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2008年5月

2008.05.31

だって ヒト だもの

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広告といえば、コント番組に登場した加工肉缶詰から
「スパム」と呼ばれるようになって久しい迷惑メールについて、
広告スパム送信をビジネスとするスパマーと、
あらゆる手法でスパマーを追い詰めようとする
アンチスパマーとの攻防を辿った本を、
ずいぶん前に読んだコトがあったのを思い出した。

本そのものは譲ってしまったので詳しくかけないが、
アンチスパマーは、それこそ探偵か諜報員のように
スパマーの自宅を突き止めて張り込んだりするような
活動も行っていたというから、とにかく活動的だ。
また、掲示板やメールを通じて対話をした者もいる。

そういったスパマーとの接触を通じて、親近感を抱く
アンチスパマーも出てくるようになったとか。
でもやはりスパムに関しては妥協点が見出せず交渉は成り立たない。
一方で社会的には迷惑メール対策の法整備が進められていき、
スパマーたちは活動の場やビジネスの方法を変えていく。
――そんなあたりで、ハナシは終わっていた。

今、スパムを送信してるのは、専らPCに寄生するプログラムだ。
しかも、本に描かれていた頃のスパマーは基本的に自らが販売する
商品の宣伝のために大量のメールを利用していたものだが、
今は細かな分業が進んでいて無数の中間的な業者が存在する始末。
こうなってしまっては、もはや対話も成り立つまい。

ヒトの存在ってのは、思った以上に重要なコトなんじゃないのかな。
リストラをして無駄な人材をカットするのだかで、
企業内の人もずいぶんと減ってしまったようだけど、
しかし何かあれば、その余剰とされてしまうような人々が役立ったりする。
そのための備えという意味合いも、かつては含まれていたのではないか。

今、そういう人たちは、大企業にもほとんどいないだろう。
当然、中小企業には、もはや存在しえない。
それどころか、業績が良くなったってバイトや派遣で間に合わせ、
いつか首を切らねばならないときには後腐れなく切れるようにしてる。

せいぜい、残ってるのは中央官庁やその出先機関やあるいは
さらに天下り先として叩かれつつもしぶとく生き延びる特殊法人か。
そういえば議場で居眠りしてるセンセイ方、なんてのもいたっけな。
ああそうそう、会議を長引かせるだけの役員なら、企業にもいるよ。

今や、労働の内容や責任の重さと、その報酬や待遇の関係には、
眩暈がするくらい不公平感があると言わざるを得ないのだけれども。
数字に表しやすい「能力」や「実績」とかいう尺度で報酬を決めたりしてる
ケースもあるにはあるけれど、発揮できる場がなけりゃ「実績」はできないし
「能力」を示す機会もないし、それを今後も伸ばすための下地も作れない。

まあ、それは、ともかく、さておき。

現状を嘆くのではなく、きちんと向かい合わねばならない。
スパマーと対話したアンチスパマーのように。
たとえ何の成果も期待できないとしても、
そして当初の目的とは違ってしまうかもしれないが、
その対話からは何か新しい発見が得られると思うのだ。

てぇワケで、ちょっくら机を捨てて街に出て、
なかなか就職口が見つからず貧乏暮らしから抜け出せない若者やら、
老後の備えを予想以上に吸い出されるばかりになった老人やら、
いろいろな人と直に接して話を聞いてきてくんねぇかな。

本当に大変な目に遭ってる人って、
嘆願を出す余裕もないんだから、
ちゃんと聞きに来てくれないと。
そうしてくれてこそ、報酬や待遇や社会的地位に
相応しい仕事だと言えるんじゃないかなあ。

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2008.05.30

赤信号、みんなで渡って大量死?

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で、前回・前々回はハナシがすっかり逸れてしまったが、
広告も同様のコトが言えると思うのだな。
「誰に見られても恥じたり怖じたりするコトのないように」
あろうとする気持ちを持ち続けていてほしい。

ただ、ここまでの広告メールやチラシの氾濫を見ていると、
ある程度は容認せねばならないというラインがあるのだろうけれども、
社会全体として、その受忍限度とみられる限度が徐々にしかし確実に
引き上げられてばかりいるような気がしてみたり。

逆に、たとえば煙草の広告は、いろいろあってほぼ消滅したけど、
アレは大企業だから節度を守らねば社会的に抹殺されるという
危機感が働いて、そういうカタチに落ち着いたのだと思う。
小さな企業や団体は、相変わらずバラ撒きを続けている。

小さな企業は宣伝をせねば売り上げを上げられないから必死で、
何かの意見を持った団体は世間に伝えたいから必死で、
それぞれ自分たちのコトだけを考えて声を張り上げる。
相対的にみて、リスクよりチャンスの方が大きいというワケだ。

しかし世界が相対的に狭くなってくるにつれ、その声の密度は上がるばかり。

善意で身を引くというのは勇気の要る行動であり、
しかも往々にして直接の成功には結びつかない。
だからなかなか、積極的には取り組めないだろう。
なので非常に難しいとは思うのだけれども。

でもそれを放置して突っ走れば、皆で一緒に自滅の道だ。
それも業界だけの問題じゃなくて、社会全体を巻き込んでの失敗が待っている。
厄介なコトに、そういう問題がありとあらゆる分野で同時多発的に
生じているもんだから、とっても分の悪い賭をしているような気がする。



ヒト全体が。

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2008.05.29

断絶の継承者

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議員立法というパフォーマンスで人気を高めようと企む政治屋も少なくない昨今。
これは長期的に見れば日本全体を危うい方向に進る結果にはならないか。
過去の歴史をみていると、どこか似た道を辿っている気がする。

特に、国民に対する統制の強化に繋がる方向性や、
国民の生存そのものを危ぶませるような方向性については、
過敏すぎるくらい警戒して然るべきだと思う。

だのに、どうも破滅への道筋を皆が喜んで進んでいるようにも危惧される。
長期的にみれば、まさにそういった感覚が国民から失われてきた
過去があってこその現在というコトになろう。そして、将来も。

焼け跡から復興した日本にとって、経済的な成功、物質的な満足は大切だった。
しかし戦争を知らない子供たちが社会の大半を占める世になってきて、
それらが何故大切なのかという基本が忘れ去られたのは間違いない。

高度経済成長が土台を作り、バブルとその後の「失われた」時代が仕上げた。
過去の経緯をみていると、そういうふうにも思えてくるのである。
世代が代わるにつれて継承すべきモノが断絶したのだろう。

継承の断絶は、失敗学などでよく言われるコトだ。
実際、時代というのもまた失敗学で解釈するコトが可能だと思う。
いずれ、もっと勉強して突き詰めてみたい分野のひとつだ。

そういえば、「お天道様が見ている」「神様が見ている」といった
言い方も、すっかり現代社会で聞かれるコトはなくなった気がする。
それが大事だという理由付けが失われてコトバも消えていった。

代わって「監視カメラが見ている」だったりするけれど、まあそれはともかく。
せめて「誰に見られても恥じたり怖じたりするコトのないように」
あろうとする気持ちを持ち続けていたいものである。誰であろうと。

そしてそれは、次の世代にも、なんとかして伝えていきたい。

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2008.05.28

不明枠

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「こんな広告、見るのも嫌だ」と、
さまざまな広告に不快な思いをするコトは誰でもあるんじゃないかと思う。

その対象は人それぞれとしても。

引っ越すつもりもないのにポストを埋め尽くす不動産屋や
引っ越し屋のチラシなんか、まさに大量の紙ゴミの元だ。
また、政治宗教各種団体の活動ビラなんかも広い意味で広告だが、
その分野に興味のない人にとってみれば煩わしいばかりであろう。

街中の看板なんぞも、たとえば秋葉原は10年ほどの間に大きく様変わりして
すっかり若い男性向けの快楽直球方向ばかりが目立っているワケだけど、
昔の電子部品屋だの無線屋だの配線資材屋だのジャンクPCパーツ屋だの
といった店を懐かしく感じる世代には、ちょっと寂しく思えたりする。

それどころか、本気で嫌な思いをするコトもある。
たとえば男性的本能むき出しの、いわゆる「ピンクチラシ」や
捨て看板、その手の内容の無数の迷惑メールなどの存在には、
生理的に受け付けないという女性もいることだろう。

個人的には、以前どこかで街中に「タバコは臭い汚い格好悪い」
とかいうステッカーが貼りまくられていたのが非常に嫌だったな。

ソレは地下鉄のエスカレーターや壁にまで貼られていて、
挙句に中途半端に剥がされかけてたりして余計に見苦しかった。
もしステッカーを貼った人たちが、禁煙の大切さを呼びかけようとしている
のだとしたら、方法を誤っている。正反対に近いくらいに。

そもそも、トコロ構わずステッカーを貼りまくるなんてのは
トコロ構わず喫煙するのと同レベルの迷惑行為ではないか。
少なくとも商売ではないし、本人たちは善行だと信じ切っているだろう。
でも、善行なら何をしても許されるとでも考えているのだろうか。

喫煙する者として、喫煙が許されるであろう場でのみ喫う
最低限の節度は守っているつもりだから、それでもなお
謗られるコトを甘んじて受けねばならぬのかと腹が立った、
というのが正直な感想である。

彼らの意図はどうであろうと、シールの内容や貼り付け方などからは、
喫煙者にとってみれば喧嘩をふっかけられているだけにしか思えない。
そう受け取られれば最後、強い反発を招き、
結果として互いの溝を深めるばかりだろう。

被害者妄想的な考え方だとは思うけれども、しかしそれは大切なコト。
広告も同じだ。受け取り手の感情を無視していては逆効果なのだから。
自衛隊官舎に入り込んで各戸に反戦ビラを配布したら
住居不法侵入で訴えられた、とかいう事件もあったっけ。

きっと、これも同じコトだと思うのだ。
毎日のようにポストに投げ込まれるチラシと同じく
毎日のように大量に送りつけられる広告メールと同じく
大半は迷惑だと思われているだけ。

訴える方法、手段は、訴える中身がどうであるかとは別。
いや、もっときちんと説明するならば、こうだろうか。
正しいと思える道へ人々を導こうとするためには、
より正しい方法で行われねばならない。と。

むしろ、良いコトをするのであれば、それこそ誰もが
(彼らの言う悪人であろうと、またそうでない第三者も)
納得するか、せめて反論の余地がないようにせねばならない。
でなければ積み上げた善行も、全て地獄への切符に化けてしまう。

ツッコミどころ満載な活動をしていては、自分で自分の
首を絞める結果になりかねないのだ、と学ぶべきだろう。
善行は日々の地道な思考や行動の積み重ねである。
昔から、いろいろな宗教で、そう言われてきた。

環境保護を掲げる国際的な団体が潜入捜査紛いの行為をしたらしいけど、
その行動が運送会社の訴え通りであるとすれば、日本においては
警察でも不法捜査として許されないような不正をしたコトになる。
正義を振り翳すにしては、パフォーマンスが過ぎるんじゃないかな?

