« 試小説(6.6) 赫たる夜の秘めたる騒動の後のまつり「四.難波津より西を望む」 | トップページ | 試小説(6.9) 赫たる夜の秘めたる騒動の後のまつり「五.不二の山は不死となりけり(後編)」 »

2010/02/15

試小説(6.8) 赫たる夜の秘めたる騒動の後のまつり「五.不二の山は不死となりけり(前編)」

20100215_dscf3785_1s


最後に向かったのは駿河国。かなりの長旅となるが、どうしても聞いておきたい話があったのだ。
難波津から、東国への船に便乗した。いったん紀伊国を回って伊勢国、志摩国を伝い、そこから東海道を海路、東へ向かう。駿河国は三河国や遠江国の、さらに先だ。
船の上からも、遠くに立ち上る煙が見える。近付くにつれ、その煙の下にある山の巨大さが分かってくる。あれが今回の目的地、不二の山だ。
港へ降り立つや、長い船旅に疲れた身体を休める暇ももどかしく、取るものも取り敢えず駿河国府へ急いだ。

今回の取材先は不二山に座す浅間大神を祀る民。普通の民ではない、いわゆる夷である。彼らは国司の監督下、駿河国に居住している。その地に立ち入る許可を得ておかねばならないのだ。

○駿河国府
国府では、国司自らが応対してくれた。このような遠国においては、都の近況を知る者というだけで歓迎されるのが常。おかげで、十二年前の経緯も詳しく聞けた。
「帝の使いの方が、『不二山の頂にて薬を焼き尽くせ』という勅令を奉じて来られたことは、前任の国司から聞いております」
不二の頂、容易に人を寄せつけぬ地だ。当時の記録によれば、その浅間大神を祀る夷が、ときおり不二に登っているというので、彼らに任を果たさせた、とある。それゆえ私は、ぜひ彼らに取材をしたかったのだ。ところが、国司の言葉は意外なものだった。
「夷たちは、数年前に駿河を去ってしまいました。今はどこにいるのかも分かりませぬ。彼らを探すのであれば、ひとまず不二の麓の磐境へ行かれると良いでしょう。そこの宮には、夷たちと親しくしていた神祇官がおりますので」
こうして、長い探索行が始まったのである。

○磐境の宮
磐境は、浅間大神を祀る場として、上古より夷たちの聖域であった。以前は宮などなく、それどころか特定の場でもなかったという。国司の説明によると、好んで倭人たちと交わろうとはしないが、特に害を為す夷ではないので定住を許し、帝から遣わされた神祇官と共に浅間大神を祀らせていたとのこと。夷たちが去った今では、神祇官たちが帝の名代として、この磐境に社を建て浅間大神を祀っている。
夷たちの消息について、神祇官はこう語っている。
「遠い縁者を頼って東へ向かうと言っていました。伊豆国の方ですな。去っていった理由は、今や荒ぶる山となった不二の山を恐れてのことだと聞いています」
見上げれば山は煙を上げ続け、ときおり地の底から鳴動する。
この大きさ、恐ろしさ、そして美しさは、まさしく日の本の国に二つとない山であろう。だが、恐ろしいといっても、今もまだ駿河国には人々が生活を続けている。夷たちが去っていったのは、別の理由があるのではないだろうか。

○伊豆国府
東海道をさらに進んで伊豆国府へ向かいつつ、行き会った人々からも夷たちの消息を聞いてみた。彼らの姿を見たり、直に話を交わした人はいないようだが、「山中を静かに走る人たちがいる」「野の菜を採りに山へ入ったら、獣の頭の骨が積み上げられていた」「誰も暮らしていないはずの森の中の草地に小屋掛けした跡があった」と、かなり噂は広まっている。
伊豆国府では、どうやら彼らの動向を気にしていたようだ。山ほどある木簡資料を見せてくれた。夷についての噂を、役人たちが収集したものだった。
「民たちが不安に駆られていましたので、国府としても状況を知っておきたかったのです。もし民に害を為すような存在であれば、兵を出して鎮圧しなければなりませんから」と国司は言う。
こうして得られた情報を総合すると、夷たちと思われる一団は、伊豆国府のあたりから北へ向かったようである。国司や民たちが心配したような、人身や田畠への害は特になく、夷たちは常に人里離れた山中を移動していたと思われる。
伊豆国府から見上げる不二山も、駿河国府からの眺めと同じくらい大きい。北へ向かっても、これまた不二から遠ざかる方向ではない。果たして夷たちは、本当に不二を恐れて去っていったのだろうか。

