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2012/01/07

ニホンのキホン・「善行なんて恥ずかしくて人には言えん」

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などと考えてみると(当人たちにとって誠に残念なコトではあるのだけれども)、
保護者や周囲の大人の過干渉に適応して育ったと考えると辻褄が合ってしまう。

あるいは子供たちだけの無秩序無法の小さな枠内で活動した経験に乏しいのか。
その中で互いに争ったり助け合ったりして自力でルールを作ったりせなんだか。

ガキの頃を振り返ってみれば、割と一人で遊んだりもしていたけれど、近所の
子供たちだけのグループで遊んでいた経験も、かなりあったのだと思い出せる。

保護者の干渉といえば、せいぜい悪戯が過ぎたとか、誰かが怪我をするなどの
実害が生じたときに叱られる程度で、あとは放置されていたように記憶してる。

そう、かなり放任されていた。たとえば喧嘩に負けたとき「コイツが悪いから
叱って」とせがんでも無駄だった。せいぜい両成敗、両方一緒に叱られただけ。

もちろん、何かを欲するような我儘だって適当にあしらわれるコトが多かった。
多少の要求は聞き入れてもらえても、家計の都合などは厳として覆せないのだ。

駄々こねるより、自分で何とかする、できなければ力不足、支援は適宜求める、
そういった感覚は、むしろ経済的に豊かでなく大家族の方が、身に付くのかも。

ハナシが逸れた。

まあともかく、悪事は後が面倒なので避けるようにすると同時に、善行もまた
(しばしば見落とされて)褒められるという結果に繋がらなかったりしたもんで、
結果として「それをしなかったときの問題のとばっちりを受けずに済んだ」と
いう具合に考えるた方が社会に適応しやすい、というふうに育ってきたようだ。

誰にも知られぬよう善意を仕込んで成功したときに味わう一人だけの楽しみを
知らないままでいるなんて人生の一部を損している、などと嘯いてみる偏屈翁。

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そんな連中が沢山いたらヨノナカさぞ暮らしやすいだろうと思うのだけれども、
実は、そういう人物を昔は“粋”と呼んだりしていたと思えば感覚は似ている。

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