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2009年5月

2009.05.31

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(29) ヒトもノカネの考え方

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モノを作るのはヒト。

魂を入れるつもりがあろうとなかろうと、
作った側の意図が、驚くほど読み取れてしまったりする。
さらに穿てば、作ったヒトたちの属する集団や社会など、
周囲の環境もまた、色濃く反映されていたりする。
そして、そういうトコロが、好き嫌いに強く影響する。

たとえば林檎印の会社の製品なんかは
最近流行りの「クール」の代表格みたいな
扱いを受けているようだけど……、
クールな上にクレバーなトコロが、
決して悪くはないんだが好きにもなれぬ。

たしかに、期待させてくれるような
新鮮な要素を備えた製品を作り、
また精力的に多様なサービスを提供
しているのは間違いないのだけれども。
期待させんとする姿勢が、きっと苦手なのだ。

そも近年では、「未曾有の道具」なんてのは
滅多に登場してこないものと思って差し支えない。
ヒトの生活に関連する道具など過去の長い
歴史の中で一通り作り上げられてきているので、
あとは派生形発展形にならざるを得ぬ。

「ちょっとの工夫でとても便利になりました」
まあ、そういうケースも少なからずあろう。
でも過去の道具に慣れた人には大差なかったりする。
「新しいサービスと組み合わせて便利になります」
要するにカネ払えってコトね。はいはい。

モノを使うのもヒト。

今の世の中、モノはカネで買うのがほとんどだけど、
その持ち物は図らずも持ち主の考え方を示したりする。
仕事したくないときに限ってトラブルを起こして
余計に仕事の苦労を増やしてくれるパソコンとか。
(これは本当に困るんで勘弁してくれないかなあ)

やれやれ。

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2009.05.30

業務用っぽい生活

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質実剛健な機器がほしい、という感覚は常にある。
虚飾なしで、必要な機能を適度な価格で買いたい。

最近の「クールなデバイス」などは、特にアレだ。
そういう格好じゃないと似合わないのが如何とも。

「オトナっぽく上品に」なんてのもまた全然違う。
洒落込みすぎては、やはりどうしたって似合わぬ。

もちろんゴテゴテしたプロテクターなんかも嫌だ。
邪魔だし余計に周囲と接触しやすくなってしまう。

相手を攻撃するのでなく「守る」のなら平和的だ、
なんて意見もあるが、過剰な防護は威圧に通じる。

着衣や装身具や身の回りの品々は持ち主の対外的
性格を示すために意識的/無意識的に用いられる。

そういう品々の選択肢の豊富さは、詰まるトコロ
世の中のヒトのありようを反映しているのである。

クールでもなく上品に洒落てもおらず威圧的には
なりたくない、それどころかむしろ泥臭いくらい。
そんな草臥れた中年男に似合う品は少ないようだ。

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2009.05.29

所持品紹介(19) 携帯電話トホホロジ

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携帯電話機を一つ、買った。

前の機種は30カ月あまり使っていて
電池が劣化してきていたという理由もあるが、
近年の携帯電話事業者側の販売手法の変化に伴って、
新しい機種を購入すれば月々の基本料金が下がる
ような状況になっていたため、それを利用して
目先の出費を抑えるのが、主な目的。

(ただし、基本料金が下がる一方で、
端末代金の割賦払いが必要になってくる。
これを貯まったポイントの充当で値引き、
さらに使っていないサービスの解約など
利用状況を見直して、月の支払いを
以前と同等以下に抑える方針)

しかし最近のケータイというのは、
二つ折りとかスライド式が多くて、
なかなか真っ直ぐなモデルが少ない。
中でも多機能モデルは非常に限られていて
既存機種で使っている機能を備えていないなど、
候補が少なくて困るような状態が続いている。

考えてみれば、10年くらい前の時代には
世の中のケータイはストレート型が主流であり
機能はもとより小型軽量を競っていた気がする。
しかし、その時代に使っていたのは、昨今の
スマートフォンに通じる、とても多機能で
二つ折りの、大きく重い通信端末であった。

しかし以降は、二つ折り端末を選ぶコトが減った。
今もスライド式でフルキーのついた端末は持ってるが、
他に使ってるのはストレート型の電話機ばかり。
今回はストレート型の中で、「おサイフ」つきで防水、
もちろんテンキーあり、という条件で求めていたため、
当該事業者の最近の製品では一つしか選択肢がなかった。

買ったのは、最初から業務用として作られた機種。
そこらのケータイより大きく重く無骨で、
外見的にも威圧感があるのはいただけないが、
ストレート型で必要な機能を備えているのは他にないし、
値段を聞いてみたら思っていたほど高くなかった
というのもあって、決定に至る。

単なる天の邪鬼かもしれんなあ。

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2009.05.28

所持品紹介(18) 縫い目がいっぱい

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普段着のズボンを、「ツギハギだらけか」と
問われるコトが、たまにある。
これはジーンズ地に厚手のナイロン布を重ねた
屋外用の作業ズボンだ。
地と重ねた部分とが別の色で作られているので
ツギハギのように見えるらしい。

一方、身体には2箇所の縫い目がある。
一つは鳩尾から臍まで、まるで溶接痕の如く。
これは交通事故の怪我の手術痕。
後部座席から放り出されて路上に転んだのだが
腰から下は掠り傷程度だった。
この作業ズボンの強さを図らずも示したものか。
(ちなみに、もう一つは別の手術痕。
耳朶の裏に隠れている)

たしか大学時代から、もう何世代目か、
今も普段着にしている。
実は2~3パターンの色違いや素材違いで
着回しているのだけれども、
そこまでは、さすがに指摘されるコトも
あまり多くはない。

