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2010年6月

2010.06.30

転々とせん

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均質性の高い個体の集合体であるとの
共同幻想を持ったヒトビトの集まりは、
一見すると強固な連帯感で結ばれ強い
一体感により社会を大きく動かす力を
備えた多数派集団となるコトも多いが、
それは集団妄想に終わる可能性もある。

コンサバってヤツは、実は難しいのだ。
急激な変化を嫌う傾向も目立つけれど、
しばしば社会の多数派を占めてるから、
全体が時代に取り残されたりせぬよう、
彼らも随時変わっていかねばならない。

集団そのものを変わらず継続させてく
ようにしたいなら中身から変わらねば。

たとえば古くなりすぎた個体は除外だ。
功成り名遂げた個体は多数派ではない。
もちろん、その一族係累も異質な存在。
新たなる無名の個体にこそ委ねるべし。
そうしてこそメインストリームとなる。
滞った水などstreamとは呼べないから。

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2010.06.29

点々とした線

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ヒト一人ひとりを子細に観察すれば個々に全く異なる特徴を備えた存在だけれども、
ヒト集団をカタマリとして捉えてみれば中身の個体は似たり寄ったりの存在となる。

社会の中での教育というのはヒトを社会の構成要素として規格化する作業でもある。
そして社会制度の多くはヒト個体を同じような存在として扱う前提で作られている。

似たり寄ったりの個体ばかり揃っている想定の社会に生きている以上ヒトってのは、
どうしたっても一列に並ばされたりするし団栗の背比べに喩えられたりして横並び。

真っ直ぐに並んだ1本の列には2つの端があって他の個体とは性質が異なっているし、
それがもしどこかで切れれば別々の2本の列になって端点は4つになるのだけれども、
けれども列の中にいる個体は端に置かれるコトを想定していなかったりするワケで。

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2010.06.28

道を知るべきコトバ(10) 人に出会う道

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農家や小さな町工場などは好況が最後に訪れ不況が最初に訪れる世界だ。
そして仕事とプライベートとを明確に区別するのが難しい生活でもある。
そのせいか互いに生活を支え合うような関係が自然に出来上がっていた。
おまけに集落全員が顔馴染みだから誰に会っても何らの不安もない社会。

こんな環境で、しかも末っ子として育ったせいかもしれないのだけれど、
積極的に友達を増やそうとする性質ではないものだから「偏屈者の息子」
と親も心配したのだと思うが、そんなこんなで中高一貫の私立へ進んだ。
ずいぶん前にも書いたが、おかげで「都会の中の田舎の鼠」状態となる。

多様な存在が混在する社会の中で、どちらかというと少数派に属しがち、
との認識を強く持つようになっていったのが、青年時代の経験だったか。
だので他人と違うコトがあっても気にしない。目的に沿った内容ならば。
とはいえ同じ場を共有する他者を蔑ろにしたくない、という感覚もある。

気付けば「来る者は追わず去る者は拒まず」的な生き方をしてたりする。
適当にフラフラして人と出会い、気に入ってもらえればそれでよし、と。

そんな感覚で、私生活も仕事も一人、歩いて回るような生活が続いてる。

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2010.06.27

道を知るべきコトバ(9) 屋根のない道

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最近になって、ふと気付いて妙なほど驚いた事実がある。
小さい頃、身近な大人にホワイトカラーが存在していなかった。
ずいぶん昔に書いた通り、生まれ育ったのは田圃の真ん中の集落で、
2~3の小さな町工場があった程度だもんだから、頻繁に出会う
大人たちといえば農家か、工場の職工か、というトコロ。

集落にだって勤めに出ていた人もいたはずだが会う機会は少ない。
親戚筋や街中の友達の親などにも勤め人は多いはずだが以下同文。

職場を出れば私的な時間、なんて感覚とは無縁の大人たちばかり
身近に触れて育ったせいかな、職業とは生きるコトだなんて感覚。

やろうと思えば会社員生活も、できないワケじゃない。
通算5年間くらい、長いトコロで2年くらいは勤務した。

でも一人で仕事するようになって、むしろ落ち着いていられる。
たとえば仕事上で何らかの問題が生じたとしても、その原因が
他者であれ自身であれ偶然であれ、そんなのを問わず自ら動き
対処せねばならないものだから、割り切って動けるというもの。

