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2012.05.15

理系用語で読み解く社会(83) 動的平衡状態に落ち着こうとする心理

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日本人て「他人から妬まれないような生得の能力」を求めたりしてないか。
いやまあヒトは妬み深い性質も持っているので人類全般なのかもしれんし、
あるいは土地や物品、貨幣の所有といったトコロに根源があるかもしれん。

人間てのは結構ワガママな存在だもんで、物質的に恵まれるだけでなくて
精神的にも恵まれたい他者に認められたいといった欲求も非常に強くある。
しかも、この欲求というのがまた複雑に絡み合っているのが厄介なもので。

以前、友人との電話で「『善人』と『自分に正直』は両立するのかという
話題になったコトがあるが、「善人であろうとする自分に正直」であれば
容易に両立できるし多くの人がそれを求めているのではないか、と考える。

「自分に正直」と組み合わせるのは、「悪人になりたくない」でもいいし、
「知識や知恵を持つ者でありたい(と思われたい)」とか「回答を示せる者
でありたい」「冷静でありたい」「世間や現実を知っている者でありたい」
など、まあいろいろな要件が考えられるし、それらの複合もあり得るはず。

ネット上の言説を見ていても、「ロハス」という言葉について「文明批判
する賢い自分と、環境意識高い自分と、無欲でクリーンな自分」を手軽に
「ろくに勉強しなくても」アピールできるから良い、という指摘があった。
こういう多彩な欲求を同時に満たしてくれる用語は重宝されるのだろうな。

「正義感がある(と見せたい)自分」に正直だというのもまた厄介な存在だ。
そもそも正義感そのものが発動の際にはリスクも伴って非常に扱いづらい。

そもそも正義感からは怒りなど暴力的な感情が発せられがちで、その暴力
というのは単体で取り出せば非正義となる、つまり構造的に矛盾した感情。
それに加え相手の反撃を招くことから自分自身もダメージを受けかねない。

だから迂闊には表面化できず、当人の中で鬱積してしまっていたりもする。
しかもそこに他の理由(不当に不遇を被っているといった個人的な感情)に
よる怒りまで混ざり込んで、処理できぬまま異常発酵している人もいよう。
いつしかそこから大量のガスが発生して圧が高まり、爆発寸前にまで至る。

「正義感があると見せたい自分」は、基本的に「悪人になりたくない自分」
の一部を成しているため、「正義感があると見せたい自分に正直」を発現
するコトが許される状況は、非常に限られた条件下でしか成り立たぬもの。

ときたま「相手が絶対悪」(に加えて多くの場合は「反撃がないか弱い」)
とみなせるような情報が、マスメディアや噂を通じ断片的に伝わってきた
ときが、溜まった「義憤」を発散し溜飲を下げる貴重な機会というワケだ。

ヨノナカの多くの人が「義憤」を溜め込んでいるような時代には、それが
寄り集まって非常に苛烈な、残酷な攻撃となって、一点へと集中していく。

すると「皆が叩いているから悪」という短絡まで生じて、さらに拡大する。

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ヒトが「○○でありたい自分」の○○が矛盾を抱えがちな内容である場合、
内部にエネルギーを抱えたままの準安定状態にある、と考えていいだろう。

義憤に飽きたら余計なエネルギーを失って落ち着いてくれたりしないかな、
なんて思ったりするけれど、たいがいヨノナカてのは不条理に感じられる
コトばかりだから、ほぼ常にヒトは(程度の差こそあれど)励起された状態。
「正義感のある自分に正直でありたい」なんてのは矛盾だらけの欲求だと
自覚して、自らそれを改めていこうとしない限り、励起されやすいままだ。

準安定状態から基底状態への移行にはエネルギーギャップがあって、乗り
越える際にエネルギーが必要だったりするのが、心理ポテンシャルの基本。

正義に依存しない新たな「○○でありたい自分」の姿を見出していくには、
まず自らの正義感という矛盾に気付き、その醜さを直視しなければならぬ。
新たな姿へ適応していく過程における苦痛は、なかなか避けがたいもので、
苦痛を避けようとする心理が、エネルギーギャップとなっているのだろう。

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