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2011年11月

2011/11/30

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(82) 『積みにくいんで一思いに混ぜちゃった』

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「罪を憎んで人を憎まず」って言うので、応用してみよう。
「善を褒めて人を褒めず」、逆にすると、そんな感じかな。

こんな感じでもいいか、「良いコトを言った人がいるなら
発言そのものを評価するが、その人を評価しなくてもいい」

実際、誰かの言動に賛同するコトは少なからずあるけれど、
“誰か”当人に対して必ずしも賛同しているワケではなく、
たまたま一つの側面に対し同調できると判断したに過ぎぬ。
自分自身に対してもまた、できるだけそうあろうと考える。

しばしば熱意と自尊心、あるいは批判と嘲笑、その境界が
曖昧になっていたりするのは、誰にでもあるコトだもんで、
“誰にでも”ってコトは自分自身を除外する条件にならぬ。

まぁ何というか、不完全な者どうし、仲良く喧嘩しようぜ。

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2011/11/29

断定イズムはダンディズムに非ず?

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少し前のデキゴトに関する整理された情報というのもまた、
垂れ流し生中継などとは違った意味での課題があるもので、
情報を取捨選択し編集する過程で必ずヒトが介在するから、
その影響を避けられないというのが特に大きな問題となる。

よく見受けられるのは特定の媒体や個人が発信する情報に、
「○○は信用に値しない」とか「しょせん○○の言うコト」
とか言って全く信じようとしなくなってしまうような現象。

その程度であっても、いったん固定観念ができてしまうと、
硬直した部分のせいで、思考の柔軟性は大きく損なわれる。

疑い始めたら、何もかも信用に値しないと考える人もいる。
そういう人たちが集まって、それぞれの妄想を持ち寄って、
結びつけ合って虚構のセカイを作り上げるコトだって今の
ネットワーク上では可能にするくらいの人数を集められる。

そういう完全虚構の世界観を下敷きに「すっかりふしぎな」
小説とか漫画とか書いてみたら面白いんじゃないかなとも
思ってみたりするが、考えると長くなるので機会を改めて。

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2011/11/28

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(81) “パンとさぁ、カス”

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情報消費者の全てが速報性ばかり求めているワケではない。
「楽しい」「面白い」「分かりやすい」「最新情報」とは、
衆愚に繋がりかねない中毒性を持つものではないかと懸念。

今の社会での最速報というのはインターネット上の媒体で、
TVはどちらかというと少し遅れの情報解説の役割が主流だ。
その意味ではTVや新聞もサイト上の記事を通じて速報する。
紙媒体でも雑誌などの位置付けは大して変わっていないが、
特に新書など書籍ではタイムリーな話題に乗り出していて、
やはり全体的には速報性を目指すような方向性が目につく。

どんどんメディアが複雑な構図になってきている現代社会、
読者視聴者には取捨選択するリテラシーが求められてくる。
といっても万人に通じる解など全く有り得ないものであり、
それぞれ求める要素に応じた選択を各自で行わねばならぬ。
その選択を行うための知識とか情報、すなわちメディアに
ついてのメタ情報などに、精通していくコトが求められる。

まあしかしヒトってのは環境が急に変わっても大抵の場合、
文句を言ったり頑張ったりしながらも適応するもんだから、
一部の脱落者を除けば、ある程度の期間を待てばいいのか。

情勢が移り変わり続けるのならば動的平衡に落ち着くまで。

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2011/11/27

自称逸般塵の不通の日記(316) ある休日の晩秋

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30時間ほど仕事をしないコトに決めた一日。
家事を片付けて買い出しや床屋に行ったり、
ついでに近所の公園の紅葉具合なども確認。

身体を動かす方の単純労働は嫌いじゃない、
動作に慣れて無駄な動きがなくなっていく、
そういう感覚が実感できて実は割と楽しい。

頭脳を動かす割に単純な労働だと続かない。
同じ処理の繰り返しだと飽きてしまうから、
アタマが勝手に新しいコトをしようとする。

場所によって色付きの程度には差があるが、
もう見頃を迎えた木もあるので、そろそろ
近所を散歩して撮って歩き回ろうかと思う。

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2011/11/26

自称逸般塵の不通の日記(315) 何処かを散歩したいという夢の中

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たいてい夢の中では見知らぬ土地を歩き回っていたり、
自転車とか車で走り回っていたり、鉄道で旅をしたり。
要するに、いつも何処かに出掛けたがっているらしい。

