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2009/06/21

こっくりさんのそっくりさん

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ニヒリストというかペシミストというか、そういった
方向性を共有する対話仲間(?)のU君と話をしていたとき、
「偶像をヒトが作り上げているのと同じくらいに、
社会における幸・不幸もまたヒトが作り上げるもの」
てなコトを喋っていたのを思い出した。

「神の見えざる手」的発想は、古今東西問わずある。
しかし考えてみれば歴史の中に伏線が張られている。
誰かが張った伏線を、後の時代の人が知らずに引く。
いやむしろ誰もが意識せぬままに伏線を張り巡らす。

それぞれのベクトルの総和が世の軸を動かしてゆき、
ときには誰かの望み通りに動いたかに思えたりする。
でもそれは多くの偶然と一部の思い込みが主成分で、
特定個人や集団の意図など、添加物程度でしかない。

損をした分の見返りだとか、悪事を働いた者への
応報なんてのも、まあ、そんな具合に生じている。
だから、そうなるケースもあるけれど、ならない
ケースも、少なからず存在しているというワケで。

少なくともヒトビトが今、生活している場はヒトの世界。
それ以外の世界ではどうだか知らないけれども、
ここでヒトを裁くのは基本的ににヒトであって、
この世ならざる場にいるカミサマじゃないんだよな。

意識していようがいまいが、だいたいそうなってる。
ヒトにはカミサマの意図が読めないのも、当然か。
まあ糾える縄の如くに禍福いずれも含まれていると
思っておけば、気休め程度にはなるだろうか。

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