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2008年7月

2008.07.31

迷わず見ろよ、見ればわかるさ

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プライベートな悩みなど
小さいようで大きなものだが
大きいようで小さいものでもある
そんなのは捉える立場によりけりだから

意味などというものは所詮
あると思う人にとってはあって
ないと思う人にとってはない
以上でも以下でもなくてただそれだけ

大事なものを失った過去があるからこそ、とは言いたくないが
失った痛みを知っていると他人よりちょっとばかり
そのあたりの感覚は鋭敏になるらしいのだけれども
だからといって過敏になっていても生きてくには辛いばかり

オッサン的には、そんな涙も見せることなく
ただヘロヘロと生きていればいいのさ
幸か不幸か過去の時間に取り残されてしまったのだからせめて
過去にしかいない大切な人と共に見送っていこう

こうして流れゆく世の中と
未来へ向かう人たちを

そうしてこそ見えるコトも、
きっとあるだろうから
(少なくとも一人ではないのだから、
寂しく思う理由もないはずだし)

その先どうするかは、見ながら考えていってもいいし、
見えるようになってから考えてもいいし、
何れにせよ残りの人生を使って、
いろいろと考えてみるとしよう

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2008.07.30

苔生すとも、想いは消えず

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確かめようのないモノゴトなど、
世の中には掃いて捨てるほどある
というより、そっちの方が、きっと多い

経験則だが、いろいろな可能性を考えた上で
その中でも特に悪い方を想定しておいて
逆に他方で割と良い方を期待しておけば
さほど外れて困ったりすることはないものだ

幸せにそっぽを向かれてしまったような過去の痛い経験に関しても
弁解しようもないほど甲斐性なしだったと想定しておきつつ
大して長い期間ではなかったものの幸せに暮らせたものと期待しておく

だから重層的に積み重なって厚く堆積し圧縮されて
いつしか心の奥底に岩盤となって
さらにそこから次第に変成していく過去の時間を
悔いつつも恥じず悲しみつつも嘆かず、最期まで味わい尽くす所存

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2008.07.29

過去の時間は消えず、ただ流れゆくのみ

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既に何かに憑かれている者は、
他のモノに憑かれることは決してないのだと、
どこかで聞いた気がする。

だからその意味では、どこにも行くことはないのかもしれない。
あるいはもしかしたらいつの日にか過去の呪縛から逃れて
新しい世界へ入り込む機会があるのかもしれないが、知らぬ。

失われた過去に囚われているから駄目なのだとも言われるが、
いろいろな思いを割り切ったり諦めたりは、できない。
過去を振り返らないなんて、無理な相談だもの。

だいたいにしてヒトのキモチなんてのは、
そう簡単に割ったり切ったりできるもんじゃない。
ぐるぐると渦を巻いたりするのが自然なものだ。

だから割り切ったり吹っ切ったり断ち切ったりせず、
逆に結び付けたり縛り付けたりこじつけたりもせず、
風に吹かれ流水に流され日に晒されるままに置く。

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2008.07.28

不帰-発生-記憶

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小さな幸せを配ったら、少しくらいは戻ってきてほしいとも思う。
でも見返りを期待した時点で、それは愛情ではなくなる。
小賢しい考えを持った時点で愛すべき存在でなくなる。
そのあたりが、難しいトコロなのだろう。

何をしても皆に人気のあの人とは違って、中身も外見も
他人に好かれるよう生まれ育ったワケではない。
ただそれではいろいろと生きていく上で不利だからと、
ちょっと違った雰囲気を漂わせるようにしてきた。

そんな言い訳を自分に許してしまう程度でしかないんだから、
あの人ほどには、この世を愛していないのかもしれないな。

ああそれにしても、その昔、愛してくれた、大切な人は、
もはや決して戻ってくることはない。
愛してもらえただけでも奇跡に近い出来事であったはずなのだが、
既に遠い過去のようにも思えてしまう。

ついつい今ここにないものを求めてしまっているから、
余計に悪循環に入り込んでしまっているのかもな。

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2008.07.27

小さな幸せを分け与えるのは大きな幸せを見付ける手掛かりになるのか

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多小葉シロツメクサを見付けるのは、得意だ。
たとえば先日、甥たちと一緒に長瀞あたりを歩いていたときには、
ほんの1時間も経たぬ間に4小葉×4に加え5小葉も見付けたりした。

