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2011.11.22

人間は周囲の環境に適応していこうとする生物であるからして

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昨日書いたカリキュラムの件、考えてみれば昔の子供たちなら、
家庭や地域社会からも多くを学ぶのが普通であっただろうから、
さほど紆余曲折なくとも経験が裏付けてくれたかもしれないな。

田舎なら、少なくとも高度成長期まで、そんな雰囲気があった。
農村集落にあり町工場を経営していた実家も、社会を学ぶ上で
必要な刺激は数多く得られており、後になって思い返してきた。

そうした実体験と情報とが結びつけば知識として定着しやすい。
ヨノナカのモノゴトは非常に複雑に絡み合っていて、それこそ
網目のように、というより多次元の結びつきで成り立っている。
脳内に「世界モデル」や「社会モデル」を作り上げ、得られた
情報や経験を元に修正を加えながら、より実態に近づけるのだ。

しかし得る知識のバランスが偏れば、モデルも狂いがちになる。
たとえば周囲の人たちが揃って特定の傾向を持っていたならば、
そういう人たちとの接触で得られる経験は明らかに偏っていく。
もちろん情報についても、同じように偏りが問題となるけれど、
情報と経験の偏りの方向性が違っていれば、まだ修正できよう。

つまり、モデル修正が困難になるのは、得られる経験も情報も、
どちらも全く同じ方向に偏っているような場合というワケだな。

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最近はソーシャル()だとか何だとかで、似たような「性質」や
「傾向」「方向性」を持つ仲間が集まる、とても居心地の良い
場を手軽に得られるようになっているけれど、そこで得られる
情報および体験というのは、どちらも同じ方向に偏ったものだ。

いや実は最近だけの問題ではなく、古今東西おそらく普遍的に、
ヒトが文明を作り社会生活を営むようになって以来ほぼずっと、
そういった宿題を抱えているのではないか、とか思ってしまう。

なんとなればヒトというのは社会構造が成熟していくにつれて、
たいてい同質性の高い集団を作り上げミウチで固まるのだから、
そのまま世代交代が進んでいけば、どうしても偏りが増幅する。

そういう凝集作用の進行度合いに応じて次の世代が得る情報や
経験というのを上手にコントロールする術を未だ人類は知らず。

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