目まぐるしく変化し続ける状況への対応に関しては、
まだまだ足りないトコロも数多くあるのだけれども、
それでも失敗したとしたら自らの能力不足といえる、
逆に言えば誰かor何かを恨むような気にもならない。

「情けは人の為ならず」的論法において
「仕事は自分自身の為」というトコロか。

照れば暑く、吹けば砂埃で、降れば濡れる、
そんな道が、性に合っているのかもしれん。

そういえば、ちょっとした雨なら傘も出さずに
歩いてしまうような習慣、いつからだったかな。

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2010.06.26

自称逸般塵の不通の日記(169) 夏の生活

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久し振りの業務多忙で疲れていたせいか、
日中の暑い最中に眠り込んでしまい頭痛。
水を飲んでも、さらに寝ても解消しない。
大量の汗をかいて塩類不足に陥った模様。

こういうときは食って回復する他にない。
塩分と蛋白質と脂肪分と炭水化物と云々。
食えば一気に汗が出てくる。熱量を排出。

シャワー浴びてさっぱりしたら、夜仕事。

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2010.06.25

自称逸般塵の不通の日記(168) 昨年とは違った意味で暑くなりそうな夏

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驚いたコトに急に仕事が忙しくなってきた。
さらに夏にかけての打診も入ってきている。
順調に推移するとすれば相当な仕事の量だ。

ここ1週間は、外での仕事と自宅での作業を
交互に繰り返す日々が続いていたのだけど、
昔よくあった程度にしか忙しくないという
のにも関わらず疲労が蓄積していたようだ。
いつもの未明の自宅作業のつもりが寝てた。

暇な時期があまりに長かったせいで身体が
すっかり忙しい生活を忘れたのかもしれん。
身体を慣らしてやらないといけなそうな夏。

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2010.06.24

道を知るべきコトバ(8) 木の葉の屋根の道

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並木道には激しい風雨や強い陽射しから守ってくれる屋根がある。
夏になると青々とした枝葉を茂らせて路上に日陰を作ってくれる。
冬になれば葉を落として暖かい陽射しが道上にも届くようになる。
大量の落葉を掃除したり枝の手入れをするのは大変だけど便利だ。

これがもし田畑の中にあるなら遠くからでも明瞭に道を見出せる。
住宅街の中であっても少し高いトコロからなら容易に見えるはず。
道そのものはヒトの手によるものだけれども木々の存在は大きい。

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2010.06.23

道を知るべきコトバ(7) 空じゃないけど天井にも道?

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地上はヒトで混雑しているので、せっかくだから
上にも道を作ってもらいたい、と思ったりもする。

とはいえ、そしたらヒトの上にヒトを置くような
コトになってしまう、なんて解釈もできそうだね。

「ああしたら、どうなる」の想像は意外に難しい。

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2010.06.22

道を知るべきコトバ(6) 道は地上だけじゃない

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街路樹とビルの間には歩道。
見上げれば空にも一本の道。

ところどころ途切れかけて
いるけど何とか通れそうだ。

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2010.06.21

道を知るべきコトバ(5) 分かれるのも道

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分かれ道に行き当たり、どっちに行こうかと考えたとき、
「どっちも期待できない」というのでは気乗りしないし、
「どっちも期待できそう」となれば迷ってしまいそうだ。
しばしばヒトは、そんな選択肢の板挟みになったりする。

一方が良さそうで、他方が良くなさそうな選択肢なんて、
思った以上に、なかなか一緒に出てきてくれはせぬもの。
そのような選択肢の組み合わせから選ぶような場面では、
誰が選んでも一緒というか半自動的に選ばれてしまって、
要するに選択をしたという実感にさえ乏しいコトだろう。

ハナシを戻す。

ともあれ多くのヒトビトが選択に困るような状況下では、
皆が同じ道を辿るようなコトになったりはしないワケで。
先々の予測やら判断基準やら異なるおかげで人それぞれ
別々の道を選択していくコトになるのだけれども誰もが
リスクが小さく得るものの大きそうだと考えているはず。

