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2012年1月

2012.01.31

天井や壁に張り付いていれば見上げていても上から目線に思えてしまう?

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友人や知人と会話していると、たまに偉く持ち上げられたりするコトが。
「やればできる人」とか思われていたりするのかもしれないという感覚。

だが、もしそれが割と正しい、実態を突いたような指摘だったとしても、
「やれば」の部分が、なかなかできていないってのが本人の率直な感覚。

それより周囲の人たちの方が、よほどできるんじゃないかと思うコトも。

当人が上から目線だと、他人もそうだと思いがちなのかもしれんけれど、
逆に当人自身が未熟であると思い知っているならば、他人は凄く見える。

いろいろな人たちの、好き嫌いだとか考え方とか興味や趣味に主義主張、
そしてそれぞれの個体が集まり集団となったときの活動など知るにつけ、
「ヒトというのは、このくらいのコトはする場合があるんだな」と理解。

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2012.01.30

道を知るべきコトバ(46) だいたい行きたいトコロに行ければ道

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そんな感じでやってきたので、どうしても興が乗るまで
なかなか動き出さないという点、相変わらず課題である。

もちろんソコを無理に直そうとするなんてコトはしない、
あくまでも自然に直ってくるのを促しつつ待つのが基本。

ただそればかりでは怠け者体質が直るまで一生を費やし
かねないとの懸念もあって、実際そういう指摘も受ける。

まあそれはそれで必要に応じてやるしかない、たとえば
いろいろやっているウチにのっぴきならぬ状況に陥って
仕方なく自らを追い込んでしまう場面も、少なくないし。

それこそダラダラしてて納期が迫ってしまった仕事とか、
気付いたら年度末が迫って追い込まれる確定申告だとか。
(要するに今まさにそんな状況に入りかけているのだが)

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2012.01.29

半生紀(31) 現在に繋がる過去のいくつか

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1)
それなりに数多くの喧嘩をしていた少年時代を思い出す。
喧嘩の発端だとか理由なんぞの大半は忘れてしまったし、
そもそもどれほどの頻度で喧嘩していたのかも曖昧だが、
ガキの頃、些細なコトで腹を立てていたのは事実らしい。

甥たちの喧嘩などを見ていると、きっと過去こんな感じ
だったのだろうと思うし、その彼らを「喧嘩両成敗」と
毅然とした態度で叱れるように、磨きを掛けたいものだ。

これから先も、どうせいくらでも喧嘩を目にする機会が
あるだろうし、ときには自分自身が喧嘩に巻き込まれる
コトもあるだろうから、このあたりの向上は欠かせない。

2)
大学時代の学外サークルでは、バカやってイキがってた、
というか専攻などお構いなしに学生同士で議論を交わし、
分野によって思考や論理立ての作法が違うコトに適応し、
互いに伝えたり伝えられたり、一緒に考えたりしてきた。

社会に出てみれば、同じ分野だけでハナシをしてなくて
良かったと思える機会が少なからずあって安心する一方、
もっといろいろな分野のハナシを聞きたいと思うに至る。

考え方が違うからこそハナシを聞いて面白いものである、
というコトに気付けたのが最大の収穫だったと言えよう、
その楽しみを他の人にも伝えていけたらいいなとも思う。

3)
自然体で自然体になりたいとかそういう感覚も常にある。
ずっと昔から頑張るとか努力するだとか無理をするとか
そいった感覚が大の苦手で、要するにワガママなんだが、
好きなコトなら長く続けられるというのも分かってきた。

興味が狭いであるなら何事か突き詰めたかもしれないが、
これが不思議なトコロだけど幅はどんどん広がっていき、
気付けば「好きなコト」とは手当たり次第となるまでに。

当人が何かを我慢し努力して何かを身に付けていくとか、
被保護者の好き嫌いを無理に矯正したりするのも一手と
思うけれども、そうでなくても自然に直る例もあるよね。

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2012.01.28

他人のハナシを聞いて戻ってくれば自分の軸がそこにある

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なお昨日の記事のタイトルを文字通りに理解すると危険だ。
人の話を聞くフリをして後で持論を押しつけるというのは、
ちょっと間違えば問答をふっかけているコトにもなるので。

自分自身そうなっていないという自信はないのだけれども、
せめて避けるには、やはり個々人の判断に委ねるべし、と
なって数日前に書いたトコに戻ってくるというループ構造。

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2012.01.27

他人にハナシを聞かせたいなら先ずハナシを聞くといいよ

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大事なコトなら猶更、周囲の意見も容れて検討したいもの。

個人ないし家族や地域など個人集団について考えるならば、
最終的な決断および伴う責任は当人たちに帰属するとして、
それゆえにこそ周囲は当人の判断を尊重するのが望ましい。

