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2011年12月

2011.12.31

牢に野心を放り込むと老爺心?

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絆が必要だと言われつつもヒトビトあるいはヒト集団の孤立化先鋭化が
急速に進んで、それこそ疑心暗鬼の壁が立ちはだかるように思えた今年。

相補関係にある存在を対立関係であるかのように扱うコトは問題が多い。

それこそマスメディア対フリーランスジャーナリストの構図なんぞ酷い。
たとえば「大手メディアは報じません」なんて宣伝文句を気軽に使うと
「だから大手はダメだ」と発言しているようにも見えてしまったりする。
仮に宣伝文句でなく、「問題のある大組織はどれだけ叩いても道義的に
問題ない」とか「このくらい叩いても壊れない」という感覚に基づいた
発言だったとしたなら、もっと残念な発言な気もするがそれはともかく。

プロに文句をつける素人というのは要するに人間不信なのかと疑うし、
競合に文句を付ける玄人というのは要するにネガキャンかとも思える。
要するに受け手の側にはそういった疑念が働くものと思っておきたい。

ソーシャル()なネットの活用によってフリーランスでもマスメディアに
迫る数の読者視聴者を獲得できたり多数の協力者を得られるようになり
つつあるので、ついつい対立構図にしたくなってしまうキモチは職業人
としてもあるだろうし、既存メディアに不満を持つ層を顧客として獲得
する作戦として効果的であろうとも思うのだけれども、しかしそれでも、
首根っこのトコロが単独の存在と体系立てられた組織とでは違うワケで、
むしろ異なる視点があるからこそ社会全体として広い視野が持てように。

希望的観測としては、今のトコロ悪目立ちしている一部の連中のせいで
全体が良くないように錯覚しているに過ぎず、いずれそれらが淘汰され
あるいは沈静化するコトで落ち着いてくるのかもしれん、とも思うけど。

「マッチョな思想の反省」というのをどこかで見たが、だからといって
それに対してマッチョな姿勢で反省をしていていいのかどうか、と思う。
それこそ大きな振り子運動でしかないのではないかとも思うけれど如何。
もっと言うなら、そういった強い反動は単なる権力闘争のようなもので、
ただの旧体制の後釜にしかならないのではないか、とさえ穿って思える。

だから全く異なる観点から、バネにダンパーを取り付けるような感じで
振動を弱めるような力を加えていくような考え方を、していきたいよな。

よく人は「間違いを指摘する」とか簡単に言い切ってしまいがちだけど、
明快に指摘できる論理矛盾などは別として個々人の感性に依存する事柄
にまで安易に適用してしまって、余計な諍いを呼び込んだりするもので。

よく人は「真実」だの「事実」だの簡単に言い切ってしまいがちだけど、
明快に表現できるモノゴトなど実は非常に限られているとは気付かずに
脳内の感覚を垂れ流しては異論反論に出会って嘆いたりするのも人間だ。

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2011.12.30

現人を加味する考え方など

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システムについての議論をすると、しばしば以下のような論が出る。

a)「ヒューマンエラーは完全に防げるものではないのでシステムで」
b)「システムは想定した範囲でしか対応できないのでヒューマンで」

前者は設計における理想論、後者は運用における現実解、てトコか。

まあ実際よくできたシステムに依存してしまって運用が疎かになり
システムの想定外の事象に対応できず失敗する例も少なからずある
と思うんだが、それについては運用体制という“ソフトウェア”な
システムについても同じようなコトが当てはまったりもするワケで。

システムに任せるのか、ヒューマンに任せるのか、といった問題は、
どちらか一方で済むハナシではないんじゃないかとも思うのだけど、
得てして人間どっちに正解があるものだと思ってしまいがちらしく、
この種の論争は頻繁に生じるし、たいてい勃発しても平行線を辿る。

かなり前に技術系の友達と現合(現物合わせ/現場合わせ)の功罪に
ついて議論し合ったコトがあるが、これも設計と運用の問題に近い。

個人的には現場現物を上手にフィットさせる職人芸にも敬意を払い、
同時に実態を良く知り緻密な設計を行う技術者の腕前にも評価する。

そりゃそうだろう、どっちが欠けてもシステムは上手く回らないさ。
全体が円滑に動いている状況ならば双方が信頼し合えるだろうけど、
どこかに不具合が生じた途端、互いに責任を押しつけ合ったりして
ギスギスした雰囲気になってしまいがちで、むしろそこが課題かも。

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2011.12.29

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(84) 『老いては子に従え』るような状況を作っていくには何をすればいいのか考えてみたコトはあるかい?