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2009.05.27

自称逸般塵の不通の日記(86) 夜明け前は最も冷え込んで

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数少ないまま推移している仕事を、
大事に大事にやっていたら夜明け前。
眠気覚ましに熱いシャワーを浴びる。

浴室の窓の色が留まらず変わりゆく時間。
窓の向こうの空が深いロイヤルブルーを
一瞬だけ、見せる。

白熱灯に照らされたクリーム色のタイル。
上品な紙に万年筆で書いた文字のように
窓の外の空は朝を告げていた。

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2009.05.26

それはヒトの性に合わぬのか

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そんなに損するのが惜しいのか。
大した損でもあるまいに。

そんなに死ぬのが怖いのか。
どうせ100年もすれば朽ちる命を。

他より僅かでも損を減らそうとするあまり
他者に致命的な損害を与える結果になるなら
それは不善なり。

あるいは、
今ちょっとばかり損を減らしたトコロで、
後に禍根を残すならそれは大損だろうと。

しかしそういったトコロこそ、
まさにヒトがヒトたる所以か。
限定合理な存在なのだから。

たしかにカネも命も惜しい。
だが出し惜しみしても死蔵だ。

厳しい世の中こそ大事にしたいのは
「出し惜しみ」以外のキモチ。

誰も彼もが損していい死んでいいというワケじゃないが、
誰も彼もに損をさせて死なせていいワケでもないだろう。

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2009.05.25

理系用語で読み解く社会(50) 事故着火性

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みんな落ち着きがないのは
社会が軸を失っているから。
ブレが大きくなるのは
自信がなくなっているから。
いつも落ち着かないのは
閑を暇と感じているから。
時間潰ししてばかりいるのは
いつも満たされていないから。
皆が皆、振動しているから
社会は全体に熱くなる。

温度上昇と同時に分子量の低い物質は揮発して
有限の世界という容器の中では圧力も高まる。
高分子も個体が液体になり液体は粘性が低下して
さらには沸騰していったりする。
そろそろ発火点を越えるかもしれないな。
火消しの準備は、しかし間に合わない気が。

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2009.05.24

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(28) 言う・団体・適当

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油が切れた機械は危険だ。
そのうち軸や摺動部が焼き付いて全体が故障してしまいかねない。

キーキーと騒々しい音を立てるのは、
たいていそこに潤滑剤が不足しているコトを示すものである。

そうなる前に手を打つのが上策ではあるが、
まだ鳴いてる段階なら「遅くとも来ないよりマシ」。

近代の日本社会は劣化した基本構造に増築が繰り返され、
多くの箇所は保守不良で軋みが生じている。

運用しながら全体最適を目指して作り上げたり作り替えたりするのは、
未だ日本人の多くが不慣れらしい。

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2009.05.23

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(27) 狡兎弑して走狗煮る戦略とか

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そういえば与党は厚労省をどうする気なんだろうか。
このハナシ、唐突に出てきたような印象を拭えない。

厚生労働省分割案とやらが目指すのは何なのか、
どのようなメリットやデメリットがあるのか、
そういうトコロが全然示されないトコロが嫌。
結論ありきの筋書きじゃないかと勘繰りたくもなる。

どんな内容の案が示されるのか、しばらく様子を見たいが、
どうせなら他の省庁に対しても考えてみてほしいトコロ。
しかも縄張りそのものではなくて、組織体制ポリシーの部分で。

基本的には業務分野別に組織を分けるのは効率的だけれども、
目的によっては複数の分野にまたがるケースも少なくない。
その場合、逆に目的別に組織を分けた方が対応しやすい。

両方のメリットを目指すのであれば、フロントと
バックとで異なるポリシーにするという手もある。
つまり機能を提供する部門は機能別に分けてやり、
機能を利用する部門では目的別に組織を作る。

米軍など、まさにそれを目指しているように見えるし、
民間企業でも、そんな感じの体制はたまにある。

組織間の連携が必須になるので、上手に連携できる人材や
組織風土の育成が不可欠ではあるけれど、激しく変化を続ける
現代社会の環境に適応するのは、割と柔軟にできるようだ。

そういうトコロまで考えて、やってくれないかなあ。
今までの官僚や政治屋には難しいコトかもしれんけど、
今までのままでは上手く行かないから改革するんだよね?

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2009.05.22

たまには時事ネタ(50) 豚に震う・演習

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東京でも新型インフルエンザの感染が確認された。
遅からず出るものと思っていたので、驚くほどではないが。

流行中のH1N1豚インフルエンザの対策に関しては、関係者それぞれが、
それぞれ自分なりに考えて仕事をしている様子が見受けられる。

たとえば検疫やウイルス型の分析などは日を追って迅速になった。
医療機関も若干の混乱はあるようだが淡々と仕事をこなしている。
徐々に明らかになってくる病態に対しては感染研や厚労省なども
事前に想定していたマニュアルを柔軟に変更しつつ対応している。

また一方ではマスクの売り切れが頻発しているというけれども、
あるいは一部で休校などに伴う混乱もあったりするようだけど、
それでもなお多くの人たちが警戒しつつも社会生活をなんとか
大きく変えずに継続させようとしている様子が感じられる。

これは、評価したい。

もちろん日常の慣性力が働いているせいもあるとは思うし、
加えて強毒性のH5N1鳥インフルエンザへの対策を想定して
準備も心構えも整っていたトコロに対して、より低毒性の
ウイルスが流行したから、与しやすいという考えもあろう。

おかげで多少、拍子抜けした人もいたかとは思う。
だが、おかげで動き出すのも素早く、その後の対応も
最善ではないにせよ、決して悪い方ではない。
未だ感染拡大中で死者も出る病だから決して油断はできないが。