ある程度以上の規模の集団、つまり国全体といった範囲の
問題となれば、それこそ全員が当事者であるのだからして、
各自が他者の判断を尊重していかねばハナシとて進むまい。

完璧であるべき、ありたい、という意識は尊重するつもり
ではあるけど、その足許が見えていないならハナシは別だ。
誰もついて来られないような理想は孤立するばかりだから。

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2012.01.26

他人の言うコトを聞く必要はないが他人の話は聞くもんだ

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人を育てるというのは、決して親だけの特権ではあるまい。
むしろ同時代の他の人々や、さらには時代の空気といった
環境からの影響が大きな要素を占めるのではないだろうか。

駄目親は子を駄目にするというが、反面教師にして立派な
人物が育つ場合もあるだろうし、逆に親のコミットだとか
責任感が強すぎて子供が駄目に、といったケースもあろう。

考えてみたら、親が自信を持っていないケースが多いかも。
「子供のために○○しない親はダメ親」という同調圧力も
(「塾に通わせる」とか「放射能対策」等いろいろあるが)
親集団の中の声の大きい人物だとか親の親だとかそういう
「親身になってくれるはずと思える人物」からは強かろう。
だけど、その助言の内容がモノやサービスを利用するだけ
というのであれば、それは果たして本当にタメになるのか。

あるいは子供を他人に委ねるコトへの恐怖感もあるのかも。
先日、育児経験のある友人が、こんな風に説明してくれた。
「昔とは違い今の大人たちは、それなりの学歴を持つ人が
増えているので教師を莫迦にする傾向があるのではないか。
そして無意識に教師を莫迦にする姿を子供に見せてしまう。
まがりなりにも教師は教育を専門としているのだけど……」

信用されていない、任されていない、そんな実感を抱けば
誰だって思い切った取り組みなどできようもないだろうし、
どうしたって責任を負わされぬよう腐心するのが最優先と
なってしまいがちなもので、結果として本業が疎かになる。
民衆の政治不信官僚不信が社会の混乱を助長するのも同様。
あるいは不祥事を起こした企業においても似たようなもの。
その先は不信感のデフレスパイラル、何処まで続くものか。

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2012.01.25

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(88) 情けは他人の為であるかどうかは、やってみなけりゃ分からない

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「話せば分かる」は違うと思うけれど「話さないと分からない」とは思う。

理屈っぽい人は怒りのポイントが分かりづらい傾向があるような気がする。
感情を論理で覆い隠すのが上手すぎてストレートに伝わらないのだろうか。
だからこそ時間を費やし言葉を尽くして遣り取りをする必要があると思う。

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2012.01.24

道を知るべきコトバ(45) その道は誰かにとって何時か来た道

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他人への口出しは、わりと自分にも返ってくるものと思っておいた方がいい。

まあ実際、自分自身「過去にやらかしてしまった失敗」が少なからずあって
それを反省し、できるだけやらないように心掛けたりしているのだけれども、
試みてみれば何というコトはない、初期の感情さえ受け流せば後は楽だった。

最初に早計な判断に基づいて他人に口出しをしないと決めて、観察を続ける
ようにしていたら、しばらく見ていると観察対象の真意が見え隠れしてきて、
「これは言い方が良くないだけ」とか「最初の誤解を引き摺っている」とか、
「やはり突入して泥沼に嵌る人がいた」といった判断が出てくるようになる。

なるほど、みんな同じようなトコロで躓いてトラブルを生じている気がする。

そんな行為を諫める言葉を探せば古今東西いくらでもあるという気がすれど、
それくらい言われるほどには、皆が通る道なのではないかとも思ったりする。

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2012.01.23

波風立てば光と影が乱舞する

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喧嘩が百害あって一利もないような行動であるとは、しかし思わぬ。
たとえば喧嘩の発端となり喧嘩の拡大に大きな役割を果たす怒りの
感情などは、むしろ余計な理屈なんぞ抜きにして純粋に取り扱って、
自ら真摯に向き合うようにすると、なかなか得るコトがあるものだ。

子供たちの喧嘩などでは(ときには大人たちの喧嘩でも)、それこそ
「仲良くしたいのに相手の反応が自分の期待とは違っていて怒りを
露わにしたら相手も反発してきてエスカレートしてしまった」的な
経緯を辿っていったりするケースも少なからずあるが、喧嘩により
本音をぶつけ合った後で、しばし間を置き冷静になった頃に互いの
言い分を消化していったり、自らの行動にも反省すべき点があると
気付くなどして、自分自身および喧嘩相手、ひいては人間そのもの
について大きな経験が得られる、なんてコトが、結構あったりする。

