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2008.05.04

自称逸般塵の不通の日記(4) 暗箱は暗い趣味ではないと思う

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最近、「一眼レフが欲しいけど、何を買ったらいいのか」
といった相談を受ける機会が多いように思う。
使い方や予算に合わせてアドバイスはするけれども、
その多くは、なかなか踏ん切りがつかず、買うに至らない。
結局、「だったら試しに使ってみろ」というワケで、
現物を安く譲るコトになってしまったりする。

先日なども、古くからの友人2人に相次いで、使い古しの
(しかも中古で買って使い、予備機としていた)デジ一眼の
ボディとレンズとメモリカードをセットで譲った。
あとは、状況に応じて機材を使いこなしてくれればいい。
10年あまり前に、そんな具合で(当時は銀塩だったが)
一眼レフを譲った友人たちも、今はずいぶんと使い込んでいる。
まずはモノを持たねば、使いこなしもできないのだから。

写真というのは奥が深い趣味とされる。
たしかに、応用は広くて深くて、どこまでも追求できる余地がある。
だが一方で基本は単純だ。重要な関係性など、ほんの10ほど。
具体的な数値を覚えておいた方が良い、というレベルの必要性となれば
感度と露出値、シャッター速度と絞り、焦点距離と画角あたりで充分。
あとはせいぜい被写界深度、撮影倍率、フィルターや近距離撮影の露出倍率、
ガイドナンバー程度の知識があれば、ちょと複雑な撮影にも対応できる。
このくらいなら、誰でもすぐに暗記できる。

ところが、具体性の伴わない暗記物は大の苦手だったりするので、
致し方なく、就職して一眼レフを購入して以来、撮りまくって覚えた。
いろいろなレンズを使い、いろいろなフィルムを使い、
他にもいろいろな機材を使って、いろいろな条件で撮った。
撮って見返すというサイクルを繰り返していれば、
そのうち嫌でも身体で覚えるものだから。

たとえば数種類の、仕組みの異なるレンズをそれぞれ使い込んで、
それぞれの構造に依存する光学的特性を覚えていったり、
あるいは数種類のフィルムを似たような条件下で試してみれば
それぞれの再現性の違いが明確になってくるというわけだ。

今では一眼レフもデジタルが当たり前になっているので、
銀塩時代の昔から比べれば、そのサイクルを早められる。
きっと、写真の原理を勉強するのも楽になったことだろう。

しかし撮りまくっているうちに、今度は身体で覚えたコトを
改めて数字で説明することも重要だと感じるようになってきた。
カメラ好きが集まって語り合う際、撮影条件などを具体的な数字で
説明する必要があったりすることも少なくない。
仕事でも、たまにプロのカメラマンとやり取りをする場面があるから、
「彼らの言葉」を聞いたり語ったりできればハナシが早い。
が、分かってるんだけどコトバに落としづらいのである。
用語から入るのとは逆に経験から入ってしまったのだからして。

身体に染みついている「写真に関する法則性」を言葉で説明するため
いったん脳内でカメラを構えてみたりもしたものだ。
そのシチュエーションにおいて、どのような画角のレンズを
どのようなアングルで構えて、絞りやシャッター速度はそれぞれ幾つか、
といった操作を脳内で行い、結果を数字で示す。
算盤に慣れた人が、脳内で玉を弾いて暗算するようなものだろう。
あまりに粘性の低い思考ルートとなったため、
その場にモノがなくても自由に操作できるというワケだ。

ただし、その逆は、なかなか容易ではない。
本来、粘性の低い思考ルートの中にいながらにして常に状態を
把握し続けるというのは、生物にとって難しいものなのである。
日常のルーチンとして定着してしまったコト、たとえば
毎朝の洗顔などを、昨日はどうだったか、今日はどうだったか
と思い返そうとしてみれば、すぐ分かるだろう。
無意識に行うようなレベルの癖に気付かないのと同様だ。

最近では、そこに挑戦しようと試みている。
たとえば、風呂に入ったとき洗髪と洗顔を3回繰り返す癖があるのだが、
その回数は本当に必ず3回なのだろうかと、ふと気になった。
10年以上は変わっていない癖だから、もはや意識していなかったが、
それゆえに、途中で他のコトを考えたりすると、たった3回でさえ
数を忘れてしまったりするケースもあると気付いた。
(念のために書いておくが、中年ではあるものの老年ではない。
認知症の気配も、今のところ観察されていない)

意識してしまうと妙なもので、今が2回目なのか3回目なのか
分からなくなった瞬間に、次も洗うべきか悩んでしまうのである。
粘性の低い思考ルートを崩すことには成功したものの、
これでは単にルートから外れて迷っているに過ぎない。
こうなってしまうと、得意のシーケンシャルな記憶さえ曖昧に
なってしまうものだから、粘性の低い思考ルートというのは
本当に恐ろしいと実感した次第である。

いつものように「いつもの」ルートを辿りつつも、
それを自覚して、それこそカメラのシャッター速度や絞りを
数字で示せるようなレベルにまで意識し続けられるようになるには、
まだまだ遠いようだ。

まあしかし、今は新緑の美しい時季。
カメラを提げて散歩するには丁度良い。
ああだこうだと考え込んでしまうよりは、
あの連中を誘い出して、少しばかり遠出したいものである。
喋りながら撮っていけば、経験と用語の両方で覚えるもんだからね。
楽しいだけじゃなく、実になる体験だ。

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