インフルエンザ流行というのは過去にヒト社会が何度となく
経験してきた疫病だから、それを詳しく分析すれば
それなりに今後のシナリオを想定するコトは可能だ。
そう、未来についても、ある程度は想像できる。

東京をはじめ他の都市でも感染者が確認されて患者数は増加を続け、
ひょっとしたら、その中には若干数の死亡例も出るかもしれない。
並行して日本国内で外国の感染例についての報道は激減していくが、
いつWHOがPhase6を宣言するかどうか、には注目が集まりそうだ。

そして、いつしか徐々にウイルス禍も終息していって、
慌ただしい日々の経済や政治のニュースに埋もれ、忘れ去られてゆく。
人類は、今回の新型ウイルスも、乗り越えたのだ。いやめでたい。
……などと考える人は、もう少数だろう。ただ記憶の外に押しやるのみ。

さらにいうなら、今回のウイルス騒ぎの動向をもとに
また異なったウイルスが生じた場合にどうなるかと
以前よりさらに詳細なシナリオを検討するような向きは、
おそらく一般大衆の中には、ほとんどいないのではないか。

斯くして非日常は再び日常の慣性力の流れの中で見えなくなってゆく。

そこで気にしておきたいのは、この騒ぎが
「狼が来たと嘘を吐いた少年」的な効果を
今後の社会にもたらしてしまわないかどうか。
社会のベクトルは、しばしば一般大衆で動かされる。

ウイルスの変化は非常に早く、いきなり新種が登場する。
今回のウイルスが沈静化しても、また遅からず次が来る。
そのときに病原性や感染力がどうなるかは分からない。
あるいは感染拡大中に別の新種が加わる可能性もあろう。

予想外の事態に直面すれば情報が錯綜して混乱するだろう。
それでもなお日常の慣性力に引きずられる人々もいる。
逆に非日常へと即座にシフトして自己防衛心ばかり強まって、
未だ日常空間にいる人などを攻撃する連中も出てこよう。

どちらの立場も、少なからず世の中に登場するはずだ。
でも、どちらにしろ、あまりおすすめできる反応ではないと思う。
双方の存在が結果的に社会の混乱を拡大するのは間違いないだろうし、
日常と非日常の一方に偏れば現実の半分を不適な視点で見るコトになる。

日常の中には非日常が潜んでいて、混在したまま共存しているのだから。
Memento moriてのは幾通りもの解釈(何れも不正解じゃない)が可能だが、
生は常に死を伴うものと考えてみれば日常と非日常の関係も見えよう。
(そもそも不正解などとは、滅多なコトでは決めつけられないものだけど)

余談が過ぎた。ともあれ災害を拡大するかどうかは人間次第。
もともと人間がいなけりゃウイルスだろうと地震や火山や
台風だろうと災害にならんのだけれども、それはともかく、
ヒトの選択が結果として多くのヒトを死に追いやった過去は、ある。

そう、未来についても、ある程度は。

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2009.05.21

自称逸般塵の不通の日記(85) 久々のラッシュ

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先日、仕事で都心へ出た帰りには、
たまたま帰宅ラッシュの時間に重なったため
かなり混雑した電車に乗るコトになった。

疲れを見せつけるような背広姿が乗ったり降りたり
立ったり座ったり隙間を奪い合ったりするのを
半ば辟易しつつも半ば興味深く観察していた。

途中の乗換駅で、目の前の席が空いたので座った。
隣には同じ駅で一瞬早く席を確保していた紺の背広の男。
コイツが席の幅を大きく逸脱しているのに、後から気付く。

反対側の席は細身の女性なので狭くは感じなかったが、
7人掛けを鋼管手摺で2-3-2に区切ったベンチシートの、
ドアから3番目に座っているのに膝から手摺が遠いのだ。

男は、見たところ三十路半ばで、身長175cm、体重90kgくらい。
この身体の幅や厚みに加えて斜めに座り込んだ姿勢が逸脱の理由。
空席に急いで座ろうと滑り込んだまま、停止していたようだ。

男が大きな顔の目の前で弄っているケータイの画面は、
その斜めの姿勢のおかげで、否応なしに見える。
というか見せつけられているのも同然だ。

目に入ったのは、書きかけのメールであるらしい。
「電車内は異臭を放つオッサンばかりで鬱になる、云々」
そんな内容の文の末尾に、顔文字を入力しようとしている。

直後、その男の側から咄嗟に顔を背けた。
見てしまったという罪悪感だとか、彼の頭髪の油脂性の匂いなどより、
もっと大きな理由が他にあったコトは、言うまでもあるまい。

しかし駅からの帰り道を歩きながら、ふと思った。
これに類する行動を無意識に行っていないとも限らぬ。
ときたま点検するようにしよう。なにせ後姿は自分で見られない。

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2009.05.20

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(26) 三度目からは莫迦正直(一度目は回避困難、二度目は認識不足)

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しばしば書いているコトだが、
落ち目のときには起死回生一発逆転を狙って
より大きなリスクを背負ってしまいがちなのが、
ヒトという生物の多くにみられる性質である。

「損があったのだから次は得があるだろう」
といった具合に損得の均衡を期待して、
つまりは糾える如き禍福の循環が実現するのだという、
半ば自分勝手な思い込みが根底にあるようだ。

でも客観的にいってリスクの高い挑戦では、やはり失敗が多い。
こんな性質のままに行動していては、
よほどの幸運に恵まれでもしない限り、
さらなるリスクを抱える悪循環に陥って破綻を迎える。

そういうときには単純に考えるのが良いのだろう。
基本的には、失敗から遠ざかればいいのだ。

リスクの高い方向とは逆方向に進んでいくか、
あるいはリスクを潰して同じ挑戦を繰り返すか。

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2009.05.19

自称逸般塵の不通の日記(84) 宙ぶらりんな連休中のコト

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そういえば連休(?)が続いていて困っている。
要するに仕事が少ないままの状態ってワケで、
蔵書や使っていない機材などの処分を検討中。