おそらく自己最多・最速記録となったのは、先日の散歩のとき。
自宅から徒歩20分ほどのトコロにある住宅街の中の小さな公園で、
15分ほどの間に4小葉を6つと3.5小葉を1つ。合計7つ確保した。

こういう経験は、たまにある。
5月の連休の京都での件は既に書いた通りだし、
大学時代には図書館前の広場で6小葉まで見付けたコトがある。

以前では、それは個人的なコレクションとしていたが、
最近では、見付けるたびに親しい人にプレゼントするのが
通例になってきた。

渡す相手の顔を思い浮かべれば発見の確率が高まる気がする。
先日の長瀞では、一緒に歩いていた甥に、その場で渡したが、
まさに目の前で摘んだものだから、とても嬉しそうにしていた。

そういう表情を見るのが、楽しい。
かつて人生の大きな幸せを失い、今後も期待薄であるがゆえに、
せめて日頃から、こまめに小さな幸せを見出して気休めにしたい。

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2008.07.26

毛色が違う経路

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ふとした拍子に、大学時代の恩師の言葉を思い出した。

大意、以下のような内容。

「誰も彼もが一つの方向を目指して進んでいて、
その流れから取り残された状態になったとしても、
必ずしも嘆くことはない。
世の中の流れは逆転することがあり、そのときには
最後尾にいる人間が最先端になったりするのだから」

その言葉を、かなり本気で受け取った教え子の一人は、
どうも時代からズレて取り残されているような気がするし、
期待する時代の転換点もなかなか訪れないと思っているけど、
「最後尾のあたりにいれば全体が視野に入るぞ」
などと偉そうに言ったりしてるのである。

こんなヤツは、役立たずのままでいるのが
世の中にとって望ましいのかもしれんよな。
などと、自ら積極的に動こうとせずにいるコトの
言い訳をしたりするからタチが悪い。

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2008.07.25

理系用語で読み解く社会(29) 界面とは活性を呈しがちなもので

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たとえば固体表面の化学反応は気体中や液体中と大きく異なる。
細胞膜や細胞内の膜構造は生命活動の原点ともいえるくらいだ。
あるいは膜構造の組織なども同様。たいがい境界線/面てのは、
そこを境にして接する異質な複数の世界の違いを吸収している。

そも昼と夜の境目には「黄昏時」と「かわたれ時」がある。
表と裏の境界線には縫い目があったり、ギザギザがあったりする。
ウチと外の間には玄関があって、しばしば守り神が立てられる。
内と外の間には、そこにしかないモノゴトがあるのだから。

そして、たいていのモノゴトは、その境界を起点に大きく動き出す。
最前線や最下層や本格的な暗部を垣間見るのも貴重な経験だが、
むしろ「まっとうな」社会の周縁部であったり、あるいは
そこと「まっとうでない」社会との境界線を歩くのがいい。

何かの主張をしたいなら世界の中心がいいのかもしれないけど、
観察をしたいのであれば世界の片隅に居続けるのがいいだろう。
なにしろ“傍観”というくらいだ。傍らにいるのが正解なのさ。
境界に潜む危険に囚われぬよう、ぼーっと、呆けた風を装ってな。

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2008.07.24

自称逸般塵の不通の日記(15) いろいろと不足ばかりの不測の事態

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このところ集中力が持続しない。
気力減退が著しいように思う。

暑さのせいもあるのだろうけど、
まあ他にも、いろいろ閉塞感。

ちょいと憂さ晴らしに出掛けたり
したいけれども予算も乏しく。

他にも睡眠時間や読書時間などが
足りてない。補っておかないと。

それから……

間違いなく存在する間違いを確認
するための新たな挑戦はしたい。

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2008.07.23

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(3) 「そのはしわたるべからず」

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「安全は全てに優先する」とは言うが、
安全以外の全ての要素が皆無であるならば、
安全など意味を成さないのだから語弊がある。

「生かさず殺さず」の厳しい統制の枠に押し込められる社会も
「生きるか死ぬか」の激しい競争の波にもまれるような社会も
どっちも嬉しいとは思わないので、程々にしていただきたい。

いずれにせよ極端などというのは、右でも左でも居心地は悪い。
中道ってのもまた、やはり正解とは言えないだろうけれど、
一方に偏るよりはマシだ、とは言えるんじゃないかね。