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たとえば家族の問題について親だけで考え込んでしまう例がしばしばあって、
子供たちと一緒に考えようなコトをしないのだろうか、とか思うコトしきり。

子供たちの世代は、むしろ親の世代などより遙かに適応力が高い存在であり、
現状では親の庇護下にあるといえど成長につれて環境の変化に適応していく。
当然ながら、そういう成長を遂げるためには、相応の練習期間も必要となる。

保護者や教育関係者や行政が考えたコトを子供たちに与えたいという考えは、
むしろ受動的な人間たちを社会に送り出してしまいかねない危険を伴うもの。

そりゃもちろん、子供たちの発達度合いを見極めながら行った方が望ましい
のだろうけれども、段階に応じて子供たち自身の自発的な判断を促し、かつ
それを尊重していこうとする親たちの姿勢がなくては、ずっと発達できない。

子供に難しい判断をさせられないからと全てを親が決定して手を出した結果、
目出度くアラフォーニートを育ててしまったなんて例も、すでに珍しくない。

それはそれで「デキの悪い子供を甲斐甲斐しく育て続ける老親」ってコトで、
その部分だけ切り出せば美談にも仕立てられるハナシだけど、先行きは暗い。
遡れば「デキの悪い子供」にしてしまったのは親たちの過干渉ゆえでもある。

企業でも、部下のデキが悪いからと判断をさせず権限も与えないまま仕事を
させ、任せられる部下がいないと嘆く上司など数えきれぬほど転がっている。

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2011.12.28

利用と活用の狭間で

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日常が上手く行ってないとか、もっとできるはずなのにできていなくて、
そんな自身に罪悪感を覚えるだとか、そういう感覚でもあるんだろうか。
そう思ってばかりいると宗教に付け入られるんじゃないかと思うんだが。
そんなに自分デキるなんて思う方が烏滸がましいとは思わないのかなあ。

行き過ぎると怠け者になりかねないが人の力には限度があると思うべし。

それとは逆に、日本ダメ論だとか人類ダメ論的な考え方なんかにしても、
自分が上手く行ってないのは自分が悪いのではなくて周囲もダメだから
仕方ないコトだよね、と自らを納得させようとする考えが働いたものか。
(普通とは違う意味で)環境に依存しすぎている、という気もしてくるが。

過剰な実力主義となれば問題ではあるが環境要因ばかりが結果ではなく。

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2011.12.27

自称逸般塵の不通の日記(325) 新陳代謝に深甚なる感謝

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昼下がりの温かい陽光の差す窓辺にて四肢の爪を切る。本年最後の爪切りである。

母趾の巻爪の成長により生じた上皮組織の褶曲部をピンセットで摘出する作業は、
だいたい1~2カ月ごとに行う、ちょい痛気持ちいい日常生活の一部というトコロ。

爪の成長度合は栄養状態と精神状態に大きく影響されるというのが過去の経験則。
若い頃の職場で上司との喧嘩にメゲそうになっていた頃には爪に凹みができたり、
それほどでなくとも不安感が長期に渡ったときなどには伸びが遅くなったりする。

おそらく毛髪にも似たようなトコロがあるのだと思うけど、こちらは幸か不幸か
ほぼ中年の現在に至るまで特段に伸びが遅くなるなどという経験はないので不明。

まあ若干の傷病歴はあるが、そこそこ健康であり続けているのは幸いなのだろう。

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2011.12.26

自称逸般塵の不通の日記(324) 中年の一年は暮れるのが早い

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12月中旬には先方都合で仕事が延び延びになって暇だったので、
ダラダラと日々を過ごしてしまっていたのが良くなかったのか、
年の瀬にわかに慌ただしくなって少し体調を崩してしまった感。
仕事も余暇も適度な配合であるのが望ましいと思うばかりなり。

それにつけても紅葉の彩るのは年々遅くなっているように思う。
まだ葉も鮮やかな紅のまま冬空とのコントラストを見せつける。
そんな生物の一年は天体駆動に引き摺られ追い掛けているのか。

せいぜい年内できる限りのコトを片付けておきたいものである。

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2011.12.25

ナニはともあれ実践せんせん

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書物などの資料から知識を得るのは、他人の思考の排泄物を漁るようなもの、
なんて故事を昔どこかで読んだような記憶があるけど何の本だったか忘れた。

