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2013/02/27

規模の問題にしても

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何の道具もなく一人で自然の中に放り出されて生きてゆけるのか(反語)。
きっと「知識や知恵や体力があれば云々」とか言う人もいるだろうけど
それらは社会から授かったのであり一人で身に付けたワケではないよね。

一人の人間を社会に送り出すまでのマンパワーというのを考えてみれば、
親兄弟親族御近所教育機関から各種社会インフラや生産流通小売業まで
局所的に濃い部分がありつつ薄く広く分散してアウトソースされている。

時間的な広がりまで考えれば過去の多くの人の発想や工夫や努力なども
その多種多様なアウトソース先それぞれに活かされていると言えるはず。
となれば何のバックグラウンドもないヒト個体には何もできそうにない。

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なんか少しハナシを大きくしすぎてしまった感もあるが気を取り直して。

「子育ては家庭が基本だ」というのはその重心点を示した表現であって、
たしかに多くの人は家庭を中心に育てられているのだけど歴史が下れば
社会へのアウトソース比率を増加させ家族の負担を軽減していく一方だ。

おそらく社会らしい社会を作り出す以前ならヒトは「群れ」で子育てを
していただろう、社会の枠組ができればアウトソース範囲が社会構成員
全体まで、言うなればヒトモノカネの流通範囲全体へと拡大されてきた。

そのアウトソースは育児だけでなく家事労働の負担軽減にも及んでおり、
より小規模な世帯での生活が容易になって実際に平均的な世帯の規模は
どんどん縮小し今や日本などでは単身という極小世帯も普通に見られる。

世帯規模の小ささは相応のアウトソースが期待できる社会を前提とした
ものであって当然ながら社会に依存する比率は昔とは格段に違っていて、
充分に規模の大きな経済環境がなければ多くは立ち往かぬというものだ。

どの程度まで社会に依存しなければならないか個人の資質次第でもある、
とはいうものの社会全体を見渡せば平均的な水準というのがあるもので、
そこらへんの程度や規模を見ず原理原則ばかり言うても時代錯誤だよな。

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