役に立つか苦言かどうかは受け手次第(30) 火のないトコロにも対岸の火事
少し戻るが「パッシブなワガママ」に、もう一つのベクトルを発見した。
ある意味で非常に利己的な考え方だなあと、我ながら興味深く思うので、
その概略を説明しよう。
他者が非難を浴びているトコロに第三者的な立場で関わる状況を例にする。
要するに目の前で対岸の火事を見ているような、場面だ。
このとき、非難を受けている人物の弁護は、あんまりやらない。
逆に非難する側と一緒になったりも、あまりしない。
(どちらかの味方に立つのは、その時点で入手できる限りの情報を総合して
充分な理由があると認められるような場合に、おおむね限られている)
ただ、そういう問題を抱えるコトにならないようにするには、
どのような回避策があるのかを、傍観しつつ考えていたりする。
ただし、「そんな失敗、私なら陥らない」なんて考えるコトは少ない。
それこそエラソウだと思えるものだが、それ以外の理由がむしろ大きい。
そもそも殆どのヒトにはおおむね共通の各種本能が備わっているし、肉体や
頭脳、精神の制約条件もある。雑な言い方をしてしまえば「ヒトゆえの限界」。
多少の性格や能力の違いなどで失敗を免れ得るケースもあろうが、
それだけでは回避できない失敗例も少なくないものだと、考えている。
ヒトの限界によって陥るような失敗に対して対策しようと考えるなんて、
それこそエラソウだと思えるものだし、ヒトデナシになるのも当然か。
まあそんな利己性があるらしい。
しかも、そうしていてもなお失敗をしでかしたりするのは、
そして周囲に嫌な想いをさせて苦しんだりするのも、ヒトゆえか。
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それを、逆に考えるようになったのは、最近のコト。
パッシブであろうとアクティブであろうとワガママが迷惑をかけてしまうような
困った結果を避けられないのであるならば、パッシブでいる意味があろうか。と。
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