これでは、彼らの目的とする大義名分には賛同できると思っていても
彼らの活動自体を支援する気にはならないのではないか。
特に日本人って(まだその伝統が生きていればのハナシだけど)、
正義の味方には清廉潔白な生き方を求める傾向が強いから、余計にね。

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2008.05.27

有視哲占あるいは愛の情件

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「愛情の反対は無関心」という指摘が正しいとすれば、
逆に強く関心を持つコトが愛情とイコールで結べるのだろうか。
たぶん、もうちょっと他の条件が必要になるのだと思う。

ある対象に強く関心を抱けば、その対象についての知識も蓄積されてくる。
そのとき、対象の現状が許せないという感情が芽生える可能性もある。
それは憎悪の方向性になる。さすがに愛情とは言えないんじゃないだろうか。

現状に納得できないという感覚は、また関心を弱める方向にも働く。
「そんな現状、いらない」という感情にもなったりする。
(そのくせ実は気にしていたりするコトも多いのだけれども、それはともかく)

現状に問題点があるような場合でも(たいてい、ないワケがないのだけども)、
それを「有り得ない」などと言わず、ありのままに納得して、
受け止めるコトは、愛情の条件のひとつと言えるだろう。

また、関心や興味はあったとしても、野次馬的好奇心であったり
単なる知識欲を満足させるだけの目的であるならば、それもまた
無関心に近い心理状態であって、やはり愛情とは言えまい。

単に記憶しておくだけではなく、ふとした拍子に思い出したり
常日頃から意識の片隅に置いておき、ときには対象について
深く思いを馳せるようなコトも愛情の条件と言えるはず。

というワケで、強い興味を持って知識も蓄積した上でさらに、
あるがままを受け入れてココロの中に留めるというトコロまで踏み込んでこそ、
ようやく愛情と言えるような気がするのである。

では、そんな対象がどれだけありますかね?
そうそう、そこの貴方。
ぜひ自分自身のコトを振り返って、確認していただきたい。

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2008.05.26

無視? そう。でも、それもでいいさ。……考えているのなら。

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日本は無思想の国だと養老孟司が言っていたっけ。

きっと、なにか混沌としたモノが根底には流れているけれども、
それは明確なカタチなど成さぬドロドロとしたものだけに、
上っ面ならいくらでも姿を変えるコトができるのだ。

手当たり次第に興味を持って知ろうと努め、その知識を手当たり次第に
繋いだり練り合わせたりしているウチに、なんとなく芯ができてきたけど、
それは実は、日本人の根源的部分に立てた柱に過ぎないような気がしている。

そういうのを何らかの思想として、体系立てて整理してカタチにできるなら
何らかの役に立つかもしれないとは思いつつも、(もしどうしても必要とあれば)
それは誰かがやってくれるのではないかと期待している。

なにしろ、やりたいコトをやりたいときにやりたいようにやる以外には
生き方を知らない、とっても不器用な人間なもんだから。
やるべきようにやるコトは非常に難しいのである。

(こんなヤツでも、なんとか生きてこられたのだから、
世の中というのは非常に素晴らしいものなのだ!
とても有難いコトだと思うばかりである)

むしろ、どうせ一人なのだし、突き詰められる限りは突き詰めたい。
どうせ一人でできるコトなど限られているのだ。
今の方向性に磨きをかけて、ひたすら考え語っていこうと思う。

日本が無思想でも構わないが、無思考であって欲しくないから。

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2008.05.25

先進酷

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バブル経済崩壊後あたりから、日本では国民全員が
国際的な経済競争に巻き込まれたと言えるだろう。
特に価格競争の激化で社会全体が「安売り化」されていたりするもんだから
まあ安かろう悪かろうってのが労働市場でも主流になってしまったりして、
そして企業は、それ以前の社会人とのギャップに直面しているのが現状。

昭和の戦争においては戦局拡大に伴って徴兵制が強化されてきた頃から、
国民全員が国際的な戦争状態に巻き込まれたという状態になったといえる
と思うのだけど、やはりその後には軍の現場において、以前からの軍事
教育を受けてきた将校たちにとって扱いづらい兵たちが増えたのだと思う。

以前は、ある程度のエリート性を備えて均質性があったような状態だったが
現場の人々が選抜されなくなってくると、それが失われていく。

どちらも、強引に類型化してみれば国家規模の総力戦という点では一緒。
だが参加する人数が増えるにつれて現場の品質維持が困難となっていった。
そういうトコロを考えると、どうやらその規模を越えては戦えないような
「ある程度」のラインがあるのだろう。
それが1国の国力の限界点となろうか。

では、今後の日本の経済的な国際競争力を高めていくには、
どうすりゃいいのさって質問が出てくると思う。
いろいろな方向性が考えられるけれども、まずは規模での競争を避ける
ような方向に持って行かねば何れにせよ難しいのではないだろうか。

前線に立つコトのできる人数は、ほぼ人口に比例してしまうものだ。
国家というより経済圏単位で考えてみれば、米国および周辺国、欧州、
中国、インド、中東アラブ圏といった具合に、日本よりはるかに大きな
規模のカタマリがたくさんある。単純な数では勝てないだろう。
となれば、質での勝負を中心にやっていかねばなるまい。

「質の勝負」に関連して、先進国というのは、どういうモノかと考えてみた。
国民全員が、もっともっといろいろなコトを考えて発言して動いたりする
ような性質を持たねばならないのではないだろうか。
自分自身に無関係なモノゴトも、他人事として無関心でいるのではなく、
その周辺の事象まで広く視野に入れて先々を考え、その上で判断を下す。
そういう性質を、国民の多くが持たねばならないのだと思うのだ。

最近、いろいろな社会問題が、それこそ全国レベルで噴出していて、
今の日本の人々は否応なしに考えねばならない局面へと追い込まれている。
これはもしかしたら、思考能力の上での先進国への第一歩かもしれない。
複雑に絡み合った問題の数々を乗り越えていくことで鍛えられて、
ひょっとしたらそういった国民性が自然に作られていくのではないか。

日本に限ったコトではないのかもしれないが、しばしば市井の人々
というのは深く考えずに生活するコトを望むものであるらしい。
だから安定した平和な時代が長く続いてしまうと、ついつい多くの人間は
無思考というか低抵抗思考ルートばかりを歩んでしまうようである。
「もはや戦後ではない日本」は、そこに陥りつつあったのではないか。

たしかに思考し続けるというのは多大なエネルギーを必要とするものだから、
生きていく上でエネルギー消費を抑えようとするのは生物としても自然なコト。
だけれども、それが続けば思考能力自体が不要となって、退化してしまう。
退化の行き着く先は、新たな環境への適応力の喪失、そして絶滅だ。

今後の日本は、国民にとって、無思考では生きていられないような、
そういう意味で楽じゃない、酷な時代になっていくのかもしれないが、
まあせめて無自覚無関心無責任無思慮無遠慮無分別といった状態から
多くの人が抜け出してくれるのであるならば、個人的には喜ばしく思う。

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2008.05.24

関心を持たないコトには寒心する

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ある漫画で、痴漢に遭った女子高生に対し、こんな言葉を友達が語る場面があった。

無意識だろーが
何だろーが

「この女には
こーゆう扱いを
してもいい」

そんな
残酷な気持ちを
持ってる

だから
恐くて
あたりまえ
なんだよ…

(二宮ひかる「シュガーはお年頃(1)」少年画報社YKコミックス)

たしかに、軽い気持ちで残酷な扱いを受けた際の恐怖心というのは、
憎まれたり恨まれたりするコトに対する恐怖とは別の次元であり、
ある面では、より恐ろしく感じられるものだ。

そういう意味では、「絶対に許さない」とでも言われる方が、
よほどマシかもしれない。だって強く関心を示してくれているから。
簡単に言ってしまえば、愛情の反対は無関心、てなトコロだろう。

逆に、関心を持ってモノゴトを知ろうと思えば、しばしば好き嫌いの
感覚が生じるものだけれども、好悪どちらの感覚であろうと、
食わず嫌いや無関心などより、ずっと良いように思える。

差別やイジメなども、受け手の側の感覚としてみれば根本は同じだ。
無関心に由来する残酷な扱いと、それに対する本能的な恐怖、
あるいはそれに反発しての怒り、というふうに繋がっている。

しかしそれを、どうすれば良い方向へ持って行くコトができるのか。
このような場合、被害者側の心理をケアするのは必要だが対症療法の域を出ない。
根治療法となれば、やはり加害者側の感覚を変えていかねばならないのだが……。

関心を持って気付くコトの大切さに関心を持って気付いてもらうコトの難しさは、
それこそ自明とまではいかないが、まあ長々と説明するまでもなかろう。
なにせ肝心な最初の取っ掛かりが、まるで見当たらないのだ。

無関心や食わず嫌いとして成長してしまった人に対しては、
特にオトナになってしまうと、もう何をどう伝えてもスルーするばかり。
大切な部分は、なかなか伝わらないものである。

ありとあらゆるモノゴトに対して興味を持つような性格であればいいのだが、
それならそれで、ほとんどのコトに対して無関心でいないワケだから、
もともと無自覚の加害者側に入ってしまう可能性は低いはず。

いろいろ考えてみたものの、やはり幼い頃の家庭教育あたりが
非常に重要な鍵を握るのではないかと思えてならない。
とすると、親や祖父母、兄弟や親族あたりは、重要な役割を担っているはず。

実際、「ありとあらゆるモノゴトに対して興味を持つような性格」の持ち主の
一人としては、それこそ、好きなようにやらせてくれた親がいるからこそ、
今こんなコトをしているのだと思えてならない。

せめて次の世代には無関心でない人々が育ってほしいと思うので、
自分自身に子供がいないどころか妻さえ失った者としても、
教育に対して無関心ではいられないというコトになる。

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2008.05.23

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(2) 他力本願

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この言葉、一般的には仏教用語とは全く逆の方向に誤用されているが、
本来の仏教用語としての解釈を念頭に置きつつも、
あえてさらに違った解釈をしてやろうと試みた。

自力のみで何でもできる可能性があるという認識を持てば
成功すれば自らの力によるものと思い込んでしまうし、
失敗したら自らの力が足りないと思い込んでしまう。

いずれにせよ傲慢の罪に陥ってしまう危険性が高い。
前者は勿論だが、後者も実は傲慢の罪なのだ。
それを回避するための知恵として捉えるコトができる。

後者に対して言えば、過度に自分を責めるコトになりかねないし
然るべくして生じた失敗などでは原因の一部ないし全部を
見落とす危険も高い。それは当然、避けた方が良い。

逆に、自力のみでは何事も成し得ないという認識に立って、
成功すれば周囲の助力に対して感謝し、失敗しても
自分自身や周囲の状況を冷静に見極めていくべきだろう。

また、本人に対してのみならず、周囲の人間の意識としても、
やはり同様の認識でいるのが望ましい。
自力では不可能なコトを期待したり強要してはいないだろうか、と。

ましてや、不可能であるかどうかなど個々の事情や都合に関心を抱かず
単にできないから嗤う、叱るといった行為は厳に慎むべき。
無関心というのもまた傲慢の罪であり、その中でも特に酷いものだから。

なんていうか、キリスト教的解釈になってしまったような気がするなあ。
でも唯一神の信仰は弊害も多いと思うのだ。
絶対神以外の軽視ないし否定に陥りやすいという点で、特に。

自力に対する「他力」があってこその世の中と考えるならば
当然、他の思想信条判断基準といったものも重視せねばならない。
そこに似合うのは一神教よりむしろ多神教だと思うのだな、個人的に。

まあそれだからこそ、一神教の教義解釈の中では
傲慢の罪が重いものとして位置付けられている
のではあろうけれども。

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2008.05.22

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(1) 「子供叱るな来た道だ、年寄り嗤うな往く道だ」

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ふと、格言や故事成句に詰まらぬ解釈を試みようと思い立ち、突然だがシリーズ化してみるコトにした。

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この言葉は、教育や福祉を考える上でも重要だ。
今の自分とは違う立場であっても、関係が全くないワケではないのだから
そのコトをしっかり意識しなさいというふうにも解釈できるだろう。

先進国の住民というのなら、そういうトコロに無関心でいてほしくないし、
ましてや無関心ゆえの酷な扱いをしてしまうなど、避けてほしいものだ。
だから、安易に叱ったり嗤ったりしないよう、願いたい。

本人の能力不足でできなかったコトについて、
周囲から叱られたり嗤われたりしても、どうしようもないものである。
どうしようもないという感覚は行き場がなくて本人の中に鬱積する。

鬱積したソレが、本人の中で強い自己免疫作用を働けば
精神的な病にもなりかねないし、さらには周囲に対する
反発として噴出したりして、結局は誰も幸せになるコトができない。

しかし、然るべきときには叱るべくして叱っても良いとは思う。
ただ、その際には、かつて自分自身がどのように叱られたのかを思いつつ、
叱られた側がその後どのように考え行動するかを念頭に置くべきだ。

それは自分の子供に対しても、他人の子供に対しても、
ひいては誰に対しても、人の子であれば同様に思ってほしい。
なんにせよ、長い目で見れば、短気は損気というワケなのだから。

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2008.05.21

津々浦々疚しからずや

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都会に求める夢は華やかだが、それが叶う確率は非常に低い。
田舎に見る夢は、それよりは期待できるけど、地道な努力が不可欠。
だから都会には夢の残骸ばかりが散らばっていて生き苦しい。
でも田舎だと夢以前に堅実着実質実剛健稀に魚煮て旨し旨し。

……えーと、何が言いたかったのか。

「津々浦々」という言葉には、船に関わる場所しか入っていないんだよ
というのを、どっかの本で読んで、ようやく気付いた。
物流が行き届くトコロ全て、といった意味なのだろう。

