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2009年12月

2009/12/31

できるコト、できないコト

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多くの人ができるコトは、いつか自分でもできると思っている。
同じような経験を積んで感覚を磨き技量を高め、環境が整えば。

そういうトコロは少年的、といえるのかもしれない。

逆に、経験を積むための時間や費用や環境や努力や気力などを
確保できないと思うなら、それは実質的に達成不可能な領域だ。

そういうトコロは老年的、といえるのかもしれない。

思い出せば、昔からの友達の一人は、たいていのコトを
まず「こんなの無理だよ~」と言って避けていたりする。
それは、「実質的」なトコロまで考えてのハナシなのか。
彼の隠された内面は知る由もないが、推し量ってみたり。

ふいと気付けば、また年が改まろうとしている。
できるコトを、あとどれだけ増やしていけるかな。

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2009/12/30

何が怖いですか

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ヒトは怖がりなもので、いろいろなモノゴトに
怖れを抱き不安に駆られ、それらに囚われてしまい、
闇雲に力を求めたり、あるいは逃げまどったりする。
これでは一難去ってまた一難、翻弄されるばかり。

どうせ誰もがいずれ死ぬのだからと割り切って、
少しくらいの不安感などには負けないような人物が
周囲には少なからずいるのだけれども、
いずれも濃密な人生経験を経てのコトである。

それはきっと普通の社会人とは
異質な層なのだろうと思っている。

といっても、そういう人たちでも怖いモノゴトがある。
たとえば、負けたくないというキモチに負けるコトが
個人的には一番怖い、と思ったりしている。
再帰的な流れにしてしまえば抜け出しやすい。

負の感情を負のフィードバックに閉じこめてしまえ、
ってなワケだ。実際そうなるかどうかはともかく、
そういうものだと思っておけば、気は楽になれる。

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2009/12/29

失敗からは逃げられない

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失敗は誰にとっても気分の良いものではないが、
だからといって挑戦を避けてばかりいては、
何の経験も得られず失敗回避の方法も分からない。

責任を取りたくないからと、自発的に考えたり
動いたりしない、なんて傾向が「最近の若者」に
あるらしいと、どっかの番組で言ってたっけな。

だから時間を費やせば確実にカネを得られるような
時給単位の仕事に若者たちは集まるのだ、という。
きっと目の前に予想される小さなリスクを避けるため。

でも、その先はどうなるか。他人事ながら心配だ。
一生で数えるほど、あるいはより低い頻度の
大きなリスクを回避するには、全く役に立つまい。

社会全体が抱えるようなリスクってのは、
何処の誰に対しても、それなりに影響が及ぶ。
その回避ないし低減は、まずもって容易ではない。

せめて小さなリスクを上手に乗り切るだけの
感覚と能力を磨いておいて、いざ大きなリスクが
迫ってきたときには能動的に動けるようにしたい。

--
きっと家庭教育として、幼い頃に小さな失敗を
何度か繰り返してすような経験が重要なのだと思う。

失敗は誰にでも苦痛だ。あまり大きな苦痛を
慣れぬウチに与えては、きっと良くないだろう。
とはいえ、すぐ忘れてしまうような小さな苦痛
であれば、対策を考えるには至らぬだろう。
つまり、ある程度の期間、さほど大きくない苦痛が
持続し続けるようにするのが、考え続けるには良い。

たとえば、「失敗した買い物」など、良いかもしれない。
金額が大きくなければ苦痛は小さいコトだろう。
そして容易に手放せぬような性質の品物であれば、
ずっと手許に置き続けて、躾の一環になるかもしれん。
買い物という選択が失敗した結果を、その後も
否応なしに見せつけるようにする、というワケである。

昔話だの説話だのといった「おハナシ」でも、
単に成功話だけでなく、失敗とその末路まで
時系列で教えるような内容は、良いかもしれん。
「清く正しくないカミサマ」の神話など、ナマナマしい。

オッサンやオバサンが、成功も失敗も含めて自らの
生の体験を若い世代に伝えたっていいだろうし。
だから歳を取ったと実感したら、恥は捨てていいのだ。
そんな考えで、中年を生きている昨今。

--
そんな意図もありつつ、考え方の道筋を示すような
内容のハナシを、このブログでは頻繁に書いている。

世間には、手の内を明かすのを忌避する
人も少なくないようだけど、そんなもの
隠すような必要など、ないと思っている。

表面をなぞって真似るだけなら簡単だけど、
同じヒトではあるが、どうせ違った人間。
中身まで本当に同じような性質になるなんて、
まずできるコトではないんじゃないかな。

どうしても考え方を隠したいと思ってしまうような
人がいるとすれば、それは表面的に真似すれば
中身まで見透かされてしまうのではないか、
と不安に駆られているだけだと思う。

あるいは、表面しか持ってないというコトかも?

