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2010/01/10

違うからこそコントラストが生じるもので

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考えてみれば、書籍や雑誌をはじめとする活字情報への
接し方というのは、ずいぶん人それぞれであるもので。

最近では、情報はWebにあるから活字なんて必要ない、
なんて考え方もあるようだが、Web的な存在の情報は、
活用するのにヒト以外の手を借りねば難しい。

たとえば検索とか、統計や分析処理だとか。そういった道具。
その程度の道具なら当然、ほぼ誰でも使えるものでもある。

でも、欲している情報を、このようなツールで篩い分けたとしても
なお、雑多な不純物が混じるのは、今のところ避けがたいトコロ。

さらにもう一段階、高い純度の情報を得るためには、
やはりヒトの頭脳による処理が不可欠なのではないか。

体系立てた専門知識にしろ大量の外部媒体のポインタにしろ、
あるいは知識消化器官にしろ、それぞれ手法は大きく異なるが、
各自の仕事や志向に沿って自ら構築してきたものであり、
新たに得た情報をより高純度にするための種結晶ともいえる。

道具が存在し得るなら、それを自ら作ったり調えたりして
使える状態に保ち、かつ使いこなす技量を持てば役に立つ。

ヒトは必ず頭脳という道具を持ってるものだし、
それは個体ごとに、いろいろな癖があるものだ。
だから使いこなしてみたらいいんじゃないかな。

他人の考え方だの生き方だのを格好良いと思い、
見える範囲を真似てみるのも悪くはないけれど、
首の上にあるソレの癖に見合った姿だろうかね。

むしろ自分のアタマで練り上げた思考を大切にして、
また逆に他人のアタマでできたのも尊重しておれば、
いいんじゃないか。

この頭脳には、何故この思考が宿るのか。
あの頭脳には、何故あの思考が宿るのか。
両方の認識が明確でなければ人は見えない。

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