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2010年5月

2010/05/31

自称逸般塵の不通の日記(163) 寒話休題

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さてそれにしても5月も末だというのに4月の陽気、
景気は最悪局面を脱したというが見当たる仕事の量は最低レベルに毛が生えた程度。

寒さ涼しさは東京あたりじゃ動けば暖まる身だから平気平座ではあるのだけれども、
懐の寒さ涼しさは如何とも為し難く対策を要する。

もう今年も半分が過ぎ去ろうとしているのだから、
いいかげん寒くないように生活してきたいものだ。

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2010/05/30

陰謀論者についての陰謀論的解釈

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ヒトには何かを疑う思考回路もあるけれど疑義の対象は他者に限定されているのが通常である。
自己を除外するコトで困惑による行動の遅れや自身への攻撃を避け安全を図る設計なのだろう。
とはいえ、それは完全な安全回路とは言い難い存在であり、弊害をもたらすコトも少なくない。

単純な構造の安全装置なので現場の工作で機能を停止して使うコトも難しくはないのだけれど、
とても奥まったトコロに装備されていて手が届きにくいので器用さが要求されるし作業も大変。

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2010/05/29

貧して鈍するメカニズム

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ここらで些かの仕事上の愚痴の並べ立てをお許し願いたい。

ここしばらくの不況下で依頼件数が大幅に減少しているし、
もっと前から各案件あたりの単価は下落傾向が続いている。

もともと仕事における自らの姿勢に若干の違和感を覚える
コトも少なくなかったけど仕事が途切れず入ってくる間は、
それでも目の前の仕事を片付けていくのに精一杯であった。

ところが今や案件も単価も厳しい状況となってきたために、
長く放置していた課題に直面せざるを得ない状況となった。

おかげで金策と課題に頭を悩ます日々が続いているのだな。

きっと今の日本社会も似たような状況に陥ってるのだろう。
仕事が減ってカネの流れが滞ると同時に悩む時間もできて
しまったために先送りし続けていた問題が目についてくる。
そうして目の前には難問山積将来不透明不平不満大爆発だ。

やもすれば問題を放置した過去の自身にも腹が立つはずだ。
「もっと良い道があったはず」が今の自分を過剰に責める。
だけども以前の自分のアタマを叩くなんて無理なハナシで、
できないと分かっているからこそ余計に悔しくて堪らない。

進むにせよ退くにせよ優先順位を熟慮して掛からねばなあ。

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2010/05/28

そういえば5月も終わろうとしているけれども、今年も先行き不透明

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この危機的な状況下で愚鈍だなんて批判されるかもしれないけれど、
拙速にコトを運んでいけば、その副作用は予想していた以上に広く
そして深くかつ遠くにまで時間的にも長く及んでしまいがちである。

予測スケールが足りないのは拙速だからこそではあるのだけれども、
しばしば中長期的な悪影響を累計すれば当初メリットを上回るほど
になるケースも少なくないだろうから、ある種の博打ともいえよう。

慌てる乞食は貰いが少ない、急いては事をし損じる。そんなもんだ。
それは個人だけの問題じゃなくて、その人の影響が及ぶ幅広い範囲
に含まれる他の個人、さらには組織だの社会全体にも及ぶハナシだ。

そりゃ貧乏なときには手っ取り早く儲かる方法を試したくもなるし、
仕事の依頼が大幅に減少したり単価が下がったりすれば取引先にも
あれやこれや不平不満をぶちまけたくなったりするワケだけれども、
あるいは現実逃避がてら他のコトに手を出したりするのだけれども、
だからといって文句をぶつけてれば改善するなんて期待できないし、
他の仕事で儲かる期待も非常に薄いし仕事してなければなおのコト。

偏屈だし好き嫌いが激しいし怠け者だし僻みっぽいトコロもあって、
なかなか改善するのは容易じゃないんで致し方なく共存共栄を図る。

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2010/05/27

為るは神ならざる也

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神は細部に宿るというのは、あまり正確ではないと思う。
興味があるのは法則のみ、という程度に過ぎないのでは。
あるいは細部“にも”宿るとした方が正しい表現なのか。

ただその法則は空間やエネルギーなどスケールに応じて、
様々に異なって発現するように作られているもんだから、
その配慮が細部にまで行き届いているのも当然ではある。

だからヒトが何らかの創作物を以て神の真似事をすると
いうのであれば種々の法則性を踏まえておらねば難しく、
それでもなお不完全ゆえヒトなりに行う戯画化が面白い。

写真にしろ文章にしろ、上手な省略が重要だとは心得る。

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2010/05/26

ヒトを駆動するチカラ

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ヒトは義務感で動くときにも大きな力を発揮したりするけれど、
多くの場合には悲壮感だとか少なからぬ犠牲を伴ったりもする。
意思の上では必ずしも前向きでない決意行動となるもんだから、
その行動主体が客体や関係者へ押しつける情動も出てきやすい。