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2009/12/28

自称逸般塵の不通の日記(131) 年の瀬も押し迫った、ある日の夕方のこと。

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携帯電話に届いたメールは、全く知らぬ相手からだった。
内容から察するに、何らかのグループに属する男性が、
そこで知り合った女性に対し、宛てたものであるようだ。
どうも、宛先を間違えて送信しているらしいのである。

このときの間違いメールは、久し振りの日本語であった。
英語やスペイン語、ポルトガル語らしき間違いメールも
ときたま届いてきて、さすがに返事のしようがないけど、
日本語なら「間違えていますよ」と伝えることができる。

無差別広告メールであるならば、送信元アドレスから
推測される携帯電話事業者の迷惑メール窓口に宛てて
転送してやれば、あとは忘れてしまったコトであろう。
だが今回は、どうやら個人対個人のメールである様子。

余計なお世話かと思いつつ、間違いである旨、返信した。
間違い電話を受けたときと同じく、間違いであるコトを
その当人が認識してくれない限りは、再発の危険もある。
後々の面倒を避けるには、その場での対応がむしろ重要。

そういえば以前は、英語の間違い電話も、何度かあった。
東南アジア方面とみられれるイントネーションの、英語。
新たに入手した番号の過去の利用者の電話相手とも思え、
厳密には違うかもしれないが「wrong number」と答えた。

ヒトは、間違えているトコロに気付かず同じ間違いを
思っている以上に繰り返しがちなもので、東南アジア系
英語の間違い電話も、けっこうな回数になったものだ。
声から判断するに、数人が平均2~3回の間違いだったか。

今回のメールでも、最初の返信では間違いであるコトを
理解されず、相手がトボケていると判断されたらしい。
追ってグループ名(?)やその中での別名(?)を伝えてきた。
もしかしたら、無視しておいた方が良かったのだろうか。

仕方なく、間違いだと認識できるような説明を追加して、
改めて返信した結果、ようやく理解してもらえた様子。

間違えて困るのは相手もさることながら本人の方である。
特にメールでは、送ってしまったら取り返しがつかない。
プライベートな関係を第三者に晒け出してしまうのだ。
そして自分自身、似た過ちをしないとは限らないので。

だから今回も具体的な内容は笑って忘れ去るコトにする。

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年末年始というのは、普段とは違う人間関係が生じがち。
今回の一件も、そんな年の瀬の無数の一場面に過ぎない。

電話番号やメールアドレスを伝える際には、書き違いや
言い間違い聞き間違い、入力ミスなどいくらでも間違う
可能性は少なからずあるのだから、伝達する機会が多く
なる時期には全体として間違い電話やメールも増える。

ただそれだけの、デキゴトといってしまえば、それまで。

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2009/12/27

暗箱に針穴(20) 散歩進んで二歩進む

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行きつ戻りつ、していると、時間ばかり過ぎる。
もっと手前の方が良かった、と思える場面でも、
面倒がって戻らないコトも、少なからずあった。

だからというワケではないが、早めに動く癖を
つけるよう、普段から心掛けている。特に散歩。

ちょっと早いかな、というあたりで最初の撮影。
そこから寄りつつ、アングルを変えたりしつつ、
2枚目、3枚目を撮影していくコトが少なくない。

特に単焦点を使っているときには、これが有効。
後になって、撮った写真を見返していくウチに
どのくらいの寄り具合が良いのか気付いてくる。

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2009/12/26

暗箱に針穴(19) 一期一会の散歩論

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この考え方は、初めての道でも、実は応用できる。
「二度と再び目にするコトができぬかもしれない」
そんな視点を持って被写体に向かってみるといい。

「その瞬間」とは、見逃したら次はないのだから。
同じ場所の同じような季節の同じような光線なら
有り得るけど、それは決して、同じものではない。
観察主体もまた、おそらく変わってしまうだろう。
同一人物と思っているだろうけどヒトは常に老け、
知識は変化し、感情は揺れ動き、まるで違うのだ。

出張ついでの散歩など、まさにそんな感覚である。
この後の変化を、見る機会が得られないのだから。
再び訪れる機会がある可能性は非常に低いもので、
もしあったとしても、相当な年月が経つであろう。
そう思えばこそ、深く味わえるのだと思っている。
できるだけ見逃さぬよう、悔いを残さぬようにと。

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2009/12/25

暗箱に針穴(18) 三杯の茶の散歩論

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しかし、「知った道」であろうとも、
決して新しい発見がないワケではない。
それどころか、あって当然だとさえ思う。