行き先の場所は様々だが、一方で登場人物は多くない。
ときたま家族や友人と一緒に出歩いていたり、または
全く見も知らぬ人と出会ったりするコトもあるけれど、
そういう場合であっても、会話などは滅多に生じない。
本当に一人きりで出歩いているケースが圧倒的に多い。

一人旅の夢が多いのは他人への興味の薄さを示すのか。
特段に孤独が好きというワケではないが、おそらくは
一人でも不安を感じない、そして一人だと気楽である、
そういったトコロから、どうやら一人が多いのだろう。

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2011/11/25

自称逸般塵の不通の日記(314) 冬の散歩への道

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いよいよ自宅付近の木々も色付き始めてきた。
都心でも紅葉を楽しめる時期が近付いている。
街中を歩けばイルミネーションもちらほらと。

年末に向けて、仕事も少し入ってきたようだ。
この調子で、もう少しばかり増えてくれれば、
無事に年を越せる見通しが立ちそうだけれど。

まぁとりあえず、少しくらい散歩に出たいな。
そのためには、目の前の仕事を片付けないと。

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2011/11/24

考えても考えても暮らしが楽にならないときは、「ぢつと頭を見る」でいいんだっけ?

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このところ「考える」活動を推奨するのが流行になりつつある気がしはじめた。
よく見ける有力ブロガーなども「考える」コトの重要性を説いていたりするし、
どっかの雑誌の中吊り広告なんかでも、「スキルより教養を」とか書いてたり。

まぁ確かに、今まで日本の人たちが考えずに生きてこられたのは奇跡だと思う。
それが、そうしていられず、いよいよのっぴきならなくなってきた、気はする。

けれども、やり慣れないコトをいきなりやろうとすると弊害が出るものであり、
「ロクに考えずに疑う」となりつつある最近の様相に対しては、懸念している。

それは、逆に言えば考えないコトの問題点を浮き彫りにしたとも言えるだろう。
「考えないけど疑わない」で済むヨノナカなら、それでも平和だったのだから。

そもそも、これまでの日本の社会は一世代くらい平和で安穏とした状態だった。
思考とはエネルギーを要する活動で、生物は余計なエネルギーを節約したがる。
疑う必要ないほど平和なヨノナカだったら、そりゃ思考も端折るというワケで、
平和で穏やかな環境に、しっかりとヒトビトが適応していたと考えて良かろう。

それが最近になって、いろいろと考えたり疑ったりしなければならないようだ、
と感じられるような状況が身に迫ってきたので、退化し失いかけていた能力を
再び(大急ぎで)取り戻そうとしているのが、日本社会のイマココってトコロだ。

生物のアナロジーで言うなら、その種が退化して失った機能は回復しないけど、
種に含まれている各個体の機能のバラツキが拡大した程度の状態であるならば、
将来的にみて種全体として機能の働きを取り戻すコトも不可能ではないワケで、
まさしく多くの市民庶民が、いろいろ知識を蓄え考えようとし始めた、らしい。

しかし疑わずに済んだ時代が続いた後だけに難しい。思考に慣れていない人が
最初に考えるコトってのは、「疑う」「信じない」になりがちなのではないか。

何しろヒトは、初めて触れたモノゴトに「何じゃこりゃ」と思ってしまいがち。
というか新しい分野の知識に触れる際、どうしたって目立つトコロに目が行く。
そうすると何故かショッキングなネタばかりが目に付いてしまうというワケで、
そういった初期ショックを受けた人たちがヨノナカのマスとして動いたときの
振動たるや相当なものとなるはずで、まさに今の現象がそうなのではないかな。

あるいは、知っていく過程が進むにつれて不安材料が沢山あるコトに気付いて、
はたまた「知るコトに対しての不安」をも抱くようになってしまったりだとか、
「知るコトとは不安を増大させるもの也」と認識するようになってしまったり、
とか云々、マクロにみれば社会不安が増大する一途であるのも致し方ないのか。

とはいえ数年もすれば、「考えている人」が大勢を占めるようになるだろうし、
それなりに不安も薄れていってしまう人たちも多くなっていくだろうとは思う。
だから短期的に相互不信がヨノナカを覆った後しばらくして、皆が「まず疑う」
という思考レベルから脱してきた頃に、きっとまた次の平和が訪れるはず……。