もともとほとんど蓄えができぬ程度の仕事だし、
年末頃から徐々に仕事が減ってきたせいもあり、
いよいよ懐が危篤状態に陥ってきたという次第。

でも完全に失業したワケじゃないし、そもそも
自営業で失業保険などには入ってないんだから
公共の支援などアテにできるはずもないのだな。

だから原則として自力で、
ときには周囲の助けを借りてでも、
なんとかする以外に生きていく方法がない。

実質的に下請け孫請け商売をしてきたから、
不況になれば真っ先に困った状況に陥るし、
好況になっても実感できるのは最後の最後。

今の仕事の内容や進め方に課題が多いのは確実だ。
そのへんの改善は、これから生活を立て直しつつ
同時並行的に進めていく必要があるように思える。

ちと商売替えを、
あるいは仕事の幅の拡大でも、
いずれにせよ今までの経験にない分野へ、と。

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2009.05.18

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(25) ヒトは考えるのも足を使うのも、あんまり変わらないのかも

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散歩をするときには行きと帰りとで
同じ道を使わないのが基本だけれど、
一度通った道でも再び通ってみれば
前とは違ったモノゴトにも気付くものだから、
必ずしも別の道を通るコトには固執していないし、
あえて通い慣れた道筋で季節感を味わったりもする。

そもそも風景てのは逃げ足が速いものだ。
一期一会と心得るべきだと思うくらいに。
陽射しや空模様は刻一刻と変わり留まらない。
植物は葉を茂らせ花を咲かせて枯れて落ちる。
人の活動は景観を変え続けていく。
そして猫にでも出会えば風景は背景となる。

知識や知恵に関しても同様ではないか。
今まで知らなかった知見、全く新しい見解を
求めるのは、いうまでもなく大切だけれど、
すでに知っている知識を深めたり広げたり、
同じ考えの道筋を辿って別の結論を導いたり、
といった手法もまた大切なコト。

自動車は便利だけど基本的には道路に拘束される。
道路以外からの眺望を得るには降りねばならん。
先の連休で久し振りに実家の車でドライブして、
そのコトを改めて実感させられたものだった。
クルマ社会の現代には逆行するかもしれないが、
降りて歩くような知の渉猟だって悪くないもんだ。

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2009.05.17

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(24) 光芒も焦点の誤り

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友人2人に、それぞれデジタル一眼レフを買わせて布教してから、1年少々。
一緒に出掛ける機会は多くないが、それなりに彼らも撮り歩いている様子。
職業写真家ではないし、どころか写真学校や撮影教室に通ったコトもなく、
ずっと独学で勉強してきただけだから、教えるといってもおこがましいが、
とはいえそれでも布教した手前、たまには一緒に撮って教えたりしている。

「モノゴトを写真に撮るというのは、
狩人が獲物を射程に収めるようなもの。
釣人が魚を針に食いつかせるようなもの」

ある夕方、そんなエラソウなコトを言って、電車に乗って出掛けた。
夕暮れの時刻を見計らって、西に開けた場所へ向かったのだった。
しかしダイヤと日没時刻の読み違いで、現着は西の山に日没した直後。

山の端に消えようとする太陽を狙っていたが、この日は拝めなかった。
遠くの山並や目の前に広がる茶畑をシルエットに茜色の空を撮る。
さらに振り向いて昇り始めていた月を見上げたりして、帰っていった。

リベンジというワケじゃないが、しばらく後に、雨が続いて夕方に晴れる
見通しとなった日には西へ見晴らせるような場所を探して一人で近所を歩き、
少し高台となっている公園を見付けて、そこで日没を待ちかまえたりした。

この公園では夕陽が住宅街の中に落ちてゆくので、シルエットは今一つ。
だから少し早めの時刻、公園の木々の梢に太陽がひっかかるトコロを撮る。
そして夕焼けこそ叶わなかったものの橙色に照らされる雲が美しかった。

しかし見惚れるような夕焼け空というのは狙っても出会えるとは限らず、
むしろ予想していなかったような状況で不意に出くわしたりするもんだから、
被写体としてみれば、なかなかに困った相手だとつくづく思う次第。

撮るなんてヤボをせず、じっくり眺めて堪能しろというコトなのかもな。

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2009.05.16

曇り空はマットな背景、雨はツヤと透明感を出す小道具

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たまには写真の話をしてみよう。

先の連休の後半、カメラを抱えて出掛けた日に、ちょっと天候が崩れた。
そこで、「空が青くないなら白い背景に使えばいいじゃない」とばかりに、
その白い空を露出上限に見立て頭上の新緑を見透かして撮ったりした。

小さな農業用ダム湖の畔を歩く。

風は弱く、鏡のように湖面は細かな模様のついた周囲の景色を映し込む。
青空が出ていたとすればコントラストが強すぎて空の色の変化を出そうか
木陰の陰影を見せようかと悩むであろうトコロ、却ってすんなり決まる。

そのうち小雨もパラついてきた。

雨滴で瑞々しい印象をさらに強めていく若い葉は木立の陰影を背景とし、
大木に囲まれた中で濡れて空を映す古寺の山門の屋根はひたすら輝かしく、
濡れて艶と深みを増した石垣には弱い光を浴びる叢を前景に置いてやる。

見返せばそんな感じに撮ってる。

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2009.05.15

所持品紹介(17) 眼鏡は特徴的な顔の一部ですよ

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近所で作った眼鏡と、色つきのオーバーグラス。
この古くさい顔立ちには丸眼鏡が似合うようで、
服装によっては明治か大正か、といわれたりもする。
現代人ぽくない姿は、半ば自慢ともいえようか。