いったん怒って、それが収まってきた頃の、あたかも熱処理の如き
心理的効果が、人間の精神を強くする、といったトコロであろうか。
こんなコトを書いている、怒りを忘れかけた中年はともかくとして、
未だ青年の如き熱き心を忘れぬ人たちにとって成長の機会になろう。

同じく危機感を抱いた者たち同士で、微妙に方向性が違うコトから
衝突して喧嘩に発展してしまうといったケースも、少なからずある。
その原因の根本は課題設定を共有し損ねたコトにあるはずだけれど、
何故か危機感そのものを共有できていないと認識してしまいがちで、
そこに気付きやすいのが衝突後の後始末を一緒に行うコトだったり。

そもそも喧嘩が始まる前に止めるのは困難。なんといっても兆候を
察するには情報収集の網を張り巡らせ気を張り詰めさせるコトだし、
事後処理を通じたフォローの効果の大きさは経験上よく知っている、
おまけにそれが性に合っている。といった理由から、そうしている。

当事者および第三者への被害が拡大しないよう火消しに努めながら、
その後の安定化に繋がるルートを探り、ある程度まで軟着陸させた
あたり(完全復旧の状態ではなく)で撤退し、あとは当事者に委ねる。

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2012.01.22

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(87) そのはしわたるなら真ん中あたりを歩こうよ

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気にくわない人物や物事に接したときには、皆どうしているのかな。
個人的には、たまに腹が立つコトもあるが実は割と静観していたり。

たいがい日本人てのは口では数多くの文句を言ったりもするけれど、
いざ決断するときには現実的な判断を下したりするのではないかな
(もちろん理想論も見据えつつだが)、と、そこそこ楽観視している。

不平不満不安を抱いている人ほど口数が多いという傾向からみても、
残る大半は多くを語らぶものの現実的な考えを持っているのだとか、
まあ一人の人物の中でも複数の異なる意見が混在しているワケだし、
言動と行動が一致しなかったりするコトもあるよね、とかいう考え。

ごくまれに蓄積した誤解だとか鬱積した不平不満不安とが理想論に
結びつき「かくなる上は」とばかり暴走してしまうケースもあるが、
少なくとも目下当面のトコロは、直ちに危険という程度でもなくて、
むしろ課題や問題認識の共有を進めながらも異論反論を戦わせつつ、
互いに落とし処を探ろうとしていく試みが(少しずつではあろうが)
拡大してきており、過激な意見は徐々に減ってきているように思う。
さしずめ雨降って地固まる的な、そんな大まかな流れを眺めている。

素晴らしい理想を掲げるコトと、厳しい現状を認識するコトを両立
させるのは決して不可能ではなく、現実を踏まえつつ理想へ向かう
道筋を探るのは有意義なコトだ(という理想を掲げている)けれども、
得てして実際の議論の場では理想論者と現実論者との間で妙な溝が
できてしまったりするのもまたヒトの社会の落とし穴であり、その
溝から不測の事態が発生しないとは決して言い切れないワケだけど、
不和が拡大せぬよう抑制する力もまた論戦の中で培われてきていて、
このままの傾向で推移していけば、危ういながら何とか乗り切れる、
というくらいの展開をしていくのではないかな、などと考える次第。

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2012.01.21

必ずしも顔を突き合わせているワケではないが隣人と思えば喧嘩もしづらくなる

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コミュニケーションに齟齬が生じているような場面に第三者として口出しを
してしまうコトが、たまにある。いや、結構ちょくちょくやっている、かも。

そいえば中学生くらいの頃だったか、二頭の飼い犬を連れて散歩していたら
途中で喧嘩をし始めて互いに噛み合うまでに発展してしまったコトがあった。
実家は田舎、というか農村。飼い犬は貰ってきた雑種で去勢も行っていない
雄犬同士、喧嘩を始めると激しい。散歩の現場は集落の東に広がる田圃の中。
思い切って両方の口に手を突っ込んで引き離した。当然、手は血まみれだが、
離した後に思い切り叱りつけてその場を収めて、引き摺るように連れ帰った。

中学の頃あたりまでは自分から喧嘩をしていた方だったが、高校あたりから、
どちらかといえば仲裁する側に回る場面が増えていったように記憶している。
(とはいえ、会社に入ってからも上司と喧嘩をしていたコトはあるのだけど)

