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2008年6月

2008/06/30

知見の接続先は、外部にあっても構わない

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気心の知れた親しい相手と喋っていると、
ときたま、ひょんな結論が出たりする。

先日、プライバシーに関する問題について
小一時間喋っているうちに、なんとなく
2人がこれまで持っていなかった新たな認識に
至ったな、という気がしたりした。

それがちょっと嬉しかったので、つい書いてしまった。
まあ例によって駄文だが。

たしか最初は、いつものように世間話をしていたら、
某検索サイトが持っているとして問題になっている
「個人情報」って何だ、というような話題に
なったのだったかな。

その情報ってのは、特定のPC(というかブラウザ)で
どんなサイトを閲覧したかといった情報であり
それらをサーバ側が勝手に保管し活用して
おすすめ商品などのレコメンドを行うというもの。

「いろいろと便利になることは多い」というので、
「馴染みの店でのレコメンドとは違う。違和感がある」
と反論したのだった。
ではその違和感の根拠は、どこに求められるだろうか。

2人とも、良くも悪くも公私の境界が曖昧な自営業。
仕事で調べ物をしただけでもレコメンドに出てしまう
ようでは却って迷惑なのではないかとも思ったが、
それは本筋ではないと感じたので違う切り口で言う。

「勝手に情報を取られるのがキモチワルイ」
漠然としたイメージを伝える。
「なるほど。監視カメラが嫌だってのと一緒か。
でもそれが、何故キモチワルイってなるんだろ」

理由を一言で言えず、少し悩む。
と、さらに畳みかけてくる。
「では、もし情報を持っている相手がコンピュータ
じゃなくてヒトだったら、どうだろうか。

電話一本でさまざまな情報を提供してくれる
コンシェルジェというか秘書的なサービスで
ユーザーごとに特定の担当者をつけるような場合」
そういえば、そんなサービスを話題にしたこともあった。

これで何かが繋がった気がして、こう言い切った。
「それでも、きっと違和感を覚えるだろう。
相手はこっちのコトをいろいろ知ってるのに、
こっちは相手のコトを何も知らないのだから」

この言葉で相手も得心がいった様子だった。
「どことなく不公平だという感覚なんだろうね。
こうやって面と向かって喋っていれば互いが相手を
理解する公平な関係だけれど、そうじゃないから」

「知らない相手に知られるのが嫌という心理」に
理屈をつけて納得した、という程度の他愛もない会話。
けれども、得られた結論など足元にも及ばぬくらい、
一緒に考えた経験そのものが非常に大きな価値を持つ。

ときには険悪な議論になったりしつつも、
何年も何年も同じように喋ってきたことで
互いのコトを「知り合う」関係を強めてきた。
その再確認と関係性強化を、繰り返し続けていくのだ。

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2008/06/29

接続は力なるや?

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見聞きしたことが、これまで蓄積してきた知識と接続したときの、
何とも言えない嬉しさというのは、学習意欲を大いに掻き立てる。
実際、世の中のモノゴトは、たいてい意外な関係で結ばれてるもので、
その接続に気付くと、さらに他の関係性を見付けたくなってくる。

そういう関係性を一つひとつ検討していくと、
またさらなる関係性が見つかったりして、
こりゃもう、何ひとつ無駄な情報などないぞ
なんて気がしてきたりするのではある。

まあそういうコトをしていても、しばしば
大きな事件の伏線を見落としていたりして
まだまだ世界に対する理解が足りていないな
などと偉そうに思う場面も少なくない。

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2008/06/28

知ろうとする人、喰ろうとする人

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素人だから発言してはいけないなんて、あり得ない(←まだ言う)
学ぶ過程で発言する機会は不可欠。
そうしなければ誰も玄人にはなれまい。

素人=非職業人、玄人=職業人としていうならば、
謙虚で真摯で知的好奇心旺盛な素人の方が、
そうでない玄人よりマシというケースもある。

ただし、非職業人という存在は、職業人よりも
見識不足のリスクが大きい傾向があるワケで、
そういった面は常に念頭に置いとかんといかんよな。

まあそもそも自らの見識不足に気付ける素人なら、
謙虚で真摯な姿勢を保って学び続けるだろうし、
そのうちどっかで苦労と思わなくなることだろう。

きっとそうして玄人ってのができてくるんじゃないか、
などと素人ながら考えてみたけれど、
実際その通りなのかは寡聞にして知らず、白黒つけられん。

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2008/06/27

自ずから然るべき理

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ふと航空・鉄道事故調査委員会のサイトを見ていたら、
たまたま5月末に公開された列車事故報告書の2件が
両方とも自然災害による脱線事故だったと気付く。

一方は、停車しようとしたところを竜巻に倒された。
もう一方は停車中の地震で車両が倒れてしまった。
意外なほど、あっけなく倒れたような印象である。

ヒトは、まだまだ自然の力に勝てたとは言えないのかも。
つまるところ、自然の動きに逆らうのではなく、
上手に見極めて無理なく利用するのが良いのだろう。

だから、少しくらい飛行機やフェリーや電車が止まっても
天候が酷ければ当然のことと思わねばならん。

もしどうしても文句を言いたいなら、天に言うべきであろう。
それがヒトとしての分をわきまえた行動かどうかはともかく。

都会にいると、都会での「当たり前」が、もともと本当に
当たり前であったかどうかさえ気にしなくなるようで、
あんまり佳い気分がしない出来事も、少なくない。

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2008/06/26

理系用語で読み解く社会(27) ヒトの背景輻射

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テクノロジーって、それ単独でパルスのように存在するワケじゃないんだよね。
ヒトや他のテクノロジーと複雑に関わりながら、社会の中で輻輳し合う偏波。

言うまでもなくヒトそのものも単独では存在し続けられないものであって
そんなヒトが作ったものだから当然の如く複雑な関係性の中に生じたのである。

でも、ヒトやヒト社会やその周辺で複雑に響き合う音響をひたすら聞いていると、
どこか特定のトーンが耳に残るような気がしてきたりするので不思議だ。

「業」であったり「原罪」であったり、言い方は多様なれど、
それこそがヒトの根底に流れる通奏低音ってコトなのだろう。

宇宙空間には固有の音階が、「晴れ上がり」の名残として今も響き続ける。
現在では平均2.725Kと観測されているが、その時点では約3000Kだったとか。

ヒトにもまた、種としての発生の名残が、きっと残っているのであろう。
社会の膨張によって薄められ、大きく揺らいではいるが、決して消えることなく。

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2008/06/25

てぇへんなひとたち

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私的録音補償金だのコピー制限だの
といった諸々の問題を考えていると、
制作物の流通の端と端とで啀み合う
ような構図に見えるのだけれども、
両者とも嫌なキモチになっているし、
その間にいる連中は、見えてこない。