視力が低下し始めたのは中学時代から。
寝る前に布団に入って夜遅くまで読書をしたり、
ちょうど中学に入った頃に親が買ったPCで遊んだり、
といったコトが関係しているのだと思う。

とはいえ中学高校時代には眼鏡が好きになれなかった。
当時は機能性ばかり重視して視野の広い眼鏡を選んでおり、
それが顔カタチに似合わず外見的にも気に入らなかった。
今にして思えば、似合わなくて当然だったな。

大学の生協でレンズが真ん丸のフレームを見付け、
以来ずっと丸眼鏡。日常的に着けているようになった。
当然ながら視野の外側はレンズの外になってしまうのだけど、
慣れてしまえば、ほとんど気にならない。

視力低下も緩やかだったせいもあって、
日常生活に若干の不便を感じつつも裸眼で過ごす時間が長く、
気付けばあまり視力に頼らず生活できるようになっていた。
なのでレンズ視野外も認識はできているらしい。

そういえば視力は大学の頃には安定していたように思う。
今も裸眼で0.2程度に若干の乱視が入った程度だから、
それほど悪化しなかったというトコロだろう。
少なくとも風呂場などで困るコトは少ない。

それに、視覚以外の感覚にも大いに依存している。
そういえば着色レンズはON/OFFの切り替えに使っていて、
基本的にプライベートでは色眼鏡なのだけれども、
それで暗い夜道を歩いていても、あんまり気にならない。

都会は“閑静な住宅街”ですら人工的な明かりが強くて、
色眼鏡でも掛けてないと眩しくて目が疲れてしまう。
(いささかコワモテに見えるかもしれんが、ご容赦のほど)
だから人里離れた地での夜なら、外して歩くだろうな。

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2009.05.14

自称逸般塵の不通の日記(83) 朋有り、遠方より来たりて眼鏡を買はんとす

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翌日、午前中から暑くなった中で、
なおも我慢しつつ寝続けようとしていたら、
かなり郊外に住んでいる友人が電話してきた。
「これからそっちの駅前の眼鏡屋に行く」

その店でのみ扱っているフレームを見繕いたいという。
2週ほど前に、そんなハナシをしてたっけな。
この暑い中で日が高いウチに出るのは気が進まないが、
せっかくだからと誘いに乗るコトにした。

駅前で合流して、遅い昼食を取って眼鏡屋へ。
求めていたのは丸眼鏡と、オーバーグラス。
プライベート用の眼鏡として欲しがっていたそうだが、
この組み合わせは残念ながら生産終了で在庫もなし。

楕円や角形フレームのオーバーグラスつきか、
あるいは真円形の眼鏡を単体で買うか、
いろいろと商品を眺めたものの決め手がない。
急ぎ買う品でもないので、もう少し悩むという。

店を出れば、もう夕方になりつつあった。
友人は遅くならぬウチに帰りたいというので、
せっかくだから1駅くらい歩いてみるかと誘う。
昨日とは逆方向に郊外へ向けての散歩道。

住宅街の裏路地として使われている暗渠の川。
やはり歩き慣れた道筋ではあるのだが、
途中から未踏の脇道に入り込むのは昨日同様。
それなりに興味深い発見があったりもした。

友人を駅で見送って、またも歩き足りないと感じ
例によって別ルートで、というより遠回りで帰る。
あまり詳しくないエリアだが見当をつけて歩けば、
大きく外れるコトなく目指した川筋に辿り着いた。

ここまで出れば、あとは同じく慣れた散歩道。
この川沿いに歩いていけば自宅の近くに出る。
帰宅したのも、予想した通りに
概ね日没を過ぎた頃だった。

この時季、夕暮れ時は涼しくて歩きやすい。

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2009.05.13

自称逸般塵の不通の日記(82) 朋有り、遠方より来たりて酔うて歩く

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晴れて暑くなった週末、
日が傾いてきて涼しくなってきた頃に家を出た。
散歩コースは暑い部屋の中で考えていた。
自宅の最寄り駅まで出て2駅ほど都心方向に歩く。

ガード下に差し掛かる手前でケータイにメール。
もう少し郊外に住んでいる友人から。
ちょうど散歩の終着駅に用事があって訪れており、
終わったら食事でもどうか、という内容。

この散歩道は何度も歩いて慣れている。
到着時刻を予想できてしまうくらいに。
だから日没までに歩き通す時間を見計らって出た。
しかし逆に友人の用事は時間が読めないらしい。

メールで経過を連絡しつつ歩く。
それ以外は日常の散歩。
通い慣れた散歩道でも季節によって違って楽しい。
ときたま未踏の脇道にも踏みこんでゆく。

果たして予想通り日没の頃に到着したら
ちょうど相手も用事が終わったとの連絡。
駅前で落ち合って散歩で撮った写真など
肴にしつつ軽く飲み食いをする。

帰り道、まだ歩き足りない気がしたので
再び2駅、別ルートで夜の散歩をするコトにした。
ついでに友人を誘えば一緒に歩くという。
ノンストップで喋りつつ歩けば、あっという間だ。

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2009.05.12

自称逸般塵の不通の日記(81) 食う、福

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はてさて。
難だ侃だと屁理屈を捏ねていようとヒトである以上、
飯を食わねば死んで仕舞うので、食って生きている。