いや、もっと言うならば、左右の両方が存在している状態で、
その間から外れぬように進んでいくのが上策なのかもな。
枕木の上だと、ちょっと乗り心地は良くないかもしれないが。

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2008.07.22

未知なる道にヒトの生活を窺う

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山間の集落の生活道路などが好きなのだけど、
それは何故なのかと、少し思考の散歩をしてみた。

同じく道を歩くにしても、
都市部の綺麗に整えられた道などより、
いかにも必要に迫られて作って維持しているような
そんな道が、歩いていて楽しく思う。

このような道は不揃いで不規則で、
要するに規格化されていない。
その素朴な雰囲気を好んでいるのだと思う。

いや、考えてみれば、こういう道ってのは
必ずしも山間部だけのものではないのだよね。

ある程度以上古い住宅街などであれば
しばしば旧水路を暗渠に仕立てた道や
宅地開発の初期に無計画な区画を作った結果として
曲がりくねった路地や袋小路も数多く存在する。

こういう道路こそ、しかし人間味が感じられて
散歩をしていると楽しくなるものなのである。

改めて整理してみると、結局のところ
ヒトの尺で作られたものがいいのであろう。
整備道路は物流の効率を考えてクルマの寸法で
できているのであり、ヒトとは異質なものだから。

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2008.07.21

下手な考えなんて休んでニタリとしてればいいさ。

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あの人ほど鋭い感性を持ち合わせているワケでもなく
あの人ほど筋の通った論理的な思考もできないし
あの人ほど一つの考えを継続できる集中力もなく
あの人ほど明快に割り切った判断も下せない

だいたいにして彼らの得意なトコロで勝てるはずもないのだ。
勝負しようと思うのが、最初から間違えている。
「勝つと思うな」ではなくて、「勝負だと思うな」と言いたいね。
だから、まあ、無駄な思考は停止して、違う方向を見付けておいで。

できることなら、ニヤニヤ笑いを残して消えてしまうような、
そんな特技でも持ち合わせていれば面白いんだけどね。
さすがにヒトとして生きているので、そこまでは無理だろうけど、
それっぽい生き方くらいは工夫次第でできるんじゃないかな。

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2008.07.20

それは、きっと、誰でもない

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「最後に笑うのは誰だ」だって?
その最後てのは、いつ来るものなのかい?

たとえば勝負なら下駄を履くまで分からない。
でも、一つの勝負に勝ったって戦争に負けたりする。
戦争に勝ったとしても経済的に負ける国がある。
そもそもペンに負ける剣もあるのだし、当然ながら逆もある。

特定のヒト個体が死んだとて、
その遺伝子だの思想だのを
受け継いだ個体があっての
死であれば生命の連続性は保たれるだろう。

特定のヒト集団が滅んだとて、
それを構成していたヒト個体群が、
はたまた山河が残りさえすれば、
まだまだ希望が残っているはず。

ヒトの生存可能領域が完全に失われ
種としてのヒトが滅亡するに至ったとしても
それが必ずしも最後ではないとする宗教もある。

そういう宗教だと、どっかに別の区切りがあるけれど。
いやもっと大きなハナシになってしまうが
この宇宙そのものが消滅する時点を最後とすべきか
そのさらに外枠のナニカが続いているなら最後ではないのか、
……などなど。

どうにもどうでもいいハナシばかりが続いていく。
結局、何をしたって最後に滅びぬ存在などないのだ。
諸行無常の響きというか、ね。

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2008.07.19

たまには時事ネタ(24) 観衆混乱監修困難

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贈与・互酬で成り立つ人間関係が生き残り、
西欧近代風の合理性には染まりきらない――
そういう田舎は、まだまだ日本のどこかにある。

互酬関係というのはヒトの心理の深部と密接に
絡み合った高度な関係構築・維持手法であって
そのもの自体に問題があるのではないと考える。

むしろ公私の区別が必要になった世の中において
無思慮かつ安易に互酬関係を構築・維持しようと
拡大解釈して適用してしまうコトが問題のはず。

ボールを受け取ったのは「私」であるにも関わらず
その「私」のモノでなく「公」のモノで返そうとして
しまうのは思考の低抵抗ルートを辿るがゆえか。

詰まるに時代に合わせて慣習を変えていくのは
ヒトの性質からすると難しいコトであるものだから、
そういう問題は今後も出てくるだろうと、なる。

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2008.07.18

節操のない世相のなかでも

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右や左どころか上下の感覚さえ危うくなりそうな踏み分け道でも階段が用意されているのだから、まだ楽なもんだとは思わないかい?