なに、一方が行き止まりだったとしても他方は何処かに
通じるかもしれんから、どちらを選んでも怨みっこなし。
あるいはひょっとしたら、遠い向こうで合流するかもな。
そのとき再び親しくしたいから、今は笑って分かれよう。

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2010.06.20

道を知るべきコトバ(4) ヒトの後ろのヒトの道

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ヒトの視野は前に寄っているから、獲物は前に捉えようとする。
逆にいえば獲物じゃない邪魔者は、後ろを通ってほしいトコロ。

そんなワケでヒトが陣取った場所の後ろに、裏道ができていく。
決して交わらないけれども、基準となる線があってこその裏道。

誰かが線を引いたトコロにできるのではなく、線から少しだけ
間を置いて付かず離れず平行線となるように、自然にできる道。

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2010.06.19

道を知るべきコトバ(3) ヒトの動く線は道

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平面上に線が引いてあるとヒトは何気なく辿ってしまったりする。
そして多くのヒトが通れば踏み固められ通り易い道になっていく。
もともとは恣意的な線だったのが後には選ばれた道になる可能性。

「線などなければ良かった」と嘆いたトコロでどうにもならない。
そんな線を無価値にするくらい多くの人々が使ってくれるような、
新たな線を用意してやってみれば、ひょっとしたら良いのかもね。

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2010.06.18

道を知るべきコトバ(2) 上った先は見通せない

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見通しの良い上り坂では、傾斜の度合いは一目瞭然。
周囲の建物や樹木、通行人などで比高を類推できる。
そうやって心構えができたトコロで、上ってみよう。

ところが急な上り坂では、しばしば先が見通せない。
上り切った先に、もしかしたら急な下り坂があって、
息せき切って稼いできた位置エネルギーを、一気に
放出しなければならない状況に陥る、かもしれない。

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2010.06.17

道を知るべきコトバ(1) 下を上へ、は大変だ

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下がったら上がる、とヒトは当然のように考えているらしい。
だけど、そうとも限らない。そこの雨水に聞いてみればいい。
「特別な理由がなければ上がる筈もない」とでも言うだろう。

下り坂の向こうに見える上り坂を真っ直ぐ走り抜けるために、
重力に逆らって力を発揮させねばならぬコトをヒトは忘れる。

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2010.06.16

暗箱に針穴(27) 月の置き場所

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月は、手前に何かを置いて撮るコトが多い。
天体単体で綺麗に撮るのは機材や準備など
考えると現状では非常に難しいものだから。

ちょっとした望遠、というくらいのレンズ、
普通のデジタル一眼レフ、の組み合わせで
月に表情を持たせるには、前景が役に立つ。

どうしても真っ正直に被写体を捉えるのが
好きになれないような偏屈者だからという
理由もないではないけれど、それはそれで。

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2010.06.15

書いているコト

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根っから楽観的というか、
深刻に悩んでも仕方ないと考えているせいか、
あるいは悩み続けられない性格というか、
まあそんなカンジなので、
しばしば悲観的なコトを書いているけれど、
実はそんなに深刻ではなかったりするというハナシ。

落ち込んで見えるときには単に疲れてたり眠かったりするだけ、
なんて場合も少なくなかったりする。
そういった感覚まで伝わるような文章を目指しているが、
まだまだ足りないのだと思うので、一応。

日没直後の暗さに見えるけれど実は
日の出直前の明るさだったりするような、
そんな表現になっているのかもしれないとは思う。
いやはや、なかなか難しいものである。
難しいからこそ挑戦しがいがあるとも思うけど。

そんなこんなで1024本目。

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2010.06.14

煙と消えるワケではない

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一つの宇宙探査機がプロジェクトと寿命を全うした。
小惑星まで往復してきた玉手箱たった一つを残して。