そして社会人になってからは“犬も食わぬ”喧嘩に口出ししたコトも何度か。
インターネット時代になってからは掲示板の上での喧嘩などにも口を出した。

実家にて甥たちが兄弟喧嘩をするような場面に出くわしたなら両方を叱って
「喧嘩両成敗」、両者に反省を促して、叱った本人も後でコッソリ自己批判。

こんな傾向は、今もなお続いているというか、まあそういう性質なのだろう。

こういう考え方は、たぶん子供の頃に親や兄たちそして周囲の大人たちから
実地で見習ったのだと思う。そしてそれは当時の大人たちも、きっと同様だ。
そう仕付けるコトがオトナになったとき最も紛争回避に役立つというコトを、
社会は経験として蓄積し、ある程度の人的厚みがあれば伝わっていくと思う。

個人的には、怒るという精神活動さえも面倒臭くてハードル高いと思うけど、
怒らぬも個人の勝手なら怒るのも勝手。ただ他人の怒りの矛先が向けられた
(と感じた)人からしてみれば他人の勝手を全て受け入れる義理もないワケで、
怒りが反射してきてしまいがちではある。といってそれをまた返してやると、
また返ってくる。こだまでしょうか。いいえ、にんげんだもの、当然だよね。

そこから先は、もう泥沼に突入してしまい、互いにダメージを受けるばかり。
だから第三者が(しばしばとばっちりを受け止むなくであったりもするけど)、
割って入ったりするのも、きっと互いの為になるのではないかと思うのだな。
もちろん何から何まで口出しをしたいのではなく、そうしたいと思ったとき、
そして能力や時間などの面で対応できると考えられるとき、だけだけれども。

むしろ当事者どうしで気付いて自発的に手を止め、次に生かしてもらいたい、
そんな考えもあって、他人に期待しつつ、自分では手を抜くようにしている。

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2012.01.20

風当たりが冷たいなら窓を閉めて、身体が温まってから出掛けよう

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撤退する勇気、あるいは「敵前逃亡という誹りを恐れぬ勇気」を奮うコトは、
ヒトにとってなかなか難しいのだろうとは思うのだが、大切なコトでもある。
距離を置い(相手と接触する時間距離を確保し)て、その間に体制を立て直し、
気持ちを切り替え、新たな作戦を練って、失地の回復を試みるコトができる。
武力での戦いの場ではもちろん、言論による戦いの場でも、似たようなもの。
ましてや戦場であれば追撃を躱すのも命懸けではあるが言論はそれより安全。

人間てのは基本的に変化していくもの。自ら考えて心境や行動を変化させる
コトができる存在ではあるのだが、とはいえ、外から期待されるほど迅速に
変わるコトは滅多にない、というか、どうしても時間を要してしまうものだ。

しかも、他者が変化するコトに対して人間が抱く期待感というのは、どうも
ヒトが一般的に持っている「変化する能力」よりずっと高いのが通例であり、
他者に対しては、しばしば妙に性急すぎる変化を期待してしまうものだから。

だもんで追撃の手というのは当人にとって厳しいものになってしまいがちで、
追う側もまた深追いしすぎ「手負いの獣」の如き手痛い反撃を受けたりする。
足を止めて倒れるまで撃ち合うのも、どちらにも勧められない結末になろう。

とかくヒトは直接攻撃ばかり考えてしまう傾向が強いけど、むしろ現実には
小競り合いに留めて適度な距離を維持しつつ相互に共存の道を探っていった
方がずっと望ましい、という具合に、常日頃から考えるようにしている昨今。

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2012.01.19

跳ね返してばかりではソコが見えない

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苦労話を聞かされたとして他人がどう反応するか、てのもあるよな。
人によっては他人の苦労話なんて面倒臭いとしか思わないだろうし、
逆にゴシップ的な感覚で聞きたがる人もいるかもしれん、あるいは
ひょっとしたら親身になって苦労話に寄り添ってくれるかもしれん。

だいたい親しくなってくれば他人事でなくなってきてゴシップ的な
扱いを受けるコトも少なくなるので、そういう関係を築き上げたと
確信を持てるようになるくらいまでは身の上話も出てこないもんだ。

まあ逆にいえば、そのくらい理解が深まった上での苦労話となれば、
自身の失敗も含めて相手と共有していけるのだろうとも思うけれど、
少なくとも、いきなり愚痴って共感を得られる可能性は低いワケで。

それと同様に、いきなり怒りの言葉をぶつけたりするなんてコトを
したって、たいがい相手に跳ね返ってくるだけでしかないのだけど、
案外そういうコトをしてしまいがちな人は、やっぱり多いんだよな。

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2012.01.18

問われ語りの功罪

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だもんで苦労したとか頑張ったとか、そういった過去の話題を自ら
積極的に持ち出したがらない感覚も、裏付けられるような気がする。

苦労を語れば「御涙頂戴」「御情頂戴」「ボク苦しいから助けてよ」
といった甘えとして捉えられかねないし、さりとて秘密にしている
ワケではなく親しくなっていく過程で過去についての話題が出れば
さほど隠すコトなく答えるから、相手に「知れば知るほど奥が深い」
という印象を自然に与えられるワケで、いささか狡猾な態度である。