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2008.07.17

365本の毎日

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今回は、一時中断以前の分も含めて365本目の記事となる。

だからどうしたというワケじゃないが、
毎日を繰り返しての1年は長いもんだね。

気付けば1日1本、休まず連載の形になった。
これは、特に決めていたワケじゃない。

今までの記事はテキストで残してあるのだが、
全部で640KBにまで膨れあがっていると気付いた。

今後、どこまで続けるかも、特に決めていない。

いきなり予告なく中断するかもしれないし、
1日の本数が増えたり減ったりするかもしれない。

1日1本が2本か3本か、あるいは2日か3日に1本か。

まあどうせ個人的なブログなのだし、
先のコトなど決めずに行こうじゃないかと。

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2008.07.16

困ったことに僕らはみんな生きているから凄いんだ

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ヒトが変わり続けるのは当然のコト。

ヒトの身体を構成する物質は常に入れ替わっているのだし、
ヒトの精神には常に新たな入力があって思考が動き出力がある。

時間が経過しても全く変化しないようなのがいたとしたらそれは
ヒト以前に生命体ですらないのであるからして。

もしヒトとしての完成形を目指すのであればむしろ生命を捨てて
でも時間の経過に対する変化をなくさねばならんのではないか。

ふむ、生きてるってのは素晴らしくもあるが、
大変なコトでもあるのだな。

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2008.07.15

科学系ヨタ話(8)  耐性を持つための態勢

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植物には、病原性微生物の感染に対抗して
健康な部位でも微生物への抵抗性を強めたり、
乾燥や塩害や低温といった環境変化に対応したり、
虫害への抵抗を強めたりするといった機構が備わっており、
しかもそれらの耐性を制御する仕組みは
複雑に関連し合っているのだそうな。

耐性を発揮するためにはエネルギーを消耗する。
だから必要がないのであれば使わずに済ませる。
そして、いざ必要になったときには他の耐性を
抑制して目前の脅威に注力するよう働くという。

例えば、乾燥したり低温に曝されたりすると、
病虫害が発生しやすくなりがちだが、
それは病虫害への耐性強化機構が抑制されるためである、となるワケだ。

おそらく、動物にも同じようなコトが言える。
高温あるいは低温で体力を消耗すれば感染症に罹りやすくなるし、
病気の状態では環境変化に身体が対応しきれない。
やはり単一のストレスには耐えられても、
複数のストレスが同時に加わると、弱いもので。

さらには、精神的ストレスに対しても、きっと同様のはず。
「弱り目に祟り目」となれば、誰だって危機的状況だ。

ただ、精神的ストレスというのは、心理構造の変化で
ストレスでなくなってしまう場合も、たまにある。
すると、精神的エネルギーを消費することなく、
かつてストレスであったモノゴトを受け流せるようになったりする。

おそらくは、そうすることが、精神的に健康を保って
生きていくために重要なのではないかと思うのだけれども、
でもやっぱり、なかなか容易にできるもんじゃないんだよね。

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2008.07.14

たまには時事ネタ(23) 遺産は食い潰してナンボですか?

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日本から申請された世界遺産登録が見送られた初のケースが出たことで
けっこう多方面に影響が出ているのではないかと思う。

世界遺産に登録されれば観光地として発展が期待される反面、
その観光地化によって却って荒廃を招く場合もあり得る。

自然遺産ではガラパゴス諸島のように環境汚染などの問題が生じている。
文化遺産では落書きなどが増えて困ってるトコロもあるのではないか。

地域興しのためなど、安易な箔付けを目的とした登録ではなく、
その価値を高めつつ後世に伝える、というような方向であってほしいな。

まあしかし、価値というのは失われてようやく人々に知られるような
そんな皮肉な性質も持ち合わせていたりするから、困ったもんで。

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2008.07.13

その島の名はスゴパラガ

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太平洋に浮かぶ島々に、けっこう穏和な人々が住んでいる。

気候も温暖湿潤で農作物や海産物に恵まれ、暮らしやすい。
国境は陸上になく、外国は凡て海の外。箱庭のような環境。

驚異にせよ脅威にせよ、新しいものは常に海を渡ってくる。
外から得たものは、島々の中で独自に組み替えられていく。
人々は外より内に意識を向け、文化は特異な進化を遂げる。