そうやってヒト集団の中で自発励起された振動が歴史の波を作るのかもしれん。

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2011/11/23

理系用語で読み解く社会(78) 唸りを上げるサイクル

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過去1~2世紀の間にヒトや情報の動きは活発になったとは思う。
その結果として、ヒトの凝集作用も活性化してきているようだ。

世界中で政権交代が頻繁になっている現状は、その凝集作用と
世代交代の周期が重なって大きな波を作り出した可能性がある。

今後さらに情報やヒトの動きが活性化していくと仮定するなら、
世代交代の周期より早まって、また違った相に突入するのかも。

かたや徐々に長くなるサイクル、かたや急激に早まるサイクル、
おそらく、20世紀とか21世紀が逆転するポイントなのだろうと。

そうなったとき、どんなコトが生じるのか、予測はできるけど、
本当のトコロは実際そうなってみないと分からない気がするな。

ただそれらの周期が極めて近いサイクルにある現状においては、
山と山、谷と谷が重なり大きな変動が生じる点、留意すべきか。

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2011/11/22

人間は周囲の環境に適応していこうとする生物であるからして

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昨日書いたカリキュラムの件、考えてみれば昔の子供たちなら、
家庭や地域社会からも多くを学ぶのが普通であっただろうから、
さほど紆余曲折なくとも経験が裏付けてくれたかもしれないな。

田舎なら、少なくとも高度成長期まで、そんな雰囲気があった。
農村集落にあり町工場を経営していた実家も、社会を学ぶ上で
必要な刺激は数多く得られており、後になって思い返してきた。

そうした実体験と情報とが結びつけば知識として定着しやすい。
ヨノナカのモノゴトは非常に複雑に絡み合っていて、それこそ
網目のように、というより多次元の結びつきで成り立っている。
脳内に「世界モデル」や「社会モデル」を作り上げ、得られた
情報や経験を元に修正を加えながら、より実態に近づけるのだ。

しかし得る知識のバランスが偏れば、モデルも狂いがちになる。
たとえば周囲の人たちが揃って特定の傾向を持っていたならば、
そういう人たちとの接触で得られる経験は明らかに偏っていく。
もちろん情報についても、同じように偏りが問題となるけれど、
情報と経験の偏りの方向性が違っていれば、まだ修正できよう。

つまり、モデル修正が困難になるのは、得られる経験も情報も、
どちらも全く同じ方向に偏っているような場合というワケだな。

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2011/11/21

半生紀(30) 興味の変遷

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たぶん書いてこなかったと思うので、ちょっと整理しておこう。

子供の頃の興味は自然界の仕組み、というかヒト以外が対象だ。
おおよそ自然科学の全域に及ぶような幅広い本を読み漁ったが、
当時はヒトの営みに対し大した興味を持たず人文系はさっぱり。
そも実生活の上でも、他人に対する興味が薄かったように思う。

中学か高校の頃になると、小説などを読んだ影響によるものか、
ヒトビトの生き方、生活、社会といった方向に興味が広がった。
昔の人たちの暮らしの様子を具体的にイメージしたいと考えて、
社会学とか民俗学的な分野から入っていって、歴史や哲学とか、
また地学との関連から地理についても手を広げるようになった。

経済や政治などを視野に入れるようになったのは大学の頃かな。
なにせそれまで教科書など見ても表面的な知識は実感に乏しく、
他の知識と連結しないので定着せず、興味を持てなかったのだ。
幅広い分野の知識が基礎となって、ようやくヒトビトの様子を
総合的に理解できるようになってきたおかげで身についたのか。

自然と人文の両方の科学を総合的に、独自の段階を経て学んで、
ようやく普通に学校で教えている範囲を網羅できたかなという、
そんな感覚を持てるようになってきたのは、25を過ぎたあたり。

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2011/11/20

自称逸般塵の不通の日記(313) 過ぎ去りし日々の存在を再確認した一日

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月~木ずっとデスクワークで潰れ金曜は終日外出、
その晩に実家へ泊まって翌朝は墓参の後に都心へ、
昨年も、このあたりは忙しい日が続いていたっけ。
仕事で埋まってしまわぬよう早めに予定を確保し、
チケットを取って1泊2日で行って帰ってきたのだ。
まぁ年に一日くらい、その一人のために駆け回る、
そんな日があったって、いいだろうと思っている。