ヒトが暮らしやすい沿岸部は、商業には勿論、工業用地にも良い立地だ。
商業用地ならまだヒトの生活と切り離せないものだけれども、
工業、特に重化学工業となると、人間性からの隔絶は大きくなる。

そういうワケで、工業化が進むとヒトは追い立てられる。
彼らを追い立てるのはカネだ。金儲けは執着心の勝負。
執着心に駆り立てられたヒトが、他のヒトを追い立てる。

既得権をフルに活用し、新たな権益を得て拡大させる。
成長し続けるコトこそが資本主義経済の神髄。
その成長は、たいていが他から奪い取るコトである。

だが田舎暮らしは執着心も薄くて済む。いやむしろ、
ほどほどに抑えた方が共同体の中では生活しやすい。
ギスギスした都会人に負けてしまうのは当然の道理。

とはいえ田舎でも、それなりの比率で執着心の強い人間がいて
そういう人たちの活躍は社会に大きな影響を与えるのだけど、
しばしば、物流のチカラとオソロシサを思い知らされたりもする。

……はてさて、なんともはや。

たとえば、ちょっとの隙間があれば、すぐに現れる行商人の存在。
身体を張ってモノを運べば、手っ取り早くカネになる。
本格的な物流網が整備される前には、大いに役立つ方法だ。

発祥を辿るなど不可能なくらいに長い歴史を持つビジネスだし、
ある意味では誰にでもチャンスがあり、ひょっとしたら
一代で大きな成功を収める可能性だって、ないワケじゃない。

現代においても、経済発展の途上には社会から重宝されるコトが多い。
逆に、行商人が現れるような社会こそ新陳代謝が活発であり、
経済活動が元気なのだと言えるのかもしれん。

バイク便自転車便なんかも、自らの身体と一緒に荷を運ぶという点では
行商人と同じだけれども、その事業は明らかに独立性がなくて違う存在。
結局、個人てのは、大きな資本に取り込まれてしまうのかもしれないな。

そんな具合に、ほとんど行商人など見掛けなくなった東京で暮らしつつ、
とりとめもなく考えてみた。

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2008.05.20

通り過ぎたるは届かざるが如し

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最近は、経済の仕組みを自分なりに考えるようになって、
地方には地方なりの頭脳が必要だという気がしている。

各地方が基本的に自給自足しているのであれば独立性が保たれ
生産力を維持して持続可能な経済を確立するコトもできようが、
地方にとっての経済活動は、自給自足を壊すトコロから始まるのだ。
だから上手に立ち回らなければ手に負えない。
そのためには、それぞれの地元に根を下ろし、
そこに骨を埋めるつもりで生きる頭脳がなくてはなるまい。

地方の時計は、都会よりゆっくり進む。
しかし経済活動は都会の時間に合わせて動く。
乗り遅れないようにしなければ地方は置き去りだ。
でも、発車時刻を過ぎてもダメだし、
定員オーバーとなってもダメ。
間違いなく不利な戦いを強いられている。

アタマの回る連中が自分だけのコトを考えたら、
どうしたって都会に出て活躍の場を見付けた方が効果的だという結論になって、
そうして地方を通り過ぎていってしまう。

まあそういう連中が、都会で他人への無関心を撒き散らしたりするので、
都会ってのは、地方から出て行った無関心無遠慮無分別の
掃き溜めでもあると言えなくもない。

地方では成り立たない商売をしていたりすると、余計にそう思えるから不思議だ。

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2008.05.19

還流しないブーム

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「バブル崩壊後は大企業でも、地方出張の際に
カネを落とすようなコトをしなくなった。
これも地方不況の一つの原因かもしれない」
と、ある仕事仲間が言っていた。まあ一理あるだろう。

地方に数多くの事業所や取引先を持つ大企業。
当然、本社などから出張で各地を訪れる社員も少なくないワケで。
昔であれば、そういう連中を結構な費用をかけて接待していたものだった。
(残念ながら実体験はなく伝聞でしかないが、かなりのものであったと聞く)

しかし今は経費節減というだけでなく、不透明なカネの使い方を改めるだの
内部統制だの何だのといった理由が山ほどつけられていて、雁字搦めだ。
もはや裏金を蓄えた地方自治体だとか中央官庁の出先機関くらいしか、
そんなコトはできなくなってきたのじゃないか。

接待費用として飲食はもちろんホテルやタクシー、さらには視察と称して
訪れたりする地域の観光名所などにも、かなりカネが落ちていたはず。
サービスを提供する側としてみれば、そのカネの出所など知る由もないし、
もちろん知る意味もなく、そもそも払いの良い客は良い客である。

もしかしたら、そういう接待交際費の地方環流の代わりに
「ふるさと納税」なんてのが考えられたのかもしれんな。
本当にそうなり得るのかどうか分からないが、
まあ還流しようという意図だけは評価すべきなのだろう。

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2008.05.18

自称逸般塵の不通の日記(12) 普段の自営

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そういえば、電車の中吊り広告で見たのだが、
「自衛術」とかいうのがあるらしいじゃないか。

いくばくかのカネを払えば教えてもらうことができ、
それで、もう今の世の中を安心して暮らせるらしい。

そうなんだ。すごいね。

他人に教えられたモノゴトが全然身に付かなかった者としては、
それで安心できる体質の人たちが、ちょっと羨ましい。

でも、まあ負け犬の遠吠えと思って聞いてくれよ。
その「術」てのは、誰かが「少し過去」の経験を元に作ったものだよね。

発案者が、少しばかりは先のコトを想定して手を加えているとは
思うけれども、しかしいつまでも使える手だとは限るまい。
まして今の世の中、すぐに情勢が変わってしまう。

そうなったら、きっとまた新しい「術」にカネを払うつもりなのだと思うけれども、
では新しいのに切り替えるタイミングを知る術は果たして教えてもらっているのかい?

自分で作っているモノであれば、過去の方法が通用しなくなる
タイミングも、ある程度は見極めがつくもんだよ。

それどころか、常に作り替えているのならタイミングさえも気にせず済んでしまったりする。
(まあ気付けば時代の切り替わりが見えてくると思うけども)

そういう意味で、その中吊りを出したような雑誌の読者向けにあえて書くならば
「究極の自衛術は自己と周囲への認識を高め続ける不断の努力」とでもなろうか。

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2008.05.17

投資syntax

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世の中のほとんどのコトは、どうせやってるのはヒトなんだから、
粗探しをすれば幾らでも出てくるというものだ。
不信感を以て見ていさえすれば追い落とすのも難しくない。
今の世の中は皆が皆を気に掛けるような余裕もないどころか
むしろそれぞれ自分自身のコトで精一杯であるようなので、
それならいっそ自らの為にのみ動けば効果的ではあるワケで。

するとどうなるか。
ヒトやヒト集団が複雑な階層構造を成している世界の中では
しばしば特定のポイントに圧力が集中してくるコトになる。

たとえば経営者などは板挟みになりやすい。
株主と、顧客と、そして従業員の。これも破断面のひとつ。
素人考えではあるが、現在の投資に関する制度は、
投資家が悪ではないという前提に立ちすぎていないだろうか。
そしてそれは、もう今や一線を越えつつあるのではないか。
善意ある経営者がいて「顧客のため」あるいは「従業員のため」などと
せっせと内部留保していた資金があったとしても、
それさえ吸い出して「回収」して懐に収めようとする株主がいるのだ。
回収してしまいさえすれば、後は野となれ山となれとばかりに。

実際のトコロ、配当に出さずに資金を確保しておくことの必要性を、
金勘定しかしない株主では理解する気もあるまい。だから理解しない。
そういうのを見極めて、一定の制約を加える方法はないのだろうか。
つまるところ顧客や従業員、さらに取引先などのコトを一切考慮して
いないのだから、社会にとっての悪の度合いは大きいはず。
難しいとは思うけれども、社会全体が安定的に成長していけるよう、
このような問題の予防策か抑制策を嵩じなければならない気がする。

とはいえ、そこだけを見ていては部分最適に過ぎるだろう。
もっと広い範囲に目を向けてみよう。
たとえばファンドにしたって、一部はずいぶんな悪の権化のように報道
されたりしているけれども、そこに資金を出している連中が別に存在して
いるワケだし、ファンド自体は出資者が喜ぶようにやっているだけだ。

もっと突き詰めて言えば、「カネを出してリスクとリターンだけ考える」
というような、今のほとんどの個人投資家が行っているようなスタイル
自体がどうも間違っているように思えてくるワケで、さらに言うなら
そいつらに「金融商品」を提案するような営業マンたちや、「商品」を
設計している業者の連中もアレなワケだし、そういうトコロに指導している
金融当局あたりも微妙なのだろうね。
いやもっと巡り巡って、そういうのを監視していない国民が、
ってコトになってくるのだけれども。

悪かった。これまであまり興味を持たずにいたコトを反省する。
このあたりに関しては、まだまだ勉強をせねばなるまい。
学校では教えてくれないなんて責任回避のための言い訳に過ぎないもんな。
しかし素人目であっても、いびつなカタチは目につくものではないか。
たとえば、投資というのは社会的に意義あるコトではあるけれど、
しかししばしばそうでないケースもあったりするもので。
経済を語る上で投資の意義を強調する論調も少なくないけれど、
ときに生じる問題もまるで存在しないかのような言い方は文字通りの語弊。
理屈で語っていくと、どうしても視野が狭まってしまいがちなので余計に。

というワケで、さらに視野を広げてみよう。
どうも最近、みんな働く意欲を失いつつあるのではないか、もっと言うなら
人々から勤勉さが失われつつあるのではないか、そう思うようになってきた。
でなけりゃこんなに資産運用のサービスが増えたりはしないだろうと。
実際、そもそも働いても儲けなどタカが知れているのだ。
確かにもともと労働に対する対価などタカが知れているのだけれども、
最近では特にそういう傾向が強くなってしまったように思える。
その背景には投資家たちのリターンに回る分が増えたせいもあるのではないか
と勘繰ってしまうのは投資どころか日銭稼ぎが精一杯の自営業の僻みかね?

それはともかく、だから、どうもね。
汗をかかず手早く稼ごうという考えで投資市場が広がったという面もあろう。
どうせ団塊世代あたりの連中は今までの稼ぎが蓄積されていて原資もある。
彼ら自身にしてみれば、これまで必死に働きすぎたという感覚もあるだろう。
だからそれでいいのだと本人たちは思い込んでいる。
けれども彼らのジュニア以下の世代がその食い物にされているのではないか。
投資したカネというのは、巡り巡って労働している人たちの上前を掠めて
リターンしていくものだから。
どうも、今の時代の労働に対する対価は低くなりすぎているのではないか。
たぶん適切なレベルから少し外れてきているというような感じで。

どっかで「貯蓄から投資へ」なんて掛け声があったけども、もはや投資家たちは
企業から株式を通じてリターンを持ち去るだけでは足りていない。
石油に続いて穀物やら何やら、さまざまな品物やサービスの市場に
投機マネーが流入して値段を吊り上げたりしているのが現状だ。
そういう値段のつり上げはと影響が広がるばかりであり、逆に言うならば
投資家は次から次へと狩り場を探して手当たり次第にリターンを持ち去る。
もしかすると今の金融市場というものは、政府や中央金融機関ごときの力では
もはやコントロールできなくなっているのかもしれないとさえ思うくらいに
無秩序な食い荒らしをしているように感じられる。

純粋に労働して得た対価でのみ生活するような人たちにしてみれば、
もともと金銭的に余裕があるワケじゃないから、そういう面からもまた苦しむ。
当たり前すぎるコトだけれども誰かが働かなければ何も生産されないのだから、
働かずカネを動かしてリターンを得るような人たちが社会の主流になるのは
如何なものかと思う次第。
もう少しは労働するコト自体に対して敬意を払う世の中になるのが望ましい
のではないだろうか。もちろん、お互いに敬意を払う関係で。

とはいえ皆が皆とて必死に働いてしまったりすれば
ヒトの生産性ってのは高くなりすぎているからして、
いろいろ作りすぎてモノが余ったりしてしまうだろう。
だから適切なバランスを皆が考えていかねばならんと思うのだ。
適度に働いて稼いで適度に遊んで消費するというような個人的バランスも、
労働者に対する対価・給与と投資家に対するリターンの社会的バランスも。