エンドユーザー側の手許には、さんざん
制限をかけられたコンテンツしか届かず
ロクに楽しむ気さえ失わせられている。
逆に作り手側にはエンドユーザーの声も
“妥当な”対価も届いてこなくて苦しい
中での創作活動をさせられているようだ。

こりゃもしかすると中間業者の搾取か?
という感覚は、なきにしもあらず。
たとえば大きな製品を作るメーカーがあれば、
その部品を作るメーカーも無数にあって、
それらの工場にヒトを売る派遣業者があって、
身一つで生きるヒトビトは、流れ流れる。

とはいえ単純な性悪説てのも面白くない。
ひょっとしたら中の人たちとしても、
両端と同じく苦しい状況に置かれていて
しかも声を出せないのかもしれないし。
とはいえ、中の人に知り合いがいないので、
その実態は全く知らないのだけれども。

そういえば先日、都心で飲んでいて
終電を逃してしまったので乗ったタクシーで、
大手広告代理店の連中について、
いろいろと運転手が言ってたっけ。
どこぞの中央官庁のタクシー券問題じゃないが、
似たようなコトは大手代理店にもあるらしい、と。

構造的な問題が、どうもあるんじゃないかと思う。
どこもかしこも、以前ちょいと書いた「蒟蒻業界」の如く、
実は構造変化が誰にも幸福をもたらさない方向に
進んでしまったのではないかとも推測してみた。

端と端を結ぶ橋は、社会構造が複雑になって行くにつれて
どんどん継ぎ足されていってひたすら長くなるばかり。
とっくに端から端まで見通せなくなっているだけじゃなく、
間にいる連中にすら自分の位置を見失わせるほどになってる。

そのような可能性は、大いにある。
しかし今や、その全体を見通せる人など、いるのだろうか。
ヒトの視野では捉えきれないくらいの広がりになっていて
誰も彼もが自分自身を中心だと思わねば、やってけない。

昔そこにあったはずのシアワセって、
一体どこに消えたんだろうね?
世の中ってヤツは、
知れば知るほど不思議が一杯だ。

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2008/06/24

回る回るよ目が回る

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世界は小さいと言う人の中の世界は小さくて
世界は大きいと言う人の中の世界は大きくて

世界は狭いと言う人の中の世界は狭くて
世界は広いと言う人の中の世界は広くて

世界は下らないと言う人の中の世界は下らなくて
世界は面白いと言う人の中の世界は面白くて

世界は簡単だと言う人の中の世界は簡単で
世界は複雑だと言う人の中の世界は複雑で

世界は大切だと言う人の中の世界は大切で
世界は意味がないと言う人の中の世界は意味がない

けどそれでも世界は回ってる

いろんなトコロに中心があって
(どいつもこいつも「世界の中心」とか叫んでる)

いろんなモノゴトを巻き添えにして
(「どいつもこいつも」という輩も、最近は多い)

いろんな感情を混ぜ合わせながら
(しばしば相反する色が隣り合わせになってたり)

いやむしろ混沌としてるのか

そんなコトを暫し考えていたら
ちょっとばかり眩暈がした気がした

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2008/06/23

時代と共に学ぶ者、学ばぬ者

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災害があれば地形も変わるというコトを、日本人は学んだ。
高度経済成長時代、地形というのはヒトが変えるものだった。
まあ要するに、昔持っていた認識を取り戻したに過ぎないのだろう。
ヒトは改めて自然の力を思い知らされ、それを学び、
きっと今度は、その力に逆らうのでなく上手に利用する
ような方法を思いついてくれるだろう。

子供用にインターネット機能を持たない携帯電話を、
などと騒いでる政治屋連中がいる。
精神的鎖国状態の人たちを大量に作り出すつもりなのだろうか。
現実に生じているコトを受け入れる能力も持たず、
「そんなコトはあり得ない」と回答するばかりで、
実態を変える力をまるで持たぬ官僚のような国民を。

年間の自殺者数は、10年連続で3万人超。
理由として上位に挙げられているのは精神の病と生活苦。
生活のセーフティネットが機能不全に陥っているコトは
ほぼ明白と言えそうな気がするんだけれども、
そういうトコロに陥った経験のない人は、
そのあたりの再構築が必要だなんて夢にも思わない。

すっかり劣化した古い体質の官僚組織は穴だらけになっている。
それを埋めるべく「消費者庁」を作るなんて言ってるのがいるけど
穴は無数にあるトコロに、大きな箱を一つ置いても塞ぎきれまい。
衰退期に入って組織間が隙間だらけになってしまってるのだから。
隙間を埋める新たな組織を作るなんてのは対症療法に過ぎず、
組織全体のリフレッシュを図らねばならないのではないか。

さすがに民間企業では、ずいぶんとリフレッシュされた。
衰退期の組織では生き残れなかっただろう。
生き残るためには従業員も犠牲にしたし、伝統も捨てたし
ときには看板やブランド、さらには創業者一族なんかも。
逆に上場廃止したり存続すら諦めて身売りしたり、
まあいろいろな方向に進んで、姿を変えていったものだった。

でも、そういうトコロまでの認識は霞ヶ関にあろうはずもなく、
かといって(政局しかアタマにない)永田町の連中にも期待できないし、
代議員を選んでいるはずの国民さえも、今は言うコトがバラバラだ。
社会の大半が、視野狭窄の状態に陥っているのかもしれないな。
目の前の問題を考えるのに精一杯で、対症療法から抜け出せない。
そのくせ「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のだからタチが悪い。

とはいえ、国民全員が一つにまとまったりしたら、
それはそれで怖いコトになったりするんだよね。
かつて、そんな時代もありました。
だからまあ、緩やかな衰亡の道を、
今は許容してもいいのかもしれん。
できるだけ回りに迷惑をかけないというコトだけは、学んだのだと思う。

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2008/06/22

正直者が馬鹿であることを見ておいてもいいんじゃないかな

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世の中たいがい、「正直者が馬鹿を見る」ものだ。
日本社会の中の人とか、国際社会の中の日本とか。

たいていそれは周囲の認知が得られずに苦労してるのだ。
だからできることなら自らの活動を知らしめたいトコロ。

他の連中が、もっと積極的にアピールしてるもんだから、
それに埋もれてしまうようでは認知してもらえないから。

しかし正直者であるコトを上手に宣伝するのは難しい。
しかも下手にやってしまえばパラドクスに陥るばかり。

とはいえ正直者でない連中が常に有利というのでは、
どうにもヒトの世の中の先は真っ暗のようではある。

なればこそヒトの中にはアピールの下手な正直者がいて
狡猾な連中が跋扈する時代に飽きたときだけ注目される。

たまにではあるが、いずれきっと認知される
だろうと思い続けていられるのも正直者ゆえ。

ていうか、永田町の中の政党政治だけは、正直者が
いない世界だなと思うけれども、それは別のハナシ。

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2008/06/21

歩けるのだから、鼈でも

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同じ業界で10年あまり仕事をしてきているが、ようやく最近になって
「使える」ようになってきたという実感が湧いてきた。

