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2011.10.09

歴史裁判の膨張席

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件の“日記”には恐怖政治の様子も淡々と記されている。その中から目立ったものを抜粋して列挙してみよう。(セレスタン・ギタール/レイモン・オベール編/河盛好蔵監訳「フランス革命下の一市民の日記」中公文庫)

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以上4名、敵への資金援助をはかり、とりわけ古物購入に際し公定価格をはるかに超える値段の現金を支払って、共和国を敵の手にわたす行為を働いた廉により死刑。
(1792年5月22日)

以上全員、反革命的陰謀、通行証及び居住証明書偽造、反動的文書作成の廉により死刑。
(1792年5月25日)

以上の者は次の事実により人民の敵であることが判明した。敵との内通、カペーの陰謀への荷担、国会解散の扇動、陰謀者の逃亡幇助、職権濫用による人民虐待、亡命者がまだ国内に居住しているという虚偽の証言。よって全員に死刑が宣告された。
(1792年7月11日)

以上29名は次の事実により人民の敵であることが判明した。敵との内通、カペーの陰謀に荷担、8月10日の人民虐殺に参加、暴君の犯罪に同調、反革命的な言動、権力の簒奪または濫用、狂信主義による内乱の扇動、アッシニャ紙幣の信用毀損、孕んだ牝羊を殺して食料に損害を与えたこと、等。よって全員死刑。
(1792年7月15日)

以上29名は次の事実によってフランスの敵であることが判明した。敵への援助と内通、諸県における騒乱と分裂の画策、王政復活の扇動、国民公会の中傷と法の無視、壁に貼付された法令を引き剥がしたこと、狂信主義の宣伝、反革命謀議による民心攪乱、亡命幇助、公園等に紙幣その他の物件を隠匿したこと、等。よって全員死刑。
(1792年7月19日)

以上28名は次の事実によってフランスの敵であることが判明した。ライン方面軍のための徴発への妨害、馬糧の私消または買占め、汚職と不当徴税、国有財産の横領、敵との内通、軍調達品への不正行為、亡命幇助、虚報の流言、国旗の放棄、暴君の死への同情、聖職者に関する民事基本法への宣誓拒否、聖職者追放令への不服従、革命政府への反逆、国民徽章の蹂躙、穀物を隠匿して腐敗せしめ人民に供給しなかったこと、等。よって全員死刑。
(1792年7月21)

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激しいインフレの中で必要な物資を何とか確保したいあまり統制外の商品を調達したり、その販売者に多額の費用を支払っただけでも「反革命で死刑」、となるコトも、ヒトの社会においては充分あり得るハナシであった。
すっかり悪についての表現が飽和してしまって、どれだけ良くないのか判別し難くなっており、「反革命」であれば何の罪であろうとも最大級の表現で非難するコトが常態化した結果、「よって全員死刑」が流行していた。
こんなのは昔のハナシじゃない。今の先進国()でも、しばしば見受けられるコトだ。それこそ週刊誌や夕刊紙の見出しだとか、はたまたネット上の掲示板だのを見るといい。どれを見ても表現のインフレに苦笑いしてしまう。

だけど実際には、こんな風潮を醒めた目で見ている人も多いはず。“日記”執筆者にしても、諸外国との戦争の行く末には一喜一憂せざるを得ないが、「反革命なら死刑も致し方ないよね」という程度の感想でなかったか。
そして、こんな騒動をしていようとヒトビトは生活を続けねばならない。“日記”執筆者も物価暴騰や体調不良に悩まされつつ遣り繰りしていた。通貨のインフレとともに発生したのが刑罰のインフレだったというワケだ。
熱狂するのは一部だけ、ただしあまりに激しく活動するもんだから、それが社会の大勢であるかのように、周辺からは見られてしまう。そして周囲からは、やはり一部の危険視する者たちが主体となって、なんとなく争う。
となると、むしろ多くのヒトビトは、うんざりした目で騒乱を見ていたのかもしれない。ときには怒りに駆られたり集団的な狂乱に陥ったり、自分の身を守るために必要だと感じたときには暴力を使った、とは思うけれど。

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個人的には、万死に値する罪など、ヒトのヨノナカにあるとは思わない。
どうせ、たまたま罰を下せる立場からみた恣意的なものに過ぎないのに。
だいたいにしてヒトなんて、そんなカッチリとしたものでも何でもない。

むしろ非常に漠然とした曖昧模糊たる存在であり、あらゆるヒトビトに
共有された絶対的な価値観など存在しないし、どちらかというと日々の
(ちょっと先までを含む)の生活だとか、その程度しか考えていないのだ。

将来性とか言いつつ実は自分自身とか家族とか所属する団体・組織とか、
その程度の範囲での想像力しか働かず、枠の外側にまで意識が及ばない。
その本人にとって手が届きそうだと認識している枠内に限っていうなら、
嫌なコトを聞かされれば感情的になるけど外側のハナシは気にならない。

身近な人や親しい人や同じ集団の人を助けたいという感覚は、きわめて
自然に生じてくるのだけど、しばしばそれが暴走して、やりすぎた結果、
枠の外にいる他の誰かを排除するまでに至るコトなど、よくあるハナシ。
そうかと思えば逆に、よほど苦しい生活の中でも、ちょっとした息抜き
さえ得られるなら、「まだ生きられる」とか思って楽観してしまいがち。

でも、そんなもんだと思っておけば、現状や近い過去に対し諦めもつく。
むしろ「少し先」くらいまでは考えられるようになるんじゃないかなぁ。

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