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2011/11/24

考えても考えても暮らしが楽にならないときは、「ぢつと頭を見る」でいいんだっけ?

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このところ「考える」活動を推奨するのが流行になりつつある気がしはじめた。
よく見ける有力ブロガーなども「考える」コトの重要性を説いていたりするし、
どっかの雑誌の中吊り広告なんかでも、「スキルより教養を」とか書いてたり。

まぁ確かに、今まで日本の人たちが考えずに生きてこられたのは奇跡だと思う。
それが、そうしていられず、いよいよのっぴきならなくなってきた、気はする。

けれども、やり慣れないコトをいきなりやろうとすると弊害が出るものであり、
「ロクに考えずに疑う」となりつつある最近の様相に対しては、懸念している。

それは、逆に言えば考えないコトの問題点を浮き彫りにしたとも言えるだろう。
「考えないけど疑わない」で済むヨノナカなら、それでも平和だったのだから。

そもそも、これまでの日本の社会は一世代くらい平和で安穏とした状態だった。
思考とはエネルギーを要する活動で、生物は余計なエネルギーを節約したがる。
疑う必要ないほど平和なヨノナカだったら、そりゃ思考も端折るというワケで、
平和で穏やかな環境に、しっかりとヒトビトが適応していたと考えて良かろう。

それが最近になって、いろいろと考えたり疑ったりしなければならないようだ、
と感じられるような状況が身に迫ってきたので、退化し失いかけていた能力を
再び(大急ぎで)取り戻そうとしているのが、日本社会のイマココってトコロだ。

生物のアナロジーで言うなら、その種が退化して失った機能は回復しないけど、
種に含まれている各個体の機能のバラツキが拡大した程度の状態であるならば、
将来的にみて種全体として機能の働きを取り戻すコトも不可能ではないワケで、
まさしく多くの市民庶民が、いろいろ知識を蓄え考えようとし始めた、らしい。

しかし疑わずに済んだ時代が続いた後だけに難しい。思考に慣れていない人が
最初に考えるコトってのは、「疑う」「信じない」になりがちなのではないか。

何しろヒトは、初めて触れたモノゴトに「何じゃこりゃ」と思ってしまいがち。
というか新しい分野の知識に触れる際、どうしたって目立つトコロに目が行く。
そうすると何故かショッキングなネタばかりが目に付いてしまうというワケで、
そういった初期ショックを受けた人たちがヨノナカのマスとして動いたときの
振動たるや相当なものとなるはずで、まさに今の現象がそうなのではないかな。

あるいは、知っていく過程が進むにつれて不安材料が沢山あるコトに気付いて、
はたまた「知るコトに対しての不安」をも抱くようになってしまったりだとか、
「知るコトとは不安を増大させるもの也」と認識するようになってしまったり、
とか云々、マクロにみれば社会不安が増大する一途であるのも致し方ないのか。

とはいえ数年もすれば、「考えている人」が大勢を占めるようになるだろうし、
それなりに不安も薄れていってしまう人たちも多くなっていくだろうとは思う。
だから短期的に相互不信がヨノナカを覆った後しばらくして、皆が「まず疑う」
という思考レベルから脱してきた頃に、きっとまた次の平和が訪れるはず……。

そうやってヒト集団の中で自発励起された振動が歴史の波を作るのかもしれん。

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一方で、大した思考が必要なかったようなヌルま湯の時代の中でも種としての
思考活動多様性を保ち続けていたのは、そのときのヨノナカでも少数派に属す
「考えるコトが趣味、あるいは生業」な人たちを中心としたグループのはずだ。

彼らは確かに少数派だけど、多様性を維持する上で必要な存在ではあったはず。
ところが時代が変わって多くの人たちが必要に迫られて考えるよになったらば、
その「生活上の必要に迫られて考える人たち」こそが主流派となるに違いない。
結局のトコロ、趣味や生業で考える人たちは、やはり少数派というコトだよね。

いずれにせよ少数派ではあるけど、ほとんど考えない人たちの中での少数派と、
(否応なくではあるが)考える人たちが圧倒的多数を占める中での少数派とでは、
その趣味や生業で考える人たちの立ち位置は自ずから変わってくるだろうなと。

そういったトコロも実は、思想の流れを変える要因になっているのかもしれん。

主流派というのはニッチな存在から生じるが、もとのニッチな存在とは異なる
主流派という存在になった時点で、すでに別の存在となってしまうものらしい。

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