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2008/12/19

「いただきます」「ごちそうさま」の倫理

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食事の前後の挨拶の言葉の意味を、ふと思う。

日本においては神様に感謝するというよりむしろ、
目の前の食事に至るまでに関わった人たちの手間暇
すなわち「馳走する」行為に対するものであったり、
生命を食事として提供してくれた存在すなわち
目の前の食物となった動植物に対して直接、
感謝するものだと、いうような認識がある。

目の前のモノへの感謝てのは、とても即物的な
印象を持たれるかもしれないが、これはこれで
それなりの意義があるのではないだろうか。
たとえば「食うか食われるか」というのでなく、
「食わせるか食わせてもらうか」といった意識を
持つ可能性だってあるのではないかと思う。

一方、「見えざる手」を通じたカミサマの思慮
への感謝では、目の前の食物など自動的に出てくる
モノと思われる可能性も、ないワケじゃない。
食うだけの人間が、家畜に感謝するだろうか。
家畜というのはヒトに食われて当然の存在だと、
そう思っているのではないかと、穿って思う。

彼らの視線の、その延長線上で、捕鯨などを
考えれば、まあ確かに搾取的な行為となろう。
それは近世近代の彼らの歴史が示す通りだ。
どっちが善か悪かと決めつけたいワケではない。
ただ、根本的な違いを認識する努力を怠って
くだらない争いをするのは、いただけない。

お互い、溝を埋めるために「馳走」しなよ、と。

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