とはいえ忘れていても大した問題ではない。その故事が示す考え方を体得し
必要に応じて使えるようになっているならば、原著者の目的は達したはずだ。

要するにそんな感じの文章を、このブログでは心掛けているつもりなんだが、
毎日やっていてもなかなか会心作が出てこないあたり、まだ精進不足ならん。

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2011.12.24

とりあえず人間的な成長なんぞボンヤリと考えてみた件

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いろいろ考えると、やはりヨノナカには相当数の「プロでないヒトビト」
がいるという認識に立った方が、おそらく妥当らしいように思えてくる。

他人に対して文句ばかりの、完璧な被害者であるかの如き発言が目立つ。
要するに社会の中でのオキャクサマ的存在であると自らを定義していて、
“当然得られるべき”サービスの品質が満たなければ文句を言う権利が
あってそれを行使しなければならない、というコトになるのではないか。

たかがヒトの作り上げたものに過ぎない社会の仕組みを神格化するのか。

なんか知らんがヨノナカには明文化されたものもそうでないものも含め
細かな規則が無数にあって、家庭では親、学校では教師、職場では上司、
の保護という名の監視の下で生き続けているせいか、「よくないコト」
即ペナルティという固定観念を持つに至ってしまったのかもしれないな。

世間に迷惑を及ぼした人物には必ず世間が罰を下すと信じて疑わぬのか。
(その迷惑とか処罰についての認識も人によって食い違うワケだけれど)

たとえば学校とか職場とかプライベートなグループだとかで、もともと
共通認識に乏しいグループの中で合意を形成していった経験を持つなら、
子供たちだけで集まって自らルールを作って遊ぶといった経験でもいい、
(ゲームのパーティプレイは用意されたルールを使った遊びなので除外)
そういった経験があれば、そんな認識に立つコトはないと思うのだけど。

だから、いわゆるネット上の無法地帯などで曲がりなりにも秩序立った
活動を実現してきた人たちのヒューマンスキルは相当なものだと考える。

さまざまな集団の中でもまれつつも自分で獲得してきたポジションには、
誰でも愛着が湧くもので、身に付けた姿勢にも違和感のないものとなる。

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2011.12.23

どういう姿勢が一般人として妥当なのかと考えてみた件

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全体が変形しつつ激しく動き続ける中で自らの位置や次の動きを予測し
自発的に合わせていけるような個体で在り続けるなんて、非常に難しい。

果たして誰もが出来るものか(反語)。もうそれはきっとプロだろうから。

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2011.12.22

ところで専門家の扱いについて素人っぽく考えてみた件

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このところ「素人」が「専門家」を糾弾する例が目立ってるように思う。

まあ確かに専門家というのは専門性を持つが故に特定方向の視点を持つ
ケースが多く、その意味では社会の他の部分から乖離しがちではあろう。
しかもネット上では気が緩むのか不用意な発言が飛び出しがちだったり、
社会の混乱が増大するにつれ過去の実績や業績が時代から取り残されて
しまいがちだったり、といった事情も、おそらくは相当に影響している。

もちろん、それなりに理由があるからこそ批判は行われるものでもある。
たとえばジャーナリストであれば、たとえそれが単なる雑談であろうと、
発言に相応の責任が求められる。政治家や官僚、医師、学者なども同様。
社会的に重要とされる立場ゆえ、その責任感を社会から求められるので。

一方で素人の側も、そういう専門家と同じ土俵で議論や対話をする環境
に姿を現して、専門家と言葉を交わせるようになってきたので、やはり
同じように(専門性はともかく)それなりの責任感が求められる気がする。

では、どんな責任感を持っておけばいいのか。それこそ素人の“専門”、
専門家の業績を利用する、享受する立場だという点にあるのではないか。
多種多様な専門家の存在なくしては我々の社会は成り立たないのだから。

状況が上手く行っていないコトは誰だって漠然と分かっている、と思う。
それこそ各分野の専門の人たちであろうと、ほぼ素人たちと同様に、だ。

極めて個人的な考えを述べておくと、既に問題意識を持ってる人に対し
さらに問題意識を焚きつけるなどは、正直なトコロあまり好ましくない。

専門であるがゆえに、失敗したと判断すれば改善を試みる可能性も高い。

ゆえに安易なレッテル貼りは控え、随時検討しつつ判断すべきでないか。

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2011.12.21

批判非難ばかり投げ合って得るものがないなら評価できるところだけ見ればいいじゃない

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他者が何か他の対象に抱く怒りの感情の取扱も、いろいろと注意が必要だ。
自分自身の怒りの扱いも難しいのだから、それ以上に困難なものと言える。
だが怒りの放出が上手く行かぬ人は周囲に怒りの余波を撒布していくもの。
そこに巻き込まれてしまうの問題だから、致し方なく手も出す場合もある。

