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2010.05.22

一千回の道も1kを案ずるトコロから

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枠とか土台といったものは、意図せず作られるコトも多い。
意図してないもんだから、思わぬ躓きになりがちでもある。
そりゃそうだ。置いたはずのないトコロに枠だの土台だの
作られていたら、よほど注意しないと見落としてしまうさ。

なんとなく認識している程度、でも不充分。明確に輪郭を
認識しなければ、ついうっかり足の小指をぶつけてしまう。
しかもコレ、ヒトの動きに応じ形成されていくものらしく、
時間が経つにつれて強固になっていくような性質も、ある。

おかげで古くなればなるほど壊すのも困難になっていくし、
ヒトが衝突した際の被害も、より大きなものとなっていく。
壊しにくいからと手を拱いて放置していればヒトの活動は
大きく制約されてしまい、息苦しく身動きしづらくもなる。

このブログも、ある程度のシバリを決めて書き始めたけど
書き続けているウチに自分ルールが勝手に決まっていった。
たとえば「最大で1日1本」としているつもりが、気付けば
「最大でも最小でも1日1本」になってきていたりするのだ。

決して明文化しているワケではないというのにも関わらず、
なかなか容易に破るコトのできない、厄介な障害でもある。
個人どころか、成熟した社会、歴史ある組織などの中でも
集団内の自分ルールが自然に作られ維持されてたりもする。

単数形複数形いずれにせよ自分ルールは暗黙裡に作られて
適用されるものだからヒトの動きの障害になりやすいのだ。

それじゃ、どうしようかね、コレ。

ヒトの存在や行動を支障するような邪魔な存在であるなら、
破壊して障害を取り除く必要があるだろう。あえて破ろう。

たとえば、ちょっと冒険的な行動に出るなど、思い切って
“自分の枠”を破壊するような方法は、よく使われている。
組織であればルールの明文化などを通じて暗黙のルールを
肯定したり否定したり、といった方法で対処するのが通常。

ところが、壊したら壊したで破片が飛散して大変だったり、
壊しそびれた部分との齟齬が生じて余計に面倒になったり、
さまざまな弊害が生じるのもまた避けがたいし、そもそも
古く固くなった壁を壊すなど、とても大変な行為でもある。

もうちょっと、楽な方法もあるんじゃないか。

今まさに眼前に立ちはだかる堅固な壁を壊そうとしている
人たちは、もしや気付いていないのかもしれないけれども、
実は使われなくなった道筋の周辺の枠組みは簡単に崩れる。
使わなくなった建物の土台だって、すぐ脆くなってしまう。

そういうふうに脆く柔らかくしてから崩せば、大した力も
必要にならないし、壊したり崩したりする場所によっては
さらに他の壁の存在意義をも失わせるコトさえ可能となる。
力はあるに越したコトはないが、知恵や時間も有効な手段。

また、知恵というのかどうかは議論の余地があるけれども、
あえて外圧や偶然の要因を利用するという手もあるワケで。
何らかの理由で自分ルールを守れなくなっても気にしない、
というくらいに考えておいた方が、無理なくていいかもな。

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しかし必ずしも壊さねばならない存在であるとは思わない。
「旧来の悪弊を打破する」なんていって壊しておきながら、
「伝統を失った」なんて嘆いていたりする例も、ままある。

程良い強度や構造であればヒトの無意識の行動を案内して
くれるなどの利点があり、しばしばヒトはそこに安住して
思考コストを節約していたりするのも、また事実ではある。

むしろ、半ば意図的に無意識行動をコントロールしながら
枠だの土台だのが自然に作られていくよう仕向けたりして、
その利点を活用してやるコトも、できるんじゃないだろか。

構築に意図が働いていれば存在にも気付きやすいだろうし、
修正したり修復したり、あるいは解体も難しくないはずだ。
そんな感覚で、書き続けながらコントロールを試みている。

そんなこんなで、1000本目。

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