初めて通る道なら、もちろん新鮮だ。
だが2度目の道だって新たな発見は可能。
そして3度目からは、さらに掘り下げられる。

むしろ逆に、通い慣れた道でなければ
なかなか容易に見出せない発見だってある。
「いつもと違う様子」など、その最たるもの。

一人で歩くのと、同行者がいるのとでも
また大きく違った感覚が、得られるはずだ。
他人の視点は、また違ったトコロにあるから。

「前に通ったから」と、新たな発見が
ないものと思い込んでしまえば、本当に
変化を見落としやすくなるのが、ヒトの目。

本当に好奇心旺盛な人というのは、
「いつものトコロ」からでも新たな
発見を見出す能力に長けた人のコトだ。

そう言っても、まったく過言ではあるまい。

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2009/12/24

自称逸般塵の不通の日記(130) 健脚商売

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2つのアポイントがあった、ほぼ快晴の日。

小滝橋で一仕事を終えたトコロで11時過ぎ。
次の予定は麹町あたり、13時半。
目の前には神田川。

とりあえず歩けるだけ歩いてみようと考えた。
足だけでも間に合ってしまいそうだ、
という気がしていたのである。

小滝橋から下落合、高田馬場へと足を進める。
都電が見えてきたら目白通りだ。
ほぼ並行して川は流れる。

小一時間も歩けば江戸川橋を過ぎるあたり。
脳内ナビが「この先、知った道です」
などと余計なコトを言う。

昔の取引先の仕事の都合で、この近くには
何度も足を運んでいたのであった。
だから面白くないというのだ。

しかし今回の目的地は、この道の先にある。
神楽坂方面へ逸れていってもいいが、
今は神田川と一緒に歩こう。

飯田橋から先は、神田川と別れるのだから。
外堀通りに沿って市ヶ谷まで歩いたら、
そこから坂を上って街路に入る。

途中で右に折れて、甲州街道にぶつかれば、
そこはもう、「目的地周辺です」。
およそ10kmの道程だった。

ときたま立ち止まって撮影したりしつつも
ほぼ2時間半で歩ききってしまう。
平均時速4㌔は速い方かな。

いろいろな場所に出掛ける仕事でもあるし、
散歩とカメラが趣味なのだから、
そんなもんだとは思うが。

帰ってきて、ふと気付けば頬が張った感触。
ずっと日射の中を歩いてきたので、
少し日に焼けていた様子。

たしかに、陽射しは眩しかったのだった。

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2009/12/23

暗箱に針穴(17) なかなか下らないハナシ

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「下り坂を強調する撮り方」を問われて、
改めて写真ストックを見返してみれば、
まだ上手に身に付けていないと思われる。

「下り坂」の写真の中でも割と効果的に
写せたと思える写真を概観していくと、
どうやら広角レンズでないと難しそうだ。

そういえば機材デジタル化してこのかた、
撮像範囲が小さくなったコトもあって
だいぶ広角側が弱くなっているのだった。

デジタル用に超広角レンズを買いたくて、
カタログで物色してたりするけれども、
まだまだ貧乏生活なので見通しは立たず。

こうなれば、さほど広角でないレンズで
効果的な下り坂の撮影方法を工夫して
編み出してみようじゃないかと思う次第。

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2009/12/22

We're asking why...

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ノウハウという言葉の意味するトコロを、
実はあんまり重く見ていない。
そんな感覚が、最近ちょっとある。

ソレを自ら積み重ねたり継承したり、
あるいは伝達するなどは、
割と難しいコトではないから。

あるいは知識を蓄えるなんてのもまた、
やはり、さほど重視しない。
その気になれば難しくないものだ。

そんな感覚を持っているもんだからか、
蓄えてきた知識やノウハウの
提供も、特に惜しいとは感じない。

むしろ大切なコトは、それらの先だろう。
少しばかり語弊のある言い方だが、
より高次の知的活動を経て得るものを。

知識は点、howは線、whyは面のようなもの。
蓄えた知識をつなぎ合わせてhowを得、
さらにhowの蓄積からwhyを、人は見出す。

知識を蓄え、HOWを得て、而してWHYを見て、
そしてようやく足るを知るのである。
各段階とも軽視すべき要素ではないのだ。

だが、このように上の次元へ移行するには、
下の次元の内容を繋ぎ合わせて
総合的に捉えるような思考形態が必要。

ヒトの知的活動の中でも特に重要なのは、
そのあたりの、下の次元から上の次元へ
上っていく階段のようなヤツではないか。

現実にあるモノゴトの細部に気付いたり、
あるいは現実から再構成する能力だとか。
本当にヒトが持つべきは、そこだろうと。

そういったトコロを身に付けていくには、
他人の思考ルートを追体験するのが効果的。
しばしば個人的な発見を記すのも、そのため。

考え方の道筋を見出す能力というのは
どちらかというと先天より後天的資質に
依るトコロが大きいと思うので、なおさら。

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2009/12/21

暗箱に針穴(16) トリミングの功罪

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そういえば、画面の周囲を切り捨てる行為は、
一部の人たちからすると、どうも良くないらしい。

そりゃもちろん、撮ったままの画面を見せて
良い構図だと認められたなら気分も良いけれど。

だからといって罪悪であるかのように嫌って
一切使わないとするのは、気分の良いものではない。

たまに使うくらい、別にいいじゃないかと思う。
トリミングは、より好みに近い構図を得るためだ。

撮影時には気付かなかったような視点に、
後から写真を見返していて気付くかもしれない。

ひょっとしたら、切り抜いてみれば、
そこに顔があったりするかもしれない。

次は、そういうふうに撮るぞ、と意識するための
材料としては、確実に役立っている。

画面の周囲を、どこまで取り入れるかというのは、
被写体以外の存在に気を配ってこそ、できるコト。

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2009/12/20

去り行く年は振り返らない

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ただでさえ着膨れて周囲への配慮が疎かになってるが、
背中に垂れるマフラーやらコートのフードの行き先にも、
誰一人として気を配らない。