全く同じ日に予定が重なって午後は研究室のOB会。
同期生の連中が来なくなってしまったもんだから、
なんか随分と人数の増えた後輩に向けて喋ったり
するのが高齢もとい恒例化してしまっているけど、
そんなに胸を張って偉そうなコトを言えるような
真っ当の人生を歩んできてないのでハナシは短く。

マイクを渡され語った内容を思い返して気付いた。
その昔、恩師が語ってくれたコトに、そっくりだ。
中年男というのは、どこか似たような生物らしい。

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2011/11/19

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(80) 人を僻まば墓場まで

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正義をかざして他者を攻撃するヒトビトの意識を読み解こうと、
少しばかり考えてみたりするコトは、昔からたまにあるけれど、
いささかアタマが悪いのか、どうも完全に同意しかねてばかり。

ときには正義を口にする当人の力では課題を解決するに至らず、
なんだか、より上位の正義だか秩序を司る存在から力を借りて、
それを実現しようとするような様子も見受けられたりするけど、
(「言いつけてやる」と思えなくもないが、それはさて置いて)
その正義とか権威などに備わるらしい継承関係を辿ってったら、
最終的には何があるのか、それは人類共通のものなのだろうか。

懲罰を与えようとする対象もまた同じ根に繋がる別の枝にあり、
それが可能だとしても、根に相当する上位存在は、下の枝から
指示を受けて動くようなコトなどなく、飽くまでも根そのもの
が持つ基準に照らして懲罰に値するかどうかを判断するワケで、
むしろ枝の先にいる存在が濫りに権威を借りるのは好まぬはず。
では逆に「オレサマの正義に照らして許さない」とかいうのは、
実はソレ、単なる個人的な感情なんじゃないか、と思うワケで。

「オレサマがこんなに本気なのにアイツらは馬鹿にして」とか、
「オレサマがこんなに苦労しているのにアイツらはのうのうと」
とか、そういう風な感覚を、自分自身の中に掘り下げていくと、
実は単なる僻みだとか妬みだとか嫉みから発していたりしない?

それって果たして正義なんだろうか、普遍的なナニカなのかと。
それとも、ヨノナカの多くのヒトビトにとって正義というのは
個人的な恨み辛みを晴らすための大義名分だったりするのかな。
だとしたら上位の権威や正義を借りるのも矛盾となるけれども。

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2011/11/18

ニホンのキホン・手前自分の列島感

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何処の国や地域や社会集団であっても、たいがい生じる同族嫌悪。
やれ自分トコの政府がダメだ、企業がダメだ、人々がダメだとか。
その先には、自分たちに近い地域や民族でありながら少しばかり
有利な状況にいる(ように見える)グループを攻撃に走ったりする。
どうしたって隣の芝生は青く見えるもので、どこでもあるハナシ。

こんな傾向はヒト共通の特性であるように思われるのだけれども、
この列島では特に顕著なように感じるのは、日本ダメ論すぎるか?

先日のドライブの同行者と喋った内容の一つが、日本語について。
(お互い言語に詳しいというほどでもないが、知っている範囲で)
「一人称と二人称の境界線が曖昧というか行き来する」という点。
「ジブン」「おのれ」「てめえ」などは本人を指す場合もあれば
対話の相手を指す場合もあり、文脈で判断していくしかないけど、
ひいては自他の区別が確立できていないのが日本人かもしれない。

個人の意識そのままに拡大解釈して集団の意識だと決めつけたり、
集団を構成する他の個体が違う認識を持つはずがない、と認識し、
さらには、そんな“常識”に反する個人や組織を異物として攻撃。
卑近な比喩でいえば、癌細胞のような存在ではないかとも思える。
もちろん逆に、そういう過剰な攻撃性に反発する動きもあるけど、
これも立場こそ違えど同じ原理に根差しているものが少なからず、
しばしば的を外したり余計なトコロまで被害を与えたりする始末。

嵐が過ぎ去っても、後に残るのは禍根ばかりで、山河ありありと。

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2011/11/17

自称逸般塵の不通の日記(312) 業務効率化へ向けての傾向と対策

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自分自身が怠けがちな存在だというコトは
嫌というほど思い知らされてきたのだから、
そんな怠け者にも続けられるよう工夫した。

