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2008/05/01

所持品紹介(11) あんた方どこさ、肥後の守どこさ

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机の上には、小さな刃物を常備している。

鉛筆を削ったり封書を開封したり紙の工作をしたり、
キーボードに付着した汚れを削り落としたり、
あるいはちょっと爪のささくれを削ったりと、
けっこう重宝しているし、ときたま自分で砥いでいる。

しかし最近の若い連中(←言い古されている上に老けた言い回し)って、
刃物などは、ほとんど触らずに育ってきたというじゃないか。
たぶん、彼らより半世紀くらい上の世代とは、
刃物を使った記憶などには格段の違いがあるだろう。

都心の一部の繁華街では警察が路上で刃物狩りをしていて、
鉛筆を削るために携帯していた美術学生からも刃物を取り上げたりするという。
刃物を使った殺傷事件が起きるたびに、イキモノでもないはずの刃物が
すっかり悪者にされているから、どんどん社会から排除されていくばかり。

そもそも戦後、刃物狩りの傾向は一貫して強かったようだ。
なにしろ、今から20年ほども前の子供たちでさえ、
「鉛筆もロクに削れない」なんて批判を受けたほどであった。
鉛筆削りどころかメカニカルペンシルが普及しはじめた時代だ。

核家族化が進行し、物流も発達し、スーパーで売られる食材は
最初から切ってあったりするようなものばかりになった。
しかも学校から帰ってきた子供たちは宿題や塾に忙しく、
家事を手伝うという習慣も失われていった。

小さな頃から刃物を使っていたりすれば、その使い方も
自然に身体で覚えるものなのだが、この時代あたりから子供たちは
夕飯の準備を手伝いつつ包丁の使い方を身に付けたり、
工作して遊びつつ小刀を使いこなせるようになる、とはいかなくなった。

刃物を使う経験の中には、たいてい怪我も含まれる。
ちょっと手が滑って指を切ってしまったり、あるいは
友達同士で集まって工作している中で刃物を振り回して
どこかに刺さってしまったりと、怖い目を見るコトもある。

でも、その経験が幼い頃にあるならば、刃物を他人に向けて
使うなどと考える傾向も少なくなるのではないだろうか。
道具としての刃物の使い方を覚え込む中で、武器としての
刃物の使い方に思い至らせる要素も消えていくと思うのだ。

前に、「夢を見る権利」について書いたっけ。
男の子なら特に、戦いの中で勝利を掴むような夢を見るコトもある。
その手段として、当然ながら武器も夢に出てくるワケだが、
夢ゆえに実際のモノより随分と誇張されたりするものだ。

でも刃物を実際に道具として使っていれば、
武器としての刃物についても誇張される度合いは低くなり、
刃物に対する夢想が妄想にまで発展する可能性だって
かなり低く抑えられるのではないだろうか。

この小さな折り畳み式の日本式小刀は、ずいぶん前から絶滅危惧種だ。
一部にはコレクションをしている人たちもいるようだけど、
「20年くらい前の子供たち」でも知らないという人が少なくない。
実際に使ってるという人は、さすがに極めて少数であろう。

そういう人たちが成人して所帯を持って家族が増えても、
自らの子供たちに対して刃物を使った体験を語れないのだから、
汎用の小刀の類など、これから先の時代には単なる武器、
というコトになってくるのかもしれない。

もはや、この刃物は、この机の上でしか使えないのだろうな。

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