○裾の原野
伊豆国府から不二の東側の裾野を北へ向かうと山間の盆地に入る。倭人の生活範囲は、この盆地までだと聞いていた。東海道も、ここから東へ折れて足柄の峠を越えてゆく。
夷たちの足跡は、街道から大きく離れて北へ北へと進んでいる。まだほとんど拓かれておらず森が広がり、当然ながら倭人は滅多に立ち入らない地域だ。煮炊きすることも難しいだろうと判断し、伊豆国府から人足を借り、干飯や塩魚、干物など長持ちする食料を大量に用意しておいた。あとは、野の菜を道々に採って歩き、腹の足しにする計画だ。
不二と足柄の間にある小さな峠を越えれば、そこは広大な原野だ。まだらに森林と岩場が混じり合っており、手前に宇津海、その向こうには御舟海、さらに背の海と、大きな湖が不二山を囲むように連なっている。
夷たちは、その先にいるはずだ。彼らに会うためには、そこへ踏み込んで行かねばならない。
原野を進んでゆくと、森林と、草木も生えぬ岩場とが交互に現れる。それもそのはず、あの荒ぶる山は大量の灰を吹き上げ、熱く流れる岩を吐き出す。それが麓の森を枯らしたり、大地を覆ったりするのである。峠から見下ろした印象とは異なり、岩や灰に覆われた大地に育った木々は細く弱々しい。おまけに足許にはゴツゴツした岩が残っていて、ひどく歩きづらい。ところどころに夷たちが使ったと思しき踏み分け道もあるのだが、それは古いもので、荒れていて途切れがちだ。
それにしても夷たちは、何故このような地ばかり行くのだろうか。私たち倭人、それも都人にとっては、とうてい生活していけそうにない不毛の地を。
ついには、荷駄の一頭が隠れていた穴に足を取られ、転倒して負傷してしまった。この地では、人の足で歩くのが精一杯なのである。こうなっては、荷駄を諦め、伊豆国府へ帰さざるを得ない。荷物の大半とともに。
私自身も担げる限りの荷を負うとしても、他に少数の従者のみでは持てる量も限られる。この原野を抜けて甲斐国に出るか、あるいは引き返して伊豆国へ戻るか、どこかの時点で決断を迫られるだろう。いずれにせよ食料は切り詰めていかねばならない。
しかし、裾野の外側を取り巻くように山が広がっており、甲斐国への道は容易に見出せそうにない。原野を歩き、はたまた湖岸の砂浜を歩き、北へ越えられそうな峠を探しているうちに、不二山を西へと回り込む格好になった。山は、もう真南に見える。まるで、この山に取り憑かれてしまったかのようだ。おまけに食料不足からか、足もふらつき、目も回りそうである。

○東山道甲斐路
人里を離れて幾日が過ぎたか、ついに峠の木々の間から甲斐の盆地が見えたときの安堵感は、筆舌に尽くしがたいものであった。幾筋もの川が流れる平野に、田畠や人里が垣間見える。都の盆地より一回り小さく、また周囲の山々は高く聳えているものの、この地形には、どことなく倭人を安心させるものがあるように思う。
甲斐の国府を訪れてみれば、やはり同様に夷の噂を集めていた。総合すると、平野の西を区切る山中を北上していった様子だ。一昨年や昨年のことだという。彼らは、もはや遠くない。
木簡を読み進めるうちに、なんと夷の一人と言葉を交わしたという村人の話も見出した。夷たちは「諏訪の夷のところに向かう」と言っていたそうだ。それなら都合が良い。甲斐国府からは、東山道の支道が科野国へ向かっている。その道は諏訪の先で東山道の本道に合流しているから、ここから先は夷たちのように荒野や山中を歩かずに済むだろう。あの八ツの山を右手に眺めつつ北へ向かえばいい。
とはいえ、それほど気を抜いて歩いていることもできない。彼らは近い。だがこちらは街道、あちらは山中を移動している。迂闊にしておれば、追い抜いてしまうかもしれないのだ。街道近くの人々から夷たちの噂話を聞き出しながら、慎重に進んで行かねばならぬ。
案の定、八ツの山も目前に迫ってきたあたりの村落で、「山中に一冬を過ごしていた人々がいる」という話を聞き出すことができた。その場に案内してもらってみれば、木々に囲まれた小さな空き地に、幾つかの小屋掛けした跡が、確かにある。掘立柱の穴は、まさに引き抜いたばかりと思しき様子、丸石で囲まれた竈らしき一角も、まだ灰や消し炭が残っている。そして辺りには、屋根として使い古したのであろう檜皮や細枝、あるいは割れた土器などが放置されていた。秋の落葉も、冬の雪も、まだそこを覆った形跡はない。
間違いない。彼らはここで、前の冬を過ごしていたのだ。そして食料を得やすい春を迎えてから、さらに北へと移動を開始したのであろう。
街道に戻って、ふと見上げれば遙か南の山並の向こうに、一筋の煙を吐き続ける山の頂が見える。不二山は、あまりに巨大だ。
かつて私は若い頃に東山道を旅し、諏訪より先の碓氷まで足を運んだこともあるが、かの街道から望むような山々とも、やはり違う。同じく白い雪を頂く大いなる山ではあるが、不二は荒ぶる山なのだと実感する。他の山を寄せ付けないばかりか、人も容易に寄せ付けぬ。

|

« 試小説(6.6) 赫たる夜の秘めたる騒動の後のまつり「四.難波津より西を望む」 | トップページ | 試小説(6.9) 赫たる夜の秘めたる騒動の後のまつり「五.不二の山は不死となりけり(後編)」 »