けど、それでもなお、胸を張っていられるかどうか。
まだまだ、所詮は自己満足の域を脱していないと思うコトしきり。

特に、「仕事するなら、やりたいコトをしたらいいよ」と、
この仕事に就くことを後押ししてくれた妻に対しては。

きっと、もっと「やりたいコト」はあるはずだ。
今の仕事がいけないというのではない。

仕事の内容そのものは、「やりたいコト」に近いのだ。
それゆえに、転職を繰り返して自営に落ち着いてもなお続いている。

ただ、その中で、今の分野に居続けるのではなく、重心を
少しばかり移して、もっと広く、深く、やっていきたい。

ビジネス的な視点で云々、と書いておきながら、しかし
「自ら楽しめなければ続かない」と強く実感する。

見上げた月に手は届かないけれども、それを認識してもなお、
月に向かって歩き続けるコトはできるんだよね。

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2008/06/20

今日、幾らでも

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バス停のベンチに座っていた若い男が、何かの本を熱心に読んでいた。
システム設計だの、Webアプリケーション開発だのといった文字が見える。
彼がどういう方向性を持っているのかは分からないが、いわゆるIT系の
仕事に就いているか、これから就こうとしているトコロなのであろう。
そして、学生時代に遊び感覚で身に付けたスキルを活かして仕事をしよう
といった考えで、この分野に入っていこうとしているのかもしれない。

ビジネスの文脈で物事を考えるコトは知的好奇心を刺激してくれる。
そこに気付き、そういう考え方が身に付くまでは時間がかかる。
そうなるまでは、仕事も遊びの延長だ。客の要求に納得できず腐ったり、
あるいは休日や深夜まで使い手当を拒否してでも趣味的要素に走る者もいよう。
でもそれでは長続きしない。前者であれば、やる気は早々に失われるし、
後者では身体も精神も持たず自滅してしまうのではないだろうか。

そうやって、潰れて業界を去っていった若い連中は、きっと数知れない。
昔から、そいうハナシは、それこそ無数にあったものと思うのだけれども、
ただでさえ昨今の企業はヒトに優しくなくて鋭利なもんだから、特に。
いろいろ考えてみると、社会に出る前の学校教育が、社会の実状に
合わないモノとなってきているのではないかという気がしてくる。
ギャップが大きくなってきたトコロに社会的な不況が加わって今に至る、と。

教育というのは、まず「読み書き算盤」が基本にあるものだと思う。
社会や経済の、さまざまな制度の中で生きていくための最低限の知識だ。
家族や親族、近所付き合いなどの、多様なスケールの小さな社会が
しっかり存在していた時代には、そういうトコロから社会の中での
立ち位置を考える習慣が身に付いて、ヒトは生きてゆけたのだろう。
今は、小さなヒト集団が薄れて、大きな社会の中でみんな孤独だ。

となれば学校教育が、そのあたりを担う必要があるのかもしれない。
あるいは、これまでとは違ったカタチの小さなヒト集団を新たに作って
そこで自然に学べるようにしていかねばならないのかもしれない。
新たな形態のヒト集団としては、ネット上のコミュニティなんてのも
あるにはあるが、しかし文字が主体であるせいか齟齬も頻繁に見られる。
なかなか難しいものである。が、このあたりは考え続けねばなるまい。

また、社会人というのは社会の中で仕事をして役立っていくのだから、
自らがどのように役立って、どのように生計を立てていくのかといった
ビジネス的な視点も持っておくコトが望ましい。
ある種のゲームなども、そういうトコロに役立つかもしれないが、
まあ知的好奇心の延長線上でビジネス的な考え方を身に付けてもらう
というのは、学校教育の中でも工夫をすればできそうな気がする。

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2008/06/19

たまには時事ネタ(19) テンポライアンス

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NHK職員によるインサイダー取引発覚を受けて、
第三者委員会が調査のためにヒアリングしたところ、
実行した職員たちには「何ら葛藤があったワケではない」
といった回答をしていたのだそうだ。
そうか、普通に普通のヒトビトが働いてるんだな。
と実感した。最近の、普通の、ヒトが。

昔、とある業界紙の元編集長と言葉を交わしたコトがある。
彼は、かつての部下が、自らの取材先の株式を保有し、
それによって儲けたと分かったために処分したという。
あの頃は、そんなケースは限られた事例であったのでは
ないかと思うのだけれども、しかしコレ自体は、昨今の
現象に先立つ、ある意味での兆候だったのではないか。

内部的に処分したものの対外的には公表しなかった元編集長氏
や業界紙発行元の対応は、今の感覚で言えば責めるべきだろう。
しかし当時としては精一杯の判断だったと言えるのではないか。
記者がインサイダー取引を行ったなどと公開すれば
媒体そのものの存続に関わると危惧されたはずだ。
だから企業は、内部的な問題を公表したがらなかった。

他の媒体でも普通のヒトビトが勤務していたし、
企業の体質そのものも普通の会社と違わなかっただけのこと。
そういう事例が実は様々な媒体の中で目立たぬままに蓄積を続け、
終いには隠しきれなくなって大量に漏れ出してきた。
体質変化は少しずつではあるが着実に進んでいって、
症状が現れたときには、しばしば手遅れとなっている。

まるで生活習慣病の如く、だ。
しかもそれは特定企業組織団体個人というワケではなくて、
日本社会全体でのコトである。
いまや、鉤括弧付きのcomplianceなどでは、もう間に合うまい。
多くの企業や組織において、おそらく対症療法も必要だし、
根本的な体質改善のために生活を抜本的に変える必要がある。

それは公共性の高いとされる組織や団体はもちろんのコト、
単なる私企業、家庭、個人にいたるまで、関係している。
だから誰も彼もが、それを避けては通れまい。
まあ致し方ない。誰も彼もが、程度こそ個々人で異なるとはいえ
これまでの蓄積を経済的な繁栄として享受してきたのだから、
全体の一部という意識を持って、少しばかり手伝っとかんとな。

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2008/06/18

たまには時事ネタ(18) 未だに言うコトがあるのではないか?