少なくとも、このブログに関しては成功中。
最も重要視しているのは安定した更新頻度。
日々の仕事に影響が出ないように短時間で
書き上げて写真をつけて投稿していくため、
内容や文章の完成度は多少低くても構わぬ。
思いついたネタをメモする習慣があるので
それを軽く展開させ軽くオチをつけて完成。
早ければ15分くらいで作っている、と思う。

仕事では当然、もっと時間を費やしている。
だが下手の考え休むに似たりと言うように、
かなりの時間や手間を費やしている割には
品質というか完成度が上がらないのが課題。

というより最近ちょっと思うコトがあって、
時間ばかり余計に掛てしまっているようで、
対価となる予算に合わないというのが問題。
というコトはブログと似た方向性を目指し、
費用に応じた時間配分を心掛けるべきだと。

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2011/11/16

自称逸般塵の不通の日記(311) どれを読んでも新聞紙

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世間一般からズレた感覚を持っているという自覚はあり、
一応そのへんの修正をするフリくらいはしておこうかと、
10年以上も取らずにいた新聞を、春頃から購読している。

どこも似たような報道ばかりだが、せめて比較するべく、
四半期ごとに違う媒体として読み比べてみているトコロ。

検討しているのは、「どの媒体にするか」だけではなく、
「そもそも新聞を取るかどうか」というトコロも含めて。
TVニュースも新聞と同じような内容を伝えているけれど、
それらで満足できない人たちがネット系の媒体に群がり、
需要があるからと様々に勃興してきたのが近年の動向か。

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2011/11/15

暗い雲だけど夕焼けが見えるってコトは

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ここしばらく仕事の進捗が非常に低調な状態が続いていた。
先週前半の疲労やそれに由来する甘えが出たのかなと思う。
精神的に弱く、集中力がないというコトを思い知らされる。

改善していこうにも変化なんて少しずつでしかないもので、
単年度黒字化して累積赤字を解消するまでには遠い道程が
続くのではないかとさえ思えて不安を感じないでもないが。

といって弱者でございと公衆の面前に名乗り出る気もなく、
それよりは自分でできる範囲のコトを少しずつやっていく、
そうするつもりだ、身近な人たちの支えで済んでいる間は。

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2011/11/14

暗箱に針穴(40) 他人の作品を実例として目標にする学習方法

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仕事を効率的に進めるといっても具体的に何をすればいいのか、
明確な方向性が見えていないので、いつも試行錯誤で暗中模索。
どうも昔から教えてもらっても身につかない性質であるらしく、
仕事も働きながら覚えたし道だって走って覚えたものであった。

そんな感じだから、そもそも人に教わるコトを半ば放棄してる。
ブログに使う文章を書いたり写真を撮るのだって、事情は同じ。
だもんだから上達には相当な時間を要したのではないかと思う。

体系立てて学習したのではなく、経験を重ねて身に付けたので、
そのノウハウを説明する段になると、しばしば困難に直面する。
特に文章のノウハウなどを聞かれると非常に困ってしまうのだ。
それよりは、写真のノウハウの方が説明しやすいように感じる。
言葉に加えて、写真の実例を使い、両面で伝えられるせいかも。

ドライブに同行した友人とは写真の撮り方について話し合った。
「紅葉は露出をアンダー気味にすると色の深みが出るよね」と。
そして見てもらったのが、紅葉の樹下から見上げて撮った写真。
友曰く、「撮ってみても、どうもしっくりこないコトが多くて、
こんな写真を撮りたいという具体的なイメージがあるとできる」

たしかに、具体的なイメージがあれば具体的な方法論が見える。
そういう意味では、文章も写真も数多くの他人の作品を見比べ
そこに感じた良い部分を目指して、実践してみると良いのかも。
もっと数多くの多種多様な作品に触れていくようにしていこう。

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2011/11/13

自称逸般塵の不通の日記(310) 外と机を行き来する仕事の中で

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月火水と早朝5時に家を出て深夜0時に帰るような生活が続いて、
さすがに疲労が蓄積したのか木金のデスクワークは低調だった。
この土日の時間を使って作業の遅れを取り戻さないといけない。

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今回の仕事は各地で停める都合から一般道ばかり使っていたが、
高速道路より一般道の方が変化があり眠くなりにくくて好きだ。

車の運転というのは、どちらかというと肉体労働の部類であり、
かなり寝不足気味の状態でも、気をつけていれば何とか走れる
とはいうものの、安全のためには万全な調子で臨みたいものだ。
出発前に片付けておきたかったデスクワークが長引いたせいで
時間が足りなくなって、寝不足を電車内で寝るなどして補った。

