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2012/04/17

来年また見られるとは限らないとの思い

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ところが来年また同じように花を眺められるとは限らない、という
風になってしまったのが今の日本社会、であるのかもしれない気が。

自分に余裕がなくなってきたときに使うのは、その余裕の切り捨て、
あるいは後の余裕の質入れ、というのが、まあよく使われる手だが、
「諦める」「後回しにする」といった精神的な逃げを多用する人は、
それが使えなくなる可能性が生じたりすると強い不安を抱くもので、
特に昨今その余裕分が払底しつつある感が強まっているものだから、
まるでいきなり崖っぷちに立たされたかのように思えてしまうのか。

しかしそもそも余裕分を使うなんて当たり前にはできなかったコト。
そして、蓄えられたモノは使えば普通どうしても消費されてしまう。
使いつつも浪費とならぬようにするには殖やすしかないのだけれど、
そんな虫の良いハナシなんて、そんな簡単に転がってるワケもなく。

そういう好機を得られなかったり掴めないならば、何はともあれ今
着実に出来るコトを粛々とやるもの、というのはアタマで分かって
いてもキモチの上ではスッキリしないもんだからヒトは困りものだ。

モヤモヤした感情を抱えたまま、しかも遅々とした歩みであっても
進み続けられるような人物なんて、実際そんなに多くはないもので、
ついついヒトビトは晴れ晴れした気分になれるモノゴトを探し求め、
そうして、一斉に散る桜に、その解消を託してしまうのかもしれぬ。

花弁と一緒に未練も散らそうというのか。

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こんな手を使えるのは年に一回だけだから、依存せずに済むのかも。
好きなときに好きなように桜を咲かせ散らせられるとしたらきっと、
日本人は堕落しきってしまうのではないか、そんな風にさえ思える。

いや実は、憂さを流す機会なら年中行事としてカレンダーに幾つも。

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