先日はコメの消費が急に激しくなったと思った。
間抜けなハナシで、考えてみれば当然のコトだ。
主に経済的な理由で外食を減らしてるのだから。

しかも炭水化物を主体とした節約型メニューが中心。
コメだけじゃなくパンや麺類も消費が激しくなった。
暑くなってきたせいか油脂分も減りが早い気がする。

どうせ食うなら美味を求めたいのが人情ではあるが、
しかし最近は食通を気取るどころのハナシではなく、
もはや食道を通すコトが重要というくらいの状況だ。

そんな食生活でも食えば割と幸せを感じている。

嗅覚や味覚が適切だと判別した食物によって腹が満たされて、
消化器官が活発に動き始めると、感じられる本能的な満足感。

もともと凝った料理をする趣味があるワケではないが、
それでも美味なら美味と感じるだけの味覚くらいなら
持ち合わせているつもり。なのだけど、それとは別に。

まあ要するに現代の日本人にしては粗食に耐えられる
性質であるらしい。育ちのせいだと思うので親に感謝。
腹を満たしたら、腰を据えて戦に掛かろう。

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2009.05.11

汎世界的な流行の兆しをみせる伝染病に対する予防の重要性について

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基本的には、まず好奇心が先に立つ性分だから、
気になったトコロを妙に詳しく調べてしまって、
そして知れば知るほど、否定はできなくなる。

しかもたいがいがヒトのやるコト為すコトだから、
それなりに理由や歴史的な背景なんかがあって、
なんだか怒るに怒れなくなってしまったりする。

それでもたまに、あまり深く考えるコトなく、
単にソレを善いと感じられなかったというだけの理由で
不善と結論づけるための屁理屈を捏ねてしまったりする。

そんなトコロは多かれ少なかれヒトの性質だので、
自己批判と反省を行いつつ自分自身への直撃を避け
一般論として書き散らかすコトで解消を試みよう。

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馬鹿を馬鹿と指摘するのは簡単なコトなんだけど、
その理由を検証せずに言うならば当人もまた同様。
なにせ思考停止は馬鹿とされがちな状態なだけに。

馬鹿が何故、また如何なる経緯で、馬鹿となったか。
そこを知らずに馬鹿と呼ぶは馬鹿等価の思考停止か、
あるいは馬鹿近似の努力能力器量不足に相当しよう。

だからといって「馬鹿が伝染する」とばかりに
避けて通るってのもまた思慮不足に思えるので、
これまた馬鹿への道をひたすら突き進むが如し。

そもそも、その対象を馬鹿と決めつけた瞬間に
感染してるんだから、もう遅いってワケだな。
ていうかそれが最初の症状ともいえるんだが。

しかも治療法は、本人の自己治癒能力に頼るか、
さもなくば「馬鹿は死ななきゃ治らない」だ。
なにせ医者も温泉も役に立たんのだからして。

しっかり予防して、水際で食い止めていくべきだろう。
といっても、入国禁止なんて馬鹿な手段じゃなくてな。
もちろん隔離したトコロで何も始まりゃしないのだし。

どうせ馬鹿なんてのは、ヒト集団の中には
それなりの割合で自然発生するものだから。
馬鹿-非馬鹿転換は思った以上に頻発する。

だもんで各人に予防力を身に付けてもらうしかないのさ。
きっと、そもそも対象を馬鹿だと思ったりしなければ、
たぶん同じ轍を踏むようなコトはないのじゃないか。

要は、アタマから否定してしまう前に、
否定するキモチを否定して掛かった方が
いいんじゃないかなと、そんなワケだ。

この予防は、しかもおそらく感染後の
自己治癒能力にも関わってくるだろう。
風邪をひきにくい体質なら治りも早い。

こんな予防法を実践するなんぞ、
なかなか余人には非常に困難
ってのもまた事実ではあろう。

まあしかし甲斐なしとはいえぬ。解がないワケじゃないし。

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2009.05.10

なんとなく三段論法っぽく書いてみた

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社会はヒトが作るものである。
そしてヒトは間違いを犯すものだ。
ゆえに社会も間違いを犯すものだ。

違った方向からみてみよう。

社会はヒトが作るものである。
そしてヒトは完璧ではない存在だ。
ゆえに社会も完璧ではない存在だ。

どっちにしろ残念な結果か。

社会はヒトが作るものである。
そしてヒトは善意も持っている。
ゆえに社会も善意を持っている。

そういうコトにしときたい。

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2009.05.09

理系用語で読み解く社会(49) ニッチェ心理学

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過去にニッチだった存在が急に第一勢力になると
それまで抑えられていた反動で爆発的に繁栄する

そして自滅する

しかも周囲の環境に多大なる破壊の爪痕を残して

たいていそういうとき、内部的にみても自発的に
抑えようとする動きは、非常に少なかったりする

生物の性質というのは、あらかじめ急激な環境の
変化に対応できるようにプログラムされていない
限り、そのまま拡大を続けようとするものだから

とはいえ限界というのは訪れてみないと分からぬ
ものだけに致し方ないトコロではあるのだろうな

後になってから後悔するのもまた不可避なる道理

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2009.05.08

理系用語で読み解く社会(48) 議論の不可逆性と、ある程度の粒度のヒト集団によって構成される強い正のフィードバック回路について

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同じテーマで、方向性の異なる2題。

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・その1

批判に対して反対方向から批判を加えると的外れになりがちなものだ。
どうしてもヒトのコトバなんて不完全なもんだから、かなり頻繁にある。

たとえば「総論賛成各論反対」という意見を述べたつもりであっても、
何故か全面反対と受け取られて、強い反発を招いてしまったりする。

それだから批判の批判の批判は、もっともっと的を外していってしまい、
もし元に戻そうとして言葉を尽くしても、これまた逆効果になりがちだ。

そうこうするウチに混迷の中で焦燥感と徒労感ばかりが募っていって、
皆も次第に投げ遣りになってしまって、後は野となれ山となれ……。

そんな雰囲気が周囲に蔓延していけば、もう誰も真剣に対話しようとは
しなくなり、議論の場は何れも即ち殺伐とした闘争の現場と化してゆく。

こうして悪意は、困ったコトに循環しつつ増幅してしまう。
(もちろん、善意も循環するコトはあるのだけれども)