同じくヒトが大きな力を発揮して動ける感覚としては期待感や
好奇心といった前へ進もうとする心理に根差した動機があろう。
こういうのも妙な競争心や虚栄心などが混ざって宜しからざる
影響を周囲に及ぼしたりもするけれど根本は自由なもののはず。

死ぬまで生き続けていられれば、きっと得るモノも少しはある。

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2010/05/25

だからどうだというワケでもないが、日々の移り変わりは楽しい

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仕事が乏しく収入も芳しくない生活は、もう1年以上も続いている。
おかげで遊びに出る機会も多くないし、生活の上でも我慢が多い。
そんな理由もあって行動意欲は低下気味だし、何をしようにも
なかなか上手く行かない状態に、しばしば陥ったりしている。
けれども今このような状態だからこそ、可能なトコロから
地道に、着実に、少しずつ着手していこうと、思ってる。
ダメなときに、いきなりスゴいコトをしようったって、
たいてい失敗に終わって、余計ダメになってしまう。
腹いせにと「戦犯」なんぞを槍玉に挙げてみても、
ダメな状態が改善されるというワケでもないし、
むしろ余計なトラブルを招いてしまいがちだ。
そんなコトより少しでも現状の改善を図る
方がよほど世の為人の為になるだろうに。
たかがヒト個人ごとき「万死に値する」
罪などないと個人的には思っている。
さっさと死を与えてしまうよりも、
その後寿命尽きるまでの経過を
ひたすら見せ続けてやる方が、
もちろん苦痛も大きかろう、
悔悟も深まるだろうし、
救いも得られるかと、
そう期待している。
敢えて苦しもう
なんてつもり
ではないが。

だからせいぜい死ぬまで生きるつもりでいるのだ。

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2010/05/24

些細な差異への軽快な警戒感

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このブログでは個人的な感覚で書き散らしてるから、
個人的な教訓などを盛り込んだハナシも多いけど、
自身の性質を踏まえてバイアスをかけてるから、
それが誰にでも適用できるとは考えていない。
ただ、文脈を通じて読み進めてもらえれば、
多少なりとも得るトコロはあると思うよ。

だいたいヒトなんて、もともとの性質が偏っているものだから、
それを踏まえた上で逆方向に補正して把握するようにしている。

眼球の歪みを補正しつつ認識しているのと同様、
感覚の歪みを補正しつつ認識しようという程度。

しょせんヒトなんてのは大した違いはないが、
どうにもヒトなんで差異の認識が不足しがち。
そのあたりを履き違えないよう注意しないと。

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2010/05/23

継続は余計な力を入れず、気付けば力がつく。……かもしれない。

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数値目標を設定していたワケではない。
単に可能な範囲で書き続けようと決め、
ただただ日々が過ぎてっただけのコト。

妙な自分ルールに拘泥する自分自身と、
執着しないようにと抵抗する自分自身、
そんな葛藤の中に、あえて委ねてきた。

常に完璧であるコトが目的ではないし、
迷わぬコト惑わぬコトも目的ではなく、
むしろ不完全で迷い惑うくらいがいい。

日々に揺らぎがあったとしても長年月、
続けて数が集まってくれば平準化でき、
その方向性が自ずから見えてくるもの。

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2010/05/22

一千回の道も1kを案ずるトコロから

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枠とか土台といったものは、意図せず作られるコトも多い。
意図してないもんだから、思わぬ躓きになりがちでもある。
そりゃそうだ。置いたはずのないトコロに枠だの土台だの
作られていたら、よほど注意しないと見落としてしまうさ。

なんとなく認識している程度、でも不充分。明確に輪郭を
認識しなければ、ついうっかり足の小指をぶつけてしまう。
しかもコレ、ヒトの動きに応じ形成されていくものらしく、
時間が経つにつれて強固になっていくような性質も、ある。

おかげで古くなればなるほど壊すのも困難になっていくし、
ヒトが衝突した際の被害も、より大きなものとなっていく。
壊しにくいからと手を拱いて放置していればヒトの活動は
大きく制約されてしまい、息苦しく身動きしづらくもなる。

このブログも、ある程度のシバリを決めて書き始めたけど
書き続けているウチに自分ルールが勝手に決まっていった。
たとえば「最大で1日1本」としているつもりが、気付けば
「最大でも最小でも1日1本」になってきていたりするのだ。

決して明文化しているワケではないというのにも関わらず、
なかなか容易に破るコトのできない、厄介な障害でもある。
個人どころか、成熟した社会、歴史ある組織などの中でも
集団内の自分ルールが自然に作られ維持されてたりもする。

単数形複数形いずれにせよ自分ルールは暗黙裡に作られて
適用されるものだからヒトの動きの障害になりやすいのだ。

それじゃ、どうしようかね、コレ。

ヒトの存在や行動を支障するような邪魔な存在であるなら、
破壊して障害を取り除く必要があるだろう。あえて破ろう。

たとえば、ちょっと冒険的な行動に出るなど、思い切って
“自分の枠”を破壊するような方法は、よく使われている。
組織であればルールの明文化などを通じて暗黙のルールを
肯定したり否定したり、といった方法で対処するのが通常。