やはり時間に余裕を持つコトも含め準備を怠らぬようにしたい、
そのためには、抱えがちな仕事を効率的に処理せねばならない。

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2011/11/12

出張旅行記(47.7) 土地土地ごとに縁あり

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北関東ドライブ仕事の最終日は宇都宮から那須烏山~那須塩原。
道すがら那須国造碑に立ち寄って、日本三古碑の全制覇と相成。
なるほど三古碑いずれも日本の歴史の一幕に連なる内容であり、
そして文体も書体も彫りに至るまでも傑出した存在だなと納得。

ところで帰ってきてから思い至ったのが、那須国造碑という名。
そして、石碑を祀る由来が水戸光圀の命によるものだという点。

碑文を読解して村人たちに祀らせ、近傍の塚を発掘調査したり、
というコトだから水戸藩は那須郡にも領地を持っていたワケだ。

旧那須国というのは利根川でなく那珂川水系に属しているから、
現在こそ栃木県の一部だけど、常陸国の方が近いのかもしれん。

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2011/11/11

出張旅行記(47.3) 旅は道連れ渡世人

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一人で請け負った仕事ではあるが紅葉の盛りのドライブなんて
一人で走るのは勿体ないので都合の合いそうな同行者を誘った。
一人で12時間も黙々と作業をするのは面白くないという意図も。

二日目は足尾から日光へ抜けて例幣使街道を辿り両毛線沿線へ。
その道中では鉱毒や谷中村などについて、同行者と語り合った。

明治には台風で、「関東平野中央部が一つの巨大な湖になった」
といわれる水害をもたらした板東太郎こと利根川の治水の一環、
そして東京まで鉱毒が流れぬようにと作られた、渡良瀬遊水地。
この日の走行ルート後半の鹿沼や栃木などの水を集めた思川が、
ルート前半の渡良瀬川と合流するあたりの村を潰して作られた。

走った地域の大半は谷中村に通じる水系だった、というワケだ。

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2011/11/10

出張旅行記(47) 晩秋北関東巡りのお誘いについて

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月火水と、出張というか、仕事で北関東各地を走り回ってきた。
できるだけ多彩な場所を訪れ、広域を網羅する目的だったので、
実家発のドライブで馴染みのある場所も少なからず走ってきた。

初日の冒頭で訪れたのは、出発地とした高崎からも近い多胡碑。
さらに妙義に立ち寄り榛名の向こうを越え吾妻渓谷へと抜けて、
一昨年には工事中だった湖面橋が完成しているらしいのを見た。

平地でも晩秋の装いとなりつつあるが山間部は既に紅葉の盛り。
時季だけでなく天候にも恵まれ明媚な景色の中を走り回るのは、
たまたま仕事で通ったに過ぎないといっても楽しめるものだな。

随所で停車していたので17号線に乗る頃には日も暮れていたが、
利根川と一緒に蛇行する街道を一路南下していくと、数年前に
走った記憶が思い出され、そのときと同じコンビニに入ったり。

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2011/11/09

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(79) 『短気は意見表明の機会損失』

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どれほどまでに先の読めないヨノナカだからといっても、
先々のコトを勝手に決めつけていいワケではないと思う。

だけど昔から、この国は国としての意志決定プロセスが、
やもすると非論理的な印象を受けてしまうあたり残念だ。

何事かに際して決めようとする側は説明を端折るなかれ。
そして見守る側もしっかり調べて勉強して評価すべきで。

短絡的にNOを唱えるのは至極簡単なコトではあるけれど、
では「NOと言わずに済む」のはいつになるのだろうかね?