そういう印象操作を意図的に狙っているワケではないのだけれども、
そういう印象操作を行っている人物だと思われたいワケでもなくて、
ただ最初から語るのは面倒だからやらないよ、という手抜きを装う。

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2012.01.17

結果で物語ろうとするならばこそ今と将来を大切にすべき

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有言実行でなく実行無言な気がする、というかそうありたいらしい。
特にネット上はプロフィールに「我は○○也」と記しているような
人物が目立つように思えるので、「実態を見て勝手に考えてね」と
ばかりに、ほとんどアテにならない自己紹介を書いてしまう天邪鬼。

まあ実際、人の考えは変わるものだし、やるコトも変わっていくし、
今どのあたりにいるかを小まめにチェックして書いておくのも面倒、
あるいは願望が多分に含まれたような自己評価を記すも恥ずかしい、
そんな感覚だから殊更に飾り立てるような表現を避けたいのだろう。

ただし、その感覚は卑怯な意図に基づくものであるとも言えそうだ。
要するに周囲に「言うだけの人」なんて印象を持たれたくないのだ。
やってできたコトだけを言うなら実行力のある人物と思わせられる。
もちろん実直さは美徳だと思っているけれど行き過ぎは良くないな。

ガキの頃は試験成績なども悪くなかったせいか、大したアピールを
しなくても何故か妙に目立ってしまい、、むしろ控え目に行動する
くらいの方が周囲からのちょっかいを受けずに済んだのだろうとか、
あるいは何か発言したらサボるコトもできなくて面倒を被るだとか、
行動するより全体を見渡し口を出す方が性に合うなんて理由もあり、
いろいろと今になってみれば思い当たる節もあるのが、それはそれ。

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2012.01.16

このクニのカタチ 昔様、今様、現代様のミナサマ

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歴史ドラマの用語について問題視する声があったりしたようだが、
個人的にはドラマの中で歌われていた「今様」の歌が気になった。
平安の今様なんぞ詳しくないが現代人の手による曲に思えたのだ。

歴史モノの作品の時代考証では、当時の風俗に関する学術的考察
はもちろん、観賞する現代人に伝わるかどうかという問題もある。
言語の地盤は常に変動し続け音楽的な感性もまた移り変わるもの、
どこまでリアルに描き、どこまで現代人に通じる作りにするのか、
その兼ね合いというのは制作する側にとって非常に難しいだろう。

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さてさて。いい加減、前振りが長くなりすぎたので本題に移ろう。

ネットの世界に跋扈する「ネトウヨ」は明治から昭和初期までの
いわゆる“戦前の常識”で歴史を認識し、それ以前の社会常識を
あまり知らずにいるのではないか、との指摘をしていた人がいる。

ヒトビトの生活風俗だって時代につれ地域によって大きく異なる。
それこそ言語なんぞにしたって、どんどんと変化しているもので、
10年前20年前ならまだしも50年一世紀前となると大きく変わった。
さらに遡ってそこから50年一世紀前となればまた全然違うワケで。

たとえば「正かな遣い」などを妙に尊重する人もいるようだけど、
それはまさに西洋文明を取り入れ明治時代人が練り上げた発明品、
しかも学校という近代のシステムを通じて全国に普及したものだ。

もっと前の時代であれば地域ごとの方言もさることながら身分に
由来する言葉遣いの違いも大きなものだったはずだし、漢字遣い
さえも画一されず、近現代の感覚でいえば当て字かと思えるほど。

生活スタイルも違うのは言うまでもないが、人間や経済や宗教に
対する意識だって少し遡れば全然違ったものとなっていて当然で、
しかもそれを現代人がどこまで把握できているか、という問題も。

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2012.01.15

続けられるコトは幸いなるかな

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ブログや仕事の文章はPCで書かないといけないが、
ペンを持って紙に向かって書き付けるのも好きで、
いつも持ち歩く手帳にはいろいろな筆記具による
色とりどりの文字が少しずつ書き連ねられている。

本を読んでいて気になった一節から広がった連想、
外出中の些細なデキゴトとそこから連ねた考え方、
ニュースに触れて気付く別の知識との意外な関連、
それからヨノナカのヒトビトの発言に思ったコト。

そういうのを書き溜めた文字を後になって見返し、
ときたま掘り起こしてブログのネタにしたりする。
というより、こういうネタを蓄えているおかげで
毎日こうして書き続けていられるのだと思うけど。

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2012.01.14

年が変わっても歩き続ける

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状況を変えるのは短期間でもできるコトがあるが、
自らを変えていくのは実に地道な取り組みであり、
ついつい一方だけ考えてしまいがちなのが人間で。
前者は一発屋で後者は堅実派と呼ばれがちだけど、
どちらの側面も持ってないとヨノナカ難しくない?