ところが、壊したら壊したで破片が飛散して大変だったり、
壊しそびれた部分との齟齬が生じて余計に面倒になったり、
さまざまな弊害が生じるのもまた避けがたいし、そもそも
古く固くなった壁を壊すなど、とても大変な行為でもある。

もうちょっと、楽な方法もあるんじゃないか。

今まさに眼前に立ちはだかる堅固な壁を壊そうとしている
人たちは、もしや気付いていないのかもしれないけれども、
実は使われなくなった道筋の周辺の枠組みは簡単に崩れる。
使わなくなった建物の土台だって、すぐ脆くなってしまう。

そういうふうに脆く柔らかくしてから崩せば、大した力も
必要にならないし、壊したり崩したりする場所によっては
さらに他の壁の存在意義をも失わせるコトさえ可能となる。
力はあるに越したコトはないが、知恵や時間も有効な手段。

また、知恵というのかどうかは議論の余地があるけれども、
あえて外圧や偶然の要因を利用するという手もあるワケで。
何らかの理由で自分ルールを守れなくなっても気にしない、
というくらいに考えておいた方が、無理なくていいかもな。

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2010/05/21

枠々するコト基礎の如し

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成功の体験であろうと失敗の体験であろうと何れにせよ、
表面的な経験則では環境変化に追随することができない。

柳の下に二匹目の泥鰌は居ないし前車の轍は踏むものだ。
いったん狩りをした場所は暫く間を置いてから使うもの。

きちんと土台を作った上で仕組みを構築しなきゃなんて、
テキトーなコトバで誤魔化すのは至って簡単だけれども。

何を以て基礎とするかという認識だけみても大きく違う。
どこまで深く杭を打っても基礎といえるかどうかは疑問。

そもデキゴトてのは完全に終わったなんてコトはなくて、
いつまでも個々の事象の影響は残り続けるものであって。

無数の現在進行形のデキゴトの絡まり合った状態こそが
今ヒトの目に映るヨノナカというコトでもあるからして。

だから個々のモノゴトをのみひたすら深掘りしていても、
周囲や背景のモノゴトを見失っていては、どだい無理だ。

枠を決めて掛かれば可能性を制約してしまいかねないが、
枠の存在や内外の違いを認識できねば何処にも行けない。

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2010/05/20

暗箱に針穴(26) その先は、行ってみなくちゃ、分からない

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未知の世界にワクワクする気持ちを感じる構図を好んで使う。
いわゆる門構え構図ってヤツだな。先を覗き見るイメージだ。

自分自身は身を隠しつつも見通しの開けた場所を眺め渡して、
草原を闊歩する動物を狙う狩猟民のような感覚でもあるのか。

あるいは雨風の影響を受けにくい谷地に居を構えなていがら、
その先に広がる田畠を見渡して来るべき稔りを期待するのか。

いずれにせよ、先行きは完全とはいえないものの一部が見え、
良くも悪くも想像力を掻き立てるような、そんな画が好きだ。

とはいえ安全な場に縮こまっているだけでは先を見通せない。
先へと進んだ経験がなければ想像力もロクに働いてくれまい。

もちろん幾多の経験を積んだトコロで分からないコトもある。
そうであるからこそ先々を見通したいとヒトビトは願うので。

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2010/05/19

各駅停車の乗合列車

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ウチの実家は「友達付き合いのようだ」
と評されたコトがあるのを思い出した。

親子でも兄弟でも、けっこう直截的な
物言いを普通にしていて、どことなく
ディベート的な会話も普通に行われて
いるし、各自の得手不得手や趣味嗜好
なんかも皆が踏まえて話を進めている。

これが普通だと思っていたのだけれど、
一部の友達や仕事仲間などの言うには
「親というのは反目し合う相手」とか、
そんな関係性の家庭もあるらしく驚く。

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2010/05/18

非同期な友達

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年々、少しずつ友達の年齢の幅が広がってきている。
特に、ここ数年では年上の友達が増えたように思う。

もともと大家族の一員として育ってきたし、親族も
年始などには20人くらい集まるのが当然だったから、
当然ながら話相手の年齢層も、昔から多様であった。

それが学校生活を経て同年代との付き合いが中心と
なって、社会に出てからも同期・同年代・同窓など
といった関係が、人付き合いに影響を及ぼしていた。
かつて飲み歩いた同僚の多くは、前後数歳の範囲だ。

最近では友達の友達と親しくなったり、遊び仲間の
グループが広がったりして、そういった年齢の枠は
大きく広がり、前後20歳くらいになってきたようだ。

レンタカーを仕立ててドライブしてきた仲間たちも、
現地でライブを催した音楽家たちも、年上の友達で、
出雲路で一緒に歩いたオトーサンオカーサンなどは、
おそらく一期一会だとは思うが、妙な親近感がある。