大気圏に突入した本体が儚く散ってゆく様子は、
長く苦しい航海の最後を飾るに相応しい花火か。

夢を果たした者が世を去るコトに、何の嘆きもない。
そこに残されるのは、ただ名残惜しさと感動の余韻。

前の世代には目的を達せられず散った者もいる。
だがその遺志は受け継がれて後の成功を導いた。

失敗の後には次こそ成功するぞという夢が受け継がれ、
成功の後には更なる成功を目指そうと夢が広がりゆく。

いったん走り出した以上、人々というのは
それを果てしなく追い続ける、宿命にある。

カプセルの中に何もなかったとしても人々は、
そこに「希望」を見出して先を急ぐに違いない。

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2010.06.13

自称逸般塵の不通の日記(167) 予定が未定の日

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耐暑訓練の余韻で暑さも気にならず遅くまで寝ていた朝(時刻としては昼)。

電話の音で目覚めて出てみたら親からだった。
用事あって都心に出てきたついでに立ち寄るという。
慌ただしく起き出して洗濯しつつ食事をして、
トーストを食い終わる頃に、やってきた。

少しばかり喋った後、近くの駅まで送りがてら車の少ない裏道を案内していく。

陽射しの暑さに汗は出るが大して不快には感じない。
梅雨前の湿ってない空気と耐暑訓練の結果だろう。
汗をかくコトに心身とも慣れるための体験だから。
この身体、汗を減らすには未だ新陳代謝が活発すぎる。
いったん慣らせば冷房の聞いた部屋で何日も過ごしたり、
異様に涼しい日が何日も続いたりせぬ限り1カ月くらい保つ。

駅の改札で親を見送り、別の道を辿って自宅方面へ向かって歩き出す。

そこへu君から電話が掛かってきて茶飲みの誘い。
途中からバスで移動して馴染みの喫茶店で合流。
そこまでは想定していたが、その後さらに彼の自宅まで。
仕事の話などしつつ気付けば日付が変わり夜明けの気配。

朝焼けの街の中の景色を眺めつつ歩き抜け帰宅すれば12時間ぶりの自宅。

あり得そうなコトが複数、連続して発生した休日。

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2010.06.12

自称逸般塵の不通の日記(166) 心頭滅却日もまた涼し?

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少し早めだけど耐暑訓練をしようかと思っていた日、
暑さで寝汗かいて朝10時に起きるつもりだったのに、
思ったより気温が上がらず快眠してしまったりする。

そうかと思えば近所の工事現場の機械音や誘導員の
大声などが騒々しくて目覚めてしまったりする11時。
それでも何とか動き出して友達とともに散歩に出た。

前日から企んでいたのは区内を流れる河川の流賂で、
開渠として把握できるのは残すトコロ10kmほどだが、
その半分くらいでも踏破できればいいかなと思いつ。

気温は想定したほど上昇しなかったとはいうものの、
夏至近い晴れ間の直射日光は非常に強く熱してくる。
水分補給を怠らぬようにしつつ歩いたり撮影したり。

こういうのを初夏から盛夏の頃までときたま行って、
暑さに慣らしていくのが近年の習慣になりつつある。

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2010.06.11

自称逸般塵の不通の日記(165) 人格を養うには人々の中?

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書くコトがないようなときは自分自身を見詰めてみたりする。
いや普段から自分自身を通じて社会を眺めているのだけども。
(そして今回はネタが尽きたというほどでもないのだけども)

もう何年も会社に所属するコトなく家族も居らぬ暮らし振り。
一人で粗食・家事・仕事・散歩を繰り返していたりするので、
どこか修行僧めいたトコロもあるのではないかと思えてくる。

それでも完全に鰥寡孤独というワケでもなく社会の中で生活
してるものだから他者との接触は貴重な社会との接点となる。

友達とか仕事仲間とか実家の親兄弟と意見交換するのは当然、
床屋にも行けば馴染みの店長と毎度のように世相を語り合う。

先週など先輩から仕事の手伝いを頼まれて、2~3日徹夜して
なんとか片付けたりしたが、そういった関係も有難いものだ。

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2010.06.10

自称逸般塵の不通の日記(164) ふくれっ面してると大損するかもよ、というハナシ

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以前、電車の中で見掛けて、妙に気になった人物がいる。
なんかものすごく嫌そうな顔をした中年女性、だ。
周囲の人々の動き一つひとつにも睨みを利かせているような。