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あのような凶悪事件報道においてオタク趣味ばかりが悪者にされていくのは
いささか行き過ぎのように思えて、見るに堪えない。
ペンは剣より強いというが、強すぎるのもまた困りもの。
いや、今の大手メディアなどは中身のなさに比して影響力が強すぎる。

悲惨さや残酷さばかりが強調され像が酷く歪んだような安易な報道に
影響されて動くヒトが、あまりに多すぎるのかもしれない。
さらには、そんな報道内容を世論の大勢であると見倣して拙速に対処
してしまうような連中が司法立法行政の内部に多すぎるのかもしれない。

あの行為と結果は、多くの人が死刑に相当すると判断することだろう。
そんな凶悪犯罪に対して死刑を執行するのは確かに法の厳正なる執行だ。
また、犯人が現世から去って胸を撫で下ろしたという人も少なくないだろう。
しかし死刑囚と同時に真相もまた、あの世に葬り去ったとも言える。

彼らをして凶悪犯罪に走らせた社会的要因に関しても明白にされぬままであり
もしかしたら続々と同様の犯罪者が登場してくる可能性だってあるワケだ。
社会にも何らかの問題があるような気がしている人は多いはずだけれども、
社会の仕組みには、それを見ずに流すという自縄作用があるのかもしれない。

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2008/06/17

たまには時事ネタ(17) ちょっとどころではなく、良くない予感

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インターネット上の犯行予告に対して警察が動く。
そのコト自体は直近の事件を受けて当然の対応と言えるが、
まあしかし実態は“便所の落書き”に過ぎないのが大半のはず。

大きな事件の直後における世論の後押しを受けての活動は、
しばしば激しい反動となり、大きな弊害も伴うコトが多い。
せめてそれが過剰にならぬよう願うばかりである。

ナイフやらゲームやらアニメやらラノベやら、そういった
“実用性に乏しい”とされるオタク的趣味嗜好にしても、
偏見に満ちた考え方が広まるばかりで、やはり懸念は大きい。

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2008/06/16

所持品紹介(15) 互換機という選択肢

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ライカ互換のレンジファインダー型デジカメに非ライカレンズを
組み合わせて3年あまり使ってきた。ライカのレンズは持ってない。
最近ではそれにニコン互換マウントの一眼レフと非ニコンレンズの
組み合わせが加わっている。こちらはニコン純正レンズもあるが。
気付けば互換機システムで揃ってしまっているのが現状だ。

「NECは高いからEPSON」(←古い)とか「MSが嫌いだからOSS」とか
「連立与党が嫌だから(略)」といった考えが特にあったワケではない。
むしろ「ドコモやauよりも尖った端末が出てるのでソフトバンク」
というくらいだろう。それさえも明確に意図していたワケではないが、
レンズ交換式デジカメでは大手でないものの特徴的なボディだから。

ライカのレンジファインダー用レンズマウントは歴史が長いだけに
デファクトスタンダードと化しているし、ニコンのレンズマウント
はデジタル一眼レフが登場し始めた頃からフィルムメーカーへの
ライセンス提供が開始されたのか互換機が今でも作られている。
そんな互換機は、本家とは違った独特の特徴付けがあって面白い。

デジタルながらアナログ操作を徹底しているレンジファインダーは
電気で駆動するのは針式の表示窓だけなのでシャッターチャージも
手でやらないといけないし、外部接続端子もシンクロ接点のみ。
撮影するとはどういうコトなのかを常に意識させてくれる機材だ。
仕事で使うには向かず、撮影する行為自体を堪能するためのもの。

一方の一眼デジも、他社にない特徴的な撮像素子を採用した機種。
記録画素数やダイナミックレンジを大幅に高めた一方で、最短撮影
間隔は0.4~1.0秒と非常に遅い。処理に時間を要しているらしい。
同時期の製品と比較すれば「連写速度を犠牲にして画質を高めた」
という姿勢が明確に見てとれる仕様だ。

カメラ関連機材に求めるのは「撮りたいように撮れるかどうか」。
それは誰でも同じだと思うけれども、意味するトコロは人それぞれ。
見たままを記録したいという直球勝負の人は恐らく多いだろうけど
逆に撮影する行為や撮影後の処理なども含めて「撮りたいように」
と考える人もまた決して少なくないはず。

どちらかというと後者の方の性質なので、いろいろ癖のある機材を
組み合わせて使いこなすコトもカメラの楽しみの一つとなっている。
その考え方が結局、こんな機材の選択にも表れているのだろう。
まあ楽しんだ上でも、それなりに撮れてるからいいんだよ。
当然のコトながら、あくまでも「それなり」でしかないのだけれども。

互換機といえば、レンズやスピードライトではアダプタ式もあった。
代表的なのは、サンパックのDXシューとタムロンのアダプトール。
「この2種類のアダプターは一通り揃えておきたいよね」などと、
以前どこかの中古カメラ店の店員と話をしたコトがあったっけ。
しかしどちらも今ではディスコンで中古市場に少数出回るのみ。

一眼レフのAF化が進んでレンズに電気接点がつくようになると、
アダプトールのような仕掛けでは対応が難しくなったらしく
タムロンも各マウントごとに別の商品として出すようになった。
サンパックもデジタル一眼レフ時代になってDXシューをやめた。
同じく電気信号の対応やプリ発光制御が困難だったと思われる。

Metzは今でも交換式シューで最新モデルに対応し続けているので
今後はこれに乗り換えていこうかなどと企んでいるけれども、
値段がちょっと高いので二の足を踏んでいるトコロではある。
複数メーカーで純正の最新スピードライトを揃えるよりは安いから
あと2~3社のボディを追加するようなら買ってやろうかね。

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2008/06/15

所持品紹介(14) 安いペンもスキな先生ー

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立ったままメモを取るとき、
最近ではフルキーつきPDAを取り出して書いている。
しかし、ちょっと前までは、手書きが主だった。

仕事で外出する際には常に持ち歩いていたノートPCが不調になって
デスクトップに移行したのと入れ違いにスマートフォンを買った、
そのあたりから、手書きのメモが徐々に減っていった気がする。

ブログの下書きや仕事のアイデアなどのメモを、
そういう携帯用電子機器で済ませるようにしたのだ。
まあ確かに、その後の融通は効くのだけれども。

以前、同じように常に小型コンピュータでメモを取る癖があった
頃はといえば、パソコン通信をしていた時期でもあった。
今にして思えば、やはり融通性を考えてのことだったのだろう。

でも、手書きは好きなのである。
万年筆も。安いペンも。毛筆とか鉛筆とかも。
字はそんなに綺麗な方じゃないけれど。

山吹色の軸に橙色の芯を入れたペンで、オレンジ色の表紙のメモ帳に
メモをするというスタイルだった時期もあったっけ。
どれも微妙に違う、同系色の色合いは、どこか趣があるのだな。

残念なコトに、その黄色のペンは先日どこかで紛失してしまった。
けど、こういう、ちょっとした色の違いなどを楽しむ要素は、
キーボードでは得られないので、また違うペンで楽しむとする。

あー、でもやっぱり、なくしてしまったモノは、惜しかった。
もしどこかからひょっこりと現れたりしたら、
きっととても嬉しいのだけれど。

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2008/06/14

所持品紹介(13) 白か黒かの鍵盤

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20年以上も昔、生まれて初めて触ったPCというものは、
ずいぶんと上等な感触のキーボードだったように記憶している。
当時、パソコンといえば知識階級の証のようなものだった(たぶん)。
なので、周辺機器なども、それなりにコストのかかった品だった。