特に休日の夕方ともなれば紙袋を抱えた
クリスマス気分のカップルだとか家族連ればかりで
「ツレ」にしか意識が向いてないもんだから、余計に。

どうしたってヒトの視野は前方に限られているので、
背中で揺れ動く繊維に最も困っている人には
決して目が届かない仕組み。

そういう無数の無思慮無遠慮無配慮ばかりが
傍若無人に闊歩していくのがヨノナカ。
……とは、あながち無理なこじつけでもあるまい。

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2009/12/19

自称逸般塵の不通の日記(129) 開放的になる冬

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少しは時間に追われている方が、仕事が捗るらしい。
ロクに仕事がないといっても、年末だと少しは増える。
発注元が駆け込みで依頼してくる案件があるせいだ。

私的な用事でも同様に、いろいろと予定が入ってくる。
気付けば年内に顔を出せる最後の機会となりそうなので、
思い切って仕事を片付けて実家に足を運んだのである。

例によって少ない仕事をチビチビと進めていたのを、
急に急いで仕上げようとしたもんだから、なかなか
ペースが上がらず、夕方に出るつもりが深夜となった。

冷え込みが厳しくなってきた頃というのに、
駅まで早足に歩いて、ちょっと汗をかいた。
たまには急ぐのも悪くないコトかもしれん。

ホームに入ってきた電車は満員。
平日の深夜の下り列車だから当然か。
久々に帰宅ラッシュを実感した。

皆、それぞれの仕事や私的な用事で大変なのだ。
苦労してるのは、決して一人であるはずがない。
ただ、誰もが各自の事情に追われているだけで。

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2009/12/18

何に勝ちたいかという価値観

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不安を「口に出すのは良くない」という言葉は、
自分に言い聞かせる面だけでなく他人が聞いて
しまう面も含めて警鐘を鳴らしているとも思う。

不安だけを他人に聞かせていたらどうなるかな。
不安を煽るメディアと、不安につけこむ企業と、
不安で強まる司法界と、不安に乗じる政治屋と、
不安が募るあまり思考を短絡させ、視野狭窄に
陥って、余計に不安しか見えなくなる人々……。
それぞれが役割を果たせば不安の連鎖の完成だ。

不安に対して直接の備えをするのは、さしずめ
「万が一に備えて」保険に加入するようなもの。
たしかに保険には保険のメリットがあるけれど、
それに頼りすぎてばかりいては宜しくないのだ。

いくら保険をかけたって不安感は減らないよね?
そういう対象だからこそ保険をかけるものだし。
保険てのは事後にしか役に立たないモノだから。

保険にばかりかまけていれば不安の元凶となる
リスクそのものへの対策が疎かになってしまい、
どんどんリスクが高まっていってしまうだろう。

不安はリスク回避を求める本能に由来した感覚。
不安を感じるというコトは生存本能を刺激する
との意味でもあるけれどヒトは知恵で押し潰す。

不安感は疑心暗鬼に繋がり不信感となって他の
誰をも不審に思えてきて対人関係もまた不振で、
周囲に不穏な空気が漂い不満不平も増してゆく。

そんな感覚に対して無邪気なまま対処しようと
していれば不都合な結果を招いてしまうのでは?
不適切な対応は不安定を招き不安感を拡大する。

戦いに勝つとは即ち相手を負かすコトであるが、
その戦いとなるのを回避できなくなった時点で
不安には負けてしまっているんじゃないだろか。

他者とは、勝負なんかより共存を望みたい。
でないと孤独になんて、勝てやしないから。
社会性動物であるヒトにとって最大の不安、
それは間違いなく孤独あるいは孤立だろう。
コイツにだけは、負けたくないものだよな。

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2009/12/17

軽飛行機でも計器飛行

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視線を向けた方へ進んでこられたのだから、
その意味では幸せなものなのかもしれない。

社会や環境の影響によって見ているのとは
違うトコロへ押し流される例も少なくない。

思考と無意識に指向する方向が食い違って、
気付かぬままに変移している場合もあろう。

それはヒト個人に限らずヒト集団でも同様。
「こんなはずでは」の範囲が変わる程度だ。

自身に内在する磁針は何処を指し示すのか。
外界の風や潮流と同じくらい重要な指針だ。

いったん見ておけば済むというのでもない。
しばしばブレたり見誤ったりする可能性も、
風や潮ほどではないが変化する場合もあり、
地形や建物で狂ったりするコトもあるから。

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2009/12/16

半生紀(22) 要するに頑固な偏屈者なのだろうけど

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そういえば、最近になって思い出したコトがある。
「光と陰とを、写し取りたい」といった考え方は、
写真趣味を始めた頃に念頭に置いていたのだった。

