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2009/06/20

損した気分が心を害する確率は明示されていません

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「損したんだから、その分の見返りはあるよね?」
なんてついつい思ってしまいがちなのがヒトてヤツで。
でも考えてみれば、そんなの誰も保証してないワケだ。

もしかしたらどこかにカミサマがいて艱難辛苦に報いてくれる、
そして現世だの此岸だので叶わなくても来世か彼岸で云々、
といった具合に思っていられるなら、幸せも感じられよう。

このような考え方は、ヒトが歴史の中で編み出してきたもの。
ヒトと世界との関わりの中で生じる矛盾を受け入れるために。
だから矛盾を受容するための道筋を示すシキタリスともいえる。

だがそういった考え方に馴染めない人たちも少なくない現代、
資本主義が民主主義を揺るがしかねないくらい強い影響力を
持つまでに至った現代は、カネの「見返り」が幅を利かす。

「損」がカネ以外の内容だったとしても、多くの場合、
「見返り」にはカネ換算して通用させられていたりする。
実際、ヒトはカネ換算する仕組みも営々と作り上げてきた。

でも、カネなんかでは、気持ちが晴れるコトはないもので。

結局「損した」気持ちはずっと残り続けてしまう。
カネ換算の見返りを払う義務を負った側も、気は晴れまい。
(いろいろな方向性が考えられるけど、いずれにせよ)

善悪好悪の比率が保たれているなんて信じないのに、
それでも気持ちの上では均衡を要求している現代人。
この相反性こそ、いかにもヒトらしくあるとは思う。

もし仮に何としても均衡が保たれねばならぬとするならば、
それは他から与えられるコトを求めるのでなく自ら探求し
得ようとする気構えが必要なのだろうとも思うのだけれど。

とはいえそれが却って他者に不均衡を感じさせるような
内容であるなら結果的に均衡状態を実現するのは困難で、
それこそ再び自らの身に返ってくるのではないだろうか。

あるいは均衡などしないと合理的に割り切って考えるか、
逆に心理に従うなら比率が保たれるよう気を配っていけば、
矛盾を解消できるかもしれんが、それはそれで違うハナシに。

だって、矛盾がない存在なんて、ヒトとは呼べないもの。

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過去にヒトが蓄積してきたベストプラクティスを集約すれば、
ヒトゆえの矛盾を受け入れるのが気楽に生きる術だとも読める。
もちろん「分かっちゃいるけど何とやら」の類も、含めて。

このところ極貧生活を続けているだけにカネの有難味を
否というほど思い知らされているのが現実だけれども、
そういったトコロもまたヒトやヒト社会の矛盾なのだろうと。

自らの中に矛盾を見出し、他者の中にも同じ矛盾を見出し、
そしてヒト社会に普遍的な矛盾であると知り、そうやって
ようやく諦めがつくのがヒト。そんな気がしている昨今。

まず自らの中身に何らかの鍵を見出すのが肝要なのだろう。
もしかしたらそれは鍵に思えて実は自己欺瞞かもしれないが、
多様な鍵を拾っていけば、中にはマトモなのも含まれよう。

せめて後々の「損した」感を軽減するコトを「見返り」としたい。

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