気付けば全球的な流れから取り残されているのだけれども、
それは決して遅れているのではなくてむしろ進んでいたり、
かと思えばヒトが古くから持っている特性も残っていたり、
良くも悪くも列島全体が世界の中ではニッチな存在である。

だけど、その島々の中だけでも多様性が保たれているから、
外からの脅威に対しても柔軟に適応することができるので、
大絶滅なども生じることなく生存性は高いのであるらしい。

その多様性は狭い島々の中で互いに競争し合う関係だから。
島国根性と揶揄されたりはするけれども決して悪くはない。

進化の袋小路にあると言われながらも最先端を行ける所以。

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2008.07.12

たまには時事ネタ(22) 多様性ある業界たれ

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ちょっと前、トップに次いで二番手が苦戦しているというニュースを見た。
大手が相次いで危機的状況に陥るのが、最近の携帯電話業界の動向らしい。
つまるところ、新規参入組が見事に市場を攪乱してくれているのだろうな。

ユーザーからすれば、まあ悪くはないハナシではある。
ただし、過剰な安売り競争に陥って品質を低下させないでいてくれれば、
のハナシではあるけれども。

複数事業者に契約して複数の端末を使い分けているので逸般的ではあるが、
通話とメールとWebを少々の小型端末から、重厚長大な“全部入り”まで、
電話機に関しては幅広いニーズに合わせた上手な棲み分けを期待したい。

電話会社のサービスも、シンプルな内容で安価なものから、高いけど手厚く
きめ細かな対応をしてくれるようなものまで、幅広くあってほしいと思う。
今よりもずっと幅広く。経済的な格差の拡大に合わせて、のニーズだけど。

それから、事業者が減って「他の選択肢」が失われることも避けてほしい。
PHSは1社になったせいで“独自性の強い移動体通信事業者”となることが
できたが、逆に言えば携帯電話会社が一つ増えたようなものでもあった。

まあともかく、業界の中の連中には「仲良く喧嘩しな」と言いたいね。
林檎屋のケータイを売るのもいいし、フルキーつきを売るのでもいい。
あるいはモバイルPCとセットで販売したっていい。それぞれの特色だ。

もちろん、ユーザーからすれば横並びである必要はない。
各社各様に癖のある端末やサービスを出して競い合っていってくれれば
きっと「安かろう悪かろう」の悪循環に陥ることはあるまいから。

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2008.07.11

貧困なる精神の拡大再生産は避けたいところ

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そういえば、人が人の親になる年齢は、
昔と比べるとずいぶん上がってきた。

そのせいか、最近の親は、
より完璧な親であろうとする気持ちが
ちょっと強く前面に出てしまうのかも。

ヒトに完璧などないのに、
完璧だと思いたい気持ちでいるもんだから
理想と実態との乖離ができて拡大する。

間違いは修正しない限り、
さらに誤りを呼び込んで増殖していって
いつしかそれが破綻を来すことになろう。

ちなみに子供というのは、
親が育てたいと思ったようには育たず、
親が育てたようにしか育たないものだ。

「親になる資格などない」
という言葉には両面の意味があるけれど、
これまた乖離がみられることも少なくない。

実は親の態度が、
まさに深層を背中で語ってくれるので、
子供たちは、親の捉え方を受け継ぐ。

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2008.07.10

たまには時事ネタ(22.5) 現場を生かす力は?

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新たな学習指導要領の紹介パンフを読んでいたら、
学校内の業務改善といった観点の記述が、
申し訳程度に書かれているのに気付いた。

(他の施策で行われているのかもしれないが、知らん。
お役所の内部的には縦割り行政の弊害かもしれんが、
一般市民から見れば単にサービス不行届というだけで)

誰ぞの改革で聖域はなくなったらしいじゃないか。
聖域がなくなれば聖職者もいなくなるものだろう。
教職イコール聖職とみなされた時代は過去である。

一般職というならば組織的に業務を遂行するべきであり
雑事に煩わされ本業が疎かになったりせぬようにするなど、
業務そのものを円滑に進めるためのマネジメントが不可欠だ。

「教師が子どもたちと向き合う時間の確保などの教育条件の整備等」
について、教員向けパンフレットで、ほんの少しだけ書いてあった。
あまりに簡潔な記述なので具体的な施策が全くイメージできないが。

