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2011/05/06

村破れて草原あり

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一世紀前に滅亡させられた村落の跡地は今、
スゲやヨシが一面に広がる広大な遊水池だ。
大きな土手や水路が巡らされる土地の中に、
ポツンと芝生や植木の公園やら舗装された
駐車場が設けられ自転車用の周遊路なども
整備され滑空機が飛び交ったり野鳥観察や
人工湖での釣りや水上スポーツなど盛んに
行われているけれど約一世紀前は村だった。

「栃木県下都賀郡谷中村は、県下の南部に位置し、渡良瀬、巴波、思の三川を以て囲まれ、既に四百年の長き歴史を有せり。その堤内の反別面積は九百七十町歩にして、これに堤外地を加ふれば、優に千二百町歩に達すべし。而して去る三十八年頃までは、なほ人口二千七百、戸数四百五十を有し、かすその土地の肥沃にして、天産の豊穣なる、全国多くその比を見ず。試みにこれを村の古老に聞かん乎、稲の如きはこれが苗を植え付くるに当りて、何らの肥料をも施さず、植え付けたる後、僅かに一回雑草を取り去るのみにて、秋に至れば黄穂油々として、平均一反よく七俵乃至九俵(玄米にて一俵四斗入)の収穫を見るべく、鉱毒の未だ犯さゞりし当時においては、同村大字内野字深谷、秋田某の所有地において十二俵半、字下宮稲荷森鶴見某の所有地において、十一俵半の収穫をなせし事あり、いかなる悪土といへども、なほ一反五俵を下る事なしといふ。而して畑地には多少の肥料を要するといへども、土質の柔らかなると、石塊の毫も混入し居らざるとは、耕作に費やす労力を、省かしむること多大なりといふ。」
(荒畑寒村「谷中村滅亡史」岩波文庫)

最も被害の集中する場所即ち遊水池として
最も効果が期待できる場所だという判断で、
相応の合理性を以て計画せられたであろう、
被災村落の廃村そして強制破壊という決定。

国全体が近代化を強く推進する時代の中で、
上流の山間にある銅山の産出を社会が望み、
その代償に鉱毒を含む洪水を解消するため、
ここを遊水池とする案を暗黙裏に了承した。

残念ながら見殺しにしたと言わざるを得ず。

翻って今の日本では果たしてどうするのか。

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