年齢だけではない。出自や経歴、趣味の違いなども、
いろいろと話題広げたり深めたりしてくれるもので、
今まで持ってなかったような観点を得られたりする。

無理にも矢理にも付き合いの幅を広げる必要なんて
必ずしもないだろうけど、自然に広がるのは歓迎だ。

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2010/05/17

暗箱に針穴(25) 三人寄れば、もうちょっとの知恵

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それぞれ2人の友達と一緒に歩いた木曜と土曜の散歩。

一人で歩いていても撮影できない状況というのがある。
一緒に歩いてくれる仲間が被写体に出会い撮影する姿。

そして同じ場所でも異なる視点では被写体の見出し方、
捉え方、切り取り方、いずれも異なるのがよく分かる。

一人で歩いて撮影して回るのも楽しいし練習するにも
悪くはないけれど複数人で歩き撮り回るのも悪くない。

各人の撮影ペースも異なるので時間配分は要注意だが。

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2010/05/16

自称逸般塵の不通の日記(162) 閑中忙あり

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仕事の予定が詰まっている状況より、
個人的な予定が詰まった日程の方が、
いろいろバタバタしてしまいがちだ。

いやまあ一つひとつの日程をみると、
むしろのんびり過ごす時間が長くて、
間が短いから、そう感じるのだろう。

そんな感覚を持つようになったのは、
きっと青年から中年に差し掛かる頃。
友達との時間の比重が増えてきた頃。

仕事が相対的に減ってきている中で
暇が多くなっているから、ではない、
と思う。たぶん。おそらく。きっと。

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2010/05/15

自称逸般塵の不通の日記(161) 盛春の新緑の木陰の模様

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新緑の時季には木々の間に入り込みたくなる。
花も、梅桃桜の類は終わったが躑躅や菖蒲に
藤や山吹など、むしろ今こそ多彩に咲き誇る。

そんな新緑の野山に、誘い誘われつつ出歩く。
寒暖湿潤程良い陽気は歩き回るにも適度だし、
連休中よりは行楽の人手も多くないのが良い。

そして歩き回って疲れて帰って食って眠って、
スッキリ目覚めて、憂いを忘れてしまうのだ。
身体を疲れさせると、脳も一緒に回復させる。

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2010/05/14

このクニのカタチ・暗黒面 扇動するのも簡単だ

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それにしても、廃止が決まった途端に混雑するてのは、
「話題になったモノゴトは見とかなきゃ損だ」なんて
感覚を、多くのヒトビトが持っているコトを窺わせる。

他人と同じモノを持ちたい、的な感覚の裏にあるのは
よくよく深掘りしてみると欲張りというのではなくて、
何か強烈な衝動を伴う不安なのではないか、と思った。

皆の話題に乗り遅れてると、仲間外れにされてしまう、
他人と同じモノを持ってないと、ヤバイんじゃないか、
そうなったら仲間内で最下位か。そんなの絶対に嫌だ。

――不安を煽るのは、有力な広告手法の一つでもある。

昔の「バスに乗り遅れるな」なんて言葉を思い出した。
そういう意味では、戦前から変わっちゃいないクニだ。

バスに乗り遅れたら加速の良い小さな車で追いかけて、
追い越してやればいいじゃないか、とは思わないのだ。

そりゃもう、ちょっとした火種があれば、あとは簡単。
煽って風を送ってやれば勝手に燃え上がって灰になる。

もちろん意図せず煽ってしまって制御不能状態になり、
煽った本人もまた火の海に投げ込まれるコトもあろう。

不安感の何が怖いか、その不安に飲まれてしまったら
他の道を全く見出すコトができなくなるあたりが怖い。

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2010/05/13

科学系ヨタ話(13) 広報活動の後方にある活動や如何

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大手町の取引先に立ち寄ったとき、某有名独法が運営する、
丸の内の大型複合ビルにある広報施設、の話題が出てきた。

その存在は以前から知っていた。

吹き抜けを挟んで、老舗書店の向かいにある小さな施設だ。
その書店に寄ったついでなどに、何度か足を運んだりした。

「仕分けで廃止との結論が出て初めて知り、行ってみたら
ものすごく混雑していて驚いた」と、取引先の青年は言う。

せっかくだからと、その取引先からの帰りに、寄ってみた。
なるほど、かなり混んでいる。以前と比較すれば、だけど。

そこにあるコトを知らなかったのであろうな、多くの人が。

ていう感覚からすると、仕分けられても致し方ない程度に、
中途半端な広報活動でしかなかった、とも言えそうである。

もともと知っている者にとっては、さしたる情報ではなく、
もともと知らない者にとっては、まったく認知されてない。

事業主体にしてみれば付帯業務でしかないかもしれないが、
広報周知啓蒙といった活動を疎かにしていては立ち行かぬ。

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2010/05/12

自称逸般塵の不通の日記(160) ある小雨模様の日

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仕事なくてプラプラするコトに決めた日。
床屋に行って、あとは読書と思ってたが、
未明には友達と朝まで長電話して過ごし、
翌日は昼頃に別の友達から電話を受けた。