なにしろ現状、教員が行わねばならぬ職務は膨大だ。
その多くは児童生徒や保護者との関わりにおいて
必要なことと思うが、そうでないものもあろう。

聖職者じゃないなら、自らの技能を提供して給与を得る
ような、ごく普通の職業になる、というだけではないか。
そうしたら彼らの能力を引き出す組織体制がないと、ね。

単に給与や福利厚生などの待遇を強化するだけでは、
コストの割に効果は薄いという結果になるであろう。
投資をするなら、もっと効果を高めるようにせねば。

「生きる力」が子供たちに必要だというのであれば、
「生かす力」を教育全体が持たねばならんだろうに、
今の教育行政は何者をも活かさぬようにさえ思える。

こういうトコロをカイゼンしていくために、
学校経営や教育行政の内部の人材戦略なども
きちんとした政策を進めていただきたいもので。

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2008.07.09

たまには時事ネタ(22) 生きるのに力が要るんだってね

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今の学習指導要領は、「生きる力」を重視しているのだというけれど、
なんとも玉虫色の言葉であって、具体的な教育内容をイメージし難い。
(具体性に欠けるといえば、「美しい国」なんて言葉もあったっけな)

「ひまつぶし」などという言葉を、ネット上でよく見掛ける。
生きるのに必死でいる必要がない今の日本社会を端的に示すものか。
逆に、必死になって力を振り絞ったとしても成功の期待は薄いもんな。

ヒトは、必要がなければ自活しようとしないイキモノなのだと思う。
自立した生き方には精神的にも肉体的にもエネルギーが必要だから
そうせずに済む状況であれば節約をしようとするのは生物の基本。

「昔、平均寿命が40歳程度で16歳で成人とされた時代があった。
単純比例とすれば平均寿命80歳の現代では30代半ばでようやく成人。
親の寿命が迫って、ようやく子はオトナになろうとするのでは」

そんな意見を、U君は言っていた。そういえば、誰が言ったか忘れたが
「ヒトは自己家畜化に成功した生物」とかいう言葉もあったっけな。
ヒトの在り方が、そもそも生きる力から遠ざかろうとしているのかも。

生物の進化する方向は、いったん決まると必要以上の域まで突き進み、
しばしば繁栄の要因となった特性そのものが滅亡の原因となったりする。
果たしてヒトは、ヒトゆえの特徴を、種の維持に役立てられるだろうか。

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2008.07.08

たまには時事ネタ(21) 危ないってコトにしておくと危なくない?

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電車の中吊り広告で「地球はホントに危ないか」とかいう見出しを見かけた。

危ないか危なくないか、という問題を突き詰めるのは構わないけれども、
ヒトの考え方や生活そのものを変えていくために要する時間を考えると、
度が過ぎない程度に危機感を煽るというのは戦略として妥当ではないかな。

サミット初日は食糧問題に対して協力し合うことで合意したとかいうけれど、
あの会議の席で出されたという食事のメニューを見ると説得力も消し飛ぶ。
だけどそれでもなお、やらんと言うよりゃマシだという気がするワケでね。

温暖化にせよ食料にせよ、その問題はヒトの欲望に直接、根を下ろしている。
罪悪感を掻き立てることで行動を促すのは、あまり上等な手段ではないけど
もっと下手な遣り方よりはいいだろう。欲望の存在に気付かせるだけでも。

ヒトには108つ(orそれ以上)の欲望があるとも念頭に置いとく必要もあるけど。

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2008.07.07

たまには時事ネタ(20) 安全は全てに優先する。特に利便性とか。

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都心の駅のコインロッカー
遠目には新しい模様のように見えたのだけれど
近寄って見てみれば、なんのことはない、
扉ひとつずつに紙が貼られていたのだった。

こういう、直接の脅威が予想される部分てのは、
まあ分かりやすいだけに、やって当然なのだろう。

しかし、ごく一般的に言って
セキュリティ強化は利便性を損なうものだ。
その日、まさに目の前で、大荷物を抱えた人が
困ってウロウロしている様子も見てしまった。

この利便性低下に見合うだけの成果が出てくるものと、
例の会議に期待してしまって良いのかな?

