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2008.05.23

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(2) 他力本願

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この言葉、一般的には仏教用語とは全く逆の方向に誤用されているが、
本来の仏教用語としての解釈を念頭に置きつつも、
あえてさらに違った解釈をしてやろうと試みた。

自力のみで何でもできる可能性があるという認識を持てば
成功すれば自らの力によるものと思い込んでしまうし、
失敗したら自らの力が足りないと思い込んでしまう。

いずれにせよ傲慢の罪に陥ってしまう危険性が高い。
前者は勿論だが、後者も実は傲慢の罪なのだ。
それを回避するための知恵として捉えるコトができる。

後者に対して言えば、過度に自分を責めるコトになりかねないし
然るべくして生じた失敗などでは原因の一部ないし全部を
見落とす危険も高い。それは当然、避けた方が良い。

逆に、自力のみでは何事も成し得ないという認識に立って、
成功すれば周囲の助力に対して感謝し、失敗しても
自分自身や周囲の状況を冷静に見極めていくべきだろう。

また、本人に対してのみならず、周囲の人間の意識としても、
やはり同様の認識でいるのが望ましい。
自力では不可能なコトを期待したり強要してはいないだろうか、と。

ましてや、不可能であるかどうかなど個々の事情や都合に関心を抱かず
単にできないから嗤う、叱るといった行為は厳に慎むべき。
無関心というのもまた傲慢の罪であり、その中でも特に酷いものだから。

なんていうか、キリスト教的解釈になってしまったような気がするなあ。
でも唯一神の信仰は弊害も多いと思うのだ。
絶対神以外の軽視ないし否定に陥りやすいという点で、特に。

自力に対する「他力」があってこその世の中と考えるならば
当然、他の思想信条判断基準といったものも重視せねばならない。
そこに似合うのは一神教よりむしろ多神教だと思うのだな、個人的に。

まあそれだからこそ、一神教の教義解釈の中では
傲慢の罪が重いものとして位置付けられている
のではあろうけれども。

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