夕方、自宅を出て歩き出せば、そこかしこに
咲き誇るツツジの香りが街中を満たしている。

床屋に寄ったところが、臨時の休みだったので、
また別の友達と落ち合って喫茶店で喋り続ける。

そういえば最近、神保町の書店街や
秋葉原の電気街を、歩いてないなあ。

基本的にヒトゴミなど大の苦手だけれども、
ごくたまになら、眺めて歩くのも悪くない。

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2010/05/11

自称逸般塵の不通の日記(159) 例によって先の見えにくい日常

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都会に戻って幾日かずつの外回り仕事と缶詰仕事とを経て、ふと仕事が途切れた。
気付いてみれば、机の上に置いた冷たい麦茶のコップに露がつく日もある時季だ。

気温が高くなってきたので窓を開けて過ごす時間が長くなり、窓の外から烏やら
中学校やら近所の公園の整備工事の現場の騒音などが、どんどん入り込んでくる。

また次の仕事を獲得してこなけりゃならんが、そんな直ぐ見付かるもんでもない。
もともと営業下手だし、仕事の性質上、活発に動いても成率は容易に上がり難い。

仕事獲得の活動をしつつも、半ば休息と読書と散歩にでも、充てて過ごそうかね。

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2010/05/10

暗箱に針穴(24) 撮影は実体験ありき

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周知の如く多様な趣味に手を出しており、写真や鉄道旅なども好む。
たまに出張の機会がある仕事ゆえ、鉄道写真も少なくないのは事実。

でも、鉄道というのは数ある被写体の中のわずかな一部分に過ぎぬ。
たいていは「鉄分入りの風景」、それも散歩や旅行中の一齣が大半。
可能なら撮るが、何が何でも撮らねば気が済まぬという程ではない。
そうだろう、あくまでも多くの趣味の中の一つに過ぎないのだから。

むしろ現地での人物風物との出会いという貴重な体験を得て考える、
そういう点にこそ主眼を置いて、旅をしている。だから他は従目的。
同じ表現をするにしても、自らの感覚で対象を味わって、その上で
対象への想いを表現に乗せていくコトができるのなら、それが良い。

撮影に適した機会があったとしても、それより旅の道連れとの対話
や地元の人たちとの方が興味深いのであれば、迷わずそちらを優先。
あるいは旨いモノに出会ったならば、よほどネタになる飲食材なら
ともかく、自ら味わう経験を優先して、撮影は二の次にしてしまう。

出会いというのは一期一会であるがゆえに、そこで何を得たいかが
最初に行う動作の基準となる、てな具合に考えれば良いだろうかね。

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2010/05/09

出張旅行記(29.75) 日は再三昇る

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仕事の後の松江市街散策でも妙な縁があった。
といっても趣味の文房具店巡りが少し伸びた
程度ではあるけど、それなりに楽しい体験だ。

帰りは在来特急+新幹線にする予定だったが、
いろいろ都合があって再び寝台特急に乗った。
車中2泊+1日。やるなら、年寄りになる前に。

往路と同じく復路でも車中で仕事していたが、
上り列車の方が、下り列車より時間帯が早い。
もしかしたら東京近郊での朝の過密ダイヤに
巻き込まれないようにするためかもしれない。

理由はともあれ、おかげで行程の大半が夜だ。
夕暮れ時の松江市街を少し歩いて土産を買い、
弁当を買って、乗り込んだら個室ヒキコモリ。

米子を出て山間部に入ればカーブが連続する。
ときおり止まるのは待ち合わせの運転停車だ。
車窓の眺めは点々と灯る住宅の灯りや街路灯。

宵の口だが山間を縫って走る道路に車は疎ら。
待ち合いの頻度から推して測れば、行き交う
列車の本数も非常に少ないコトは間違いない。

しかし、その路々は住民の生活に欠かせない。
険しい山々に囲まれた狭い土地に暮らすには、
道路や鉄路がなければ外部との往来も難しい。

中国山地を抜ければ倉敷、岡山へ入っていく。
いきなり平地に出て、すぐに眩い市街地へと。
複線複々線を擦れ違う列車も、まだまだ多い。

22時台。都会ともなれば「夜はまだまだ長い」
といった時間帯ではあろう。そりゃもちろん
交通機関も元気に走り回っていて当然である。

もちろん都会で時間を忘れたような暮らしと、
農山漁村のような自然の時間に依存する生活、
まるきり異なったものではあるのだけれども、
それにしても日本の公共交通網というヤツは、
ヒトモノカネの集中の度合いにとても正直で、
地方に出ると途端に密度が低くなっていって、
それこそ疎にして漏れまくり、の様相を呈す。

たとえ「狸の道」「カミサマの道」なんぞと
揶揄されようと必要なものは必要という感覚、
こうして実見してみると、やはり実感できる。
そして広域災害時のライフラインにも重要だ。

ただ、どうなんだろうね。

交通容量不足が慢性化している都市部の路々、
それは大容量化していく以外に途はないけど、
交通網そのものの不足に悩む地方においては、
小容量かつ融通性の高い路網を縦横に巡らせ、
以て利便性と耐災害性の確保に繋げられぬか。

