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2012/03/09

あのとき感じたキモチは本物なのだから

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「聞き返されて当たり前、一言で対話が済むはずはない」
そんな発言を、ネット上でやりとりされている中に見た。

「○○を分かってない」と言い放つのは対話遮断の合図。
その○○の枠組の中の当座の対話に必要な概念について、
個別に質問や確認を行って返答を得てスリ合わせた上で、
そこに載せるべき新たな情報があるならば加えて提供し、
相手に判断を委ねる、そういう風に対話を進めたいもの。

たとえば不安感にしろ恐怖感にしろ怒りや不快感にしろ、
そういう感情を抱いている当人にとってみれば、それが
本物でないはずはない、という考えが働いているものだ。
それゆえ感情に沿わない情報には強く反発しようとする。

だから怒りや不安に溢れる人物と接触しようとする際は、
中途半端ではいられない、1対1で向き合う覚悟が必要だ。
ていうか1対多とか多対1とか多対多では紛糾するばかり、
助け船を出すつもりが戦力逐次投入の愚を犯すに過ぎぬ。

聞き返してもらう前提だから突き放すようなコトは不可、
また逆に逃げたりせず、お互い生身の人間として1対1で、
そして相手の感情を動かすなら自分の感情も動く覚悟で、
取り掛かってこそ、はじめて対話と呼べるのではないか。

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もちろん、そんな対話には膨大な時間や精神力を費やす。
人間の持つリソースなど些細なものでしかないのだから、
相手を選べる状況にあるとすれば厳選するコトになろう。
選ぶとすれば大事な相手、身近な人、といったトコロか。
自分自身せいぜいその程度の存在でしかないと知るべし。

逆に言えば、もしそこに相手が気付いてくれるとすれば、
それだけの労力を払う価値がある存在だと思われている、
という感覚が、もしかしたらキモチを動かすに足るやも。

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