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2011.04.26

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(68) 「一連・畜生」?

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ここしばらくの散歩の合間の読書についての話題など、少々記しとく。

まずは「谷中村滅亡史」。いったん数年前に通読したものだが、再読。
ここ数年間で少しばかり深まったり広まったりした思索を踏まえつつ、
そして再読の契機となった、まさに現在進行形である社会情勢などを
バックグラウンドとして念頭に置きながら読むと、印象は大きく違う。

いったん動き出したら止められない計画や組織の体面を汚せない官吏、
いかに不完全であろうと対策が実施されれば忘れ去る市民や議会等々、
そしてもちろん次第に活動を激化させていった村の住民や支援者たち、
はたまた様々な理由で抵抗を諦めていった元村民にも、想いを馳せる。

それぞれの当事者関係者たちの心情を酌めば同情するトコロも多いし、
そうする以外にない状況に置かれていたと思われる部分も多いのだが、
それでも、いやそれゆえにか、著者の示す義憤に、同調しかねている。
前に読んだときも違和感を覚えていたのだが、それが少し見えてきた。

何というか、行動力の方向性が、微妙に違うのではないかという感覚。
個人的には、声を上げるコトで行動したものとする思想には乗れない。
そういう人々も存在しているのは承知しているし、害悪とは思わぬが、
相手の賢明な対応を求めるという点、かなり依存的な態度とも感じる。

同じ依存するのであれば粘り強い交渉によって譲歩を引き出したいが、
それも叶わぬのであるなら同調せぬまま協力しつつ利を得たいトコロ。
きっとそうした方が利害関係者の不幸を減らせると思うのだけれども。
そうするコトさえも許せないキモチについて如何に扱うべきかは課題。

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社会構造体から脱出したり漏出したり底辺に敷かれてしまった人々を、
救済せぬまま放置しておけば何れ構造体そのものに悪影響が及ぶもの。
かつ当然ながら構造体内のヒトビトの心情にも宜しくないのは事実だ。
それゆえ如何に救済し構造体へ取り入れるかが歴史の上でも常に課題。

しかし救済へと向かう動機が異なれば齟齬を生じるコトもまた多くて、
ときには別種の活動を良く思わぬ状況も生じたりして足並も乱れがち。

『「私」と「公」は対立しているというよりは、まったく別のルールで成り立っていて、安易に比較することができない。親がいいのか、先生がいいのかを論じてもなにも始まらない。全員を助けようとしてみんなだめになるのと、助けられるだけ救うのとではどちらがよいかという問題の立てかたもおなじだろう。(中略)
「私」のエゴイズムは美談になり、「公」の平等思想は冷酷と断罪されていないだろうか。』――「貧民の帝都」(塩見鮮一郎/文春新書)

そもそもヒトビトの思いなど一人ひとり違うので全ての同調など困難。
だが意見は異なっていても手助けし合うくらいは不可能ではあるまい。
むしろ互いに補い合うような関係であるコトが望ましいのではないか。

皆が各自の立場から同じトコロを目掛けていくときには異なる方向へ
向かっているように見えるが全体として目標に迫っていくような具合。

そもそもヒトは不完全でありヒト集団には不完全性が集約されがちで、
となれば何某かの組織に一本化してしまっては行き届かぬのであろう。
大目的に大差ないのであれば大局を見て相互補完的な関係を持ちたい。

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