錯覚しているような気が。

きちんとした道路マップだのロード地図だのは用意してるのか。
いいかい、地図ってのは客観的観測の成果として作られるんだ。
でもって、客観的ってのは自分専用依怙贔屓を排除してできるもんだ。
「俺様抜きの世界」でなけりゃ客観的観測にはならん。
その上で、出発地点や目的地を図上に置いて、間を適切なルートで結んだりして、
(読める人間になら)誰にでも読めるような道筋を描くものだ。
そして道筋を辿る際には、用意されている標識や
周囲の地形などを頼りにして常に現在位置を把握し続け、
迷わぬようにせねばならない。

地上を歩く者にとっては、誰だって沼地に嵌り込みたくないはず。
だからこそ、沼地の実態や周囲の状況を綿密に調べ上げて、
その危険を避けられるような情報を持っておくべきではないか。
割れ鍋には綴じ蓋ができるし、臭いゴミ箱には蓋をするコトも可能だが、
さすがに沼地ともなれば蓋などできそうにもない。

さて、ハナシは遠回りしすぎた。
(といっても、寄り道もまた楽しいし、後述するような心理テクニックの
練習の一環にもなったりするから、必ずしも悪いコトではないのだが)

安易かそうでないかの判断基準として、
反対意見を持つ者たちとの対話があるかどうかを考慮したい。
理解しようとする意識を持って、そのために行動しているかどうか。
でも、このコト自体がまた難しいんだよな。
もちろん、難しいからといって挑戦しないなんて選択肢は勘弁してほしい。
「ねじれ国会」なども、辟易する。見るに堪えない。
しかしだから、あえて可能な限り知ろうとしている。
自分が沼に嵌り込まぬよう、できるだけ周囲に気を配っていたいから。
それに、嫌なモノから目を逸らしたって、それが消えてくれるワケじゃない。

また寄り道してしまった。やれやれ。っていうか、まあいいや。
規制なり規制緩和なりを目指す人たちは、
たいてい自らの意見が正しいと信じてるから、やってる。
正しいと信じている考えに対し、異を唱えるヤツがいれば
ヒトの本能に照らしてそいつは敵対者と断定されてしまう。
でも、敵対者と言われた相手は、やはり敵対心を抱くのもまた本能。
だから敵対者だと思うコト自体が敵対者を作り出す行為。

思い込んだら、そっから先は、もはや試練の道だ。
叩け叩け叩けとばかりに互いに殴り合って白い灰になるのかね?
たしかに、思い切り喧嘩でもしてみたら、
ムシャクシャしたココロも少しくらい紛れる、かもしれんけど。

それはともかく。
本能的に行ってしまった断定を覆すため、ヒトは長い歴史の中で
幾つかの心理テクニックを編み出してきた。それらが役に立つ。。
が、いずれも基本的には相手を知るコトにあるのではないかと思う。
それが「百戦危うからず」であり、逆なら「危うし」なのだな。
物凄く在り来りな言い方をしてしまえば、
「相手の視点に立って考えてみろ」ってトコロだ。
「一寸の虫にも五分の魂」なんて諺もある。
虫けらの如く思える相手でさえ何らかの理があるとも解釈できよう。

たとえば、敵対するカタチになってしまった根本原因まで、
あるいは両者の意見が枝分かれする前の段階まで、きちんと道筋を遡り
なぜ意見が分かれてしまったかを探っていく方法もあるだろう。
相手の思考ルートを辿り、心理状態を擬似的に体感する行為を通じて、
心理ポジションが転換され、本能的な敵意は消えていく。
相手からみても、「話せば分かる」と思われるコトだろう。
そんなとき、こうするのよ。相手を見つめて、一緒に笑って笑って笑って。
(敵意が消える前にやっちゃダメだよ)

そこからは、その関係を維持しつつ、相違点を少しずつ埋めていく。
さらに、互いに拘泥していた点を少しずつ溶かしていく。
泥沼に足を取られたときは、慌てちゃいけないんだ。
藻掻くほどに沈んでいってしまうからね。
泥の粘性に対し、無理に逆らわず、むしろそれに合わせるように
手足をゆっくり動かして、自らの位置を確保していくのだよ。

だが、こんなテクニックは、一朝一夕に身に付けられるモノではない。
それなりに苦労をして、時間を費やして鍛錬しなければ習得できない。
また、これまた困ったコトに、かなり忘れられやすいテクニックだから
日頃の技量維持訓練もまた欠かせない。
でも、そういうトコロで手を抜いて、結果、喧嘩したって損ばかり。
「急がば回れ」と言うじゃないか。
なに、先進国の人にとって、人生なんて飽きるくらいに長いんだ。
それくらいの時間、使ったって損にはならないと思うよ。

ただね、いささか現状には不安も抱いている。
開いてしまった箱を慌てて閉じたとしても、
大気中に放出されてしまった中身を元に戻すコトはできない。
もし中で猫が死んでいて、その死因となった青酸ガスが拡散したりしても、
もうアレだ、こぼれたミルクはお盆に戻せないんだよ。

エントロピーは時間とともに増大し続けるものであるから、
そしてスケールが変われば卓越する法則も違ってくるから、
いつか将来、旧来の手法が通じなくなる日が来るかもしれない。
そうなったときには、「新しいワインを新しい革袋に」だ。
新たな状況に合わせて新たな社会のあり方を発明せねばなるまい。

為せば成るかもしれないが、ならぬコトはならぬのがヒトの常。

でも、「なして?」と問い続けるコトは、ヒトの可能性でもある。
だから、それでいいのだ。

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