いつしかそれを、すっかり忘れ去っていたのだが、
そういう方向性を半ば無意識に追求してきていて、
現在のスタイルに落ち着いてきたのかもしれない。

といっても「願ったから叶った」とは考えにくい。
もともとの性格がそんな方向性だったものだから、
写真にも現出されるようになっただけではないか。

方向性が当時から大きく変わったワケではなくて、
技術や表現力を身に付けていく過程でもともとの
方向性に沿ったスタイルが固定してきたのだろう。

生き方までもが、おそらく同様に、そうなってた。

その昔、「煮ても焼いても食えないオッサン」に
なりたいと思っていたが、今や炊事は不得手だし、
稼ぎも食うに困る程度の稼ぎだったりするワケで。

「戦いに強くなるより孤独に強くなりたい」との
想いもまた、どうやら現実になってきてしまった
ような気がしてならないあたりも、如何なものか。

むしろ自らの性格に気付いていて、その行く末を
漠然と想像していった内容が、これらの考え方に
表れていて、後で行き着いてしまったに過ぎまい。

もちろん、まだ到達していないように感じられる
想いは幾つもあるが、その一部は昔からの性格に
近い方向性だから、いずれ実現するかもしれない。

迷わず行けば、いつかは分かるような気がするね。

ただし、フラフラと歩くのは「迷い」とは別問題。
多くの人が見落としているようなモノゴトだとか
他の道筋なども、しばしば容易に見出せたりする。

もちろん「広く浅く」などという特性を備えれば
その能力を社会に提供して得られる報酬も薄いし
現代のように分化しきった環境では役立ちにくい。

だもんで世の中を渡っていくのは大変だけれども
他を押しのけてまで渡ろうとすれば弊害も多くて、
誰もが困るような結果になりかねないとは気付く。

直線速度を狙うには不適切ではあるのだけれども、
それゆえに集団から置いてかれたりもするけれど、
決して他人の役に立たぬとは、必ずしも思わない。

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2009/12/15

たまには時事ネタ(60) むしろ“仕付け”とか思う

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単年度会計における経済効果という一軸でのみの判定、
対象事業に精通しているとは限らぬ人物が判定を下す点、
非常に短時間の議論、財務省による予備知識、などなど
さまざまな問題が指摘されている某行政刷新イベント。

いまさら話題にするなんて、「いささか遅きに失している」
などとヤジが飛びそうだが、急いでるワケじゃないのでね。

なにせ米国的企業経営に似た方法なものであるから、
カタチだけ導入すれば日本企業が外資の手法を真似て
失敗していった過去の歴史を、国家レベルに拡大劣化
コピーしてなぞるだけの結果になってしまいかねん。

リスクを避けるならば、それぞれの現場が自らの手で
熟知している小さな事業単位で実施した方が良かろう。
そしてトップは全体としての戦略、手法や指針などを
あらゆる現場に浸透させて考えさせるのが仕事のはず。

トップダウンにも良さがあるとは知っているけど、
決してそれだけで改革が実現できるものではない。
しばしば、トップダウンと並行して逆のベクトル、
ボトムアップが伴わねば失敗しがちなものである。

今回のイベントを単一事象として捉えるのでなく、
中長期的な観点で考えてみれば、「仕分け」という
手法の有効性と限界点を広く世間に知らしめる
効果は大いにあった。デモンストレーションとして。

あるいは、問題点を洗い出すための、
ちと荒っぽい耐環境性試験のような。

たとえば批判百出の学術研究分野についてみても、業界
全体のみならず国民全体にみられる思想のようなのが、
変化の激しい社会の実態と噛み合わず揺らぎつつある、
そんな課題が見えてきたのではないかと思えてならぬ。

今の日本においては、研究で稼ぐ、という方向性が
諸外国に比べるといささか希薄すぎる気が否めない。
むしろ忌避されがちなのではないかと思うくらいに。
清貧思想は悪いコトじゃないけど、隠者じゃ食えぬ。

実際のトコロ、評価だけは結果重視だったりするので、
いろいろと矛盾があるようなのが、この業界の現状。

そう、このように経済性重視の評価軸を与えられるなら、
もっと稼ぎを狙っても構わないような風潮があっていい。
もちろん、それだけでは、すぐカネになる分野のみ研究
予算がでるような社会になってしまうコトは間違いない。

だから一方で、長期的な視点に立った施策も必要だ。
研究機関が稼いだ資金の一部を将来への投資として
基礎研究の分野に回す動きを促進してやったり、
税金から投資するような手も欠かせないだろう。

火種を絶やさぬようにするには常に燃料が必要だし、
風通しを良くしなければ不完全燃焼の危険も高まる。

スポーツだの芸術だのサブカルだのといった文化から、
経済や財政、外交や安全保障、エネルギーや環境問題
なども同様であろう。短期中期はもちろん長期的にも
ポリシーやビジョン、戦略といったのがあってほしい。

いずれにせよ、「この国をどのようにしたいか」
という認識が問われるコトは間違いないのだけど、
それは政治屋や役人に丸投げするのではなくて、
より多くの人々が考えた上で、まとめていきたい。

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2009/12/14

無車線道路

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他車を追い抜きたい連中は車線を右へ右へと移ってゆく。
レーンを使い分けて追突事故の危険を減す狙いだけども、

