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2011.10.15

ニホンのキホン 「知式懐旧」

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なんかカリスマの死で盛り上がっているトコロにアレな発言だとは思うけれど、
個人の資質ばかり論じているのは片手落ちではないかという気がするので一言。

特に、評論家や文筆業者などをといった、どちらかというと組織に属さないで
済む頭脳労働者あたりでは、所属する組織や関係者による圧力といったものを
とかく軽視して、個人の資質に帰しがちな傾向があるように思えてしまうので。
そもそも彼らは、周囲の言うコトを聞かないからこそ組織人になり得なかった、
あるいは単独で活動するコトが多いので、周囲の言うコトなど聞かずに動いて
いいんだ、という経験を重ねてきたりしているのだから差し引いて考えないと。

斯くあるべしとの理想を語るのもいいんだけど、現状だとか現実に至るまでの
背景などについて分析を進めるコトも、同時に行うべきではないかと思うのだ。
ましてや物識りだとか知恵者を自認するのなら、一面的な理屈では薄すぎよう。

でも彼らは「そんな組織の論理など突き崩せ、無視しろ」など言ったりもする。
個人の資質ひとつで、いとも簡単に乗り越えられるのだといわんばかりである。
だけど考えてみてほしい、そんな資質を持った人間が日本型の組織の中に長く
居続けるだけでなく、集団内に支持基盤を確保して勢力を伸ばしていった上に、
リーダーに推挙されるなんて、果たしてどれだけ発生し得るものなのだろうか。

そこらへん、組織人になり得なかった人だとか、敢えて組織から距離を置いた
ような人たちが、そうそう気軽に語れるものとは思えないのだけれども如何か。

結果的に、個人の資質如何で云々といった言説が非知識階層に浸透していけば、
知識人が嫌う衆愚の暴走を呼び込んでしまいかねない。そこは危惧するトコロ。

さしずめ微量元素が物性を大きく変えるかの如く、こういった人たちの存在が
ヒトビトの性質を変えヨノナカを動かせしめるというコトであるとするならば、
そりゃもう責任たるや彼ら自身の手に負えるモノではないような気がするのだ。

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日本の社会や組織の構造からいって、独裁など極めて稀にしか生じないものだ。
第一世代だけで構成される若い組織だとか、個人の逸脱を許してしまう程度に
統制が不十分な組織であればハナシは別だが、たいていの組織はそうでもない。
むしろ、組織や集団による力関係から生じたブラウン運動が卓越するのが常だ。
まして偉くなればなるほど関わる集団が増えて行動言動に対する圧力も高まる。

たしかにリーダーは組織が担ぎ上げるものではあるが組織の代表者というより、
「声をまとめて発信する人」というくらいの扱いに過ぎないケースが多いかと。

たぶん教育についてのハナシも似たようなもんで、予め定められた回答を出す
コトだけが求められるような教育では、周囲から動かされている比率が大きい。

だいたいにして日本の組織というのは周囲に動かされるような人材じゃないと
居続けられなくて、そんなトコロから出たヤツに一貫性などあろうはずがない。
政権を追い落とす際の掛け声に「ブレない人がいい」とか言ってたりするけど、
一貫した論調・行動をすれば「繰り言」「マンネリ」って言ってなかったっけ。

個人の資質に全責任を負わせて首を切ってやれば組織が延命できるなんてのは、
いささか幻想的な理想に偏りすぎてはいないだろうか、と思っているのだけど。

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とはいえ厳しい序列のある上意下達な組織の中では牙を隠し持ってのし上がるようなヤツもたまにいて、
そういうのが上に立ったとき、それなりのリーダーシップとかいうのを発揮するかもしれないとは思う。
きっとそんなのも珍しいのだけれど、1億人の中から100人くらい出てくれば足りる可能性もありそうだ。

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