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2008/06/20

今日、幾らでも

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バス停のベンチに座っていた若い男が、何かの本を熱心に読んでいた。
システム設計だの、Webアプリケーション開発だのといった文字が見える。
彼がどういう方向性を持っているのかは分からないが、いわゆるIT系の
仕事に就いているか、これから就こうとしているトコロなのであろう。
そして、学生時代に遊び感覚で身に付けたスキルを活かして仕事をしよう
といった考えで、この分野に入っていこうとしているのかもしれない。

ビジネスの文脈で物事を考えるコトは知的好奇心を刺激してくれる。
そこに気付き、そういう考え方が身に付くまでは時間がかかる。
そうなるまでは、仕事も遊びの延長だ。客の要求に納得できず腐ったり、
あるいは休日や深夜まで使い手当を拒否してでも趣味的要素に走る者もいよう。
でもそれでは長続きしない。前者であれば、やる気は早々に失われるし、
後者では身体も精神も持たず自滅してしまうのではないだろうか。

そうやって、潰れて業界を去っていった若い連中は、きっと数知れない。
昔から、そいうハナシは、それこそ無数にあったものと思うのだけれども、
ただでさえ昨今の企業はヒトに優しくなくて鋭利なもんだから、特に。
いろいろ考えてみると、社会に出る前の学校教育が、社会の実状に
合わないモノとなってきているのではないかという気がしてくる。
ギャップが大きくなってきたトコロに社会的な不況が加わって今に至る、と。

教育というのは、まず「読み書き算盤」が基本にあるものだと思う。
社会や経済の、さまざまな制度の中で生きていくための最低限の知識だ。
家族や親族、近所付き合いなどの、多様なスケールの小さな社会が
しっかり存在していた時代には、そういうトコロから社会の中での
立ち位置を考える習慣が身に付いて、ヒトは生きてゆけたのだろう。
今は、小さなヒト集団が薄れて、大きな社会の中でみんな孤独だ。

となれば学校教育が、そのあたりを担う必要があるのかもしれない。
あるいは、これまでとは違ったカタチの小さなヒト集団を新たに作って
そこで自然に学べるようにしていかねばならないのかもしれない。
新たな形態のヒト集団としては、ネット上のコミュニティなんてのも
あるにはあるが、しかし文字が主体であるせいか齟齬も頻繁に見られる。
なかなか難しいものである。が、このあたりは考え続けねばなるまい。

また、社会人というのは社会の中で仕事をして役立っていくのだから、
自らがどのように役立って、どのように生計を立てていくのかといった
ビジネス的な視点も持っておくコトが望ましい。
ある種のゲームなども、そういうトコロに役立つかもしれないが、
まあ知的好奇心の延長線上でビジネス的な考え方を身に付けてもらう
というのは、学校教育の中でも工夫をすればできそうな気がする。

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