道そのものが重要なのではなくて、その上を
ヒトだのモノだのが移動するコト自体が重要。
その原点に立ち返って考えてみたいトコロだ。

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2010/05/08

出張旅行記(29.5) カミサマのクニ

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出雲大社は本殿の大修復工事の最中で、
通常は拝殿となっている建物が仮本殿。

現場では本来の本殿を包むようにして
プレハブの仮屋が建てられているから、
ちょっとオモシロイ状況になっていた。
これはこれで、なかなか出会えぬ光景。

家族旅行もどき珍道中は参拝を済ませ、
ブラブラと参道を下って蕎麦を啜って、
今度は一畑電車の駅からJRへ向かった。

歴史も規模も日本有数を誇る出雲大社。
近代に入っては公共交通も整備された。
かつては国鉄線も入っていたとのこと。

今は完全に廃線となってしまってるが、
地図や空撮写真には線路の名残があり、
駅などは現在も保存されているという。
いずれ再訪する機会あれば見てみたい。

観光地交通としては一畑電車も面白い。
調べてみれば一畑薬師への電車として
発足したため途中にスイッチバック駅
が存在する変則的な路線だというコト。

こちらも今回は今回は行かなかったが
やはり出雲再訪の機会があれば行こう。
おそらく、さほど遠からず機会はある。

さて珍道中もJRの駅へ到着で一部解散。
「オトーサン」は特急で一足先に帰途。
それぞれ松江に用がある2人は普通列車。

車窓は松江駅近くを除けば長閑な景色。
ときたま巨大な建築物とか高速道路が
目に飛び込んでくる以外は農山村だけ。

その高速を走る自動車は非常に少ない。
「別の地方では『狸の道』と呼んでる」
などと「オカーサン」が教えてくれた。
出雲では「カミサマの道」てなトコロ?

松江での仕事で出会った相手の一人は、
仕事で頻繁に中国山地を横断してるが、
「高速を使っていいのは冬だけ」とか。
冬でも除雪が行き届いているから、と。

カミサマの社もカミサマの道も、まあ
ヒトビトの為にと作られるのは同じか。

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2010/05/07

出張旅行記(29.25) 縁の上にも力を持つ?

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不思議な縁なんてのはトコロ構わず発生する。
ときたま街中で話し掛けられる縁はあるけど、
今回は寝台特急のラウンジコーナーであった。

乗車前、朝食用に買っておいたサンドイッチ、
車販がないので予め用意しておいたワケだが、
夜明けに起きて食ったら仕事しようとしてた。

声を掛けてきたのは、ちと不思議なオッサン。
定年退職後の暇を持て余している様子だけど、
そこらの趣味なし元リーマンとは大きく違う。

何処が不思議って、話している内容なんだが、
どうにもオカルティックorスピリチュアルな
話題が多いようで、どうも説明が仕難く割愛。
(というより彼の世界観を掴みきれなかった)

まあそれはともかく。

出張の目的地は松江市内だったのだけれども、
そこは寝台特急の利点か、少し寄り道できる
くらいの余裕が、仕事の前に確保されている。

そんなワケで出雲大社に足を伸ばしてみよう、
などと思っていたのだったが、件のオッサン、
同じく出雲大社に参拝する予定だったという。

オッサンを案内しつつ、駅前のバスに乗った。
初めて訪れる地だが、だいたい見当つくので、
どうも道案内役になってしまったような気が。

事前にWebで調べられる程度の範囲くらいは
周辺の情報を仕入れてから出発するのが常だ。
何が何でも暗記するというワケでもないけど。

そんな詳細に記憶しなくても、出先で触れた
モノゴトに即して「そいえば見た記憶がある」
てな具合に、画像や文章、図形(路線図など)
の記憶がズルズルと芋蔓式に出てくるもので。

まあそれはともかく。

バスを降りるとき、またも不思議な縁が発生。
同じく参道の最寄りバス停で降りようとして
小銭がなく困ってたオバサンがいたのだった。
オッサンすかさず「貸しときますよ」と一声。

そこから3人揃って参道を歩くコトになった。
オバサンも同じく定年過ぎの旅行中だそうで、
全くの他人なのに家族旅行のような雰囲気だ。

還暦過ぎのオトーサンオカーサン、中年息子。
揃って参拝して、宝物の展示を眺めたりして、
歩き回っていたら、思わぬ人物に出くわした。

別行動で、午後に落ち合う予定の仕事仲間だ。
大社で鉢合わせする可能性はあると思ってた
ものの、こんな状況で会うとは思わなかった。

いつも通り、ほぼ全行程が一人旅となるはず
であった出張が、何とも妙な具合に賑やかな
珍道中になってしまった、という1日だった。
まあそれはそれで、面白かったのだけれどね。

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2010/05/06

出張旅行記(29) 気を紛らす旅のハナシ

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まだ缶詰生活は終わっていないのだけれど、
その前にあった出張の話でも書いておこう。