この悪意のサイクルが、ちょうど氷河期に向かおうとする気候変動のように
正のフィードバックに入り込みかけているようなのが、現状なのではないか。

容易には押しとどめられないだろうし、むしろ無理すれば流されてしまう。
「力」や「数」の要素が卓越した条件下では、個人など無力なものである。

せめて今は上手にやり過ごして、再び温暖期に向かう時代に備えつつ、
せっせと善意を蓄えておくのが良いのかもしれないね。子孫のためにも。

あるいはもしケスラーシンドロームが発生したって、いつかは軌道上の物体も
重力的に安定な状態へと移行していって、少しずつ落ち着いてゆくはずさ。

もちろんそれにはヒトの歴史と比べても長い時間を要するのは間違いないが、
それでもなお子孫が生き残っていたならば、ついに晴れた、って思うだろう。

--
・その2

正のフィードバックによって構成されている流れの逆転というのは、
かなり急激に生じるコトがあって、えてして振動、あるいは反動となる。

複雑系の中では、通常は正のフィードバックが働く部分でありながらも、
ある時期を境にして方向性が逆転するようなケースがあるらしい。

そうなれば、ほぼ確実に行き過ぎるコトになる。
ちょうどいいというトコロは、ほんの一瞬だったりする。

これが、善悪の軸でなくて、例えば右と左の軸なんかだったりすると、
まあ大概、いろいろと禍根が残ったりするような結果となるワケで。

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2009.05.07

理系用語で読み解く社会(47) キモチのヒステリシス

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ヒトのキモチなど非合理性の極みのようなものだし、
それこそ非線形な存在であるからして、分析は容易ではない。
逆のルートを辿ってみても同じトコロに戻るコトはないものだ。

たとえば大切にしたい人がいて、その人に好かれたいのに、
逆に敬遠されたり距離を置かれたりしたら、
そりゃ誰だって荒んでしまうもんでしょ。

ただしそれは相手のキモチに関係のないコトで非合理的。
そんな感じで御しがたい心身に最も腹を立てているのは、
得てして自分自身だったりするのだよね。

だからそんなのを使いこなそうなど、自分自身でも無理だろうさ。
ただ、それを知って先回りするコトは不可能じゃないから、
コントロールしているように見せかけるくらいなら、できるかもね。

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2009.05.06

理系用語で読み解く社会(46) ヒトに優しい弱賛成

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余計なトラブルを招かぬようにするには、
感情の動きは小さく、緩やかな方が良い。

このような機能を実装するには、
バッファを設けるのが基本。

自らに対する態度としては、
若干の否定を含めたカタチで考えてみるなど。

逆に周囲に対しての態度としては、
どちらかというと完全な中立というよりも、
少しだけ相手に寄った立場の方が良い。
もちろん完全に寄ってしまえば道を誤るので、
若干の肯定気味で、かつ完全肯定でなく、
という微妙なバランスを求められる。

しかしバッファの容量というのは、
自らの感情の動きを抑制する程度なら
それほどの大きさも必要ないんだが、
外からの入力は過大なものになりがちで、
ときたま不足を来すのが困ったトコロ。

もっともっと容量の大きなバッファを
この心の中に作っていかねば。

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2009.05.05

それにしても自己制御は難しい

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時間がなくて焦りそうなときには「まだ余裕がある」、
のんびりしすぎて時間が足りなくなりそうなら「もう後がない」
という具合に、マイナス方向の意識を打ち消すような考えを巡らす。
それは、当然ながら行き過ぎると逆に良くない結果をもたらす。
だから適度に、当て舵を入れるように工夫しながら、
だいたい真ん中あたりの落ち着いた状態を維持していられるように。
それは自然の摂理に従うような感覚なのではないかとも思う。

まず感情と、次いで勘定と、折り合いをつけながら生きる、
そんな感じに、ここ何年かを過ごしてきた。

だから、いろいろと工夫をしつつ感情を受け流すようにしている。
我慢できなくなるコトに備えて作り上げた脳内の低抵抗思考ルートだ。
内部の漏電に備えてGND配線をするのと同じようなもの。
外部からの強い入力に対する備えとしては、
それはつまるところ避雷針みたいなもんで、
また別の低抵抗ルートを作っておかねばならないんだが、
しかし、まだまだそっちは難しい。いろいろと。

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2009.05.04

たまには時事ネタ(49) 右を見て、左を見て、安全を確認してから入りましょう

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先日、どこかのサイトで偏向報道っていうキーワードが目についた。
そういえば自虐史観なんてコトバもあったっけな、と思い出した。
そのあたりの用語は同じ文脈の中に出てくるコトが多いような気がする。

これらの各論について、いずれ触れる機会もあるかもしれないが、
誤解を受けぬよう言を尽くせば長くなりすぎて却ってミスリードを
招きかねないと判断し、今回は特に踏みこまないコトにする。

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こうした議論の場の中では、
「右と左」が対立する構図にばかり
なっているケースが目立つ。
それが、どうにも違和感を覚える。

どちらか一方だけが正しい?
そんなコトは、たいていない。
どっちも正しいが完全じゃない、
というのが大概のトコロだ。

2つに割った板の上で、
それぞれが自分を本物だと主張し
相手を偽物だと言うような、
そんな感じに思えてしまう。

--
右か左か、いずれの立場にしろ、一方に立った時点で、
反対側からの意見は心に響かなくなってしまうではないか。
結果として、議論に参加すれば対立は深まるばかりなのだ。