所持するコト自体にも満足感が得られるような、とまで言ってしまうと
さすがに言い過ぎだろうが、その後の20年間で大幅にコストダウンされ
続けたはずだから、今の基準でみれば決して安い作りではなかったはず。
そして今に至るまで、PC本体の処理能力やディスプレイの
表示能力などは低レベルの機種ばかり使ってきたものだが、
入力環境だけは妙に凝り続けている。

ポインティングデバイスも数多く集めているが、
中でもキーボードなら、たぶん30枚くらいはあるだろう。
それも、ほとんどはヘビーユーザー向けのもので、
多くは1枚あたり1万数千円、たまに2万円を越える。
これほどカネをかけてしまうのは、今でもなお昔の
あのキーボードの感触を忘れられないせいなのかもしれない。

それこそまさに古い設計のキーボードを発掘していた時期もある。
電気街の数々の店を巡っては、中古、新古を問わず買い漁ったりした。
今ほどコストダウンされていなかった時代の品は、たしかに良いのだが、
最近のPCに接続できないようなモノまで集めてしまうので、今は打ち止め。
現状では、原則として新品のみ買うようにしている。

基本的な色としては白やベージュにライトグレー系、そして黒と、地味な色合い。
配列も日本語版か英語版か、というのもまあ大きな違いではないかもしれない。
でも使い込んでいくウチに、それぞれの微妙な違いが分かってくるし
タッチのちょっとした差なんかも、長時間使っていると大きな差が出てくる。
そうやって、接続インタフェースも対応機種も様々な品をいろいろと試しつつ、
せめてできるだけストレスなく入力できそうなモノを使うようにしてきた。

ただし手を出していない分野が2つほど。

まず、マルチメディア機能などの付加機能は、どうせほとんど使わないし
むしろ邪魔な気がするので、それを持たない製品を基本的に選んでいる。
最近では、利便性を考えて無線キーボードを買ったけれども、
ワイヤレス化された以外は、ごく普通の配列の製品である。

また、エルゴノ的なヤツは手の移動を少なくする目的で作られているはずだが、
手があんまり大きくないので、やはり動かさざるを得ないのが実状。
だから意味がないと考え、たまに気まぐれで店頭の展示品を触るのみ。
この指がもっと長かったなら、試していたかもしれないが。

余談だが、一般的にキーボードってのは「フリーサイズ」である。
手の小さな人のために、普通より一回り小さなピッチのキーボードが
あっても良さそうなのだけど、そういうのは省スペース型ばかりで
薄型になっているからストロークも薄っぺらい。
タッチを気にしないなら、それでもいいのかもしれないけれど。

逆に、フルストロークでタッチの良い製品を探してみれば、
どれも全く同じピッチで作られていて、そこに選択の余地はない。
海外では子供向けに小ピッチながらフルストロークのキーボードがあって、
たまたま電気街で売られているのを見掛けて買ってみたものの、
コイツはかなり配列に癖があって、結局は使わなくなってしまった。
ピッチもタッチも良かったので、配列の選択肢があればいいのだが。

そんなこんなで、タッチなどの好みは時代によって少しずつ違ってきているが、
おおむねフルストロークのキーを好んで使ってきた。
そして、基本配列は英語版が中心。これらは、かなり昔からの好みである。
なにせ昔は、ロクに日本語も使えない代わりに手抜きをしていないような
キーボードを使ってきたのだ。今でもそこから離れられないのだろう。

ノートPCを使っていた頃も、可能なら英語版キーボードに取り替えていたし、
日本語キーボードのみの機種であっても英語版ドライバに入れ替えたりした。
自宅などで外部に英語版キーボードを接続するコトが多かったし、
たまに本体のキーボードを使う際には記号の配置を覚えていたので
こんな使い方でも大きな不便はなかった。

むしろ、日頃から配列やタッチの異なる数種類のキーボードを用意しておいて、
それらを気分によって使い分けたりしているから、
若干の配列の違いは気にする間もなく吸収してしまうようである。
(なお、それらを頻繁に取り替えるときは無意識下で気分転換を求めている。
すなわち、ほぼ確実に仕事に煮詰まっている状態だったりするのである)

たとえば左ctrlキーはモノによって最下段であったり下から3段目であったり、
EnterやBackspace、Esc、[`]などの位置や大きさも様々だし、
テンキーも、あれば使うがなければ使わない(当然だ)。
中には矢印キーが[Fn]とのコンビネーション入力、というヤツもある。
それでも、取り替えて使っていれば、すぐアタマが切り替わって
ほとんど意識しなくても間違えずに入力できるようになっている。

キー配列に加えて、ローマ字の癖も、かなりある。
産地である「阿波・徳島」を略したとも言われる国産日本語入力ソフトは、
最近になって某OSが標準搭載する日本語入力エンジンを日本以外の国で
開発するようにしたというコトで逆に注目を集めるようになったものだが、
それをずいぶん古いバージョンから何世代にも渡って使っており、
10年あまり前に決めた独自のローマ字変換テーブルを代々引き継いでいる。
これは、ヘボン式をベースとしつつ、外来語(主に英語)を原文の綴りに
より近いキーストロークで入力できるよう、いろいろと手を加えたものだ。

たとえば「ち」は「chi」と打ち込む。「ti」と入力したら「てぃ」になる。
「di」は「でぃ」となり、「ぢ」は「dji」で出す。
また、一般的には「l+母音」を入力すると「ぁぃぅぇぉ」となるようだが、
それらは全て「ら行」に割り当てている。LとRは区別したいもんな。
そこで、小さな「あ行」は、「x」をつけるか[SHIFT]と同時押しとした。
単独で出すコトがほとんどないから、これでいい。

こんなふうにしているので、PCを他人には貸すコトもほとんどない。
もし貸したら、たぶん入力に困ってしまうんじゃないだろうか。
また、逆に他人のPCを借りるコトもあんまりない。
けど、最近はPDA版の阿波・徳島を使うようになったので
まあ「一般的なローマ字変換テーブル」にも慣れてきたかな。

だから、徐々にこだわりは薄れてきているのだと思う。
とはいえ、やはり未だに、昔のあのタッチが忘れられないし
PDA版だと変換ミスが増えてるのだが見落としも多くて困る。

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2008/06/13

たまには時事ネタ(16) 名物オヤジのいない街

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先週、「電気街の名物オヤジ」が亡くなったという。
64歳。案外、若かった。もっと老けてると思っていた。
よく店のマシンでソリティアをしていた姿を思い出す。

