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2009/06/24

せめて人を愛せよ(汝自身を含めて)

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日本語は主語なし文が成り立つ、ちょっと特殊な言語だと思う。
自分自身について語る文でさえも、「私」「僕」「俺」「自分」
など一人称代名詞を含めず記述するのは、そう難しくないコト。
実際、このブログでも、特に明示してこなかったが、ほぼ全く
一人称代名詞を使わぬつもりでいたし、それで書き続けてきた。

また日本語の一人称代名詞は多種多彩であり、どれをとっても
英語の「I」のような万能単語ではないので、いずれかを選択
した時点でその語が示すイメージに引きずられてしまいがちだ。
一人称代名詞を避けるのは、そんなイメージを排したいから、
そして(ブログにありがちな)自己主張色を弱めたかったから。

とはいえ、こうしてブログを書き続けているのだから、当然
全く自己表現をしたくない、というワケでは決してないのだ。
少なくとも、自己について問われれば答えるようにしている。
周囲に理解されにくい性質があるもんだから、それは必須だ。
ただし、我を出すのを抑え気味にしようとする気持ちはある。

実際には普通の人間と大差ない存在なのだと、思ってるけれど、
過去にも何度か書いてきたが、外見は「悪オヤジ風」らしいし、
性格は「パッシブなワガママ」、しかも半ば本能的に他人との
間合いを取ろうとする性質があるものだから、放っておいても
周囲からは「どこか違った人間」と思われてしまいがちである。

だからこそ、いわゆる「どこか違った人間」にありがちな、
我を張った風には、したくないだけ。それが本音。

ああいう人たちに怨みは持たないつもりだけれども、
実際には過去に何度も辟易させられたり、困ったり、
ときには損害を被ったと言えそうなケースもあって、
せめて周囲に、そういう迷惑はかけたくないと思う。

(「アクティブなワガママ」ではない現状、たぶん大丈夫だとは思うが)

振り返ってみれば、パッシブなワガママでありながら、実際には
周囲から求められているように行動しようと必死になってしまい、
その度が過ぎたために却って信頼を損ねたケースもあったりする。

夢くらいは(儚いと知りつつ)思い描いたりするし、
もし嬉しいコトがあれば舞い上がってしまったり、
嫌なコトがあればイライラしたりムカッとしたり、
あるいは凹んで弱って自己卑下していたりもする。
その程度の、ごく普通の人間なのだと、示したい。

いや、むしろ普通の人間より、消極的なのだろう。
過去の大きな痛手だとか現在の生活の苦しさなど、
いろいろな重荷ににメゲそうになりつつも、まだ
それでも「死ぬまでは」生き続けようとしている。

さすがに、これでは消極的すぎるのだろう。

ここしばらく、そんな反省をする機会が続いたように思っている。
だから、「ありがちでない」そして「あまり迷惑でない」ような
アクティブなワガママを、今後は目指そうかと思うに至った次第。

なかなかアクティブなワガママになりきれないのは、
もともとの性格に依存する部分も少なくないけれど、
それより今まで生きてきた上でのさまざまな負荷が、
きっと強く強く心理的な抑制をしているのだと思う。

だからこそ、改めて過去と向かい合おうとしている。

--
最近親しくなった方とのメールのやり取りの中で、
ブログでは一人称代名詞を使わないという話題に触れ、

> どちらかというと自己愛が少ないのが、日本語

と書いたら、こんなふうに返されてしまった。

> どちらかというと自己愛が少ないのが、yさん

でもね、[筆者一人称代名詞]は、人間が大好きなのですよ。
そして、その人間という大きな枠の中の、ほんの片隅の、
重箱の隅の漆の塗膜の微細なヒビに隠れた微生物くらいには、
自分自身を愛してもいるんじゃないかなあ、って思ってます。

……うーん、
まだまだ、アクティブなワガママになるのは、遠いなあ。

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