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2012.08.12

安易な善意の根深い病巣

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外部悪依存症というのは、要するに善意の第三者としての体裁を保ちたい
といった感覚が根底にある、というか自分が悪者だとは思いたくないので、
『何をするにもつきまとう漠然とした罪悪感』を解消したいのかもしれん。

いやまぁ生きるって大変で、特に日本みたいな経済大国に暮らしていると
何だかんだで何処かの途上国からの収奪構造の上に安穏としているような、
そして開発だの何だの色々なのを犠牲にした成果に便乗してる罪悪感とか、
たぶんそういうのは感受性の高い人ならあるんだろうなと思ったりしてる。

むしろ他の何かに不都合を押しつけている現場を目にする機会が少なくて、
ごくたまに触れたりするから却って恐怖感というか不安感というか微妙な
感情に陥って、そのあたり整理しきれずに燻っていたりするんではないか。

その一方で、外部悪依存症っぽいと思われる人物の発言や行動の裏側には、
「死ぬなら見えないトコロで死んでくれ」的な感覚があるような気もする。
どこか他者に対して距離を置いてるような、あるいは見たくないトコロを
決して見まいとして強く拒絶しているような印象があるのは思い過ごしか?

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自分の中に深く入り込まれたくなくて、or他者に深く入り込みたくなくて、
でも悪人でないんだと自分に言い聞かせるかの如くイージーな方法に頼る。

たとえば自分にとって大した話題と思えなくても、生命や健康だとか子供
といったキーワードに反応して、そういうのの危機を伝えていると思しき
情報を拾い出してして、だけど詳しく分からないというかそもそも自分の
コトじゃないので真剣に考えるコトができないまま、そのままに放流する。

毎年この時季になると古くからの風習として日本各地で広く行われている
「死者の魂だとか、生者の穢れや煩悩などを川に流し去る行事」みたいに。

ああそうか日本人ってのは、善意の対症療法を伝統として持っていたのか。

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