しかし社会の中には中央分離帯なんて存在しないから、
右寄りすぎれば対向車との衝突の危険は高まってゆく。

そもそも高速で走れば実質的な視野は狭まるし、
危険を回避するための応答余裕もなくなるもの。

そのうえ運動エネルギーは速度の自乗に比例するから、
相対速度が高いほど衝突時の衝撃も大きなものとなる。

追突なら速度差は小さいが対向車とでは合算である。
右寄りの先鋭化はリスクを飛躍的に増加させるのだ。

右車線の連中が衝突すれば左車線の車まで巻き込んで、
事故渋滞を引き起こした挙句に後続にまで影響が及ぶ。

しかも速度が高ければ高いほど減速や進路変更が
難しくなるものだから事故回避もまた非常に困難。

また逆に、あまりにも左の車線を走っていたりすると、
これまた歩行者や自転車を巻き込む事故の危険がある。

それほど大きな衝突エネルギーではないかもしれないが、
巻き込まれるのが交通弱者だけに人的被害は大きなもの。

全世界共通の社会交通ルールも確立してないから、
事故を防ぐために相応の節度が求められるワケだ。

といって必ずしも中央車線が良いというワケでもない。
多くの車が集中してくれば渋滞して全体的に遅くなる。

「こうすれば安全」「こうすれば早く着く」なんて
明確な方法論など残念ながら世の中には存在しない。

一人ひとりが、自車とその周囲の状況を常に監視し
迅速に判断して適切に対応していかねば、すぐ事故る。

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2009/12/13

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(42) 人はニーズのみにて生くるにあらず

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「必要なときだけ使う」と、ヒトに対して使うのは、
「必要ないときは捨てる」を、ちょっとだけ
悪くなさそうに表現しただけ。

使わぬマフラーのようにポケットに入れておけば、
あるいは季節家電のように収納しておけば、
それで済むというワケじゃないから。

社会全体に、相応のニーズがあるような分野じゃないと、
そんな感じに使われる/捨てられるような仕事では、
なかなか長く続くもんじゃない。

ヒトは必要とされぬときでも食わねば生きていけぬ。
持続的に必要とされるほどになればいいのだけど、
そこに至らぬ段階が最も大変で。

他人に対して、そんな感覚を抱いていないかどうか、
自分が必要とされていなそうなときなどに、
じっくり考えてみたりしている。

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2009/12/12

所持品紹介(21) 帯どころか襷にするにも短いヤツ

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とても短いマフラーを、ずっと昔から使っている。
半分に折ってさらに半分にすれば、もう手に乗る。

帯状にしたフリース地にボタンとボタン穴をつけただけのものだ。
自転車通学をしていた頃に思い付いて母に頼んで作ってもらった。

長いモノに巻かれたくないから、なんてワケではなくて、
長ったらしいのは邪魔だからというのが主な理由である。

上州名物の空っ風が越境してくる武州の水田地帯の真冬の早朝、
自宅から駅まで15分ほど自転車で走るのに、ずいぶん重宝した。

また深夜に一人、星空を見上げたりして
考え事をしながら歩くにも、役立ったな。

形状はシンプルだし短いから引っかかったりしにくくて、
とにかく長持ちしているあたりも非常に気に入っている。

今は東京都内に暮らし、ほぼ徒歩で出歩いていて、
しかも早朝から出掛ける機会は滅多になくなった。

もともと暑がりだというのもあって、ただ歩くだけであれば
このマフラーの出番もほとんどないのだけど、今も持ち歩く。

年に数えるほどしかない出番のために、このマフラーは
たいてい、コートのポケットに入れられたまま冬を越す。

同じくコートのポケットに入ってる帽子が、
毎度のように使われているのとは対照的だ。

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2009/12/11

自称逸般塵の不通の日記(128) 幸せの真っ赤な紅葉は近所にありました。

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まさに紅葉の季節。花や新緑の頃と並び
カメラを携えて出歩く機会の増える時季。

歴史ある都心の庭園などでは、期間限定の
夜間ライトアップがあって、たまに訪れる。

先週の満月の頃を狙って寄ったところ、
まだ少し早かったようで紅葉が黄色い。

おまけに狭い通路に三脚を立てて粘る連中も少なからずおり、
どうも落ち着かないので日を改めて再訪しようと早々に出た。

自宅近くで、ふと思い立って近所の公園へ寄ってみれば、散る寸前
ギリギリに熟れきった紅葉が満月と街灯とに映えて、そこにあった。

この景色を見る機会があったのは、犬の散歩や帰宅の途中の
近所の住民くらいだろうけど、紅葉はそんなの気にもしない。

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2009/12/10

暗箱に針穴(15) 人それぞれに観る世界、魅せる世界、見られる世界

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でも、ヒトがオモテに出すモノゴトを決して軽んじているワケではない。
さまざまな芸や技能を持つ人々の表現に触れれば、感ずるトコロは多い。
文章などは、巧拙を問わず内容の如何に依らずヒトを知る上では重要だ。
写真を撮る上では、いろいろな人の写真や絵画などが大いに参考になる。

かれこれ10年近くになるカメラ仲間のu君とは、
お互いに影響し合う関係が続いているように思う。

といっても、2人が似たような写真を撮っているワケではない。
むしろ、これだけ長期間に及んで互いの写真を見ている間柄、
2人の方向性や志向の違い、得意不得意が見えてきた気がする。
端的に言えば、かたや風景画、かたや静物画というトコロか。