自分が駄目であり周囲から期待されている役割を
担うに足りない存在ではないかと不安に思えても、
ひょっとしたらそれは甘えの可能性はないのかな?

起死回生の一発逆転を要求されるような場面など、
平均的な一生でみれば何度もあるとは言えないし、
むしろ日常の生活において学んだり反省をしたり、
他山の石を拾ってきたりといった機会は幾らでも。
そういう地道さに立ち向かう勇気は持ってるかい?

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2012.01.13

自称逸般塵の不通の日記(327) 怠け者というのとは、少し違う気がしてきた

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仕事の追い込みを抜けて夕食を作る気にならず近所の牛丼屋で定食を食ってきた。
コートを羽織って出たら昨夜一昨夜より空気がヌルくて余計だったと実感したり。

実は少しばかりの見落としがあって土日どちらか作業をするコトになったものの
ひとまず仕事は一段落したので次の仕事について考えつつ少しばかり充電したい。

ちょっとばかり散歩かサイクリングかドライブをして写真を撮って、読書をして、
あとは何か少しばかり手で文章を書いたりして、食って風呂浴びて寝て起きたい。

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2012.01.12

自称逸般塵の不通の日記(326) 仕事の進捗が行き詰まりかけたときには悩んだりもする

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ヨノナカには腑に落ちなくても進まねばならぬ
状況てのが往々にしてあるもので、

腑に落ちないと進めないコトの多い性格だから
腑に落ちないトコロがあれば回避して先に進む
ようには心掛けているのだけれど、

にしても腑に落ちない場面が多すぎて困惑して
しまいがちなのが困ったトコロだ。

しかし仕事が待ってくれるワケもなく、少しは
無理をして進めねばならぬ場面も。

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2012.01.11

道を知るべきコトバ(44) 足許の危うい道を歩くには

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面倒な話題が続いたので、身体の使い方でもしよう。

基本的に関節は限界まで曲げたり伸ばしたりしない。
やるとしてもストレッチの際だけ、というくらいだ。

しかも大股で歩いたり階段を一段飛ばしで下りたり
するけど足裏を接地させる際にはきちんと爪先から。

これが、なかなか柔軟性と筋力と器用さを要求する。
のだけれどもコントロールが行き届いている限りは、
関節や筋などの不用意なダメージは概ね避けられる。

おそらくもっと慣れれば器用さだけでできるだろう。

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2012.01.10

老爺心は余計なお世話かもしれないとは常に意識しているつもり

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「自分自身で考える」ってのを一個体の問題だと思ってしまうと不都合が生じる。
皆がそれぞれの考えを出し合って集団としての意見を形成していく活動でないと。
そういう活動のためには、まず自分と同程度に相手を尊重する必要があるだろう。

たいてい誰だって自尊心というのがあるし、大切にしているモノゴトもあるけど、
それらがどのような内容で、どのような優先順位になっているかは人それぞれだ。

自分の中の優先順位だって、なかなか明確にしづらいトコロがあるのも事実だが、
それはたいがい多くの人物も同様なのだから、対話の中で引き出したりしていく
必要があるワケだし、えてして注意深く観察する他者の方が鋭く察したりもする。

もちろん人により不用意に触れると危険な部位もあったりするから、接触初期の
対話の舵取りには神経を使うものの、そういう危険な時期を乗り越えられるなら
一致する部分や相違する部分を細かく掘り下げつつ相互理解を深めていけるはず。

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2012.01.09

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(86) その身の振り方に知恵が回ってるかね?

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全てに全力を尽くそうとする姿勢の人物がいて、見上げた根性だと思う一方、
何もかも手を出し口を出すとしたら、重点を見失ったりはしないだろうかと
心配してしまうのは、きっと怠け者の感想に過ぎないか、あるいは老爺心か。

逆に考えてみよう、各自が自分自身の能力を生かして必要と思われる役割を
果たすべく最大限に努力するとしたら、むしろそれぞれが自分自身の役割に
専念でき、齟齬やヌケがない限りは全体として大きな効果が出ると思うのだ。

ここで問題となるのは、その条件、「齟齬やヌケ」という部分にあるだろう。
社会に大きな問題が生じていないように見えるときには、つまり“たまたま”
大きな自然災害や経済不安、紛争戦争などがなく平和が続いている場合には、
この齟齬だのヌケだのは、多くの人たちにとって認識の範疇外つまり想定外。