オヤジが開いた店は、今はオンラインに行ってしまったが、
その窓からは、今は同じくシャッターの降りてしまった
大型店の店頭がよく見えたものだ。

新発売OSの深夜カウントダウンの人混みを見下ろしつつ、
別のOSの関係者を集めて酒盛りをしたコトもあったっけ。
そういう、ある種の身内の悪ふざけも、また楽しかった。

最近、あの街は再開発だの何だので、ずいぶんと変わった。
数年ほどからは、表通りの店もずいぶん入れ替わっていたし、
かつて同じ街を巡回していた連中も、かなり去ったようだ。

このところ、あの街に行くコトも、めっきり減ったよ。
たまに行っても、ほとんど裏通りしか通ってないや。
おやっさんの店のトコロから入ったあたりの部品屋の並びとかね。

おやっさんは見てたかい?
表通りじゃ、日曜のホコ天で酷い事件が起きたってさ。
よりによって、あの街を選んで事件を起こすなんて。

「ここは僕の夢のおもちゃ箱」と明和電機が歌ったような、
ああいう時代は、もう戻ってこないような気がするよ。
おやっさんは、まさに時代と一緒に逝っちまったのか。

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2008/06/12

いずれにせよ間違いが含まれるコトは間違いない

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仮説検証の際、「仮説は間違っていても構わない」という
心掛けで考えるように、とかいうハナシをどこかで読んだ。

まあそうだ。どうせヒトの考えるコトですから。
間違いが含まれていて当然。というか、ないはずがない。

むしろ、あるという前提で間違いを検証しましょう、ってのが
仮説検証の基本的な考え方なのではないかと思うのだな。

そうやって、間違いを見付けては正すという習慣を身に付けて
仮説でないモノゴトに対しても活用していきたいもんだ。

何をしても変わらないと思われてしまいがちな社会制度とか
しばしば自己欺瞞で間違いを隠蔽しようとする自分自身とか。

間違いが存在するコト自体、そりゃぁ残念だし問題ではあるけれど、
せめてそれに気付いて直せるのなら、まだ救いがあるのではないか。

そうしてさえ、報われないコトはあるのだけれども、
そうしなければ何にしても無駄に報われぬままだから。

もちろん、そこで修正を加えてもなお、まだいずれ間違いは
見つかってくることだろう。でもそれもまた直せ。せめて。

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2008/06/11

ヒトであるがゆえの不治憂

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残念ながらヒトである以上、たいていの場合は
欲望やら欲求といったものから逃れようがない。
しばしば、それが満たされずに苦悩したりする。
あるいは、それが発端となって問題に陥ったり。

そこから逃げるのも駄目なら隠すのもまた困難。
もちろん「なかったこと」にもできようがない。
そこでちょいとばかり計略を巡らせて回避する。
たとえば代替案で自分のアタマを騙してみたり。

それでもなおトラブルが生じたりするようなら、
そりゃ自らの力不足を嘆く以外なにもできまい。
隠すにしろ代替案で回避するにしろ努力不足が
招いた結果を重く受け止め次の失敗を防ぐのだ。

とはいえ、このような対策は自らの欲に限らず、
社会全体に視野を広げていく必要がありそうだ。
自らの欲求が招いた失敗は自業自得であろうが、
他者の欲望に巻き込まれた者の救済は欠かせない。

個体生存や種の保存に不可欠ではあるけれど厄介な存在。
それはヒトの一部なのだからヒトが制御せねばならん。
個人としては勿論、社会全体としても。
そのための取り組みは、ヒトがヒトである限り続く。

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2008/06/10

理系用語で読み解く社会(26) ヒトの中での複雑な処理における権限昇格の脆弱性

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バックドアとかトロイの木馬とかスパムとかウイルスとかワームとか
ボットとかフィッシングとか、さまざまな攻撃手法や脆弱性など、
そういう情報セキュリティのリスクをヒトになぞらえて書いてみる。

検索してみたら「DoS攻撃」的な表現は存在したけど、
想定されるケースとしては……無言電話みたいなもんか!?
直に接するパターンであれば、まあ陰湿な対応になりそうだ。

さらにDDoSとなると、そりゃきっとかなりのイジメだったり、
企業相手であれば悪質な業務妨害てコトになるのではないか。
数を頼んでの行動は、いずれにせよあまりお勧めできない。

「対人バッファオーバーフロー攻撃」となると、シゴキとか。
ひたすら罵声を浴びせ続けて思考停止に陥らせるような感じで。
洗脳するための手法にも似たようなのがあったような気がする。

「組織内における権限昇格の脆弱性」
こりゃアレだな、上長が捺すべきハンコを部下にやらせてしまったりして、
部下が使い込みをしても気付かなかったりするような、そんな感じ。

逆もある。会社を代表しているかのような活動をしているウチに、
いつの間にか「自分がいなければ仕事が回らない」なんて感覚に
陥ったりしてしまうようなケースも、ままあるコトだ。

まあもっと狭いハナシとしては、家庭内の権限昇格の脆弱性であったり
個人の中での権限昇格の脆弱性なんてのも、だいたい推して知るべしで。
社会プルーフされていないヒトでは、そういう脆弱性も多くなりがち。

だが言うまでもなく、それは傲慢の罪の入り口に立っている。
自身の存在が大切であると思いたい、思われたいという気持ちは
基本的に誰にでもあるが、その気持ちが実態と乖離しては良くない。

結局、最後は、ひょんなコトで躓いて、転んでしまったりする。
それに関して周囲に対しても自分自身に対しても腹を立てたりして、
余計に悪い方向へ自らを向ける結果になるケースも少なくない。

落魄れて嘆くくらいなら、最初から驕らなければ良いのにとは思う。
けれどもヒトってのは、そういうイキモノなワケで、
実際のトコロ、確実な対策なんてのも存在しないのだよね。

無数のヒト対ヒトのコミュニケーションの中では、
恒久的なセキュリティパッチなど作りようもないし、
ファイアウォールやIPSなんか、まずもって無理なんだから。

……とは、思い上がった挙句の末に躓いて嘆いたりするたびに思い知らされるコト。

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2008/06/09

ニッチなのは生けないと思います

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「中流」という、本来は不安定極まりない基盤がいよいよ
完全に失われようとしている現在だからこそ、人々の多くは
それを名残惜しむかの如く多数派に集まってくるのだろう。

中流ってのは、一国が長期的に右肩上がりの安定成長を続けて、
その国が他を下敷きにして世界の中で上層に向かうような、
ある種の高揚感が伴う時代に特有のドメスティックな共同幻想だ。

というより、卵が先か鶏が先かというだけの問題で、実は
共同幻想を持つ中流の存在と国の成長とは密接に関連しており
中流こそが国の成長を支えているとも言えるのではある。

まあそれはともかく、さすがにそれは失われつつある中で、
しかし時代の変化ほどにはヒトの気持ちの変化は早くないから、
半ば無意識のウチに、幻想の残照に引き寄せられるのかもしれない。