ひょっとしたら親しい相手以外には笑顔を見せない、だとか、
見知らぬ他人に愛想を振りまくのは損するとでも考えているのか。
まあたしかに、無理に笑顔を作るのは面倒かもしれないよな。

しかしそれでは逆に勿体ないような気がしてならない。

まるで彼女を不機嫌にしてしまう要素を持っていないかどうか、
他人を監視しているのではないか、と思うくらいの雰囲気だった。
それは残念な予言を自らの力で成就させてしまった結果かもしれない。

見知らぬ他人であっても、同じ場にいる限りは接触の機会もある。
ところが不機嫌そうな表情であれば、相手の対応も最初から
不安や不信感から始まる、あまり好ましくない接触になろう。

そして、そういう経験を重ねて自らの仮説を固めていったのでは。
結果、「見知らぬ他人からの接触は好ましいものではない」なんて
決意を固くしているのだろう、といった推測は大きく外れていまい。

それにしても最初どれだけ違いがあったのか、どうなのか。
こういう強い正のフィードバック回路を構成するような場合、
案外、ちょっとした差が非常に大きな変化をもたらしそうだけど。

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2010.06.09

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(56) そ、醍醐味。

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その昔あった「醍醐」とは乳製品の一種であり、
非常に複雑な工程を経て作られるモノらしい。

その再現を試みたという内容を昔どこかの本で読んだが、
膨大な量の牛乳を使って僅かな量を作れるのみという。

見聞したコトを写真だの文章だので伝えようとすると、
膨大な現実から何を切り出して伝えるかが悩み處だ。

簡潔な表現にするためには受け取る側の意識や感覚や
想像力に委ねて省略するようなコトも少なくないが。

それでも画面の外には想像外の情景があるかもしれんし、
文字にならない意識が言外や行間に滲むかもしれない。

一片の醍醐を口に含んで大量の原料と複雑な工程を想像する、
そんな器用な相手にばかり伝えたいのではないから難しい。

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2010.06.08

理系用語で読み解く社会(65) 群れるという戦略

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個体単独でなく集団を成して棲息した方が、
好適地を占有する上で大いに有利にはなる。
それは植物動物問わず全体的な傾向である。

ヒトも個体単独では弱い存在でしかなくて、
やはり群れてこそ強みを発揮するイキモノ。
単独では太刀打ちできぬ獲物も捕らえ得る。

そして一般的にみれば数が多い集団の方が
より小さな集団を圧倒する力を持つもので、
大きな集団へ集まろうとする動きが生じる。

とはいえ集団内では個体の大きさや形状に
ある程度の制約が加えられるのもまた事実。
そうしなければ集団の崩壊を招きかねない。

もし集団内で規格外の存在が生じたならば
集団を維持すべく排除しようとする動きが
その集団内で生じてくるのは自然の道理だ。

さらに集団が組織化構造化を進めていけば、
全体を統括するような個体を作り出したり
全体のために敢えて死ぬような個体も生む。

全体としての生存を図る為には個体を殺す
コトも場合によって必要というワケである。
そうまでしても集団の誰かは生き残ろうと。

ただしそれも集団が生存していけるだけの
好適地が維持され続けているコトが条件だ。
その前提が崩れれば集団も衰え滅びてゆく。

後に残るは環境に対し無防備となった個体。
次の世代を残せなければ絶滅も近かろうよ。

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2010.06.07

このクニのカタチ・深層流(あるいは熊'n八)

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切迫する状況の中で「やれるだけやる」というのは、
必ずしも「手当たり次第やる」とイコールではない。

そうではなく、やるべきコトを洗いざらい並べ上げ、
それらに優先順位をつけ、一つひとつ実施していく、
といった感じの行動をこそ、目指すべきではないか。

できるコトや、あるいは他への影響が大きなトコロ、
そして最低限どうしても必要なモノゴトなど、から。

何の工夫も配慮もなく動き回るだけでは無駄も多く、
下手をすれば順序を違えたりして失敗しかねないし、
どちらかというと運を天に任せるようなものだろう。

ところがヒトのヨノナカは面白いもので、別の状況では
その「手当たり次第」が求められるコトもあったりする。
それは実践を求められる状況でなく、学習する際のコト。

個体発生は系統発生を繰り返すといったコトバもあるけど、
個体ごとの発見の道筋が集団の発見を模倣していくような、
学習や経験の在り方が伝統的orシキタリ的に存在している。