そして社会不安が顕在化した途端に、想定外だったコトに気付いて慌て焦る、
これまで想定してこなかっただけに齟齬やヌケに対して的確な評価ができず、
これまでの経緯どころか全体の中での位置付けさえも考慮することができず、
システム不備が原因と思われるトコロも多いにも関わらず個人や組織を攻撃。

そういうのを多くの人たちが一斉にやったら、そりゃ社会システムも停滞だ。
まあ要するにそんな素朴な感覚の津波のようなのがまさに社会を襲っている。

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2012.01.08

役に立つか苦言かどうかは受け手次第(85) 「鰯の頭も信じん」からのハナシ

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「○○は信じられない」「もう二度と信じない」など決めつけられる人は
幸いなるかな。決めさえすれば判断に要する思考コストを削減できるから。

もちろん人により程度には差があって、「信じられない」なんて表現には、
おしなべて見ると「全部嘘」から「鵜呑みにせず逐一検証の上活用すべし」
くらい幅があるワケで、安易に使われると率直に受け取れなかったりする。

これが「信じる」「信じない」の二元論的な判断基準の中で使われている
とすれば、「疑いを残しつつ採用する」な状況を想定できず問題もあろう。
(二元論は宗教的、中間状態を認識するのは科学的とも思うがこれは余談)
要するに発言者の真意を的確に伝える表現として使うには不適切とも言え、
程度を示す修飾表現を追加してもらうなり、文脈から読み解く必要がある。

そして多くの場合、こういった「信じられない」など数々の表現を実際に
どのようなニュアンスで使っているか、といった理解を深めていくコトが、
相手の真意に迫る道筋において欠かせないと思うが、そこは機会を改めて。

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2012.01.07

ニホンのキホン・「善行なんて恥ずかしくて人には言えん」

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などと考えてみると(当人たちにとって誠に残念なコトではあるのだけれども)、
保護者や周囲の大人の過干渉に適応して育ったと考えると辻褄が合ってしまう。

あるいは子供たちだけの無秩序無法の小さな枠内で活動した経験に乏しいのか。
その中で互いに争ったり助け合ったりして自力でルールを作ったりせなんだか。

ガキの頃を振り返ってみれば、割と一人で遊んだりもしていたけれど、近所の
子供たちだけのグループで遊んでいた経験も、かなりあったのだと思い出せる。

保護者の干渉といえば、せいぜい悪戯が過ぎたとか、誰かが怪我をするなどの
実害が生じたときに叱られる程度で、あとは放置されていたように記憶してる。

そう、かなり放任されていた。たとえば喧嘩に負けたとき「コイツが悪いから
叱って」とせがんでも無駄だった。せいぜい両成敗、両方一緒に叱られただけ。

もちろん、何かを欲するような我儘だって適当にあしらわれるコトが多かった。
多少の要求は聞き入れてもらえても、家計の都合などは厳として覆せないのだ。

駄々こねるより、自分で何とかする、できなければ力不足、支援は適宜求める、
そういった感覚は、むしろ経済的に豊かでなく大家族の方が、身に付くのかも。

ハナシが逸れた。

まあともかく、悪事は後が面倒なので避けるようにすると同時に、善行もまた
(しばしば見落とされて)褒められるという結果に繋がらなかったりしたもんで、
結果として「それをしなかったときの問題のとばっちりを受けずに済んだ」と
いう具合に考えるた方が社会に適応しやすい、というふうに育ってきたようだ。

誰にも知られぬよう善意を仕込んで成功したときに味わう一人だけの楽しみを
知らないままでいるなんて人生の一部を損している、などと嘯いてみる偏屈翁。

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2012.01.06

このクニのカタチ・おてんとさまのおかげさま

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苦労や努力は報われてほしいものだし善が栄え悪は滅びると幸せかもしれんが、
そうならぬヨノナカは間違いだとか社会が悪いんだなんて思うのはどうなのか。

「努力したのに報われないから認めない社会が悪い」となればナニサマだろか。
あるいは全くの善意から「あの人があれだけ苦労していても報われないような
間違ったヨノナカを正さねばならない」とかいう感覚も、程々にしておきたい。

さすがに躾が足りぬかのような人たちの傍若無人な振舞から無法状態になって
しまうような状況であるなら勧善懲悪的な考え方に頼りたくもなろうものだが、
むしろ現代日本社会は“完全なる超悪を糾す正義”のようなのが幅を利かして、
純白や純黒の存在しない灰色ばかりのヨノナカに過剰な反応をして荒れる議ー。

実は躾だとか道徳教育の行き過ぎなのかも、とか最近は思うようになってきた。
たとえば「良いことをしたら褒める」という教育。あまりに行き届き過ぎると、
「褒められない善行はない」という感覚を植え付ける結果になってしまわぬか。

