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2010.08.16

取ったり捨てたり選んだり択んだり、するのは最終的に自分自身

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Web2.0だとかソーシャルメディアだとか、まあ最近のITの流行の
一つにリコメンド機能といったのがあって、twitterなども最近
「フォローすべきユーザー」「あなたが興味を持ちそうなユーザー」
なんてカタチでリストアップするような機能を追加してきたりする。

しかし実態としては、おそらくユーザー同士のフォロー関係を、
相互のコメント数など条件に重み付けをして判定しているだけ。
「このユーザーの複数のフォロー相手がフォローしている対象は、
きっと当該ユーザーにも興味の持てる話題を語っているであろう」
といった仮説に基づいた、全くの機械的判断に過ぎないはずだ。

友達だからといって、その話題の全てに興味を持つとは限らない。
友達だからといって、その友達とも話題が合うとは言い切れない。
そういう例外があるコトを承知しているのかどうかは分からないが
少なくとも個別の関係を軽視した扱いではないかと、思えるのだ。

多面的なヒトの存在の中の一部に対し縁を結んでいるのだから、
それ以外の側面を押しつけられたって興味が持てないどころか、
むしろ余計なお世話で邪魔なものだなんて感覚を持っているし、
しかも興味を持つかどうかは世間一般の人気などに関わりなく、
それどころかむしろ逆方向に補正をかけて判断しているような、
決してソーシャルメディア向きとは言い難い性格をしているので、
どうみてもリコメンド機能が想定しているユーザー層ではないな。

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ヒトビト皆が欲したから作られた、といったモノは
果たしてヨノナカにどれだけあるものか。
「欲せよ、然らば与えられん」とは必ずしも言えない。
いやむしろ、与えられた後に、後付けで
欲していたコトにされたりしていないか、とも思う。
気付けば使わされている、という感覚。
もちろん便利になった面があるコトは承知しているし、
一部については利用させてもらっている
でも逆に迷惑だと感じる面があるのもまた、事実。
いま存在するモノは、モノなりに使う、
けれど無いモノは、自ら工夫して不便を補っていく。
基本的に、そういうコトじゃないかな。

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