それこそ、見様見真似で身に付けていくような具合であり、
「考えるより先にまず動いて、その上で考えてみる」的な
素地が、教えを受ける側の姿勢として求められるのである。

かたや長じては見真似される側としての姿勢が求められる。
さらには老いては子に従えとなり、いずれは時代の変化に
集団として対応していくため、後身に任せ身を退いていく。
そうなるためには、きちんと経験を積んだ後継者が必要だ。

次の世代や次の次の世代への移行措置を踏まえたシキタリ。
受け継いでアレンジして伝えていくというオリジナリティ。

このクニには長い近世を経て、まねぶ風土が定着し、
そして一足飛びに近代へと移行してきた過去があり、
近世の感覚が根強く残った現代の社会を成している。

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2010.06.06

このクニのカタチ・表面張力(あるいは弥次喜多)

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微妙な押し合い引き合いで動いているヨノナカを
(以前「こっくりさんのそっくりさん」と書いた)
皆が皆で自分勝手に動かそうとするばかりだから、
結局のトコロ誰かさん(単数形・複数形問わず)が
動かそうとした通りに動くようなコトはまずない。

でも衆愚が増えれば、可能になるのかもしれない。
なにしろ最近、世論調査の結果を見て動くような
有権者もいるように思えてならず、可能性はある。

そういえば人気の書籍だとか話題の映画だとかを
「見なきゃ」って思ってしまうような心理などは、
まさに群れで生活する動物としてのヒトの性質だ。

個体が全体を直接知覚できる程度の小集団ならば
それでも大きな問題は生じなかっただろうけれど、
ヒトが社会を作り情報の流通を発達させていって
大きな集団となるにつれ良くも悪くも影響は拡大。

寄らば大樹の陰とて人気のあるトコロに集まるが、
集まったヒトの重みに大樹が耐えられるかどうか。
もし耐えられたなら集まったヒトビトの力を得て
さらに大きく強く長く支え続けるコトになるけど。

でもいつか倒れるコトをヒトはすぐ忘れてしまう。
盛者必衰の理は昔から語られているはずだけれど。

逆にヒトが集まらないトコロでは何も顧みられず、
大樹が倒れたときに流れてきたヒトビトを支える
ほどの力もないまま連鎖的に倒されてってしまう。

乗り遅れた上に無理して飛び乗ろうとした挙句に
乗り損ねて痛い目を見たコトも少なくないはずだ。
けれどもこのクニのヒトビトは痛みを忘れるのが
早いもんだから似たようなコトを繰り返すのかね。

だいたいにしてヒトの失敗なんてのは似たような
トコロで生じるものだけれど他者からみればそれ
だって笑い話になってしまう対岸の火事に過ぎぬ。

そうやって嗤っていた連中も同じように失敗して
ドタバタを繰り広げる様子を嗤って見ていられる
あたりは実に暢気で憎めぬヒトビトだとは思うよ。

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2010.06.05

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(55) 「背景」に対する「警句゛」

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ヒトは目立つもの動くもの、つまり主要被写体だとか舞台上の役者だとか、
そういうトコロにばかり注目しがちな性質があるけれど、実際には背景と
程良い関係を持っているからこその被写体であったり、または舞台装置が
あってこその演技だったりするトコロもあるので、認識しときたいトコロ。

攻守を入れ替えても与太党と野次党で似たようなコトが繰り返されている。
よく見ると「この背景にして」「この構図あり」であるようにも思えるが、
ならばその背後にある構造を変えてやらないと状況を改善できないのかも。

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2010.06.04

個にして独だが一人ではない

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時間軸を進めつつ見ていかないと、
生命とは生命たり得ないのではないか。
常に過渡期が続いているようなものだから。

