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2010/01/09

知識を焚いて走る思索エンジン

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一方、知識の活用より深い思索が求められるような種類の
頭脳活動だと、また違ったカタチの本の扱いになるように思う。

昔から濫読、乱読。また濫読。要するに知識のランダムアクセス。

科学書からドキュメンタリー、論考、エッセイ、コラム、文学、
活字に飢えていた頃には事典を端から読んだコトもあった。

でも、そんなに知識を蓄えているワケではなく、むしろ乏しい。
個別の知識は思索の際に使うけれども、常に必要ではない。

頭脳労働の中身は、DBのような蓄積型処理とは大きく異なり、
むしろ知識を流してその解析を行っているかのような、処理。

別の言い方をすれば、どんどん流れ去っていく知識を眺めつつ、
そこに生じる波のカタチを眺め続けているかのような、感覚。

あるいは知識を消化して養分だけ吸収しているかのような、
そうやって、未消化物は、どんどん排出していっているのだ。

如何なる知識であれ、「知識」とされる以上はヒトがカタチにした
ものであるから、そこには必ずヒトの思考が介在しているワケで。

大量に集積して蒸留していけば、再びヒトの思考が結晶していく。
無数のヒトの、混在する、ヒト社会全体を見渡す統計情報として。

だもんで、やはり知識はあんまり身に付かない。

いや、記憶能力なんて、ヒトである以上、一部の例外を除けば
大した差などないものだから、そんなもんだろうとも思うけど。

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