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1年振りに乗った寝台特急。数えてみれば通算4回目だ。
もともと空港が好きでなく(航空機は嫌いじゃないが)、
東京から四国あたりでもスケジュールが許せば列車で
旅をするコトが多いのだが、最近では移動中の時間を
より有効に活用できる寝台に好んで乗るコトが増えた。

しかし寝台列車は廃止休止が相次いでいるのが現状だ。
昨年は「はやぶさ」と「北陸」に乗ったが、どちらも
今のダイヤからは消えてしまったのが残念でならない。

費用や融通性では夜行バスに勝てず、移動時間の短さ
では航空機や新幹線などに勝てず、そこに加えて高速
道路の値下げがあって、事業としては苦しいのだろう。
同様にフェリーも採算悪化で運休航路が増える一方だ。

だからせめて、使えるトコロには使って行きたいのだ。
今回は島根への出張が入ったので、未だ残る数少ない
東京発の定期寝台特急の一つ、サンライズで出発した。

どうも不思議な縁があるもので、未だに訪れる機会の
ない県が7つくらいあるというのに、島根出張は2度目、
鳥取にも3度は出張していて、山陰地方は妙に縁が深い。
そこへ向かう寝台特急が今でも残っているのは幸いだ。

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12時間あまりの寝台の旅は一人静かな時間を過ごせる。
読書したり仕事したり思索に耽ったり、また眠ったり。
今回は出張先での仕事の準備に加えて別件の仕事にも
追われていたので、ほとんど仕事に充てる予定だった。

個室の小さな空間は小柄な身には手頃な大きさであり、
寝台脇に荷物を置いて横になれば、ほとんどピッタリ。
横になってリラックスして仕事に取り組めるワケだが、
ところが今回は妙に捗らず、諦めて早寝してしまった。

早寝して早起きしたおかげで出会える景色は中国山地。
谷間を縫って走る線路からの車窓の眺めを楽しみたい
のであれば鉄路で旅をする以外にはない、と思い知る。

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戻ってからも缶詰が長引いているのは、
そのせいもあるけれど他の理由もある。

もともと出張前から妙に落ち着かぬ心況が続き、
様々な状況が重なり浮ついた状態のままだった。
出張は、それを少し延長したに過ぎない、はず。

むしろ何か追われたような気持ちでいたのを、
少しは解してくれたような感覚もあるくらい。

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2010/05/05

完了しない仮定で過程を語る

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人それぞれに生き方があるはずだし、
人それぞれに学んだことがあるはず。

簡単な経験なら簡単に言葉で表せるけど、
考え方を大きく変えてしまうなど
人生に深く影響するような
体験をするとヒトは
口数が減るもの。

本当に重大な体験など10年20年してもなお
容易に語り尽くせるモノではない
その影響は一生続いていて
どこで終わったなどと
簡単には言えない。

誰にも言えぬものだから致し方なく
「墓場まで一人で持って行こうかね」
なんてそんな体験、歳を取ってくれば
誰でも多かれ少なかれあるのではないだろか。

いやしかし本当はね、
どれほど些やかな経験にしたって
その後の時間軸に影響を与えないはずはないので
書いたり喋ったりするのは単純に
脳内で整理をつけたいから。

いつもこうしてダラダラと書いているのは、
「現時点での中間報告」とでもいうべきか。

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2010/05/04

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(54) 住めば辺境

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現在の仕事は基本的にイレギュラーな内容。
というよりむしろレギュラーなどない仕事。
仕事の場所も常に事務所や自宅とは限らず、
どころか外出先での作業をするコトも多い。
だから、そのせいかどうしても、適応力を
優先してしまい効率は低下しがちではある。

毎回かなり違う内容の成果物を出していく内容。
毎回いろいろな場所を訪れたりするような業務。
毎回のように異なる人と話をしてナンボの仕事。
もう十数年やって慣れてきたが、それでも毎回
いろいろな課題に直面するのが常だもんだから、
まあ日常生活なんだか非日常生活なんだか、と。

他人の話を聞くのが好きだから今の仕事は性に合ってるけれど、
他人の言うことを聞くのは嫌いだから自営業になってしまった。
かなりニッチな生き方だけど、おかげで世の中は見渡しやすい。
端っこにいれば、全体像だって視野に入れやすいというワケで。
むしろ今いるココが世界の中心だなんて思い上がりを持たずに
いられる分だけ、メインストリームっぽい連中よりゃマシだろ。

ヨノナカの端っこで生活しているような日々ではあるけれど、
ずいぶん昔の大学時代に恩師から学んだのは、詰まるトコロ
“そんな生き方でも構わない”という意識の持ちようであり、
ニッチを突き詰めてもいい、というメッセージだと思ってる。
むしろ他の人たちにない、自分だけの視点を得られるならば、
多少の苦労はあっても、相応の価値があるというものだろう。