たとえば同じようにモノを写し取ろうとしても、
どちらかというとu君はモノの質感を重視する。
触った感触まで見えてきそうな写真が彼の本領。
さすが質感フェチだ、と頷いてしまうくらいに。

逆に自らの写真を振り返ってみれば、なるほど、
光と陰とを利用して輪郭を明瞭に際立たせたり、
周辺の情景を取り入れて風景の一部にするなど、
そのモノの質感より形状や距離感に重点を置く。

きっと、こんな写真に表れているのは、
時間や空間を切り取りたいという想い。

モノゴトを把握するときには、その明暗だとか
周辺事象との関係だとか、時間や空間の広がり
なんかを、念頭に置いて考えるような癖がある。
少なくとも、そういう思索を昔から重ねてきた。

それが、写真の撮影に際して意図しないウチに
出てきているのだから、もう癖というほかない。
癖になるくらい考え、癖が見える程度に技量も
伴ってきて、癖が出てしまうくらい撮ったのだ。

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たいてい、多数の作品を連ねて全体の傾向を通観していくと、
本人が意図して出そうとする主張とは別に、癖も見えてくる。
芸を磨き、安定した技を持てば主張も癖も明瞭になっていく。
主張と癖とが近いベクトルにあれば、人格的な魅力も感じる。

どんな表現手法を用いていようと、鑑賞するのがヒトである以上、
作品を通じて性格の表裏両面を見せているコトは間違いあるまい。

人間、最も興味ある事柄を、熟練した得意な芸を用いて
思うように好きなだけ、表現しきれれば、それが一番だ。

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2009/12/09

ヒトに鑑み

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自身含めヒトの中に映り込んだ世界を
観察するのも、また楽しいものである。

ヒトやヒト集団の数だけ、それぞれの世界があって、
よくもこれほどと思うほど、千差万別なものだから。

外の世界とヒト内に映った世界とを対比すれば、
そのヒトの内面形状を類推する手掛かりになる。

ときには外でなかなか目に掛からぬような独特の世界を
作り上げているヒトもいて、つい興味深く眺めてしまう。

ただし世界といっても、デジタルで拡張してるとかいう
「セカイ」なんぞは、そういう観察対象には含まれない。

アレはヒトが外に出したいと意識しているコトを
無数に集めるようなものなのでノイズが多すぎる。

ヒトから出さない/出せない/出てこないようなモノを、
さまざまな応答から推して再構築するのが楽しいのに。

それこそ時間も空間も自由にスケールを変えつつ
対象の内外で自由に視点を動かしつつ見たいもの。

デジタルはヒトの脳裏にまで入り込んでないから、
まだまだ当分は、その用途に使えるモノじゃない。

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2009/12/08

暗箱に針穴(14) 映された被写体を写す

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空を写すには静かな水面を撮るって手もある。
ガラス窓や鏡にも、いろいろな被写体が映る。

ときに、普通に写すよりずっと繊細な表情を見せたり、
現実離れした描写になったりして印象を強めてくれる。

写真という表現手法の中にも、いろいろな道があるから、
まだ知らぬ道を求めて、いつもよりみちばかりしている。

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2009/12/07

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(41) 千里の道は数知れず

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「一時的に負けた気分になったとしても、
一生ずっとそのままではない」などと
楽観的に考えているから、少しくらい
落ち込んだって、いずれ気分も好転してくる。

一方、u君は「負けたと思ったら本当に負けてしまう」
として、負けぬよう他の道を探るようにするという。
「沈んでしまえば底はないって、知ってるよね」
たしかに、人によっては、そうなりかねない。

昨日のような方法は、最後の最後に浮力が出るような
楽天的な性質が根本にあってこそ、なのだと思う。
u君をはじめとする友人や仕事仲間、実家の家族など、
周囲からの手助けが不可欠なのは言うまでもないが。

それはともかく。

こんな、落ち込んだときの対処法だけを考えたって、
いくらでも道はあるのだ。
本人の性質や状態、周囲の環境など、置かれた状況は
人それぞれなのだから対処方法も無数にあって当然。

けれども、なかなかそこにヒトは気付かない。
学校教育のせいか、育ったときの周辺環境のせいか、
あるいはさらに広く社会全体の傾向がそうさせるのか、
背景要因は非常に複雑で、特定の原因に帰するのは難しい。

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2009/12/06

気分が沈んだときの個人的な対処法

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飽きるまで落ち込んでしまえば、
もう落ち込む気が失せてしまい、
否応なしに元気が出てくるもの。

自身の感情を味わい尽くしておけば他人のココロの動きにも気付きやすくなるし、
苦悩しているのは一人だけじゃない、という事実を理解する機会も得やすい。
――そんなふうにも思っているので、むしろ積極的に入り込んで観察している。