怒りバーストが生じるようなケースの多くに見られるのが、問題解決より
責任追及を重視しているというか優先しているんじゃないかと思える心理。
いやもちろん当人が怒りのコントロールを取り戻すコトこそ優先といえば
それまでなんだけど、他の関係者にとってみれば劣後する課題でもあろう。

だから全体を見た上で「そんな連中は切り捨てた方が効率的」と判断する
人も少なくないとは思うのだけど、それでも放置するのは弊害もあるので、
それなりにガス抜きをしてもらいつつ問題意識を共有していきたいトコロ
なので継続的なコミュニケーションを常に心掛けていかねばならぬだろう。

対話というのは一人でできるコトでなく必ず相手との相互作用であるから、
どれだけ気をつけていようと各当事者の感情に双方が影響を受けてしまう。
だから相手の感情に引き込まれそうな場合には一時的に手を引くなどして
影響を避けたり、逆方向に感情のバイアスをかけて制御したりもしている。

相手の怒りに誘発された自分の怒りが制御できる範囲なら色々と手はある。

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2011.12.20

制御できない力は被害をもたらすけれどコントロールできるエネルギーは役に立つよね

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友人や家族から愚痴を聞くのは度が過ぎれば時間を費やし疲労するものの
基本的に大した苦にはならないし相手にとって愚痴を言える程度の人物だ
という証拠でもあるし結果として気分が改善するなどの理由で嫌ではない。
むしろ適度に喋って気が楽になってくれる様子を見るのは楽しいとも思う。

「何故か愚痴を言いやすい」と一部から評判を頂戴しているのでおそらく
愚痴の聞き手として若干の素質があるのだろうとは思うがそれはともかく、
不平不満といった感情は適度な速度で放出すれば本人にも周囲にも大きな
被害を与えるコトなく緩和できるものだという実感を、経験から得ている。

怒りや悲しみといったネガティブな感情には本人が可能な範囲で向き合い、
少しずつ消化していくコトで、同じく割と安全に処理していけると考える。
ところが恐怖心は、当人にとって信頼できる対象から安心感が得られれば
和らぐけど、一緒に怖がる人がいても大した効果はなくて、扱いが難しい。

特に扱い難いのがアレだ、「もうセカイ(orニホン)は終わり」とかそんな、
いわゆる終末思想系のホラーファンタジーというか何というか、な不安感。
場合によっては単なる怖いモノ見たさで怖がっているようにも受け取れる、
そんな感じの不安感を拭うのは、さすがに時間の浪費とさえ思えてしまう。

まあそれは(実際ある種の個人的な愚痴のようなものだからして)ともかく。

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2011.12.19

自称逸般塵の不通の日記(323) ㌧だ月曜日

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月曜未明には複数の友達と電話で喋っていた。
年末年始の予定を共有するのが目的だったが、
その予定の決定の手順に関する問題点の指摘、
いや愚痴も多分に含まれていたかなとか思う。

うむ、内容を思い返すに、アレは愚痴だろう。
溜め込む人ほど爆発したときの対処が大変で、
小まめに発散している方がダメージは小さい
とは思うのだけど、なかなか難しそうである。

ぐったりして朝寝して週後半の仕事に備える
べく休息日としていた月曜の日中が過ぎ去り、
午後ゆっくり起き出してみれば臨時ニュース。

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2011.12.18

手で受け渡せるのは断片だけ

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自分で作り上げたり構築したモノならだいたい分かるけど、
他人が作り上げたり構築したモノはたいがい分かりにくい。

他人の成果を取り入れるにも、その成果に至るまでの道筋
まで取り入れられるコトは少なく、多くは失われてしまう。

先人の為した仕事は後の人たちが完璧には理解できないし、
理解しようとするならば他のコトに対して疎かになりがち。

そんなワケで非常に困難な課題を伴うのが継承という活動。

社会構造を毎世代作り直すのはオーバーヘッドも大きいが、
それなりに意味のあるコトだったのかもしれないとも思う。
人類の歴史の中では、そんな再構築の慣習があった形跡も
見受けられるし、近現代でも企業などに例が見受けられる。