いやまあ、そんなエラソウなコトを
ほざいていられるほどには偉くない
なんて、よくよく自覚してるけどね。
だけど誰もが自分自身の立ち位置を
それなりに自覚した上で動いてれば、
まだ少しはマシだろうと思うばかり。

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2010/05/03

自称逸般塵の不通の日記(158) 茶でも一杯

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昔から多めに水分を摂取する生活であるらしい。
そういえば小さい頃は水田地帯に暮らしていて、
夏などは水田の水路に設けられたポンプ小屋の
冷たく澄んだ水を虫取りの合間に飲んだものだ。

今でも外では冷たい飲み物を選ぶコトが多いし、
自宅にいれば年間を通じて冷たい麦茶が基本だ。
もともと猫舌だから、という理由もあるけれど、
昔から冷たい飲み物に親しんでいたせいもある。

とはいえ徐々に高齢化の道を進んでいるせいか、
熱い飲み物にも好んで手を出すようになりつつ。

たとえば出張先で買ってきた碁石茶とか蕎麦茶、
独特の風味が好きで、すぐ飲み尽くしてしまう。
あるいは近所の茶屋が焙煎して売る焙じ茶など、
その煎りたての香りにつられて、よく買ってる。

でもウチには長らく急須がなかったものだから、
とりあえず不織布パックを使っていたのだけど、
それが近所の店から消えてしまったのであった。
他の店で探しても見付からないので万事急須だ。

いいかげん急須を買わねばならないのだったが、
ところが出掛けて帰る途中など忘れるコト数度。
普段あまり寄らない店だから通り過ぎてしまう。
習慣の慣性力というのは非常に強いものなので。

結局、出先の仕事の帰りなどではなく、友人宅
から一緒に駅前に移動する途中、という微妙に
非日常的なシチュエーションの中で、ようやく
茶屋に寄って急須を買うコトができたのである。

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2010/05/02

自称逸般塵の不通の日記(157) 裏切りの食パン

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いよいよ季節外れの寒気が周期的に訪れる時季も終わったのか、
ようやくバターが固くない気温の日々が続くようになってきた。
気温の変化が激しいとバターを軟化させる頃合いが難しいのだ。

その時点での気温だけでなく過去2~3日くらいの気温変動にも
影響されているのではないかと思うくらい、微妙な感覚である。

しばしば朝食にトーストを食べている。6枚切の3枚が一食分だ。
ウチのトースターで同時に焼けるのは2枚。最初に焼いた2枚は
バターと塩、残る1枚はバターとジャム、てのが定番メニューで。

バターは大量に使う。それこそ1枚あたり10gくらいになろうか。
いったん焼き上がったトーストに、切り出した塊を乗せて再び
数十秒ほどトースターで加温して、溶かしてやって全面に塗る。

この頃合いが難しい。暖めすぎれば溶けて吸い込まれてしまう。
加温が足りなければ固く、塗ろうとするとパンが凹んだりする。
そんなワケで、気温を考慮しつつ頃合いを見計らっている次第。

食生活てのは、気付けば定番ができて定着してくるものらしい。
それでも、徐々に変化してきたりするトコロも、ないではない。

最近ようやく身に付いたのが、裏側に切れ目を入れておくコト。
表に切れ目を入れるとバターが吸い込まれてしまうので、裏側。

バターを塗って塩を振った後で半分に割るのを容易にしたくて、
トーストする前に切れ目をいれておこうと思っていたのだけど、
半自動化された作業フローの中に、なかなか割り込めずにいた。

ほとんど無意識にできてしまうほど身に付いた一連の動作には、
よほど強く意識してやらないと変更を加えられないものである。

習慣という慣性力の強さを、こんな場面でも思い知らされてる。

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2010/05/01

自称逸般塵の不通の日記(156) 缶詰仕事n日目

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一方こちらは当面の間は缶詰生活が続く見込み。
もちろん缶詰生活といっても(中略)なのだけど、
それには、それなりの経験に基づく意図がある。

たとえば、仕事をしていて小腹が減ったときに
軽く食事など作って食おうとしていると、ふと
直面している仕事上で役立ちそうなアイデアが
浮かんできたりするコトが、かなり頻繁にある。

それも、トーストにバターを塗ってるときとか
ベーコンエッグを焼いているときなど、かなり
単純な作業をしている真最中、であったりする。

他にも、ちょっと買い出しに出るなど歩いてる
最中とか、またはシャワーを浴びてるときなど、
そんなアイデアが浮かんできやすいように思う。

一方で、浴槽に浸かっているときなど、あまり
身体を動かさない状態では、ちょとイマイチだ。
要するに、ほぼ意識する必要のない動作をする
ような状況が、おそらく閃きに有効なのだろう。

身体を動かすには、それなりに脳を活性化させ、
その行動を的確に制御しなければならないはず。
といっても、慣れた動きであれば意識して制御
するまでもないから、思考能力は自由に使える。

きっとそんな具合に、半ば自動化された作業を
しているときに発想が開放されやすいのだろう。
いずれにせよ気分転換の重要性を再確認しつつ、
今日もまた自宅での仕事に追われるのであった。

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