ナニをエラソウに、と仰る向きもあるかと思うが、
対立した意見をぶつけ合う場ってのは「勝つか負けるか」、
特に掲示板なんかだと、もう争いの場にしかならない。

しばしば議論は膠着し、各自が主張するだけになる。
そして、どちらも負けを認めず、勝手に勝ったと宣言して
逃げにかかる以外に抜け出す手立てはなくなってしまう。

しかし逃げたトコロで残った相手が勝利宣言をするだけ。
決着がつかないどころか後味悪く禍根も残る。
莫迦じゃないのか、と言いたくもなる。

--
もちろん、非難はむしろ自らの身にも向けている。
実際、ヒトにとって、特にオトコにとっては、
その本能に根差したものであるらしく、逃れ難い。
逃れるにはどうしたらいいのか、ずっと考えている。

体面だの自尊心だの信念だのといったモノゴトは、
特に捨て去るコトが非常に難しい存在だ。
これは各人にとって非常に大切だとは思うけれども、
現実として、その存在が邪魔になるケースは多い。

中でも古くなって劣化したプライドなどは、
対外的な仮面に張り付いて、なかなか取れない。
もちろん、無理に剥がそうとすれば痛いし、
そうしようとするコトさえ恐怖を覚えるものだ。

でも、いったん捨てて、また作り上げるのは
案外カンタンにできてしまう場合もある。
そして時間をかけて自己の内面に対する評価を築き上げ、
好悪併せて好きになるコトだって、難しくはないはず。

もっとも、またそれが再び災いする危険性も、
少なからずあったりするものではあるが。

--
右にも左にも向かず、
あるいは前にも後ろにも上にも下にも向かず、
ただ内だけを向いていたとしてもなおヒトは
完全に中立ではいられまい。

ヒトの中には外から写し込まれたモノゴトがあって、
そいつとは否応なしに向き合わねばならぬのだから。

だから先ず、自分自身を内側から眺めるようにするよ。

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2009.05.03

理系用語で読み解く社会(45) 面白うて、やがて哀しき反復新星

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巨大な恒星と白色矮星との近接連星系で、
恒星から白色矮星へとガスが落ち込み
堆積したそれが限度を超えると爆発する。
恒星から矮星へとガス供給が続く限り、
いずれ再び同様の爆発が生じる。

当然、爆発の燃料になるガスを供給する赤色巨星がなければ
白色矮星は特に変化もなく、ただ静かに存在続けるのみだろう。

実体経済と金融経済との相互の影響関係
として考えると興味深いなと思っていた。

過剰に膨らんでは弾ける、そんなサイクルを繰り返す経済。
どこか新星にも似ているような気がする。
しかしヒトは、その中で翻弄されていく。

膨らむのに乗じてそれを加速させ多くを得る者がいる反面、
少しばかり得た後に爆発で全てを失う者もいる。

しかも前者も、自分から動いているように思っていながら
実は周辺や自らが描いた舞台の上で踊っているに過ぎなかった。

実は社会経済に限ったハナシでも何でもなく、
むしろヒト社会の活動全般、こんな感じだ。

反復新星では、新星爆発が生じるたびに
白色矮星の質量が少しずつ増えてゆくらしい。
いつか、その質量が一定の限度を超えれば
今度は超新星爆発を起こすと考えられている。

巨大化しすぎた自らの質量に耐えかねての重力崩壊だ。

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2009.05.02

理系用語で読み解く社会(44) 繰り返し応力による疲労

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さて、いよいよパンデミックが、始まりつつあるようだ。
果たして、どれだけ封じ込めるコトができるのか。

それは関係者の能力や努力を含めた社会全体の対応だけでなく、
新たなウイルスの感染力や病毒性の強弱にも依存しよう。

まずは、良い材料も悪い材料も、
きっちり集めて実態把握に努めねば。

良い材料があったからといって、決して楽観はできない。
だが悪い材料があっても必要以上の悲観はいけない。

急がず焦らず慌てず腐らず悪びれず誇らず驕らず
つまり普通に警戒心を忘れず、やってくというワケだ。

だいたいにして過剰な恐怖感は社会において悪影響。
小さなグループで固まってしまって排他的になるばかり。

そうなれば数の勝負になって、より少数派のグループが
しばしば多数派のグループによって排除されたりする。

とはいえ今回は、まだ大丈夫かもしれない。
それなりに準備ができているし、情報も流れている。

だが次はどうだろう。次のその次は、どうなることか。
やり過ごしたと思って安心したときに、災害は再訪する。

警戒心が緩んだトコロに危機が忍び寄り、
どこかで疲労破壊が始まるかもしれない。

できれば、今回の一件では押さえ込みに成功して、
かつ次に来るであろう、より強力なウイルスに対し
もっと効果的な対策が打てるようになっていてほしい。
疲労するでもなく慣れるでもなく、鍛えられてほしい。

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2009.05.01

旅の仲間たちのこと

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帰ってきた夜、都内で友達の“迎撃”を受ける。
夜行に乗る前にも、別の友達の見送りを受けていた。

能登土産は、彼らと一緒に飲むときのために買ったものだ。

節目節目で、声をかければ応じてくれる仲間たち。
それぞれの人生、それぞれの都合はあるが、今は
一緒に歩いている。

そして、
ときには苦い杯を分け合い、
ときには楽しみを共にする。

みんな歩幅も足音も違うし、それぞれ視点も異なるが
こうして一緒に歩くと小さな事件が数多くあって、
楽しい。

思えば語り合う相手がいてこそ、
考え続ける癖も続いたのではないか。

小学校の頃の同郷の親友。
中学・高校の対話の相手。
大学での悪友ども。
社会に出てからの友人たち。

それぞれの存在、それぞれの関係があって、今に至る。

これからも、よろしく。

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