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2012/04/25

外からの力で動くようにできている生物だから

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感情は思考の方向を制約しがちだが、といって強引に押し込めようと
すれば弊害も少なくないのだと、いろいろな人を観察して考えている。

たとえば「○○ならば××なので△△せねばならない」などの規則を
自らに課して感情を無視して思考しようとする方法もあるが、それも
行き過ぎれば単なる自動反応装置のような状態になったりしかねない。
そういったロジックの罠に陥った状態も、ある種の思考停止だと思う。

また、感情を見せまいとして穏当な(言葉狩り的な思考で)用語を選び
文面の上で誤魔化すコトは難しくないが、しかし完全には隠しきれず、
文脈だとか、態度や仕草の端々に滲み出てしまったりするコトも多い。
しかも困ったコトにヒトというのは、そういうのに敏感なイキモノだ。

そも感情の動きには強いヒステリシスがあるもので、いったん生じて
しまえば「動きがなかった状態」に戻るのは非常に困難なものである。
中でも怒りなど負の感情は行動の選択肢を狭めかねず特に警戒が必要。
怒りが行動を阻害するなら持たぬ方がマシ、と思うようになってきた。

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まあ人間わりと周囲に動かされたりしている面が少なからずあるけど、
環境だとか雰囲気や空気といった割と直接の影響だけでなく、感情が
動かされれば自分の内面を経由して間接的に動かされていると言える。

負の感情が連鎖しやすいのは誰かが察知した危険を素早く群れ全体に
伝達して全体の危険性を低減するのに役立ったからだとは思うけれど、
自分で考えて行動すると言いたいのならば、そこにも注意しないとな。

もともと他者への関心が通常より少し薄いらしく、他人に対して共感
しても一方で違う可能性を考えてしまったりするくらいの性格なので、
動かされるコトに気付きやすかったらしいのは、少し幸いだったかも。

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