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2008.07.06

もう誰も恨めない

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石は、長い年月の間に磨かれて丸くなってくるとはいうけれど、
ときたま大きな衝撃で割れて尖った面が出てくるコトもある。

そうして、触れた相手を、傷つけてしまったりもする。

だけど割れたトコロだって、石の表情の一つであるからして。
それに、その面さえも、また歳月が経てば丸みを帯びてくる。

今すぐにとは言わないが、いずれまた、いつかきっと。

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2008.07.05

自称逸般塵の不通の日記(14) 尸解仙への道?

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最近、ちょっといろいろあって、
年齢を自覚させられた気がする。

思えば、既に若くはないワケで。
今のところ年齢相応ではあろう。

これは「枯れた老人」への道を、
少しずつ着実に歩んでいるのだ。

いやむしろ、もっと早いトコロ
年老いていきたいのかもしれん。

とはいえ年齢などというものは
期待通りに変わったりはしない。

若くあったらいいなと思えば
その逆だと実感させられたり、
年老いたいと思っているのに
なかなか老けてくれはしない。

要は、そういった部分に関しては
期待や欲求を持たぬのが良いのだ。

つまるところ、こうやって少しずつ
心身共に枯れていくのが人生なのか。

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2008.07.04

自称逸般塵の不通の日記(13) 神域にて

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「この場所に居座ったり物品を置いたりすることを禁じます」

――この世のコトか。

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2008.07.03

理系用語で読み解く社会(28) 持続可能な人生って

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炎という言葉は生命力の象徴のように使われるコトが多い。
燃焼するという現象は生物の内部的な化学作用と同じく、
物質そのものを入れ替えていくコトによってのみ継続される。
であるがゆえに生命というのは熱くない炎、とも言えよう。

反応を継続させるには、反応する素材が途切れず供給され、
また各種の反応条件も維持されていなければならない。
変化し続ける環境の中で生命を持続させるため、
生命体は常に外的環境に合わせた変化を続ける。

「生かされる」と入力して変換キーを叩きすぎたとき
「異化される」と出てきたのを見て、ふと思った。
自分自身が誰か他の人の中で生き続けるコトは可能だろうと。
食われて、消化されて、血肉になればいいのだ。

それなら、それでいいか。

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2008.07.02

1択問題?

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かつて、自由という言葉には、「自らの責任を自ら負う」
といったネガティブな意味も込められていたそうな。
そのことは歴史家たちの対談集か何かで読んだのだけれども、
どうやら今でいう「自己責任」的な性格を持っていたようだ。

自由すなわち社会的な権威による後ろ盾を持たない者であり、
たとえ行き倒れようと補償もない、などのデメリットも強かった。
そんな意味合いが消えてポジティブなニュアンスだけが残ったのは
明治以降の西欧的freedomの考え方の訳語として採用された結果だとか。

また、被差別部落においては他の人たちより自由な考え方があったともいう。
それは多くの人たちが持たねばならぬ社会的通念から自由という意味でもあり、
逆に被差別側は差別側の硬直した考え方を不自由なものと心得たりもしたようだ。
どこかの資料で、そういう揶揄を込めた詞か何かを見掛けた記憶がある。

現代社会においても、勤め人よりも、ちょいとアウトロー気味の連中の方が、
どっちかというと発想はユニークだったりするように見受けられる。
これに関しては、まあ例を挙げるまでもなく、誰でも思いつくだろう。
要するに、安定した生活には、ある程度のシバリがつきものであるらしい。

さらに余談だが、かつて駆け落ちは「欠(け)落(ち)」とも書き、
何らかの理由で共同体から欠落した人物、あるいは行為を示したという。
その理由は経済的なものや、共同体内での犯罪によるものなどさまざまで、
また一人であったり家族単位であったりと人数もさまざまであった。

それが後には、許されざる恋に陥った男女が共同体を捨てる、
という意味で情話においてのみ使われるようになってしまい、
駆け落ちという語が定着してしまったようである。
言葉というのは、斯様にも大きく変わるものであるらしい。

ともかく、共同体への帰属意識を強く求めるのが日本の古くからの伝統。
でもそこから離れれば、共同体に所属している安心感は得られないし
さまざまな有形無形の支援を受けるコトもできなくなる。
おまけに、共同体に所属して安心している連中からは後ろ指を指される。

それが自由というワケだ。

でもね、自由という立場を選択するための自由ってのは、
ちゃんと用意しておいてほしいものだと思うのですよ。
社会的に選択肢が奪われた結果として自由を選ぶしかなくなった
なんてのは、どうみても不自由な自由ではないですかと。