自分たちの社会は自分たちで作り上げないと信頼できない、
と言うのであれば別の人たちに壊される覚悟も持たないと。

もし仮に上手な継承の方法が確立されるようになったなら、
そして諸々を総て継承しつつ発展させていけるならいいな。

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2011.12.17

目標は何処に行ったのさ

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 近代戦において作戦計画策定は一人だけの手に負えるものではない。チームでやるしかなく、その場合、情報・連絡・兵站。作戦を担当する参謀が連絡し合い、各部隊への命令から政府との連絡まで膨大な作業をこなす必要があった。そのうえで、作戦参謀は、全ての必要を満たす作戦計画を樹立するのである。
 それでも作戦計画だけでは戦闘に勝利することはできない。各級司令官は与えられた命令の枠内で、独立して戦闘行動を決心し、それに見合った最適な戦機を発見せねばならない。最後は、戦場にいる兵士の勇気こそが決定的要素である。
(別宮暖朗「日露戦争陸戦の研究」ちくま文庫)

現代の専門家がどれほどまでに細分化されているか。

それぞれの分野の専門家が、ある程度は相手の仕事
内容を理解して、自他ともに尊重して協調し合って
いかねば、現代社会のシステムなんぞ一つも動かぬ。

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2011.12.16

今年は“傾聴年間”かもしれない

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ちょっとしたコトで他人を尊敬したり軽蔑したりするのは慌ただしいので好かん。
尊敬できるトコロも軽蔑したくなるトコロが誰にもあると思っとけばいいだろう。

だもんで、わざわざ正面きって批判したり是正を促すなど手を出すのは面倒至極。
いずれ自分から気付く機会があるだろう(なければそれまでの人物に過ぎぬ)から、
そのとき何らかの罪悪感を催し深く反省すれば、それで充分じゃないかと考える。

その人が、どのような概念で、目的で、そして対象で、コトバを使っているのか、
しばらく観察したり、ときに対話したりしていれば、そこそこ想像できるワケで、
そうやって相手の像を作り上げて、さらに修正を加えて、精度を向上させていく。

初期には混乱もあるが修正が進んでいけば徐々に減っていき、相手の言うコトを
文面だけでなく文脈からも読めるようになっていく。そうなればレッテルも無用。

どうも今年は「絆」だの何だのというコトで、過去に繋がりのなかった相手とも
いろいろなカタチで接する機会が増えたが、多くの人が似たような状況にあろう。
ついでに傾きかけている社会の構造も見直しが必要だという認識も共通であろう。

それぞれがそれぞれの立場で、知識で、知恵で、こうありたいこうなってほしい
という願望や目標やらに向けて、いろいろ考えては発信するヨノナカにあるけど、
一斉に喋ればコトバで飽和してしまうと思うので、今はハナシを聞くようにする。

相当に自分勝手な生き方をしてきたし、今後もそうするつもりなので、もし何か
“直ちに”危険が及ぶようなら勝手に動くだろうけど、そのための情報としても。

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2011.12.15

斜に構えると陰影が協調される

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コミュニケーションの半分以上は相手を把握するコトに費やすものと思っている。

だから対話する際には、できるだけ相手の文脈や背景まで推測しながら、そして
投げかけに対する反応なども含め観察結果をフィードバックし相手の像を鮮明に
描き出していきながら、その像を通じて相手と向き合うように、と心掛けている。

似たよな認識を持つ人物を半ば無意識に探してしまうけれど、なかなか多くない。

周囲の例から総合すると、孤立感や孤独感を強く持つ過去が、契機となりやすい
のではないかという気もするが、とはいえ孤立や孤独が常にその結果をもたらす
というワケでもなさそうだし、孤立無援というほどの経験でない例もあるだろう。

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2011.12.14

そいつは自分の影じゃない

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ルールの裏をかくコトが可能な知識を持った人物は相手も同じように裏をかいて
くることを警戒して疑心暗鬼に陥りがち、とかいうハナシを先日どこかで読んだ。
割と多くの人が、自分自身の悪意や暗黒面を他者に投影して見ているのだと思う。