音や振動は時間軸に沿ってみなければ分からない。
もし仮に空気の分子の配置を無限小の時間単位で
切り出してみられるとして其処に音を聞けるのか。

生命活動も似たようなものではないだろうか。
時間の経過を辿っていかなければ把握できぬ。
さらにいうなら周囲の空間との関係があって、
そして過去の生命の連続の延長線上にあって、
ようやく生命は生命として存在し得るのでは。

つまり時空間から切り離して使うコトはできない、
というより生命の個体とは時空間全体の中の、
わずか一部に過ぎない存在ともいえよう。

さまざまな意味で個体どうしは影響し合い、
それぞれの存在があってこそ全体を為せる。

人は自ら助くる者を助く傾向はあるけれど、
最初から不信を抱いては助ける気も出まい。
解いていかねば先はない。誰の為でもなく。

予測できる未来像が必ず実現するとは限らない。
むしろヒトが不完全であるために残念な予想を
自ら成就させてしまうケースは少なからずある。

此を以て予言は成就するものと決めて掛かれば、
そりゃ自分自身にも同じ集団内のヒトビトにも、
あるいは対立するような集団のヒトビトにさえ、
実は不幸な将来を与えているコトになるまいか。

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2010.06.03

地に足を着けて道を歩いていこう

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そう、空を飛べるワケではないので、
歩かなければ何も見えてこないのだ。

所詮は地表の生命に過ぎないのだから、
しっかり地に足を着けて歩くしかない。

「短い人生そんなに急いで何処へ往く」
そんなくらいに、思っておけば良かろ。

どうせ長くても100年そこそこしか保たない、
ある意味で借り物のような身体と頭脳である。

その程度のモノしか使えないと割り切って、
せいぜい大切にしつつ使いこなしていこう。

今いるヨノナカだってアテにならない存在。
やはり維持しつつ活用するのがせいぜいだ。

ある程度の見通しは立てられるものの、
先々なんて何が起きてもおかしくない。

この先どうなっていく可能性があるのか、
この先どうしていけば良くなるだろうか、
そういうコトを考えながら歩き続けねば、
ただ目の前の不安に右往左往するばかり。

学ぶべきは考えるコト自体、だと思う。
答えは自分で求め続けて、出していく。

そんなアタリマエの筈のコトさえも、
学び終えたつもりのモノゴトを再度
認識させられ直すような経験を経て、
ようやくに思い知らされ身に染みる。

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2010.06.02

始動性不良の改善案=アイドリングノンストップ?

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遅れていた仕事が手離れしつつあるトコロに仕事が入ってきたので、
少なくとも翌週一杯くらいまで途切れず働き続けられそうになった。
そこから先の予定は決まっていないが間を置かず続けて仕事したい。

仕事の途絶えたときにも仕事と同じようなコトをし続けていないと、
次に仕事が入ったときに仕事の再開が難しくなるように思えてきた。

そのためには仕事が多忙なときに着手できずにいた諸々の作業など、
暇になったトコロで片付けるようにして身体も頭も働かせてるのだ。

待機状態から高速運転へ移行には大きな負荷が掛かるので待機状態。
生命が完全に火を落とすのは無理だから暖機運転にしておく程度で。

逆に負荷が急増して心身が追い付かないような状況となった場合は、
まず手軽なトコロから少しずつ手を着けてって徐々に慣らしていく。

だいたい家事だとか身嗜みなどは日頃から行っておきたいトコロだ。
それを多忙なときに少し手抜きして暇なときに念入りにやればいい。

巡り巡って日常が大切だなんて結論を導き出した非日常世界の住民。
まあ地に足が着いたような暮らし方を少しは考慮した方が良かろう。

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2010.06.01

水が途絶えたら流れと呼べぬ

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そんなワケで仕事が少ないと意欲も低下しがちなのだろう。
数は少ないというのに一向に捗らないのが困ったトコロだ。

今のような仕事は過去10年あまりの経歴になるのだけれど、
今後もこのままでは実績の蓄積も儘にならないコトは明白。

いや、実績などという過去のモノゴトだけの問題ではない。

この仕事は作業するコトではなく考え続けるコトが重要だ。
一時的な休息はともかくとしても継続せねば先が続かない。

まあ五月病だったコトにでもして今月から元気を出そうか。
これから再び新たな実績を積み上げていくくらいに思って。

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