もっと言おう、正義の遵守を声高に叫べば何かの(おそらく高次の)存在により
裁きが為され悪が罰せられ以て平和は保たれる、てのも保護者依存しすぎでは。

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2012.01.05

今年も健脚で行こう

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実家は丘陵地帯の歴史ある寺社で初詣をするのが恒例となっている。
創建から千二百数十年の寺の本堂は、ちょっとした石段を登った上。
混雑を避け毎年1月4日とした経緯があるので各自の好きなペースで。

年始ならではの和装の母よりも、もっと足取り覚束ないのが父の方。
というより父は常に運動不足なのに対し、母は健脚というだけだが。

父母の後からペースを合わせて階段を上っていると、背後から声が。
「もう息が上がった」「もう30だもん」などと言い合っている男女。
といっても和服の老母が息も切らさず上りきったペースと同じだが。

参拝後は例年と同様に甘酒と御守を頂く。今年もまた「足腰御守」。
自分の足で歩き回れるコトの有難さは誰に言われるまでもあるまい。

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2012.01.04

甥らと、老いつつある父について

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年始の会食の席では小さい子供たちもいるので騒動もある。
長兄の息子の、兄の方が、些細な悪戯を弟にしでかしたり。

ちぎった紙屑を押しつけられて怒りのあまり散らかした甥。
当然ながら周囲の大人たちは叱る。散らかすんじゃないと。
当然ながら兄が悪いと言い張るが、きちんと片付けさせる。

会食が終わった後、こう言っとけば良かったと思い至った。
「兄のせいで問題が生じたと批判するならば散らかすのは
効果が薄い。悪戯した者と同レベルか下手するとそれ以下。
悪戯されても綺麗に片付けてしまうなら自分の株が上がり、
兄の責任を問う声にだって周囲は耳を貸してくれるだろう」

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2012.01.03

親戚その筋

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普段は滅多に会わぬ親族とも顔を合わせる機会の多い新年。
結婚したり子供が生まれるなど初対面の相手もたまにいる。
そんな機会には、家族親族の顔触れを紹介するコトになる。

母方の親戚は、大戦前後の大家族の枠組が今も残っていて、
今は亡き祖父母に連なる数十人が、その一族を成している。
父母世代に相当な年齢差があって孫世代が直後に連なって、
年齢はヒトケタから90かそこらまで、途切れず続いている。
十数名は集まる年始恒例会食の際に系図を書いたりするも、
祖父の後妻が叔父の妻の姉、と冒頭から混乱すること必至。

父方の親戚は、それほど多くないし年齢層も固まっている
ものの、米国人と結婚した叔母のおかげで“外人イトコ”
一男一女がおり、遙かダブリンにまで連なる地理的な広さ。

離婚だとか若くして連れ合いを亡くすといった経験だって、
この多様で多数の親戚一同からすれば、いても当然だろう。

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2012.01.02

暗箱に針穴(41) それでも年の初の日の出なので撮りに行く

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今年の初日は昨年と同じ場所で、残念ながら雲の中という結果となった。
たしか遡れば2007年頃から、毎年恒例となっている初日撮影だけれども、
ここまで雲が地平線を覆い隠した状態での撮影は、ほぼ初めてのコトだ。
まあしかし、たまにはこういう年もあるものだと思っておけば良かろう。

同行者がいたりいなかったりで、昨年は総勢5人まで増えたが今年は2人。
もともと一人で始めた習慣だから誰もついて来なくても行くつもりだが、
人数が減ったのは寂しい気もするし、とはいえ仲間を募って案内すると
それはそれで責任の伴う活動となるので、なかなか悩みどころではある。

また来年の暮れになったら計画を立てるコトにしよう。反省を踏まえて。

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2012.01.01

属性を説明するのが面倒臭え件について語って年を越す

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少年っぽい正義とか、青年っぽい熱意とか、中年っぽい妥協とか、老年っぽい信仰とか、
そういうのが、あんまり好きじゃないので、せめて自分ではやらないよう心掛けている。
それから標語などの類を使うのも好かんし、自身を飾り立てるかの如き修飾語も好かん。

見る人が見りゃ分かるだろうし、見てても分からんのなら分かるまい、的な感覚でいる。
あるいは付き合いが長くなれば分かってくるかもしれんが、それならそれでも良かろう。
どうせヒトは変わり続ける存在、現在位置だけでなく方向性まで見るには時間を要する。

もともと高校や大学の頃から友達の中で妙に長老的な扱いをされてきた過去がある上に、
20代後半にして当時の上司から「30も過ぎて云々」と小言を言われたりした反動もあり、
自分の年齢なんぞどうでもいいやと思うようになり自称年齢を設定して何度目かの新年。

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