あるいは、なまじっか勉強して知識を獲得してしまったせいで他者が低く見えて、
半ば無意識のウチに軽蔑を込めた警戒などしていたりする、のかもしれないけど。

“他者は自分を映し出す鏡”とはよくいう。けど必ずしも、そうだとは限るまい。

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2011.12.13

ねっとり照らしー

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ネット上で情報収集をしていると妙な人物に遭遇する頻度も増えるけど、
いちいち一人ひとりが反応すると結果的に過剰反応となってしまうので、
黙って詳しい人たちに任せつつ経過を観察して個人的な判断を下す戦略。

ちょっとでも意見の異なる相手だと判断したら即座に論争に入る人には、
半ば無意識に言い負かそうとしているから、相手も言い負かそうとして
くるんじゃないかと焦って反射的に反発してくる、なんてのもいそうだ。

いきなり勉強する羽目になって理解が追いついていない人も多いと思う。
でも政府や大企業や関連していそうな研究者など既存の権威の言い分は
全く信じることができなくなって、「全てが嘘や隠蔽で成り立っている」
と思うようになってしまったら、結局のトコロ『既存の科学からフリー』
な考え方にしか行き着けぬ、残念な存在になってしまうような気もする。

どこかで不信感を断ち切らないと、どこまでも信じられなくなっていく。
「信用したくてもできない」というレッテルを、ときたま見直しとこう。

信頼感は、どこかで断ち切られるかもしれないが、慣れれば繋ぎ直せる。
破壊より補修する方が早く進むならば、大袈裟に心配する必要ないよね。

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2011.12.12

自称逸般塵の不通の日記(322) サタデー月食ナイト朝生フィーバー

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土曜の深夜の月食は自宅に戻って区内の公園で近所の友達と落ち合った。
三輪車の荷台に一眼レフと反射式の望遠レンズと三脚を積み漕ぎ出せば、
町中の人々が路上や庭やベランダから天を見上げる奇妙な光景に出会う。

帰りが予定より遅れたので現地に到着した頃には皆既食に入っていたが、
皆既収量までには地球大気の影により真っ赤に染まる月を撮影できたし、
その後の部分食の経過も少しばかり追跡し、おおむね満足して友人宅へ。

なにせ彼と会って喋る機会は久々だので、とにかくハナシをしたかった。

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2011.12.11

自称逸般塵の不通の日記(321) 冬の田圃の散歩道

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途上国への長期赴任が迫る友達を誘って母を伴い実家周辺を散歩した土曜日。
その人は年上だけど市街地に生まれ育ったというので案内したのは昔の実家。
そこは農村の中の集落の端にあって3方が1kmあまり田圃ばかりの景色が続く。

この畦を踏み締めるのも水路を見下ろすのも一面の冬枯れの田を見渡すのも、
実家が十数年前に別の住宅街へと移転して以来もしかしたら初かもしれない。

ここに暮らしていた頃から既に一人での散歩を好んでやっていた。特に冬場。
一人で本を読んだりモノゴトを観察したり考えたりするのが好きだった過去。
今でも主に一人で仕事をして生活をしていて特に違和感もなく暮らしている。

母と友達は、それぞれの家庭環境についての話題で盛り上がっている様子だ。
近く日本を離れる予定の友達は日本の田舎の家族を覚えていてくれるだろう。

しょせん一人なので大したコトができるとは思っていないけれども、誰かを
勇気づけたり、背中を押したりして、ヨノナカに送り出すのは、きっと得意。
どうやら、そんな性質が、家族に共通しているんではないかと思ってみたり。

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2011.12.10

自称逸般塵の不通の日記(320) 忘年会の時季に思う

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先日、もとの職場の後輩から忘年会に誘われて行ってきた。
同業者や取引先を中心としたメンバー、総勢30名くらいで、
当時の仕事仲間も多く、しかも場所は、当時のオフィスの
すぐ近くだったので、まるで同窓会のような状況になった。

10年近く前のコト。あの頃の仕事場では、衝突も多かった。
ときに怒鳴り合うような場面もあって、若かったなと思う。
当時の同僚の一部は合併された先の会社で今も働いてるが、
その他はほとんどバラバラの職場だし自営業も少なからず、
それでもこうやって集まると、思い出話が尽きぬあたりは、
やはり“喧嘩するくらい”の親密さがあったというコトだ。

そんな会社だもんで、組織としての問題点も多々あったし、
経営そのものも決して安定していたとはいえなかったけど、
少なくとも、その今なき会社の記憶は、皆が共有している。