そうなるためには実態に即した情報が提供されるコトも必要だし
実態とかけ離れた情報を見極めるだけの見識も皆が持たねばならないし
そういった考えを自発的積極的に行うためには無責任無思慮無関心から
脱却していかねばならないというふうに考えているのだけれど名案はなし。

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2008.05.16

人情愛情過剰に無情

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連休の狭間の平日に電車に乗っていて思った。
背広姿の中高年が妙に傲慢になっているように見受けられる。
特に若い世代で背広を着ていない連中を、押しのけるかのような態度。
「俺たちゃ連休中だってカレンダー通りに働いているのに若い連中は
有給使って遊びほうけてやがる。怪しからん」とか思っているんだろうか。

いやいや背広着てなくても仕事してる連中は多いんだよ。
そしてそういう若い連中の時給はアンタらよりずっと低いのが大半で
しかも将来の昇給や退職金なんかの期待も持てないし
社会保障だってアテにできないだろうと感じている。
それでもなお頑張って貧乏の中で生活していたりするんだよ。

同じ貧乏生活でも「頑張れば将来は楽できる」というのと
「将来は期待できないが頑張らないと生活の場もなくなる」
というのでは酷い格差だとは思わないのか。
むしろアンタらの方こそ「いい御身分だ」と思われてるぜ。

と、そんな具合に悪オヤジの傍観者を装いつつ考えたりした。

高度経済成長が終わったことで無責任・無思慮のサイクルが破綻して、
今いろいろなトコロで、みんながそのツケを払う羽目になっている。
でもって、たいていは、その皺寄せが社会的弱者に集中するのだな。
自らの力だけでは自己防衛が難しいような人々に。
破綻というか、破断面。そして破片が悲惨する。

破片は標本化して保存しておきたいくらいだ。後世の人々のためにも。
そうでない人たちも「節約して我慢している」とは言うが
しかし実際問題として、マージンがあって耐えるのと
もともと余裕のないトコロからさらに削られて下限を割るのとでは
どうみても同列に並べられようがないではないか。

後期高齢者医療制度で所得の低い高齢者は負担が増えるケースもある
と、ようやく最近になって分かってきたというではないか。
「霞ヶ関の役人どもの周囲には貧乏人などいないから
そんなコトにも気付かない」と思われても仕方ない結果だ。
国家のために働くというのは、国民のために働くのだという
基本を忘れているのではないか、とも思える。

相手が人間だというコトを考慮していないと思われるような
無慈悲で冷酷な殺人事件や、周囲の巻き添え被害が出るのも
お構いなしに続発する硫化水素自殺なども頻繁に報じられているし、
まあ世の中全般的に視野狭窄状態という気がする次第。

ワイドショーを見れば、誰も彼もが被害者でツラいという
調子のネタばっかりが流れていたりするけど、
これもまた視聴者自身の被害者意識を強めるばかりの
方向性になっているのではないかと推察せられるのである。

後期(略)制度に関して言うなら、アレが施行される前に
じっくり検証していた大メディアも特に見あたらないもんだから、
こりゃネタを得るために検証せず放置したのではないかとさえ、
穿った見方をすれば、できてしまうワケで。

まあそんな僻み根性なども相当に自己中心的な発想ではあるだろうから
できることなら考えたくはないのだけれども、
しかしついつい思いを馳せずにはいられない。

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2008.05.15

自称逸般塵の不通の日記(11) 5月6日のメモ

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11時のチェックアウトに備えて10時に目覚ましをセットしていたのだが
着替える途中で二度寝してしまったらしくギリギリになってしまった
さすがに連日の行動で疲れてきたかな
やれやれだ

しかし天候は一転して再び晴れた朝となった

夜中に京都を出る新幹線に乗る以外は特に予定を決めていないが
ひとまず今日は京都て親父に合流しようと考えていたので
例によって大量の荷物を抱えて地下鉄で新大阪へ出てカツカレーで朝食とする

新快速は一昨日ほどじゃなかったがやはり混んでる
散策に邪魔な荷物を預けておこうと京都駅構内で
コインロッカーを探すが空きがほとんどない

ようやく見つけたトコロでは鞄が入らず断念したところ
(途中で「空いてますか」と声を掛けてきたおばちゃん、ごめんよ)
ちょうど隣の列で一回り大きいロッカーを開けていたので
すかさず入れ替わりを狙う

一昨日と同様に大原行きバスに乗るつもりだったが
カメラの電池が尽きかけているのを思い出して
駅隣接のビックカメラで充電済みNiMH電池を買う

それから改めてバスの時刻を確認したら
ちょっと後になってしまうので地下鉄へ
地下鉄改札周辺のコインロッカーも満杯だ

乗り換えようとしていたら携帯電話が鳴る
昨日の花嫁からの連絡だった
式や二次会三次会ではあまり喋れなかったので
今日ちょっと寄って話をしないかという
こちらも写真データを少し渡しておきたいと思っていたから
後ほど神戸へ向かうコトを即座に決定
連休初日に予想していた通り京都から神戸まで行ったり来たりの日々だ

ともあれ審査の会場で待っている親父たちに会って
一昨日の写真データを入れたmicroSDを渡す約束をしている
まずは受け渡しを済ませねばならない
場所としては東山駅から徒歩数分
一昨日の合流しそびれた地点が東山駅なのだけど
そこが今日の行動の起点となった
途中の公園では3.5小葉の奇形シロツメクサを発見し懐に入れる
どうも今回は普通の4小葉と縁が薄いようだなあ
ちゃんとした形のヤツに出会いたいものである

親父や弟子と少しばかり喋ったら
次は神戸へ向かわねばならない
調べてみれば東山駅へ戻って山科駅に出るのが早いらしい
しかし駅までも同じ道筋を通るのは好きじゃないので
別のルートを取ってみたら途中で遊覧船に遭遇した
観光客を乗せて堀を巡っているらしい
その堀端では今度こそ本物の4小葉を発見
これはキレイだから花嫁用に確保しておく

山科駅で降りるのは初めてだったが
時間的に余裕が少ないので周辺散策は諦めてJRへ急ぐ
京都方面行きは新快速の前に通過電車があって
通りすがりに撮影してみるとサンダーバードだった
しかしMFレンズでのピント合わせは追いつかない
相変わらず動体撮影は得意でないと痛感させられる

考えてみれば使ってるカメラも連写向きじゃない機種ばかりだ
デジタルのくせにシャッターチャージが必要なレンジファインダーと
連写モードでも秒間1.6コマしか出ない一眼デジカメでは
どうしたってチャンスを狙って撮るしかないのだよね

追って入線してきた新快速に1時間ほど揺られて神戸へ
自宅最寄り駅まで迎えに来てくれた花嫁は
「昨日と違ってラフな格好」とは言うが彼女らしい姿でもある
こっちの方が見慣れていて落ち着くといったら失礼だろうか

さっそくデータと4葉を受け渡しつつ昨日の話題に
撮影データはRAWなので現像が必要だが
今回は某汎用ソフトの試用版を使ってもらうコトにした
さすがに少し古いノートPCでは処理に時間を要したが
マシンスペックの割には軽快な動作で悪くない
いずれモバイル用のPCを買ったらコイツを使ってみるかね
(実際にそう思わせたのだから試用版の意味を果たしたと言えるだろう)

処理を待つ間に「そうそう、これ受け取ってください」と
手渡されたのは「お車代」だった
両家の親たちから渡すように厳命されたらしい
それでは仕事してしまったような感覚になるので
個人的には受け取りたくないし
そういう関係は夫婦も望んでいないのだけど
実家のしがらみというのは動かし難いので致し方ない
この夫婦も決めたが最後テコでも動かぬ性格だから断るのも難しい
たしかに旅費などでカネを費やしたのは事実だから
余計な抵抗は諦めて有難く頂くコトにした
もちろん写真の仕上げには余計に力を入れるつもりだが

そうこうするウチに新幹線の時間が迫ってきたので出たら
花婿は入れ違いに外出先から帰ってきたトコロだった
夕暮れの土手の上で挨拶を交わして激励の言葉をかけ
握手して別れてそれぞれ家路を急ぐ

これは後で思い返してみれば
ドラマのワンシーンに使えるくらいの
ベタなシチュエーションかもしれない

ただしオチはドラマではなかった
駅までのバスの時刻を読み誤っていた
平日ではなく休日を見るべきだったのだ
いつもは出張ついでの平日に訪れるのが普通だから
つい間違えてしまったようだ

4分のバスに乗ればギリギリ間に合うと思っていたが
次に来るのは8分だ
これはちょっと間に合わないぞ
新快速で京都まで戻れるつもりだったが
新大阪から新幹線に乗り換えるルートに切り替えねばならん
バスを降りてすぐに窓口へ駆け込んだ

乗車券と特急券を追加して新快速は新大阪で降り
さらに新幹線自由席で京都まで乗って
京都駅に置いてきた荷物を引き取って新幹線ホームへ戻る
これでなんとか指定していた500系のぞみに間に合うはず
予算も時間も厳しいので土産はパスせねばならないが
それより腹が減ったので弁当と茶を買おう

そんな具合に言い訳を考えつつホームに上がれば
指定していた列車は「遅延 5分」の表示
どうもUターンラッシュで遅れているらしい
しかしもう動く気にもならんわい

遅れてきた新幹線の乗車率は間違いなく100%を超えている
指定席の車両であろうとお構いなしにデッキも立ったままの乗客がいる
特にドアのトコロに立ってるオッサンは目立つ
妙に悪者そうな目つきで車内を睥睨しているので良い気持ちがしない

そいつが自動ドアのセンサー範囲内にいるらしくドアは開いたまま
と思っていたら車掌が通りがかってドアスイッチを切って閉めていった
が他の乗客がトイレに立ったりする際に開けた扉をそのままにして
また車内を睨むので辟易する

このオッサンは指定席の乗客に怨みを抱いているというワケではなくて
単にそういう目付きなのだとは思うけれども
とはいえ目付きの悪さは本人も自覚していないはずはないだろうから
気を配った方が良いと思うのだけれどなあ

一方で斜め前の中年夫婦か何かが延々と喋り続けていて
その声は内容こそ判別できないものの
ノイズキャンセリングヘッドホンをさえ通して
ずっとブツブツと耳に入ってくるのは
目を閉じても気になるだけに悪オヤジよりタチが悪い

新横浜では隣の席に座っていた女性が降りていって
そこに例の悪オヤジが座り込んできた
指定券を持ってないだろうというツッコミはともかく
コイツが通路側に置いたトランクを爪で叩き続けるので喧しい
これでは中身も悪者ではないかと疑ってしまうが
どうせ単に無関心であるだけなのだろう
周囲の他人がどう受け取るかという点に対して

そういう人が最近は増えてきているように思う
公共の場で周囲の気持ちを気にしていられるほど
精神的に余裕を持って生活していられない世間になったし
どうせ世の中というのは世知辛いものだから
気にしても気にしなくても何ら変わらないとさえ思える
そう思ったらもう見知らぬ他人の気持ちなど気にならなくなるのだろう

今回の花嫁も無神経さ無関心さのある父親を昔から
強く嫌っており今でも心の底からは許していないという
そういう彼女の思いを知っているから
しばしば実の親以上に頼りにしてくれるのを嬉しく思う
無神経無関心な人間ではないと彼女が認めてくれているのだから

メイク室の花嫁の様子を撮るなんてのは
異性で年齢もかなり離れた友人関係では考えにくいコトだけど
保護者相当と考えれば、まあたまにある話だから

カメラを取り出して写真を見返してみれば確かに
花嫁は花婿と一緒に自然な表情を見せている
だがそもそも彼女は写真に撮られるのが実は苦手なのだという
後で知ったが今回の式場のプロカメラマンもまた
レンズの前で緊張した彼女に苦戦したのだとか

そういう差があるコトを自覚していたからこそ
東京から来て撮ってくれるのが嬉しかったと彼女は言う
それは簡単なコトバで言うなら「信頼」といったものなのだろう
今回の写真は果たして彼女の信頼に応える内容になっているかどうか
あまり自信はないが然し不安には感じない
もし仮に数百カットの失敗だらけであろうと
最後の1枚でも2人の良い表情が撮れてさえいれば
それを喜んでくれるだろうと思えるから

新幹線は滑るように深夜の東京駅へと到着した
中央線ホームでは駅員に「快速ないんですか」と質問する若い男がいた
各駅停車が連続して発車する時間帯だと駅員は説明
新宿に行きたいという男は最初の各停に乗った
コイツがちょうど対面の席になったが
どうも先のオッサンとは逆に笑い顔が地顔らしい
キョロキョロして好奇心旺盛っぽいので余計に気になる