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2008.07.01

現実に、合っていないんじゃないのか

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旧軍航空機の復元作業に関する連載の中で、
「金属加工と航空分野における文化論」と題した記事が
興味を惹いたので、少し考察を加えてみたくなった。

古い工業製品の復元には、残された図面や現物に合わせて
多数の部品を作り直す作業も不可欠だ。その過程で、
「あまりに作りにくい箇所の存在」「量産を考慮しない材料の選定」
が多いことに気付いた筆者らは、次のような推測をしている。

設計の際、製造にあたる人間が、その場に参加することができず、少しでも作りやすい、量産しやすい航空機にするための努力がされないまま計画が進行してしまったということなのである。
少々きつい表現になってしまうが「設計者は製造担当者より圧倒的に“格上”である」といった思い込みが、関係の人々の中に蔓延して、これが意図的ではないもののの「設計者は製造担当者の意見など聞く必要がない」状況となったのだろう。
(航空ファン2008年8月号より)

以前、親しいエンジニア連中と話をしていたとき、
「現合」の是非についての話題になったことがある。
「現場合わせや現物合わせは設計のミスを製造がフォローする
行為でもあるから、それを許すことは、会社として良くない」
「現合は製造技術者のスキルの高さを示すことでもあるし
設計ミスによる納期遅れを軽減できる可能性が高いから
一概に悪いとは言えない」
といった具合に、意見は人それぞれであった。

それで良いのだと思う。
エンジニアと言っても分野はさまざまで、もちろん所属している
企業や組織も異なるから、現場側と、設計やマネジメントとの
関係も、類型化できない。当然、安易な一般解などあり得ない。
製造するモノによっても、また業界全体の体質などもあって、
それぞれに応じた関係性やスタイルが作り出されているのだと思う。
この多様性が、日本の製造業の層の厚みを示す。

戦前、急速に発展していった航空産業。
その発達はヒトの成長より早かったがために
当初は外国から「お雇い技術者」を呼んでおり、後には
若手の設計技術者と若手の製造技術者が急激に増えて、
この産業を支える中心的な人材層を成していった。
最初から交わったり触れ合う機会のない道筋だから、
設計と製造の現場が互いを知らぬのも無理はない。
知らぬ相手への配慮など、思いもよらぬのが道理。

もっと成熟した産業になれば、交流する余裕も生じよう。
あるいはエンジニアリングの素地が国全体にあるならば
製造上の不便を取り除こうとする考え方が設計上でも
有効に働いて、効率的な設計が推奨されたかもしれない。
(相応の経験を積んでいれば、無駄を省く視点も備わる)
たぶん、もとより工業先進国だった欧米では、そうだった。
つまるトコロ、成熟した工業国でありさえすれば、となる。

当時の日本は、その条件が揃っていなかった。
工業国は資源がなければ成り立たない。
だから資源戦略もまた成熟した工業国に不可欠の条件だけど、
どのような資源をどのように確保して利用するか
といった戦略も、やはり日本では伴わなかったので
あんなふうに泥沼へと陥ってしまったのではないだろうか。

今の日本は、非常に成熟した工業国といえるだろう。
たしかに多くの分野で日本製品は世界トップといえるし
今後もそれを期待されている。
けど、相変わらず資源戦略などは弱いままのように思える。
原油だのレアメタルだの、他国の動向に振り回されるばかり。
正直なトコロ、脆弱性を放置しているように思えるくらい。

人材戦略なんてのも、また相変わらず貧弱ではないか。
現場で合わせられる人材なんて、そんな簡単には育たない。
現合の話をしたエンジニアたちは、それなりに高度な教育を受け、
さらに現場で何年もの実務経験を経て、現合を語れるに至った。
そういう人材を育てるのもまた重要な戦略なワケだけれども、
知らぬ相手への配慮など、思いもよらぬのが道理というもので。

設計も製造もやらない、マーケティングだとかフィナンシャルだとか
カタカナのカタガキの連中ばかりが強い企業の中で、
果たして制服と背広の交流は、できているのだろうか。
そして霞ヶ関や永田町の連中は、どうなんだろうか。
一つの組織の中でのローテーションだったり、
代議員の家系とやらが固定化していたり、
そんなすると、外とは違う世界ができてしまうんだけどね。

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