しかしそれは、しばしば集団絶滅に結びつく。
ある集団が、環境変化の激しい中で生き残りを図るのであれば、
むしろ積極的に多様化して多彩な条件での生存に適応すべき。

とはいえ多様性の拡大は、かつて多様性が限られていた時代に
適応した人たちがそれに対応しきれず混乱を来す。
それで何を言い出すか。「規制」「罰則強化」「フィルタ」……。

だからヒトは全体としてみれば、もともと多様性を狭める
方向性を持った存在であるのだと言わざるを得ない。

まあ中流幻想そのものが、やはり内向きベクトルなんだけどね。
そういう意味では、とても日本的な考え方なのかもしれない。

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2008/06/08

人気(にんき)があるトコロにのみ人気(ひとけ)がある

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「番付」が流行するのは社会が急激に動いている時代か。
社会が激動する中において自分たちの認識・感覚を確かめようとして
庶民が求めるもの、と考えて差し支えないのではないかと。

「常識」を持ち続けていたいというのが庶民の心理。
「常識」を持っているとして安心したいのである。
その証拠として最近では、数字が独走している。

他の多くの無名の人々と共通した認識を持っているコトを
確認し合う機会が得られるのは、同じ社会に暮らしていると
認め合うための重要な行為。

地殻変動が続く社会階層の中で自分がどこにいるのかを
確認できる指標がほしいという自然な要求に応じたのが、
番付やらランキングやら星印やら検索結果のリストやら。

多くのヒトビトが「常識」を必死に求めるあまりに、
そのあたりの比重は急激に高まり、それによって沈む。
その共同幻想に群がるほぼ全体が。

よほどのコトがなければ比重の軽いトコロには入れない。
一方でニッチは、ほぼ真空状態で、そこにも生きづらい。
だから余計に、みんな誘蛾灯を探して集まる。

ごく限られた勝者と大多数の敗者という構図。
格差の拡大によって嘆くのは、その大多数である。
自業自得と言うには、あまりに悲しく、そして情けない。

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2008/06/07

ヒトのココロの中って建て付けが悪いもんだから、困る。

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外で雨が降れば雨漏りがするし、
風が強くなれば隙間風は吹くし、
戸締まりもロクにできやしない。

ときたま気付かぬウチに誰かが入り込んできて
居座って、それでいつしか住みついたりしてて、
相手によっては、ずいぶんと困ったコトになる。

外でワイワイガヤガヤ喧しい日など、それが
中に入ってこなくたって落ち着かないワケで、
それこそ静かにしてくれと怒鳴りたくもなる。

どうしても消えないキモチがあって、それを
どうにかして隠しておこうとしたって、すぐ
チョコチョコとアタマを出してきたりもする。

でもね、外で日が照れば中も暖かくなる。
隙間から漏れる風も涼しければ心地良い。

外で誰かが助けを求めていたりすれば、
その人を中に入れて匿うコトもできる。

どうしても消えない、苦くて渋いキモチだって、
放っておくと干物になってアクが抜けたりする。

これがまた、けっこう酷い味だったキモチでさえ
案外どうして旨く食えるようになったりするのさ。

してみると古い住宅みたいなもんかもしれん。
今度ちょいとキモチの漬物でも試してみるか。

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2008/06/06

メメントもりもり

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生きるために食うのもいいし
食うために生きるのもいいさ

でも、死ぬから食うのだ
だって食っても死ぬのだ

死んだモノが胃袋に入って栄養になる
なら死んだら誰かの栄養になればいい

そうして何でもかんでも身の内に取り込み
かつて生きていたモノと一緒に生き続ける

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2008/06/05

出張旅行記(19) こだまが帰ってくる限り(echoes the town of silence)

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ここ数カ月くらい、出張といえば愛知県が妙に多い。
それから、静岡県内も少しあった。
先日は豊橋を訪れて、いよいよ東海道新幹線で使ったコトのない駅は、
三島、熱海、掛川の3つのみとなってしまった。
他のほとんどの駅には、仕事で訪れた。

しかしそれにしても、東海道は古くから物流の大動脈として
発達してきたルートではあるものの、最近では交通が発達
しすぎたせいか、東名阪の三大都市圏への集中が進んだせいか、
「途中」は、ずいぶん抜けてきたように思う。

「こだま」がホームで待つ傍ら、「のぞみ」が通過する。
上空では旅客機も通過していく。
それでもなお駅のリニューアル工事が行われていたりするのは、
街の玄関口という位置付けだからか。

閑静な駅前ロータリーから見上げた雲は、
捕らえ所なく形を変え続けていた。

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2008/06/04

難解なのは、何かいゃだよね

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ダラダラ歩くのは嫌だ。というか、できない。
かといってセカセカ歩くのも好きではない。
キビキビした歩き方、ならまだマシだけど。
颯爽としてしまうと、それは違う気がする。

もちろんキョロキョロオドオドしたのも頂けない。
堂々と、というのも偉そうで良くない。
悠然と、とか飄々と、といった雰囲気がいいな。
言葉で表すならヘロヘロと、……いやそれも違う。

カンタンだと一般に思われているようなコトをムズカシく考え、
そしてまたカンタンなコトバで書き表す、これがなかなかムズカシイ。
けど、そのような行ったり来たりの思考の過程が、やってみると
いろいろ発見するトコロもあったりするし、挑戦しがいがある。

本当は、あんまり考えを捏ねくり回すのが好きじゃないのだ。
もちろん得意でもなんでもない。むしろ昔から理屈は苦手である。
歩き方と同じ。ダラダラもセカセカも好きじゃない。
本当のトコロを言うと、ただ、呼吸するかのように思考したいだけ。

だのにそうなるためには常日頃から絶え間なく試考し続けて
ありとあらゆる思考ルートを低抵抗な状態にせねばならず
目下のトコロでは新たなルートを探すための思考ルートを
どこまで束縛なく巡り続けられるかという挑戦になりつつある。

ルート探索だけでなく、そこに並行して走っているプロセスもある。
たとえば、辿った思考ルートのシーケンシャルなログ化とか、
後で再び辿れるようにするためのルート補強工作のような、
いわば後処理プロセスに若干の思考能力を割くように勤めている。

特に夢で見た情景などを確実な記憶に留めるためには
しっかりした補強工作が不可欠だが、迅速に処理すれば、かなりsaveできる。
さらに随時、脳内に残したログを分析、論理化などの処理を行って
こうして文章に起こしていくというワケだ。

このブログに書いている文章などは、
どちらかというと生ログに近い形態であるから、
筆者の思考ルートを追体験していく、
いわば論文の追試を行うような読み方が適しているはず。

反面、たしかに読み解く上では相当な努力や若干のコツが
必要になるとは思うけれども、ある程度読めるようになれば、
そして幾つかのパターンを読み込んでいけば、
次第に新たな思考ルートが見えてくるのではないかと思う。