神田-御茶ノ水と混んできたのに隣に荷物を座らせたまま
という無関心無神経の性質は普通に現代人なのだけれども
相変わらず周囲を常に伺っているから違和感たっぷりだ
本人は電車の行く先が気になっているだけなのだろうと思うが
ヘラヘラしているように見える顔がキョロキョロしているので
何かが欠如しているのではないかと他人事ながら心配にもなる
これはこれでいろいろと苦労しそうな体質のようだ

しかし彼は何を想ったか飯田橋で慌てて降りてった
その後どうしたのかは分からない
こちらもさすがに眠気に負けそうになっていたので
声でもかけてやれば良かったかと思いつつも
周囲に無関心の現代人を装って荷物を抱えたまま目を閉じる

自宅最寄り駅に降りれば空腹感と疲労感が襲ってきたので
「車代」は夜食とタクシー代に有難く使わせてもらう
大量のデータ取り込みに時間がかかって外が明るくなってしまったので
ひとまず寝るコトにしたのは寝場所こそ違うが昨夜と同じだった

今回の連休は長かったなあ

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2008.05.14

自称逸般塵の不通の日記(10) 5月5日のメモ

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一転して天気は崩れて曇り空
事前に予報で判っていたものの
祝うべきの日なのに残念である
まあしかし今日は屋内のイベントなのだから
移動中に降らなければ大きな問題はないし
礼服に直射日光では暑くてたまらんから
これはこれで良いのかもしれない

どんよりとした空を見上げつつ遅い朝食へ向かう
またも吉野家だが今日は豚生姜焼定食にした

天気だけでなく鼻の調子も朝からイマイチだ
昨夜は早寝しておけば良かったか
とはいえ今日は今年の連休中で最も大切な日なのだから
朝を迎える前に些事は片付けておきたかったのだ

おまけにポケットティッシュの予備を忘れていて
昨日には使い果たしてしまったので仕方なく
通りがかりのドラッグストアに立ち寄って
ちょっと高級なヤツを買っておく
高いといっても4つ105円だからこれでいい
安い品では数が多すぎて邪魔になるばかり

今日は阪急に乗って三宮へ向かう
南方駅は特急こそ停まらないが京都や神戸に出るには便利な立地だ
東京の私鉄では考えられないコトだが喫煙所もあるのに気付いて一服

途中で乗り換えが必要になるのだけど
終点の梅田駅まで行って折り返すカタチにした

あまり深く考えていなかったが
ここは車止めの駅なので正解だった
なにせ今日は機材が多いからキャスターつきの鞄だ
十三駅ではホーム間を渡るのが大変だったろう
始発駅だから座っていけるというのもある
今日は長丁場になるだろうから体力を温存しておくに越したことはない

三宮駅前は繁華街
横浜で言えば関内のような感じか
しかし坂を上れば異人館だから山手っぽくもあるのかな
などと考えつつも実は良く分かっていない

早く着きすぎたのはチェックアウトが早いから致し方ない
駅前で一休みするも一服つける場所を探す間もなく新婦からの電話
「山下坂を通行止めにして花で路上に絵を描くイベントをしている」とか

坂を上っていくと途中で新郎新婦に合流した
少し間があったので一緒に坂を散策する
天候は不安だが2人の表情は明るい

そしていよいよ仕事開始だ
頼まれていたとおり花嫁のメイク室で
彼女が仕上がっていく様子を撮っていく
してみると付き添いの親か兄弟のような風情か
ていうか撮影好きの父親がやりそうなコトだと思うのだけれども

主光源はスピードライトだし動き回りながらの撮影だから
さすがに調光まで手動では間に合わない
今日ばかりは絞り優先オートのD-3D-マルチBL-TTLに任せる
(もっと新型のボディでi-TTL-BL調光を使えば
さらに高い精度の露光ができるのかもしれないが)

メイクが終わったあたりで100カット近く切ってCFを交換
続いて新郎新婦の事前カットを式場のプロと一緒に撮影
このあたりで電池も交換する

さらに間を置かず式のリハーサル
若干の不安はありつつも一通りの流れを確認する

そうこうするウチに列席者が到着し始める
妙に早く来ていて外のソファに腰掛けていたのが花嫁の父親だと知ったが
何も言わずリハーサル中の式場を覗き込んだりと落ち着かない様子

会場は招待客の人数ピッタリだったので席を立つコトにした
こちらは新郎新婦以外には面識もないし
機材を携えているのでカメラマンを装っていて問題ない

この2人が結婚してから1年半あまりになるか
初めて顔を合わせたのは1年ちょっと前くらいだったな
まだ長い付き合いじゃないし東京と神戸だから物理的には遠いのだけれども
携帯電話のメールでやり取りしたりときたま長電話したり
出張で近くに行った際には家に泊めてもらって飲み明かしたりするような間柄だ

そんな2人が結婚式をすると聞いたのは3月末頃の電話だった
「では行かねば」と即答したのを覚えている
「式までには予算を確保できるので撮影機材を整えて持って行く」と
その申し出を喜んでくれた夫婦のために今日は1日を過ごすのである

そんな経緯だから実は招待状もない身だが
しかしそれは単に手続き上の問題であって
2人にとっての位置付けとは全く関係はない
そういう確信があるからこそ他の列席者と違っていても気にしないし
2人の家族や古くからの友達などにも最大限の敬意を払うのも自然かつ当然

式次第の中には珍しいコトに列席者全員の「自己紹介」があったりしたが
そこで最後に自己紹介したあたりが立場を示しているとも言えるだろう
むしろ重要な役割であるという意味で

ともあれ式は概ね滞りなく運んだ
とはいえ撮影ポジションの確保が少し難しかったりして
一部のシーンで思うように撮れなかった部分があるのは残念

式も終わりに近いあたりでスピードライトが不調になってきた
チャージが完了せずレディライトも点灯しない
なんとか光って調光もできているようなので騙し騙し使う
(※後日注:実は本体側の電池容量が残り少なくなっていたのだが
まだ外部の補助電源側が生きていたために気付かなかった
新しく揃えた機材ゆえ電池切れの兆候を見落としたのは不覚)

それに腕も疲れてきた
一眼デジカメにズームレンズとスピードライトと補助電源で
一式合計3~4kgあろうかという機材を振り回しているのだから
さすがに力が要るワケだ

式を終えての集合写真はプロに任せて
こっそり列の片隅に混ざるコトにした
せめてここで写っていなければ残念がるような2人だ
だからこそ単なるカメラマンではなく列席者でもある

そして二次会へ
夫婦からは事前に5000円と伝えられていたが
式の後に手渡された案内のカードには会費1万円とある
貸し切ったレストランの前で受付してもらって理由が判明した
名簿に(半)と書いてあったのは半額という意味だった

そういえば祝儀も出すなと言われていたのだったっけ
大事にしてくれる扱いは嬉しい反面やはり申し訳ない気持ちにもなる
せいぜいカメラで働いて恩返しをせねば

とはいえボディの電池は最後の一式
充電池は多めに用意していたはずなのだが
途中で入れたセットは充電不完全だったらしく保たなかった
しかもいよいよスピードライトがダメになってきているので
感度を上げてさらにスローシャッターを余儀なくされる
1/6~1/15ではブレも多かろう
多めにカットを稼ぐしかないが連写の遅いボディだから難しい
電池残量も不安で厳しい撮影だ

アレコレ考えても仕方ないので
あとは新郎新婦の望むように普通に列席者として楽しませてもらう
その席で知り合った新郎の元上司は
何年もの間住み込みで働いてきた彼にとって親代わりのような存在でもある
二次会では最年長の2人で夫婦の前途を祝して乾杯する
「まだまだ子供なトコロもあるけど暖かく見守っていきましょう」

そして三宮駅近くの居酒屋にて三次会
さすがに若い連中ばかりになったが
最年少である新婦の元教え子トリオが妙におとなしい
もともと奥手の連中ばかりだというし
こういう飲み会には慣れてないのだろうなあ

終電を前に少しずつ人が減っていってついに解散
同じ新大阪方面だという新婦の同級生と一緒に乗ったのは
ほぼ終電であるらしい23時24分の新快速
車中では2人との関係について話をしたり
珍しい職業だというので仕事内容を説明する

一方の彼女は製薬会社に勤務しているという
そういえば元MRだったという知り合いもいるし
先日は医薬卸の人と話をしたっけな
他にもときたま医師や看護師とも話をしているし
あとは厚労省の連中にでもハナシを聞けば
ほぼ業界全体を網羅できるかもしれん

といったあたりで新大阪着
南方の宿まで荷を連れて酔い醒ましがてら歩く
一昨日より荷物は重いが酔いは軽い

宿では翌朝のチェックアウトに備えて荷物整理と
撮影データの一部取り込みに追われるも
途中で眠気に負けて意識が飛んだようだ

ふと気付けば外が明るくなってきたので
急いでシャワーを浴びて仮眠する

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2008.05.13

自称逸般塵の不通の日記(9) 5月4日のメモ

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朝から晴れて暑い
寝不足に負けぬよう朝食は吉野家で豚丼大盛りギョク
南方周辺はファストフードや丼飯屋に事欠かないので気楽だ
しかし歩くのが面倒になったので地下鉄へ
(このあたりでは高架線だけど地下鉄)
駅の入り口には立ったまま燃え尽きて白い灰になった吸い殻があった
おまえは武蔵坊かそれともジョーか

新大阪からの新快速は信じられないほどの混雑だった
京都に9時という予定だったが少し遅れて
0930着くらいになってしまう時間の列車
でも荷物と立ち位置をキープするのに精一杯で
とてもじゃないが親父にメールする余裕もない

新快速から吐き出されてみれば京都駅は芋洗い状態
立ち止まっているだけで人にはねられてしまう
こんなのが夕方頃には昨日のように河原町あたりの鴨川畔にでも集まるのだろう

親父に電話してみたら祇園あたりにいるらしい
弟子の女の子が舞妓さんコスプレをする予定なのだった

バスも酷い行列だと思ったら大原行きだけは空いていた
市バスではないので人気の1日券に対応しないのが理由だとか

前方には若い夫婦と赤子と祖母らしき集団がいて、ちょっと邪魔
まあ少し悪者っぽく声を掛けて両替機のトコロまで通させてもらう
祖母が赤子を連れて最前列左側の席に
というのはよくあるハナシだけれども
夫婦が右側に陣取るのはいただけないなあ

抑制されるコトもない未分化の感情のままに赤子は
何を見ても「あ゛ーーーー!!」と最大音量で叫ぶ
赤の他人には少々耳障りだとも思うが
目に入れても痛くないくらい可愛いとしか感じられない当人たちにとってみれば
よもやそういう人がいようとは夢想だにできまい

三条京阪バス停で降りる人は他に誰もいなかった
親父に電話したが出ないので鴨川の河原に降りる
どこでも橋の裏側は独特の世界があるのだよね
下の石積みの壁が低かったので飛び降りてみたら
目の前にはシロツメクサの群落
怪しい雰囲気を感じて眺めてみれば奇形群落だ
手当たり次第に摘み取ると4小葉や2+2小葉や4+1小葉があったりして
予想通り怪しい群落だった

そうこうするウチに親父から連絡があって
「三条白川あたりにいる」というのだが
具体的な場所の説明が要領を得ないので
動かず待っているように伝えて歩き出す
ほぼ1ブロックだから10分も掛かるまい

微妙に併走するカタチになった老女2人連れは
これまた大声で喋りながらしかも左右にウロチョロ
速度も一定せず抜きつ抜かれつの展開に
しかし先方からは雑草ほどの存在とも思われていないご様子
進路を邪魔されること数回を経てようやく距離をとった

三条通りの白川橋では
しかし親父は見つからず
電話をみれば一瞬で切れた留守電が残っていた
こっちが切れそうだ
やはり1駅だけでも地下鉄に乗るべきだったか

電話してみると白川沿いに南へ移動中とかいう
本人が方向音痴で優柔不断なだけでなく
「京都通だが方向感覚はイマイチ」という
もう一人の弟子が引き回しているらしいので
とてもじゃないが捕まえられない
リアルに平安京エイリアンをしてるような気にさせられた
先回りできるなら落とし穴でも掘ってやりたいものだ