なにせ見たり聞いたり読んだりしただけでは
実感として身に付けるコトのできぬ愚か者だから、
自分自身の体験一つひとつを大切にしたいのだ。

そうやって、自身を含めて多くのヒトを、
ひたすら観察し続けていると、たいていの
コトは「自分だけじゃない」って分かる。

誰だって自分の中では中心にいるし、
誰だって世界の中では端っこにいる。
そんな感じで、ヒトは生きている。

たいていヒトは、苦しいときにこそ主張したがるもの。
だけど誰も彼もが世界の真ん中で叫んでたら、
五月蠅くて迷惑なだけだもんね。

いずれにせよ、「不安や悩みを抱えているのは
自分だけだ」なんて思ったりせず済むのは幸いだ。
僻みや排他性に繋がる思考の、入口にさえ触れない。

それに、忙しいときには悩んでいる暇さえないのだから、
むしろ暇な時期に悩み事が出てくるのは都合良いもので、
人の世の中はよくできていると感心したりするくらい。

今は仕事が厳しく生活が辛く将来にも不安があって、
とにかく大変ではあるけれども、今これを味わって
おけば、もし後に幸せがあれば、より楽しめよう。

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2009/12/05

暗箱に針穴(13) セカイの片隅でも生きている

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いわゆる「日の丸構図」が嫌いなワケでは別になくて、
たとえばアップの人物写真などは、そうするコトも多い。

けど主要被写体を端に置いて、残りの画面をボケボケに
してしまうような写真を、むしろ数多く撮っている。

おそらく、真ん中に置きたくないというよりは、
隅に置かれていてもいいじゃないかと思っているのだ。

だから画面端ギリギリに被写体を追いやりたくなる。
自分がヨノナカの端っこにいる、という実感もあろう。

画面という世界の片隅で、ひっそり生きてるような連中
だって、ピントを合わせてみれば生き生きしてるからか。

ヒトだって被写体だって、必ずしも皆が「隅に置けない」
ようなヤツじゃないけど、でもだからこそ社会が動く。

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2009/12/04

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(40) 蓼食う虫も好き嫌い

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生活するコトに対して必死になれない体質である、と、
このところ否応なしに思い知らされている気がする。
ナマケモノというか、ナマミのケモノのはずなんだが、
自分自身のためのコトには、どうも身が入らないねえ。

以前から「死ぬまで生きる」つもりではあるけれど、
生きるというコトについての定義が、なんというか、
働いてカネを稼いで生活をする、というのでなくて、
ヒトらしく考え続けるコトなんじゃないかと、思う。

いかに貧しくとも人間であり続けようとするならば、
いうまでもなく鈍せぬよう清くあらねばならないが、
でもやはり、それだけじゃ腹は膨れないものなので、
ロクに身が入らず実入りが薄いのは、いささか大変。

とはいえ実が食えなくても、代わりに芽だの葉だの、
そういったのを食って腹を満たすという道もあろう。
食うのも貧乏するのも、生きてなけりゃ味わえない。
実の代わりがヨノナカに余ってればのハナシだけど。

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2009/12/03

自称逸般塵の不通の日記(127) そうか師走か

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そういえば、もう12月に入っていた。

また、無事に年を越せるといいなあ。

今年の走りは、ちょっと違うと思う。

たぶん、……営業とか金策が中心に。


そんなコトをする気力が出れば、のハナシだけど。

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2009/12/02

追い求める対象としてのみ存在が許されるモノゴト

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ヒトのヨノナカって、普遍的に通用するような
ルールなんてのは、ほぼ間違いなく存在しないよな。

同様に、悪い存在だけを倒す銀の弾丸など存在しないし、
振りかけるだけで問題を解決する魔法の粉などない。

だけどヒトって、そういうアイテムが存在するかのように
信じ込んで、あまつさえ見出せるのだと錯覚したりもする。

錯覚した状態で求め続けるコトは、悪くないが、
見出したものと信じ込んでしまうと、良くない。

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2009/12/01

無識者懐疑

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「一般市民」「民間人」が重要なトコロに参加するようなのが
行政や司法の場での最近の流行であるらしいのだけれど、
「専門家」だって完璧な回答を出すどころか意見の一致を
みるコトさえ難しいような場面であったりするから、
いささか危険視する向きも少なくないようだ。

でも、専門家であろうとなかろうと、考え悩む経験こそが
重要なんじゃないかと思うので、短期的にはともかく
長い目で、社会全体としてみれば、悪くないと考えている。
常に考え悩み続ける、それでいいじゃないか。
ヒトなのだから完璧などないが、目指し続けるコトが大切。

個別事象に対する結果は結果として重要ではあるけれど、
数々の事象に触れて経験を重ねつつもなお余計な慣れを持たず
一つひとつの状況を真剣に考えていくという過程もまた、
人間としては重要なものだと、思う。
でなけりゃ社会の構成員であり続ける価値がない、とも。

明確な基準を求めたがるキモチは分からないでもないが、
もし仮にそんなのに行き着いてしまったとすれば思考停止。
そもそも不安定なヒトのヨノナカの共通解など不定で、
見出したと思っても何処からか疑義が差し挟まれる。
ギギギギ軋む社会をどうにかしたけりゃ思考し続ける他ない。

結局のトコロ人々は社会に対して、税金を払うのと同様に
若干の思考コストを提供するというのが望ましいのだろう。

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