ああそうか、あの法人組織の法事みたいなもんだったのか。

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2011.12.09

意味がないワケでもないらしい、と思っておく

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自分が正しいと信じているモノゴトがヨノナカに普遍的に受け入れられないはずがない、
的な認識を持つ人物は天才肌というか芸術・学究方面に多いような気がするワケだけど、
それはヒトが社会を構成するようになってようやく可能になったコトでもあるだろうね。
むしろ「一つのコトしかできない(けどそれに長けた)人物であっても生きていける環境」
が実現するほどまで成熟した社会を作り上げた人類はそれなりに凄いのだと思うワケで。

都会の片隅に独居する自由業の身では、その方面で社会に恩恵を感じるコトなどないが。

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2011.12.08

自称逸般塵の不通の日記(319) 仕事をしない日の例

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日々わりと仕事家事買出散歩睡眠そしてたまに飲み、
そんな人生でも新しい出会いなどがあって飽きない。

学んだコトが身につくまでには思考や経験が必要で
長く掛かるから他人に迷惑をかける場面もあるけど、
少なくとも学ばないよりマシだろうとは思っている。

そもそも飽きっぽい性格だから学ぶ過程においては
一つのコトを長く考え続けるというより周辺の事柄
を巡り巡って全体的な様子を捉えていかねばならず、
その点からも時間がかかってしまうのは致し方ない。

とはいえ多面的な考え方は身に付きつつあると思う。
一つの論点を子細に掘り下げる議論には相変わらず
参加さえ困難だが、幅広い議論の概観ならできそう。

なので最近は、ツイッターなどで多くの人の議論を
ざっと眺めて考えていく時間も、少し取ったりする。

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2011.12.07

自称逸般塵の不通の日記(318) 蒼鉛を観賞し

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その前の土曜日は、友人と一緒にモノ作り系のイベントを見物してきた。
まぁ今なにかを作ってるワケではなくて、ちょっとした勉強のつもりで
行ってみただけなんだけれど、その熱意とか着眼点などは参考になった。

イベントに品物を出している多くの人は、それを生業にしているのでは
なくて(もしかしたら今後の生業にするかもしれないが少なくとも今は)、
かなり純粋に作るコトや作ったモノを楽しんでいる、というのが実感覚。

それはそれで楽しいし、別に生業があって生活を維持できるならいいか。

ふむ。

モノを書く仕事をしている別の友人は「いい仕事したい」と呟いていた。
モノを書くにしろ作るにしろ充足感のある仕事ができればいいなと思う。

自分自身からも納得でき、他者からも評価を受けて、そして収入になる、
そんな仕事を続けられたらいいんだけど、なかなか難しいのがヨノナカ。

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2011.12.06

自称逸般塵の不通の日記(317) 日曜昼下がりの散歩

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日曜は実家にいて、小学生の甥と、母と一緒に少し散歩した。

甥は、乗っていた自転車のブレーキの仕組みを質問してきた。
「このレバーを引くと、ワイヤが引っ張られて、この部品が
こう動いて、タイヤに押しつけられて、それで止まるんだよ」
分かったような分からないような顔をしていたが、まあいい。

サッカーボールの蹴り方は、お世辞にも上手とは言えないな。
全身で蹴ろうとしているが狙った方へ行かないし、飛ばない。
少し遠くに蹴り返したら、走るのを諦めて歩いて取りに行く。
そうこうするウチに疲れたといってベンチに腰掛けてしまう。
「おいちゃん、まだ汗も出てないんだけど」「だって疲れた」

帰り、田圃の中を一直線に走る道路の歩道から畦に踏み込む。
「こっち、行けるの」「向こう見てみなよ、道に戻れるから」
そう言うと甥はついてきた。行ってダメなら戻ればいいんだ、
とは考えず、ダメだったらやだから行かない、なのだろうな。

畦にナズナが生えていた。「なんて名前」「婆に聞いてみな」
母は即座にペンペン草と応えた。同じモノゴトに複数の名を
つけるのは、それくらい親しまれているというコトでもある。

住宅街に入って“顔”を撮り歩いていたら甥も興味を示した。
「ここにもあったよ!」「これも顔!」「あっちにもある!」

コイツの将来像が、なんとなく脳裏に浮かんだ気がしてきた。

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2011.12.05

路傍の草とて道を知る術にはなる

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自分一人で何もかも遣って除けようなんて思わない。
ていうか、ヒトの能力や一生の時間を考えれば無理。
たかだか自分自身のコトでさえも、他人の手を借り
力を借り、それでどうにか衣食住を賄っているのだ。