紆余曲折の末ようやく知恩院の三門前で合流
そして舞妓コスに変身完了した弟子とも落ち合う
親父がしきりに撮っとけというので少し撮影してみたが
真っ白に化粧した肌は快晴の陽射しに飛びそうで露出に困る
デキはともかく後日データを渡してやろう

2人の女弟子から離れたがる親父に付き合って別行動へ
しかし円山公園-八坂神社-四条川端と移動したものの
親父は暑い中を歩き回ったせいか調子が良くない様子
まだ午前中だから下鴨神社あたりなら観光客も少なく涼しいだろうと
出町柳まで京阪に乗って移動するついでに駅で水分を補給する

真夏を思わせる陽射しの河原は人手で一杯だったが
やはり神社の境内は静かで涼しい
水分を追加補給しつつ散策して親父も元気が戻ってきた様子

境内の馬場では流鏑馬のための柵がそのままになっている
柔らかい砂の表面には規則的な凹凸があり
ときたま的板の破片などが落ちている
馬糞の匂いも漂っていたりして
まさに流鏑馬の祭りの後の雰囲気のようである

本殿前では「古武道奉納奉告祭」が行われていた
通りがかりには祭礼の前に奉納する武術家たちが居並んで
準備している様子も見掛けた
しかしまた混雑に巻き込まれそうになったので退避する

その後は鴨川畔など歩いてから塩分を求めて蕎麦屋で遅い昼食
そして審査を明日に控えた親父は少しばかり練習をしたいという
弓道大会会場の施設では古本市も開催されていて少し危険だったが
気に入った古書は値段が届かず事無きを得る

練習の様子を少し見物したが
いつものコトだが遠征先ゆえ親父の調子はイマイチのようだ
良くないのは本人も分かっていて
それゆえ余計に変な力が入っている
といった具合に素人目で見たままを伝えて帰る

帰りは阪急に乗ったが
日が暮れて車窓は景色も見えないし
さすがに疲れていたせいか座ってすぐ寝てしまった

今夜の夜食はホテルの自販機のカップラーメン
明日はチェックアウト時刻ギリギリまで居られるので
写真データを携帯端末に取り込んでメールしたり
日曜深夜の番組などを見つつ遅くまで起きていた

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2008.05.12

自称逸般塵の不通の日記(8) 5月3日のメモ

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さてそんなワケで、カレンダー上に並んだ4日間の休日。
今年は所用あって関西にいた。
思うトコロあって移動中にメモを取っていたので、
ダラダラと流して茶を濁すとしよう。

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東京は前日から雨
大荷物と傘は相性が悪い
手が痛いし腕も疲れる

中野で古いレンズを処分して出かけようと思ったけど
2本のうち1本、かつての限定復刻モデルは
驚いたコトに3000円という見積もりであった
致し方なくひとまず処分を諦めて持ち歩くコトにしたが
売り払って身軽になるつもりだったもんだから
元箱やら取説もセットで嵩張るコトこの上ない

そんなこんなで到着した東京駅は大混雑
新幹線の改札さえ通るのに時間がかかる
ホームで立ち止まっているだけでもヒトが衝突してくる
これはまさに断熱圧縮で温度が上がるという現象を
ヒトで示しているようなもんだな

指定席を確保していた列車は往復とも「500系のぞみ」
円形断面ゆえ狭くて嫌だという人もいるが小柄なので気にならない
むしろ横風に強いというメリットが気に入っている
すれ違いやトンネル突入時などの揺れが軽いのだ

車内でのんびりカツサンドを頬張る
もはや新幹線に乗るときのジンクスになっていて
出張でも旅行でも必ず食っている

雨が止んできたのは新横浜を過ぎたあたりから
静岡県に入ったあたりで青空が見えるようになり
その青と白の比率が徐々に変わっていく
青と白に加えて新緑が目映い
思わずレンズを窓に押し当てて撮ってみた

三河安城を過ぎると空に雲はなくなった
きっと外は暑いだろう
いやそれよりも目下の心配事は
隣で眠っているオッサンのアタマがこっちに落ちてこないかどうか
(どうやら大丈夫だった)

京都で席を移動
宿が新大阪になったのに合わせて旅程を変更したら途切れてしもた
大荷物ではあるが同じ車両内で取れたので大した苦労ではない
どうせすぐ着くのだし

新大阪から地下鉄で一駅の西中島南方へ出ると宿は目の前だ
以前の出張ではこの先の淀川の土手まで新大阪から歩いたコトもあるが
今回は荷物が重たいし暑いのでパス
つか帰りはタクシーにしたいくらいだ

2529号室に荷物を置いて一服
今夜は以前の仕事で親しくなった京都の医師と会食の約束なので
同じく目の前の南方駅から阪急に乗って河原町へ向かう
南方駅で乗った準急から高槻市駅で特急に乗り換える
きっと4連休こんな具合に行ったり来たりするので覚えておこう

沿線の田畑は灰色っぽい土質が目につく
名古屋近辺は黄色っぽかったのを思い出す
いずれも関東とは違う

少し早めに到着してしまったので歩いてみたものの
四条河原町の交差点は歩行者天国でないのが信じられないくらいの人混み
鴨川は涼しげで良いのだけど人が多くて立ち止まってもいられない
憲法9条を守るというデモ行進が四条通りを練り歩いていたりする
そんな具合で結局は周囲を一周するだけに終わった

> お豆腐と鴨川の川魚を出す小料理屋にしました。
> ごく限られた京都人しか知りません。
として案内してもらった店は
もともと豆腐屋であったが
店の主人が鴨川で魚を捕ってきて出す
というスタイルに変わったのだという

たしかに青豆の豆腐も雪花菜も油揚げも川魚も
どれも香り豊かで旨い
ただし馴染みのない人にとって
京都のメニューは分かりづらいとも実感
まあそれゆえに奥が深いってコトになるのだろう

京都駅からJRで戻る
新大阪駅のロッテリアで夜食にしたら
隣に若い白人が座って英語で話しかけてきた
「英語はロクに喋れないぞ」と応じる
英語日本語混在で話をしていると
彼と仲間たちは韓国から博多に渡ってきて
在来線で東京に向かう途中らしい
電車がなくなったので新大阪で降りたというコトだ
日本でバックパッカーもどきを見るのは珍しい
いろいろテキトーに喋って握手を交わして白人兄ちゃんと別れ
酔い覚ましがてら地下鉄には乗らず歩いて宿に戻る
たった1駅で歩いてすぐなのに200円は高いと思ったりもする
(先刻とは言うコトが違うけど気にしない)

まあいいや
寝よう
明日は早い

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2008.05.11

自称逸般塵の不通の日記(7) 印画紙とCD-Rと記憶に焼き付ける

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DPEに出していた連休中の写真を雨の土曜に受け取ってきた。
ひとまず全部L判で各1枚のプリントとしたが、
それでも500カット以上の写真は重みを実感する。

デジタル機材をメインに使うようになってからは
ほとんどプリントするコトもなくなったのだけど、
それは自分のための写真や仕事の写真ばかりだったから。

そうではなく、誰かのために撮った写真では、
印画紙という極めて即物的な媒体を必要とする。
(ついでにデータをCD-Rに焼いたりしておくけれども)

この、画像を焼き付けた紙の束は
物理的に重たいものではあるが、
キモチの上でも同様に軽いモノではない。

大切な人の、かけがえのない時間を切り取った断片。
コレを受け取った2人が、そのときのことを思い返して
幸せな気持ちになってくれるのを願うばかりである。

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2008.05.10

所持品紹介(12) 時刻なんか見なくてもいい

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視覚に頼らない腕時計を、たまに使っている。
コイツは、もともと視覚障害者向けに作られたものだそうだ。

たしか数千円だった。
安かったので試しに買ったところ、視覚障害がなくても
かなり便利なアイテムだと気付いた。

たとえば電車の中などで、半分眠ったままでも時刻の確認ができる。
打合わせの席などでは、相手に悟られずに時刻を知るコトができる。
もちろん普通のアナログ時計として、見て確認するコトもできる。

ただし、時計を身に付けないで行動するコトの方が多い。
鞄を肩越しに背負う際など、腕時計はちょっと邪魔に感じるのだ。
時刻を確認したければベルトポーチからケータイを取り出して見れば済む。
そのくらいの余裕もないような生活は、さすがに今まで経験がない。

それどころか、妙に腹時計(?)の精度が高いので
時計さえ確認する必要がない場面も少なくない。
この腹時計というのが、体調が安定して意識が明瞭でありさえすれば、
日差数分というくらいの精度まで出たりもするスグレモノだ。

たとえば、しばし買い物などで時間を忘れて行動していて
帰りがけなどに、ふと思い出したように時間が気になり
「○時○分くらいかな」と思う。
それで時計を確認してみると、けっこう近い時刻だったりするのだ。

この腹時計は、しかし基本的には補助的な使い方に限っている。
時刻を見る必要があれば、たいていは実際の時計を見て、確認をする。

この腕時計が役に立つのは、特に飛行機の中だ。
ケータイは電源を切らねばならないから。
それと、移動中に寝ていたりすると、時間の感覚が狂いやすいから。

うつらうつらした状態で、目を開けずに右手を左手首のあたりに
やって、この時計の文字盤に触れて時刻を確認したりする。
これでだいたい、着陸までの時間が分かるという寸法。

まあしかし、安い機械式時計ってのは、さすがに精度が低い。
気温の影響などもあるのだろう、冬は遅れがち、夏は進みがち
という傾向があったりする。

そもそも、毎日ゼンマイを巻いておかねば止まってしまうから
ついでに卓上の電波時計と比較校正を行っているが
どうせ秒針もないアナログ時計だから、だいたいで良い。

腹時計の精度に近いという意味では、えらく人間的で気楽な時計だ。
いやむしろ、今のヒトビトがよほど機械に近い感覚になっている、
というコトを示しているに過ぎないのかもしれないんだが。

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2008.05.09

自称逸般塵の不通の日記(6) 太平洋から眠りを覚ますEEW

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連休中に撮影してきた12GBくらいの写真データを取り込むのに、
古いカードリーダーは昼寝できるくらいの時間を要した。
そうして取り込んだRAWデータを処理するにも、
型落ちのPCでは1日仕事になってしまう。
PCはともかくカードリーダーは新調しようと決意するのであった。

そんな具合で深夜に現像処理をしていたところ、
小さな揺れに気付いた。地震が来たのだ。ちょっと大きいかも。
ちなみに、動物的な臆病さを持ち合わせているせいか、
昔から地震などの気配には敏感に気付く性質で、
しばしば震度2程度の揺れでも熟睡状態から目覚めたりする。

棚の上で冷却ファンをフル回転させて処理中のPCを見上げる。
ここで大きな地震が来て停電になったりして
連休中の写真データが全滅してしまったら困るなあ。
こういうときにはUPSがほしくなるものだ。
無事だったら購入を検討してみようか。

とか思っているうちに本格的な揺れが到達。
やはり大きめの揺れだったが、大きな被害が出るほどではなさそうだ。
携帯端末を引っ掴み電源を入れアンテナを伸ばしてワンセグを起動。
「緊急地震速報です」の音声が流れたと思ったら通常の番組に戻った。
普通の地震速報ではなくEEWが流れたってコトは、大きかったのだな。

考えてみれば、コレの本番の音声を聞くのは初めてだった。
とはいえ、5/8未明の茨城県沖も4/28未明の宮古島沖も、
結果として警報は「間に合わなかった」ようである。
ただし、竹橋の庁舎の中の人たちの弁護をするならば、
まだまだ改善の余地は沢山あるのが現状のシステムだ。

世界トップクラスの地震大国で人口密度も高く経済力や技術力がある日本。
研究の末に巨大な観測網と予測システムを作り上げてリリースしたものの
まあ現時点では、まだまだ実証実験をしているような段階だ。
ただし、その実験の対象は1億人あまり。
なので人々の反応なども考慮しつつ慎重すぎるくらい慎重にやってるらしい。

たとえば「大地震」の誤報でパニックが生じるのを恐れる声もあった。
警報発令のレベル設定なども、いろいろ検討を重ねたらしい。
しかし、まだ「間に合った警報」の例はないし
「大地震の誤報」もないので実際のトコロは分からない。
こういうコト一つひとつも、1億人が経験していかねばならんというワケだ。

