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2010/03/19

脅威苦悶題

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先日の散歩の後の四方山話は、ずいぶん長かった。
話題も幅広く、時間を忘れて話し込んでしまった。
(気の合う相手だと、たまにあるコトだけれども)

その中の一つに、教育の話題があった。
中学校の生徒が、数学が好きだという。
理由を問えば、「答えがあるから」と。

回答欄に何らかの数値や数式を記入すれば、
それが○か×か明瞭に判別され点数となり、
合理的で納得できるといったトコロなのか。

少なくとも国語の読解問題なんぞに比べれば、
計算練習を繰り返して慣れている限り簡単だ。
これほど思考能力を問われぬ科目もあるまい。

教員の仕事を規定するカリキュラムなども
あまりに緻密に構築されすぎているからか、
生徒が考えなくても先へ進むコトが可能だ。

どうりで学校の数学には興味を持てなかったワケだよ。
きっと昭和の後半から平成の現代に至るまでずーっと、
その教育体系は大きく変化せず受け継がれ続けてきた。

そして昭和の数学の授業で育った教員たちが
今は平成の生徒たちに対し同じような数学の
授業を提供しているというコトになるのだな。

この教師たちは、きちんとカリキュラムを消化して、
その教え子たちも、それなりに良い成績で推移して、
高校受験でも良い結果を出す、というコトであろう。

だけどきっと「答えがあるから好き」な数学は、
その生徒たちが社会に出て少しも経たぬウチに
ほとんど脳裏から消え去っているだろうと思う。

なにしろ一通り回答をを書き終えてしまえば、
あとは誰かが採点してくれるのを待つばかり。
つまり思考停止。考える力も残りゃしないさ。

「好きでも嫌いでも頑張れば成績が伸びる」
「思索するより記憶した方が成績が伸びる」
つまりは作業員養成コースというワケだ。

あるいは高名な解剖学者の言葉ではないが、
「ああすればこうなる」的な思考パターンを
徹底的に刷り込むための洗脳とさえ思える。

教員もカリキュラムも教科書も試験もひっくるめて、
つまり日本における学校教育の仕組み全体を通じて、
そんなメッセージが含まれているように感じられる。

--
「教員が、その教えている教科をどれだけ好きか」
という点は、教えるスキルと並んで重要だと思う。

「だから面白い」というトコロが伝わってくれば、
教えられる側も熱心に聞いて考えるようになる。

若い頃に身に付けておいた方が望ましいのは、
思考に対する姿勢、それから行動に対する姿勢。

そんな姿勢を勝手に身に付ける者もいるけれど、
他者から刺激を受けて身に付く例も少なくない。

こういった姿勢が身に付いていさえすれば、
知識などは必要に応じて後から自分で得る。

知識や回答手法だけを詰め込む教育手法だと、
おそらく得られる成績は投資にリニアだろう。

自発的に学んで探求して思考する人間を育てた方が、
きっと教育投資コストパフォーマンスの上で有利だ。

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