一人の分を上回るような大きなモノゴトをするなら、
皆それぞれに手伝ってもらうしか実現しようがない。

だけど他人の言うコトなんて聞きゃしないのもヒト。
権限や権威、正義や大義、そんなのもアテにならん。
押してダメなら引いてみよう、味方に引き入れよう。
といって騙して勧誘したって後が宜しくないだろう。

せいぜいできるのは、示唆して考えてもらうくらい。
自分で考えて出した結論には誰だって従うだろうと。

ただしその方法だって不完全。多数のヒトの思考を、
一人のアタマで考えた通りに御せるはずもなかろう。
だから「だいたいこんな方向」ってのを示せる程度。
それで割と、皆バラバラに、結果として補い合って、
むしろそれなりの広さで網羅してくれたりするかも。

むろんヒトなので完全とはいえず、どこかしら穴が
空いたりムラができてしまったりするコトもあろう、
そうなったらそうなったで、誰か別の人が気付いて
同じように人をう促して埋めてくれたりしないかな。

完璧だとか完璧になれるとは到底思えないからこそ、
不完全ながら完全を目指す道筋を示唆できればいい。

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2011.12.04

混ざり合う彩り

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ヨノナカが優等生臭くて面白くないって感覚はある。
どれもこれも無難でソツなくって、そして味気ない。
たまに少し外れたのもあったりするけれど、それは
しばしば蓋を開ければイマイチのデキだったりする。

要するに、気が狂うくらいの偏執狂が企業を動かし
作り込んだような商品は滅多にないよ、というワケ。
ただ全ての商品がそうであっても選択が面倒なので、
悩まずに買える優等生的商品の存在も必要だと思う。

どっちかだけのヨノナカなんて、やっぱりないよな。
「望んでも無理」「あっても続かぬ」両方の意味で。

人間だってそんなもんだよね。だって人間だもんで。

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2011.12.03

たまには時事ネタ(80) 元勲は取扱注意

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一世紀半ほど前の歴史的事象の名を冠した地域政党とその長については、
その掲げている政策によって不利益を被る相手に頭を下げまくってでも、
今後どんどん迅速かつ軋轢少なく改革を進めていくのが皆の為であろう。
そうして功成り名遂げて早々に身を引き、後進に道を譲るのが望ましい。

なんとなれば、どうせ目的の半分を達したあたりから急速に彼ら自身が
今まさに攻撃の矛先を向けている“既得権益”と化していくはずだから。

そして、いったん退いた後には、もう二度と戻って来ない方が良かろう。
もし間違って返り咲いたりするようなら、そこから先は残念な茶番劇が、
誰にとっても嬉しくない幕切れの悲喜劇が、かなりの確率で待っている。
成功体験を持った人物あるいは集団ほど、悲惨な失敗をしでかすのでね。
それより、新たな変化をもたらす人物が活躍できる場を作ろうよ、とも。

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2011.12.02

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(83) 『敵は自己保全本能の内側にありやなしや』

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決断や変化を促す側の覚悟、それは誰が相手でも原則として同じコト。
誰でも、というのは例によって自分自身を除外するワケではないから、
自ら唱えている主義や主張について、自分すなわち“たかが一人”を
変えずに貫き通せる程度なのどうか、常に考えておかないといけない。

自分の人生の中において自身は主役、それは言うまでもないコトだが、
他人の人生においてはどうだろう、どうみたって確実に脇役か端役だ。
他人との対話は、自分の全権代表として、他人の人生に出演するコト。

対話の際は語るコトは少なくして相手に考える材料と時間を提供する。
誰だって他人の論より自分が考えて出した結論の方が効き目は高いし、
そもそも人によっては他人の意見など聞き入れないものであるからに。

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2011.12.01

聞かねば語れぬ

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おしなべて人間とは、そんなに迂闊でもなく、モノゴトを
理解できないというワケでもなくて、実際にはそれなりに、
やればできる子だったりする、というのもまた事実らしい。

だから押しつけがましい言動や相手を軽んじた態度などは、
それこそ聞き手に失礼なコトなのではないかと考えている。

たとえ小さな子供であっても、しっかり事情を飲み込めば、
それなりの覚悟を示して決断するコトはできるものと思う。
(ただし、決断を促す大人の側の覚悟も求められるだろう)

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