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2009/11/26

遠回りをするのは好きだ。変化を楽しめるから。

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ていうかそもそも、指標や論拠や証明といったモノが
ないと判断できないなんて考えは、いささか機械的に
過ぎるのではないかと思うのだな。ヒトだというのに。

だいたいにして、有名な某解剖学者の言葉じゃないが、
「ああすればこうなる」的発想にばかり頼っていては、
世の中の複雑な仕組みをきちんと説明しきれないのだ。

「ああすればこうなる」=科学的、という誤解が多い
ように見受けられるのだけれども、それは違うだろう。
科学というのは、そんな狭い世界のモノゴトではない。

シンプルな理屈や論理だけで世の中を説明できるなら、
誰しも悩んだり迷ったりしないだろうし、逆に言えば
揺れ動く心理状態を味わうコトだって、できやしまい。

そんなトコロがヒトのココロのソコにあるというのに、
アタマでは「ああしてこうして、こうなった」なんて
やったりするから、いろいろとズレたりスレたりする。

歪みが蓄積し続けて限界を超えた末路も想像できよう。
限界というのは社会全体が突然迎えるものではなくて、
社会のところどころで散発的に生じつつ拡大してゆく。

だもんだから初期の兆候は、ヒトの観察力限界により
明確な指標や論拠や証明として捉えられるコトはない。
そして数として見出した頃には手遅れとなりがちな由。

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とはいえ残念ながら現代社会の中では数字がヒトを
動かしている面もあるあたり揺るがせぬ実態である。

議会は数の論理が支配的、役所は予算に縛られる、
企業は利益必須、家庭や個人もカネで生きている。

入試や人材採用での評価でも比較しやすい数字に
強く依存しがちなもんだから学校教育もまた同様。

社会や組織による賞罰などにも細かな基準があって、
「ああしたからこうする」的計算に基づき勘定する。

そいう数字に依拠する思考形態に慣れてしまえば、
今の世の中を生きるには容易なのであろうけれど、

だからといって「ああすれば」以外の思考手法を全く
知らぬ者たちばかりが再生産されて良いとは思わない。

教育機関のみならず家庭や各種メディアや人々まで、
社会全体に、相応の比率で「他の」考え方があって、
コドモがオトナになる過程のどこかで一度なりとも
触れる機会が、どこかで得られれば、と願っている。

科学も宗教もヒトのアタマとココロが作ったモノだから、
ヒトが変化し続ける以上ソレらも変化しないワケがナイ。

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