まあどうせ待っていればいずれ大地震が来る
ってのは火を見るよりも明らかだからな。
日本てのは、そういう意味では、この実験にはうってつけの土地柄だ。
それをやってみるというのだから、
そういうモノとして付き合うのが良いだろう。今のトコロは。

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2008.05.08

自称逸般塵の不通の日記(5) バスバスとはしってる

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窓の外は雨が降ったり止んだりしている。

浜松町から逆三角形に向かう途中、バス停の名前の誤変換で遊んでみた。
「芝浦不凍液入口」「お題『馬鹿遺品』講演・駅前」とか。
なんか、我ながらアタマ悪いなあ。今日は調子が悪いぞ(いつもだ)。

橋を渡ったあたりで、凌風丸が海保の巡視船と並んで係留されていた。
大振りな船橋構造物と低い後部デッキの対比が印象的だ。
多彩な観測機材・設備を小柄な船体に詰め込んだコトがよく分かる。

バスの中では、フリーペーパーっぽい冊子を読む年配女性がいた。
けっこう熱心に読んでいるので、何の冊子なのか気になったのだが、
読み終えたらしく閉じた瞬間、見えた表紙に声を上げそうになった。

……「R25」でした。
考えてみれば、年配向けに分かりやすく説明してくれる媒体って、
ほとんど存在していないんじゃないだろうか。

R25は、誌名からすると団塊ジュニア~プレゆとり(ロスト)世代あたりが
狙いなのであろうけれども、実はずっと上の世代にも読まれていて
発行元としてはそれが嬉しい誤算だったとは聞いていた。

たしかに、あえて誤解を恐れず
簡潔に事象を紹介するというスタンスは、
なかなか侮り難いものがある。

気楽に読めて、物知りになった気にさせる、
そういう読後感を目指しているのだろう。
年配向けに、そういう媒体は、果たして存在するのだろうか。

今の世の中の動きの早さに置き去りになろうとしている世代に対しても
R25の記事のような方向性は、悪くないのかもしれないと考えた。
誰か、作ってみるかい?

さて本命。
情報収集のために訪れた、
とある産業系展示会。

展示場の中の自動販売機には「聖地の缶コーヒー」
だか何だかが150円で売られているのに気付いた。
しっかり付加価値が与えられている。

展示会最終日の夕方ながら、けっこう混んでいた会場内。
蛍の光が流れた途端、一斉に客が流出していく。
みんな、躾がいいなあ。

さすがに産業系イベントだから、ほぼ全員が会社員で、
仕事の一環として訪れているワケだし、
まあ退社時間になったと考えれば、それで当然か。

東館1F通路ではスーツ姿に紙袋の人たちがエスカレーターに集中し、
それとは反対に、作業服姿の人たちが
それぞれの荷や機材を持ってホールへ向かう。

静脈系の人々だ。こういう会場を支えるには
不可欠な存在なんだけどガテン以外で脚光は浴びないし、
それどころか展示会の客が彼らの存在を意識するコトは、まずない。

東館から逆三角形の下に向かう途中では、
「ベルトコンベア乗ってるから。降りたところで合流な」
とか言ってるオッサンがいた。

まあたしかにベルトコンベアだ。
動く歩道を彼の言葉で言い換えれば。
こっち方向のベルトコンベアもまた、一種の静脈かもしれん。

帰りは、ちょうど水上バスの最終便が近い時間だったので、
つい乗ってしまった。
バスは混んでいたが、こっちは客もまばらだ。

今度は、凌風丸と巡視船を行きとは反対方向から見る。
水上バスの低いデッキから凌風丸を見上げると、
煙突の上に作られた背の高いアンテナマストが目立つ。

桟橋。駅までが遠いんだよな。
傘は壊れかけていたし荷物は重たいという言い訳をしつつ
目の前の駅で新橋まで乗るコトにしたが、やはりラッシュだった。

金曜の夕方に都心を横断するルートのバス。
繁華街を出て官庁街に入れば、
もう路上を歩く人影も見当たらない。

途中、以前とは少しだけ経路が変わっていたりするコトに気付いて
それはそれで楽しめた。普通の人とは毛色の違う交通手段ならではの楽しみ。
ただ、小一時間かかってしまうので、素人にはお勧めできない。

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2008.05.07

パンの木の実のみにて生きてみたいキモチ

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「モノを作れない人が管理をする、管理もできない人が教える」
とかいう言葉を、昔どっかで聞いた。

まあそうかもしれないと思いつつ、さらに一つ追加したい。
「教えるコトさえできない人が書く」と。

そんな我が身を振り返りつつ。

文字を並べ立てる行為は、基本的には何も生み出していないと思っている。
文字の羅列に対して対価を払ってくれる相手がいてこそ、
それはようやく商売として成り立つモノなのだから。

ヒトが生きるためには、なんと言っても食って飲むコトが第一に必要。
「パンだけで生きてるんじゃないんだよ」と言ったあの男だって、
やむにやまれず石をパンに変えざるを得ない状況に陥ったコトがある。

「パンがないなんて、じゃあお食事は、お菓子?」とか言ったあの女は、
きっと自分の手でパンを作ったりはしなかっただろうけど。
……って、それは関係ないか。

しかしまあ、単にこうやってダラダラと書き連ねてるだけなら
まだ害は少ない方であろう。今の世の中にしてみれば。

花粉は、植物が自らの遺伝子を広く拡散させるための手法。
思想信条を書いて、甚だしく宣伝行為を行うのにも似ている。
あるいは金銭目的で宣伝の書き込みやメールを無差別爆撃とか。

そういうのに対し、花粉症というかアレルギーになってしまう
ような心理も、まあ分からないではない。

なので、ここでただ淡々と書いているのみ。
たぶん飽きるまで。あるいはネタが尽きるまで。
ひょっとしたら寿命が尽きるまで、かもしれないが。

まあこんな人間でも、なんとか生きていけるのだから
今の世の中というのは、悪くはないのだろう。
もっと良くなったら、もっと嬉しくなってしまうかもしれない。

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2008.05.06

半生紀(18) 愚痴を聞くという生き方もある

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「愚痴を言いやすい相手」と、よく言われる。
「愚痴に対して否定したりしない。
『だって』『でも』などという言葉で遮ったりしない。
愚痴に対して、ただ共感してくれる」とも言われた。

まあ否定したって、愚痴そのものが消えてなくなる
ワケでもないのだから、それが当然かと思っている
のだけれども、世の中の多くの人においてはそれも
当然とは言えないコトであるらしいのだ。

それに、相手が愚痴を吐き出して気楽になっていって、
次第に笑顔になったり笑い声を立てたりする様子を見るのが好きだから
むしろ喜んで聞いてしまったりするのではある。

しかし一方で、「じゃあ、貴方の愚痴の捌け口はどうするの?」
と聞かれるコトも少なくない。

もともと、あんまり愚痴が外に出るタチではない。
相手が愚痴を吐き出し、それにまつわるストレスが解消されていく
様子を見ていれば、同時にこちらも癒されるものだから、
そのサイクルがうまく回っていれば吐き出す必要がない。

とはいえ、まあたまには愚痴を言いたいときもある。
一応、愚痴を聞いてくれる友人はいる。
ただし、ちょっと方向性が違ったりする。
愚痴を聞いて、その返答で考えさせてくれる相手だ。

しかし基本的には、あんまり特定の誰かに語ったりしない。
それをどうするか。
たとえば、こうしてブログのネタにさせてもらったりしている。
その際に、いろいろと考えて書いている。

常に解決策が出せるというワケでもないが、
まあまあ気楽に、希望を持てたりする方向に、
あるいは逆に期待しないでいる方が無難だという方向に。
そういう考え方が、少しは何かの役に立てるなら、それでも良い。

自分の中に、愚痴を処理する部分があるので、
それを他人の愚痴に対しても使っているというコトなのかもな。
まあ自分自身のソレは自分向けに使えないケースもあるから、
そういうときには他人のヤツを頼ったりすると考えれば良いか。

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2008.05.05

理系用語で読み解く社会(25) だいたい代わりが利かない代替品

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同じ動作を何度も繰り返す際、
その動作に無関係な部分でもいいから
回ごとに違ったコトを意識しておくようにすると、
何回目かという記憶の助けになることに、最近、気付いた。

ユニークなID番号を振る、という表現はあるが、
ヒトというのは、番号だけの小さな違いでは
何がどう違うのかを認識するのが難しい。
むしろ、番号以外は何も違わないという意味に
なってしまったら、ヒトの認識を助けるような
特徴付けが行われず、結果として識別できない。

数字という情報を与えることで、管理する際の
手掛かりが得られるものだけど、しかしそれは同時に、
数字以外で記憶しておく必要をなくすという意味もある。
個々の特徴を、すなわち数字に表せない個性を
全て捨て去ってしまうのが「ユニークなID」だ。
人の心に残るような特性は失われるのである。

この目の前の親しい人たちは、
決して数字ではないと実感できるはず。
その感覚は、自分の目が届く範囲だけに
限ってしまって良いのだろうか。

「今ここにある」という情報を脳は事実と認めている。
他の脳は、また別の情報を事実と認めているはず。
認めているという事実が実は非常に大切なコトであり、
いや気持ちの上ではむしろそれこそ真理なのかもしれない。

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2008.05.04

自称逸般塵の不通の日記(4) 暗箱は暗い趣味ではないと思う

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最近、「一眼レフが欲しいけど、何を買ったらいいのか」
といった相談を受ける機会が多いように思う。
使い方や予算に合わせてアドバイスはするけれども、
その多くは、なかなか踏ん切りがつかず、買うに至らない。
結局、「だったら試しに使ってみろ」というワケで、
現物を安く譲るコトになってしまったりする。

先日なども、古くからの友人2人に相次いで、使い古しの
(しかも中古で買って使い、予備機としていた)デジ一眼の
ボディとレンズとメモリカードをセットで譲った。
あとは、状況に応じて機材を使いこなしてくれればいい。
10年あまり前に、そんな具合で(当時は銀塩だったが)
一眼レフを譲った友人たちも、今はずいぶんと使い込んでいる。
まずはモノを持たねば、使いこなしもできないのだから。

写真というのは奥が深い趣味とされる。
たしかに、応用は広くて深くて、どこまでも追求できる余地がある。
だが一方で基本は単純だ。重要な関係性など、ほんの10ほど。
具体的な数値を覚えておいた方が良い、というレベルの必要性となれば
感度と露出値、シャッター速度と絞り、焦点距離と画角あたりで充分。
あとはせいぜい被写界深度、撮影倍率、フィルターや近距離撮影の露出倍率、
ガイドナンバー程度の知識があれば、ちょと複雑な撮影にも対応できる。
このくらいなら、誰でもすぐに暗記できる。

ところが、具体性の伴わない暗記物は大の苦手だったりするので、
致し方なく、就職して一眼レフを購入して以来、撮りまくって覚えた。
いろいろなレンズを使い、いろいろなフィルムを使い、
他にもいろいろな機材を使って、いろいろな条件で撮った。
撮って見返すというサイクルを繰り返していれば、
そのうち嫌でも身体で覚えるものだから。

たとえば数種類の、仕組みの異なるレンズをそれぞれ使い込んで、
それぞれの構造に依存する光学的特性を覚えていったり、
あるいは数種類のフィルムを似たような条件下で試してみれば
それぞれの再現性の違いが明確になってくるというわけだ。

今では一眼レフもデジタルが当たり前になっているので、
銀塩時代の昔から比べれば、そのサイクルを早められる。
きっと、写真の原理を勉強するのも楽になったことだろう。

しかし撮りまくっているうちに、今度は身体で覚えたコトを
改めて数字で説明することも重要だと感じるようになってきた。
カメラ好きが集まって語り合う際、撮影条件などを具体的な数字で
説明する必要があったりすることも少なくない。
仕事でも、たまにプロのカメラマンとやり取りをする場面があるから、
「彼らの言葉」を聞いたり語ったりできればハナシが早い。
が、分かってるんだけどコトバに落としづらいのである。
用語から入るのとは逆に経験から入ってしまったのだからして。

身体に染みついている「写真に関する法則性」を言葉で説明するため
いったん脳内でカメラを構えてみたりもしたものだ。
そのシチュエーションにおいて、どのような画角のレンズを
どのようなアングルで構えて、絞りやシャッター速度はそれぞれ幾つか、
といった操作を脳内で行い、結果を数字で示す。
算盤に慣れた人が、脳内で玉を弾いて暗算するようなものだろう。
あまりに粘性の低い思考ルートとなったため、
その場にモノがなくても自由に操作できるというワケだ。

