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2011/11/18

ニホンのキホン・手前自分の列島感

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何処の国や地域や社会集団であっても、たいがい生じる同族嫌悪。
やれ自分トコの政府がダメだ、企業がダメだ、人々がダメだとか。
その先には、自分たちに近い地域や民族でありながら少しばかり
有利な状況にいる(ように見える)グループを攻撃に走ったりする。
どうしたって隣の芝生は青く見えるもので、どこでもあるハナシ。

こんな傾向はヒト共通の特性であるように思われるのだけれども、
この列島では特に顕著なように感じるのは、日本ダメ論すぎるか?

先日のドライブの同行者と喋った内容の一つが、日本語について。
(お互い言語に詳しいというほどでもないが、知っている範囲で)
「一人称と二人称の境界線が曖昧というか行き来する」という点。
「ジブン」「おのれ」「てめえ」などは本人を指す場合もあれば
対話の相手を指す場合もあり、文脈で判断していくしかないけど、
ひいては自他の区別が確立できていないのが日本人かもしれない。

個人の意識そのままに拡大解釈して集団の意識だと決めつけたり、
集団を構成する他の個体が違う認識を持つはずがない、と認識し、
さらには、そんな“常識”に反する個人や組織を異物として攻撃。
卑近な比喩でいえば、癌細胞のような存在ではないかとも思える。
もちろん逆に、そういう過剰な攻撃性に反発する動きもあるけど、
これも立場こそ違えど同じ原理に根差しているものが少なからず、
しばしば的を外したり余計なトコロまで被害を与えたりする始末。

嵐が過ぎ去っても、後に残るのは禍根ばかりで、山河ありありと。

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一人称のような言葉が二人称的に使われるというハナシでいえば、
「そう言っている自分自身はどうなのか」との問いかけにしたい。
有り体に言えば「自分自身を映し出す鏡」などと考えたいトコロ。

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