「自分の立場はこうであり貴方の立場とは相容れないが、
念頭に置いてほしい、結論を出す前に顧慮して頂きたい」
そんなふうにして、自分の意見を決定に反映させていく、
少数派であれば、それくらいの粘り強さが求められよう。

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2011/11/08

ヨノナカは異質な存在が混在しているとの前提で考えるコトの重要性

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どこぞのIT屋が動画で公開したりしている「未来ビジョン」などには、
どことなく引っ掛かるトコロがあったのだが、ふと気付いた点がある。
あまりに統一感、画一感が強い世界像になっているせいかもしれない。

もっと種々雑多なコンテンツが入り乱れるのが普通の社会であろうに。

ヒトやヒト集団のモデリングを簡略化しすぎて意図せぬ非現実感の罠。
ごくわずかにリアリティが欠如しているから不気味の谷に落ち込んで、
どことなく奇妙で空々しい空想だと感じられてしまうのかもしれない。

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2011/11/07

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(78) 『先んじて人を制しても反発を食らうばかり』

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ヒト集団のウチとソトでの差別といっても意図的なものは少ない。
単に枠外のコトを理解していないか、その存在に実感を持てない、
というほどの、要するに理解不足を認識していない程度のハナシ。

なにしろヒトは自分と共通項で括れる存在をより重視するワケで、
その感覚を深掘りすると群れを作って協力し合って別の群れから
自分たちの身を守ろうとする、半ば本能のようなトコロに根差す。

そんな「一部集団」でしかないのに「オラが国をどうするだ」と、
まるで自分の所属する集団が国の全体を代表しているかのように

ヨノナカが細かな違いを重視する傾向を強めてきた今の時代には、
集団の細分化が進んでいき不特定少数の集団ばかりになっていく。
そうだね、きっと遠からず飽きて、小異より大同を取るだろうさ。

接してすぐホイホイと託せるような相手なんて、何らかの契約で
縛り付けた相手だとか、あるいは年齢だの社会的地位だのという
何らかの指標に依拠して上下関係が明確な場合とか、ではないか。
そういった非対称性を前提としない場面では、まぁ難しいワケだ。

だけど中途半端に契約社会が入り込んできているし、中途半端に
年功序列的な風潮が抜けていないもんだから、やれ相手を負かす
だとか傘下に加えるだとか、そういった方向のベクトルが強くて
纏まろうにも纏まらない、そんなもんじゃないかと思うのだけど。

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2011/11/06

希薄な領域に逃げるのは効果的な衝突回避の一つ

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自分が間違えていないと信じて行動するのは悪いコトじゃないけれど、
別の考えを持ち違う行動を取る他人を間違いと決めつけるのは間違い。
そもそも誰にだって自分自身を守ろうとする心理の動きはあるもので、
それがしばしば異質な存在への攻撃性として表出しがちなのが問題だ。

都会は都会で、その中の企業などの小集団の中で完結してしまおうと
する傾向が強いし、田舎ともなればムラビト即ち生産者共同組合員の
地域と職能の二重の同質性を求める集団が強固だったりするワケだし、
いずれにせよ枠組の明らかな線でウチとソトとの差別が横行している。

その昔、他者モデル化の程度は、都会の方が高いと思っていたけれど、
都市部での生活を経て認識を改めるコトになった。田舎でも都会でも、
モデル化においては個体差が非常に大きいのが実態だと考えるに至る。
要するに、どこにいようと若干の個体差はあって、混在しているのだ。

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2011/11/05

視覚にばかり頼っていると色に惑わされる危険もある

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他人のコトを見ている人は実は多くない、というコトに
最近ふと思い至るようになってきた。少なくとも、そう
思っておいた方が、おそらく無難なような気がしている。

一見すると善意や好意に根差した利他的行動にみえても、
よく観察して深掘りすると、「ケチだと思われたくない」
とか「悪人だと思われたくない」といった偽善的要素が
あって、さらにその根を探れば当人に対する他人の評価
(それも簡略化された他人モデルを用いた擬似的な他者)、
すなわち自分の外見を高めるための、言うなれば心理的
化粧やファッションのように思えるケースが少なくない。

また逆に、他人からの善意を期待したい場面においては、
気付きさえすれば動いてくれる人は案外と多いのだけど、
実際には察してくれる可能性が極めて低く、より手前の
段階で止まっているケースが大半だというふうに考える。

というか都会であれば他人にまで気を配ったりするのは
むしろ「ウザイ」と思われてしまう可能性が高いもので、
心理的化粧仮説からみても行動に結びつきにくいのかも。

さらに言えば、粗雑な人物モデルのまま何も手を加えず
使っているのが大半なので誤差が非常に大きいし、一人
ひとり個別具体的な人物の認識など到底無理なハナシだ。
だから頻繁に予測がハズレるのだけどそれにも気付かぬ。
だので周囲からは「気が利かない」という評価を受ける。

