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2011.11.05

視覚にばかり頼っていると色に惑わされる危険もある

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他人のコトを見ている人は実は多くない、というコトに
最近ふと思い至るようになってきた。少なくとも、そう
思っておいた方が、おそらく無難なような気がしている。

一見すると善意や好意に根差した利他的行動にみえても、
よく観察して深掘りすると、「ケチだと思われたくない」
とか「悪人だと思われたくない」といった偽善的要素が
あって、さらにその根を探れば当人に対する他人の評価
(それも簡略化された他人モデルを用いた擬似的な他者)、
すなわち自分の外見を高めるための、言うなれば心理的
化粧やファッションのように思えるケースが少なくない。

また逆に、他人からの善意を期待したい場面においては、
気付きさえすれば動いてくれる人は案外と多いのだけど、
実際には察してくれる可能性が極めて低く、より手前の
段階で止まっているケースが大半だというふうに考える。

というか都会であれば他人にまで気を配ったりするのは
むしろ「ウザイ」と思われてしまう可能性が高いもので、
心理的化粧仮説からみても行動に結びつきにくいのかも。

さらに言えば、粗雑な人物モデルのまま何も手を加えず
使っているのが大半なので誤差が非常に大きいし、一人
ひとり個別具体的な人物の認識など到底無理なハナシだ。
だから頻繁に予測がハズレるのだけどそれにも気付かぬ。
だので周囲からは「気が利かない」という評価を受ける。

ただでさえ仕事などの関係では同種クラスタになりがち。
趣味が合う会わない、といった軸で友達を選んでいくと、
「それ以外」の相手と対話する機会は極端に少なくなる。
ましてや今のヨノナカは家族親族近所などの関係でなく
物理的な距離に依らず「仲間」で固まれる環境があって、
おそらく他人モデルを改良する動機に乏しいのであろう。

自分のアタマで考えるコトを習慣づけるようにするには、
自分のアタマで考えるコトを必要とする環境が望ましい。
そうでなくても考えを進めるコトはできるものだけれど、
考えようとする動機が得にくい環境では程度も知れてる。

こんな感じに、他人のコトが見えていないという前提で
他人の行動を観察してみると、かなり現象を説明できる。
しばらくは、この仮説を使いながら改良してみるつもり。

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普段、自分自身の中にある思考パターンを増やしていく、
あるいは書き換えていく、そればかりを追い求めている。

いろいろな属性の人たちに触れて、いろいろな方向性の
集団と交流を持って、そういったのを広く往来しながら、
自己の変化に繋がる刺激の多様性を求めているのだろう。

どこにも属さぬものだから孤立感があったりもするけど、
あらゆる色が入り混じれば色調の偏りは抑えられるもの。
そうしてヨノナカたいていグレーに落ち着くものと知る。

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