ただし、その逆は、なかなか容易ではない。
本来、粘性の低い思考ルートの中にいながらにして常に状態を
把握し続けるというのは、生物にとって難しいものなのである。
日常のルーチンとして定着してしまったコト、たとえば
毎朝の洗顔などを、昨日はどうだったか、今日はどうだったか
と思い返そうとしてみれば、すぐ分かるだろう。
無意識に行うようなレベルの癖に気付かないのと同様だ。

最近では、そこに挑戦しようと試みている。
たとえば、風呂に入ったとき洗髪と洗顔を3回繰り返す癖があるのだが、
その回数は本当に必ず3回なのだろうかと、ふと気になった。
10年以上は変わっていない癖だから、もはや意識していなかったが、
それゆえに、途中で他のコトを考えたりすると、たった3回でさえ
数を忘れてしまったりするケースもあると気付いた。
(念のために書いておくが、中年ではあるものの老年ではない。
認知症の気配も、今のところ観察されていない)

意識してしまうと妙なもので、今が2回目なのか3回目なのか
分からなくなった瞬間に、次も洗うべきか悩んでしまうのである。
粘性の低い思考ルートを崩すことには成功したものの、
これでは単にルートから外れて迷っているに過ぎない。
こうなってしまうと、得意のシーケンシャルな記憶さえ曖昧に
なってしまうものだから、粘性の低い思考ルートというのは
本当に恐ろしいと実感した次第である。

いつものように「いつもの」ルートを辿りつつも、
それを自覚して、それこそカメラのシャッター速度や絞りを
数字で示せるようなレベルにまで意識し続けられるようになるには、
まだまだ遠いようだ。

まあしかし、今は新緑の美しい時季。
カメラを提げて散歩するには丁度良い。
ああだこうだと考え込んでしまうよりは、
あの連中を誘い出して、少しばかり遠出したいものである。
喋りながら撮っていけば、経験と用語の両方で覚えるもんだからね。
楽しいだけじゃなく、実になる体験だ。

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2008.05.03

トレーにん’

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マニュアルからナビ、そしてコンシェルジェ、さらにはトレーニング?
どんどんワガママかつ思考能力を必要としない方向に向かう気がする。
「トレ」と書かれるトレーニングのようなナニカってのは、
いずれもスポ根的な傾注が必要なものではなく、
どうみても気楽に能力向上っていうニュアンスだ。
効果があるとされる習慣を教わって安心したいだけなのである。
漫画ではほとんど省略されてしまう部分、あるいは
ゲームなら何かのイベントで他動的に与えられるナニカを、
実世界において自分自身に求めているというだけ、
とか言ったトコロで、いささかも過言ではあるまい。

今の世の中、何でもあるけど、何も選べないような状態てのがある。
よりどりみどり、ただしその中の一つでも、一生かかる。
で結局は迷った挙句に、中途半端になっちゃったりする。
いつでも何でもできるから、必要になったときに
やりさえすれば、何とかなってしまう。
でもそれだと、早めに状況を見極めて先のコトを考えて
手を打つなどという練習ができていないのだから、
結局は、判断が必要な瞬間にこそ優柔不断に陥る。
そういう瞬発的なアタマの働きが足りないというのは
きっと多くの人々が気付いているのだろう。
だから、TV番組やゲームソフトなどでは、あえて
脳味噌の瞬発力を要求するようなネタが使われたりする。
……きっと。

思考能力の中でも、瞬発力というのは目立つ。
たいていは用意された回答をヒットしたかどうかで
一目瞭然となるもんだから、誰でも容易に判別できる。
そして身に付けるにも、生まれ育ちの要素も多少はあるが
ちょっとしたトレーニングでかなり強化できる。
だから「トレ」でもいいのだろう。

でもやっぱり、そういうのは与えられた状況が前提として
存在しているものだから汎用性に乏しく、結局のトコロ
大した練習にもならず、ただの遊びに終わっているのでは?
現実の問題というのは、前提条件を拾い出すだけでも難しい。
そういう面での訓練は、きっとできやしないだろう。
だから、アタマだけでなくカラダも動かせというコトだ。

しかし思考の持久力となると、ただでさえ地味で脚光を浴びない上に、
瞬発力よりさらに鍛えるのが難しいのではないかと思う。
そもそも天性の才能のようなものは存在しないだろう。
長年の経験によって、ようやく少し身に付けられるかどうか。
人生は、そういうトコロに関してみれば短すぎる。
でも、そういうのがないと、ヒトの間の諍いなどは
いつまでもなくならないんじゃないだろか。

たとえば、いったん他のトコロに離れてもまた元の道筋に戻ってくる能力。
粘性の低い思考ルートのままに気の合う相手と喋っていると、
しばしば話題がとんでもないトコロに飛んでいってしまうコトがある。
「話題がポンポンと飛ぶような女性に多い話し方にも
割と普通に付き合ってくれるのが良い」、と評価されたコトもあるが、
その話し方が女性的かどうかはともかく、たしかに話題の幅は広いし、
ある話題から他の話題への関連性を見付けて入り込んでしまうケースは
しばしばあると自覚しているので、そんなもんだろう。

でも、かなりの確率で以前の話題にロールバックできるのは、
多少なりとも自慢して良いと思っている。
(あまりに気楽に雑談しているときには難しいが、
ある程度以上の意識をしながら喋っていれば可能)
話題が二転三転する、その前のあたりの段階まで、
それまでの話題転換のシーケンスを辿って戻ったりしている。
それこそシーケンシャル記憶の成せる技てなトコロか。
だから、ロールバックしたトコロから本筋に戻すコトも可能だ。
しかもその上で、脇道に入って得たモノもまた本筋に持ち出して
いろいろと幅を広げたりしている。
でも、これくらいなら、まだたまにいるはず。

では、耐久性あるいは耐障害性の高い思考能力とは?
もっと長い目で見て、たとえば毎日のように一念を続けるとか。
普通、日常生活を続けていれば、たいていは思考を破るような
事件が飛び込んできたりするものだ。
喜怒哀楽の感情に動かされてしまったりして、
考えるコトを放棄せざるを得ない状況に陥るコトは、誰でもある。
それでもなお何日も何週間も何カ月も何年も忍耐強く辛抱強く
特定の事柄について考え続けられるような精神であれば、
それは間違いなく耐久性があって耐障害性が高いと言えよう。
そこまでできる人間は、さすがにほとんどいないのではないか。
もしできるようになれば、素晴らしいな。

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2008.05.02

ナニもモノもヒトさえも

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雑踏ですれ違う人々ってのは、まあ気分の良いもんじゃない。
特に根が田舎者だったりするから、都心に暮らしているものの
常に都会の喧噪は性に合わないという気がしている。

ときたま、その中に動かないカタマリがあったりして
しかもそれが周囲の流れの中の邪魔な場所にいたり
邪魔な大きさにまで膨らんでいたりするもんだから
まあ古い人間からすると「無神経極まりない」となる
のだけれども、それはともかく、最近の「カタマリを作る」
ような連中自身は、周囲にそういうのがいても
あんまり気にしないのかもしれない、と思った事件。

まさにそういう「カタマリ」を避けて歩く周囲の人々の中に、
避けようとする動作を行ったものの接触してしまったのがいる。
「カタマリ」の中の、たまたまケータイをもてあそんでいた奴に。
歩行者の肩が、停止者のケータイを持った手に軽くぶつかり
停止者のケータイは放物線を描いて自由落下、アスファルトに
よって落下を止められた瞬間にカシャンと軽い音を立てた。
歩行者は、あまりに軽い接触だったせいか気付かず去っていく。

が、その後を観察していて、停止者を含む「カタマリ」も
また平然としていたコトに気付いた。
その瞬間、むしろ驚き、愕然とさせられたのだ。

ああそうか、雑踏の中で他人と接触しても、そしてケータイを
落とすような結果になったってもまるで気にしないからこそ、
雑踏の中でカタマリを作って平気なのだな。

「最近の学生はモノに愛着を持たないように感じている」
と、ある大学の教員が愚痴るとでもなく語っていた。
学校の備品を大事にしないが、しかし
正しい扱い方を教えれば素直に従う。
自分の持ち物さえ大事にしないもんだから、
他人の(学校の)品物もまた、ついついそれと
同様の扱いってコトになるのだろう。

これじゃあ、他人が大事にしてるナニモノをも
気軽に踏みにじって手軽に敵を作れるワケだ。
でも、自分を敵とみなす相手がいれば反射的に
本人も相手を敵とみなすコトになるのが普通。
そういう悪循環に陥った挙句に最後は不幸を嘆くのだろうけども、
まあ元凶まで気付いたり改善を図ったりするのは少数だ。
どうもこりゃあ、敵ばかり作る教育をされてきたようなものなんかね。

「最近の若い者」より相当に年上の身としては、
そういう教育は、どのくらい前の時代まで遡れるのか、
という点も気になるものであるが。

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2008.05.01

所持品紹介(11) あんた方どこさ、肥後の守どこさ

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机の上には、小さな刃物を常備している。

鉛筆を削ったり封書を開封したり紙の工作をしたり、
キーボードに付着した汚れを削り落としたり、
あるいはちょっと爪のささくれを削ったりと、
けっこう重宝しているし、ときたま自分で砥いでいる。

しかし最近の若い連中(←言い古されている上に老けた言い回し)って、
刃物などは、ほとんど触らずに育ってきたというじゃないか。
たぶん、彼らより半世紀くらい上の世代とは、
刃物を使った記憶などには格段の違いがあるだろう。

都心の一部の繁華街では警察が路上で刃物狩りをしていて、
鉛筆を削るために携帯していた美術学生からも刃物を取り上げたりするという。
刃物を使った殺傷事件が起きるたびに、イキモノでもないはずの刃物が
すっかり悪者にされているから、どんどん社会から排除されていくばかり。

そもそも戦後、刃物狩りの傾向は一貫して強かったようだ。
なにしろ、今から20年ほども前の子供たちでさえ、
「鉛筆もロクに削れない」なんて批判を受けたほどであった。
鉛筆削りどころかメカニカルペンシルが普及しはじめた時代だ。

核家族化が進行し、物流も発達し、スーパーで売られる食材は
最初から切ってあったりするようなものばかりになった。
しかも学校から帰ってきた子供たちは宿題や塾に忙しく、
家事を手伝うという習慣も失われていった。

小さな頃から刃物を使っていたりすれば、その使い方も
自然に身体で覚えるものなのだが、この時代あたりから子供たちは
夕飯の準備を手伝いつつ包丁の使い方を身に付けたり、
工作して遊びつつ小刀を使いこなせるようになる、とはいかなくなった。

刃物を使う経験の中には、たいてい怪我も含まれる。
ちょっと手が滑って指を切ってしまったり、あるいは
友達同士で集まって工作している中で刃物を振り回して
どこかに刺さってしまったりと、怖い目を見るコトもある。

でも、その経験が幼い頃にあるならば、刃物を他人に向けて
使うなどと考える傾向も少なくなるのではないだろうか。
道具としての刃物の使い方を覚え込む中で、武器としての
刃物の使い方に思い至らせる要素も消えていくと思うのだ。

前に、「夢を見る権利」について書いたっけ。
男の子なら特に、戦いの中で勝利を掴むような夢を見るコトもある。
その手段として、当然ながら武器も夢に出てくるワケだが、
夢ゆえに実際のモノより随分と誇張されたりするものだ。

でも刃物を実際に道具として使っていれば、
武器としての刃物についても誇張される度合いは低くなり、
刃物に対する夢想が妄想にまで発展する可能性だって
かなり低く抑えられるのではないだろうか。

この小さな折り畳み式の日本式小刀は、ずいぶん前から絶滅危惧種だ。
一部にはコレクションをしている人たちもいるようだけど、
「20年くらい前の子供たち」でも知らないという人が少なくない。
実際に使ってるという人は、さすがに極めて少数であろう。

そういう人たちが成人して所帯を持って家族が増えても、
自らの子供たちに対して刃物を使った体験を語れないのだから、
汎用の小刀の類など、これから先の時代には単なる武器、
というコトになってくるのかもしれない。

もはや、この刃物は、この机の上でしか使えないのだろうな。

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