ただでさえ仕事などの関係では同種クラスタになりがち。
趣味が合う会わない、といった軸で友達を選んでいくと、
「それ以外」の相手と対話する機会は極端に少なくなる。
ましてや今のヨノナカは家族親族近所などの関係でなく
物理的な距離に依らず「仲間」で固まれる環境があって、
おそらく他人モデルを改良する動機に乏しいのであろう。

自分のアタマで考えるコトを習慣づけるようにするには、
自分のアタマで考えるコトを必要とする環境が望ましい。
そうでなくても考えを進めるコトはできるものだけれど、
考えようとする動機が得にくい環境では程度も知れてる。

こんな感じに、他人のコトが見えていないという前提で
他人の行動を観察してみると、かなり現象を説明できる。
しばらくは、この仮説を使いながら改良してみるつもり。

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2011/11/04

一人ひとりのコタエがあるのに誰が教えられるというのか

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自分のアタマで考えるコトの重要性は、多くの人が
少なくともアタマでは分かっているんじゃないかな。

少なくとも「考えていない」結果としての不利益に
きっと少なからぬ人たちが嫌だと感じているはずだ。

ただ、どうやったら「考える機能」が身につくのか、
いやそもそも、どうするのが「自分で考える」のか、
そこらへんの勘所が掴めず悩んだりしているのかと。

だもんで実例があると、なんか分かった気がしたり、
そういう考え方が自分にも可能なんだという自信に
なったりするんだけれど、やっぱり急には変わらず。

そりゃそうだ、モノゴトに接したときの反応なんて、
基本的には今あるルーチンでしか処理してないから。

気を抜けば、自分のアタマの中にある既存の処理を
無自覚に進めている、ただそれだけになったりする。

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2011/11/03

暗箱に針穴(39) 解き方いろいろあるパズル

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先日、友達と一緒に散歩しながら写真を撮ってたとき、
撮影とはパズルのようなものかもしれない、と思った。
特に、歩き回って出会う情景を画にするのは、そうだ。

基本的には持ち歩いている機材の範囲でしか撮れない、
光の加減も選べない、風雨があればそれも避けられぬ、
主被写体や背景を組み合わせて構図を練るにしたって、
その時その場のモノしか使えない、そんな制約がある。

だから、ありとあらゆる周辺事象を考慮して取捨選択、
持ち合わせた機材で画像として切り出すのだけれども、
撮って帰ってきて写真を見返すと、出来が見えてくる。

「また水平取れてないよ」とか「もう少し上に振れば
よかった」とか「やっぱり水を出して撮れば」などと
反省してみたトコロで後の祭りに過ぎないのだけれど、
そういう経験が次の撮影のときのコツになったりする。

ファインダーを覗く動作をトリガとして過去の反省を
思い出すよう注意点を記憶の中に埋め置いたりするが、
それを何度となく繰り返しても少しずつしか進歩せぬ。

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2011/11/02

意地悪でもあり優しくもあり老婆心

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突然のモノゴトに接して勉強するのはいい、
けれども、得た知識が定着して知恵となり、
判断力に繋がるまで、相当の時間が掛かる。

そんな風になる前に準備しといた方がいい、
とは多くの人が思い知らされたと思うけど、
そういうトコロまで踏まえて教育するのは、
教える側だけの問題とは言い切れぬあたり。

どうしても知ろうとする本人の欲求が必要。
それを引き出すのも含めての教育だなんて、
言ってしまうのは簡単極まりないけれども。

なにしろ当事者意識を持たぬ人物を周囲が
どうにかするなんてできやしないってのは、
「馬を水場に連れて行くコトはできても」
とかいう古い格言を出すまでもないハナシ。

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2011/11/01

観察・観測からのフィードバック

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ヒトという共通のモデルを適用しながらも、
大きく異なる前提条件でシミュレーション、
そういう風にして相手を想定し、説明する。

顔を突き合わせて対話する相手も、電話で
喋る相手も、メールでやり取りする相手も。

そんな風に心掛けているとはいえ、やはり
完璧なモデルなどできようがないものだし、
相手個体の前提条件にも拾い落としがある。

ましてや個体間の繋がりが地理的に拡大し、
昔のムラの感覚では想定し得ないくらいの
変異の幅が、対話の相手になるような時代。

そして相手の姿は見えないし声も聞こえず、
表情も読み取れぬコミュニケーション手段。

よほど文章や文脈の表現能力も高くないと。

そのあたりは、誰だって完全にはできまい。

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