……たぶん。

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2008/06/03

半生紀(19) 時代とともにきたり、時代とともにほろぶべし

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「ネットに対してカネを払うのは有り得ないコト。
Googleなどを見れば分かる。情報を取りに行く側の力が必要」
と、ある年配の雑誌編集者は言う。

ネットが大衆化してきた今の平成の時代は、
新聞やラジオが大衆化した大正~昭和時代と
どこか類似した面も多いのではないかと思う。

活字媒体などは常に大衆化していく方向にあり、メディアは変わる。
かつて書物もロクに手に入れられず大切に読んだ時代の人もいるが、
そういう人が「こんなハナシで文字にできますやら……」と語ったりする。

今では誰もが情報を即座に・世界中に発信できる環境にあって、
せいぜい壁といえば言語の壁くらいではないか。
それこそ日本中が一体となったパブリックスペースのようなもので。

そんな広大な公共空間の中では何を叫ぼうが、
邪魔だと思う人にとっては迷惑なものでしかないし、
知りたいコトの答えを求めている人には届かない。

ヒト集団やその周囲の環境は明らかに変わり続けている。
変化し続ける状態を時系列で見ていけば、区切りも見えてくる。
それを時代と呼ぶのだろう。

これまでも時代とともに成長して暮らしてきたのだと、
最近になって実感するようになってきた気がする。
そしてこれからもずっと時代とともに生きていくのだ。

今という時間を常に大切にしながら、今後もずっとやっていこう。
と、そう思えるようになってきた。
それが、ここ何年かの思考を積み重ねた挙句の、当座の結論。だ。

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2008/06/02

科学系ヨタ話(7)  失敗ガックリするより先に考えろ

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先日、また失敗学に関連する講演を聞いてきた。
やはり、いろいろと応用できる考え方である。

関連する言葉も、数多くある。
「木を見て森を見ず、では良くない」だとか、
「虫の目と鳥の目の両方の視点を持て」だとか、
いろいろな言い方はあるが、いずれも全体の中に
部分を位置付けて考えるコトの重要さを語っている。

しかし、他人から与えられた地図の上での位置関係では
どうにも実感が湧かないのが普通の人間であるはず。
実感が湧くまでになろうとすれば、
それこそ自分自身で地図を描けるくらいに
ならねばならないのだと思う。
となると、自ら足を運んで見て聞いて調べて考え、
しっかり理解した上でなければ難しい。

だから、古老は皆、若者よ見聞せよという。
「可愛い子には旅をさせろ」てなワケだ。

しかし、そのコトに自発的に気付かない相手に対し、
そういうコトをきちんと教えるには、どうしたらいいのか。
単に大切だと言い続けていても効果は期待できないし
むしろうんざりされてしまうばかりであろう。

さりとて、自ら調べて地図を描けと指示したところで、
「地図を作るコト」自体が目的化されてしまうのではないか。
今の日本人は、意味を考えるコトが少ないと思うので余計に。

そういう習慣を、あるいはその種を蒔くのは、
もっと小さな頃でなければ難しいように思う。
ああ、結局は義務教育や家庭教育の問題になってしまいそうだ。
でも教育についての批判をしたいのではない。
より良い教育方法を考えているだけのことで。

しかし、ちょっと寄り道したくなった。
そういう教育内容にしてしまった社会的背景にも目を向けたい。
でも、「そうよ社会が悪いのよ」みたいな、
そんな気楽に無神経な切り捨て方をするのでなく。

失敗学的には、
いろいろな階層で失敗の原因を考えていくことが重要だ。
まあしかし、このブログは失敗学の講義をするためのものでは
ないのだから、そのあたりは基本から外れても構うまい。
だから誰でもが簡単に追求できそうなトコロは放置して、
もっと先に進んでしまおう。

よく言われるコトだが、失敗を恐れていては先に進めない。
それは裏返してみれば、「先に進むなら失敗もあり得ると思え」
という意味でもある。「あり得ないコトなんてない」のだから。
マーフィー則なども、「失敗する可能性のある行為は失敗する」
という大意においては失敗学と通じるトコロがあると思う。

そりゃあ、失敗によって失われたモノゴトが大きければ
どうしたって嘆きたくもなるもんだけれども、
しかしそのままでは、先に進むコトなどできやしない。

もし目論見外れて挑戦に失敗したとしても、
その原因を突き止めて次の挑戦に結びつけていく覚悟がなければ、
進む先に見え隠れするさまざまな未知の事象に対する責任など、
果たすコトはできないのではないか。

ヒトは現実世界に対して想像を巡らした上で働きかけるが、
自らの意思に反して変化を続ける現状を、しばしば見失う。
もともと、想定や行動など不完全なものであるというのに。

そういう矛盾が、しかしヒトゆえに、興味深い模様も描き出す。

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2008/06/01

「そんなコトはあり得ない」なんて、あり得ない。あるいは、「あり得ないコト」なんて、ない。

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ヒトは法律によってのみ生きているワケではない。
法律よりも、国家なんかよりも先に、ヒトというのは存在してきた。
法律あっての、国家あってのヒトじゃないので、そこはお間違えなく。

たとえば、いわゆる「民法の離婚後300日規定」の影響で無戸籍となった
子供たちは、「法律上、存在しないことになっている」というだけの理由で
他の子供たちと同じようには扱ってもらえない、という現実がある。

この問題、取り沙汰されるようになってから久しいと思っていたのだけど、
一部の法令の運用変更が行われたものの、相変わらず救済されないままの
子供たちがあまりに多いのだと、最近また報道されていて無関心を反省した。

法令の運用を考える連中が、実態をあまりに知らないせいもあるらしい。
たとえば「調停すればいい」という措置では、離婚するケースの一部しか
カバーできないのだと気付かなかった、というのが実態のようだ。

この問題、たしかに一面では法律上の問題ではあるが、しかし家族に関わる
内容だけに、ヒトの気持ちの問題という側面も、また非常に強いものである。
その視点も含めて柔軟な運用を考え出すべきなのだ、皆で。

それにしても、やれやれである。

ヒトが作ったナニかでヒトが困ってしまうような自縄自縛的トラブルってのは
ヒトにとってよくある「よくないコト」の代表例とも言えるんではないか。
そして、迅速かつ的確な対処ができなければ、必ず問題は拡大する。

しかし対処を遅らせてしまうのがまたヒトのヒトたるゆえんで。
政治家とか官僚とか企業トップなんかが「そんなコトはあり得ない」などと
インタビューに答えておいて、手が着けられなくなってから認めたりしてる。

困ったコトに、よくある「よくないコト」ばかりなのがヒトというものらしい。
でもって、その「よくないコト」の延長線上に、どうもナニやらキナ臭い気配が
漂いつつあるのだけど、それもまた「あり得ない」と言っていいのかどうか。

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